あなたの名前を呼びたい (妄想と現実をうろうろする女)
あたしには好きなひとがいる。実は、ネットの世界で知り合ったひとだ。こういう女なの。
ときどき、彼のことを書きたくなる。
苦手でなければ、ほんの少し聞いてほしい。無理にとは言わない。
秘密の話も置いておくので、知りたい方だけ読んで欲しい。
◇
あたしは相変わらず妄想と現実のあいだをうろうろしている。
彼はあたしに恋する気持ちを思い出させてくれた、大事なひとだ。もう二度と会うことはなくて、心の中で想っているだけ。
以前ほどではないけれど、街中でまっすぐな髪のひとを見かけると、彼の面影を探してしまうし、つながっていたSNSのアカウントも、思わず撮った写真も残したまま。覗いても泣くだけだから、むやみに開けたりはしない。
元気でいるかな。笑っているかな。やりたいこと、思いっきりできているかな。思い出すたび、彼の無邪気な様子が心に浮かんで、思わず笑う。そして、あたしが見ることのない彼の世界に、ほんのすこし嫉妬する。
彼は誠実で優しいひとだった。いつも味方で、癒してくれる。今でも励まされるのは、彼の言葉。
これまで彼は、あたしの心の中にいる「やんちゃでかわいい王子様」だったが、次第に「神様みたいな存在」になってきた。つらいときも、楽しいときも、ふと思い浮かべるのは彼のこと。彼に伝えたい。見てほしい。彼ならなんて思うかな。なんて言うかな。
仕事や家庭のことでうまくいかなかったり、寂しくて、悲しかったりするたびに、つい彼の名前をつぶやく。シャワーを浴びているときや、自転車に乗っているとき、誰にも聞かれない場所で。
助けてほしい。
あたしは夢見がちな、どうしようもない馬鹿女だ。彼が知ったら、きっと引いちゃうだろうな。「なーにやってんだよう。めっ」と笑って𠮟ってくれたらいいのに。
もちろん、名を呼んでも何も返ってこない。でも、それでもいい。胸の奥にずっと残るあのひとは、こころの拠り所であり、たったひとつの逃げ道なんだ。あたしは、彼に助けと許しを求める。
でも次第に、こうして何度も彼の名前を声に出していると、いつか何かが起こりそうで、自分がこわくなった。
もし、主人の前で、彼の名前を無意識に呼んだら。
もし、寝言でよからぬことをいったら。
他のひとが聞いたらきっと笑うだろう。でも、不安になり心がざわつく。同じように考えるひと、他にいるのだろうか。
だから、彼の名前を呟くことをやめた。
◇
もう二度と、名前を言わない。
そう決めてはみたものの、気を抜くと、つい最初の一文字(というか、もうほぼ全部)を言ってしまう。
どこまでも彼に頼りすぎている。だめだめ。はっとして、口をつぐむ。
この瞬間、息が止まりそうになる。なんだか彼のことを想うことすら、いけないことのようにも感じる。わたしは悪いことをしているのかな。届くことのない気持ち。それすらも許されないのかな。
もう二度と、名前を言わない。
悲しいことに、名前を口にしなくなると、彼のことを考える時間が少なくなってきた。そして、楽しい思い出も、次第にぼんやりとしてきた。
鮮明だった思い出も、たくさんもらった優しい言葉も、徐々に記憶から消えてゆく。あたしは、かすかに残るものをつなぎとめるしかできない。
しあわせな記憶ほど消えてなくなるのは、なぜ。
◇
「おりちゃ」
あたしを初めてそう呼んでくれたのは、君。
「ほんわかおりちゃは残しとこね」
君の優しい言葉がこころに浮かぶ。そうだね、いつもほんわかしていたい。
「笑ってよーな」
うんうん、いつも笑っていたい。こんな言葉も、きっとそのうち忘れてしまうのかな。口をつぐみ、思い浮かべることも少なくなって、君との距離が遠のく。
あと、なんだっけ。君がくれた言葉は、もっと、もっと、いっぱいあったのに。君のこと、忘れちゃいそうだよ。
◇
家事を終え、サンダルを履いて外へ出る。ほんの数分、ひとりになる時間が何より好きだ。大きいビニール袋を両手に持ちながら、夜道を歩く。
あたしはここで何がしたいんだろう。
同じ空の下で、君はいま、何をしてるのかな。
しあわせ?
そっと心の中で名前を唱えてみる。
苦しい。見上げた満月が次第に滲む。
ほんとうは、君の名前を大声で呼びたい。だいすきな、あなたをもう一度。
こんなことを考えるなんて、おかしいでしょう。勝手でごめんね。
会いたいなんて思わない。ただ、忘れたくないの。
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