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世界公務員メガネ

― 第一話 世界公務員メガネの誕生 ―


 公園に不思議な少年がいた。
 長い、艶気の消えた髪はぼさぼさで、いったい何日風呂に入っていないのか見当もつかない。黒く日焼けした肌が垢光りしている。
 髭のないつるりとした顎と、その無邪気な目が唯一、彼が少年だと告げており、案外、ちゃんとお風呂に入れ、きちんとした身なりをさせたら、いいトコのお坊ちゃんくらいには見えるかもしれない。
 しかし、それはあくまでも彼を一見したときの印象であって、よく彼を観察していると、彼からは、その、何というか、ミソ臭いというか、ジジ臭いというか、独特の老人的というか厭世的というか退廃的というか、な雰囲気がそこはかとなく漂ってくるのである。
 
 先ほどから、彼の前を通り過ぎていく人々は、一度は彼の前を無関心に通り過ぎていた。彼らは少年を通り過ぎた後、一様にふと思い出したように彼を振り返るのだった。なかには、わざわざ彼の前に戻ってきてまで確認する者もいた。
 彼らの目を引き付けたのは、彼のその年齢不詳な外見ではなく、彼がその体の前後に巨大な、ダンボールを改造して作った看板を背負っているからであった。そして、その看板には、『犯罪以外、何でもします』と下手な字で殴り書きされていた。
 わざわざ戻ってまでその看板を確認した者の中には、新手のジョークだと思い、笑いながら彼の顔を見た。しかし、彼の顔を見た者は困ったようにその視線を彼から外した。なぜなら、その看板男の顔 ―正確には右唇の少し上― には干からびた米粒がこびりついており、しかもそれが一粒ではなく何粒も固まり、それが排気ガスや埃のせいで黒く変色しているからであった。
 要はこの少年、本気なのである。
 彼は本気で、生活に困っており、本気で仕事を探しているのだった。
 生活に困る→仕事探し→体の前後に看板をつける、という発想に至った彼の心境に多少の疑問は残るとしても、まぁ良しとしよう。問題は、その看板の文句である。『犯罪以外、何でもします』としたのはなぜか?
 実はこの少年、前科者なのでは?
 いやいや、あるいは新手の勧誘商法か?
 ‟犯罪以外・・・と言って実は高価な壺を売りつける気なのでは?
 ・・・彼を、正確には彼の右唇を、見る人々の頭に浮かんだ暗い想像は広がりに広がり、乱れに乱れた。だからこそ人々は彼から視線を逸らせたのである。みんなの意見は当然一致している。

― 関わりたくない・・・ ―

 少年は当然ながら、自身と同化しているその米粒には気づいてはおらず、逆に、自分に目を向ける人々を面白そうに見ている。その彼の様子に人々は、(もしくは・・・)とさらに考えを深める。(春先によく出没する手合いの一人かもしれん)と。

 暖かな春の風が一筋、立ち尽くす看板少年のボサボサの髪をしきりにかき乱して、通り抜けていった。
 一体どれくらいの間、この看板少年はここにこうして立ち続けているのだろう?まるで英国宮殿に立つ衛兵のように身動きさえしないこの男に、一群のハトがその存在を忘れ、クルックル、クルックルと彼の周りでしきりに地面を啄ばんでいる。看板少年の目はついさっきから、メス鳩を追いまわすオス鳩の必死な様子に釘付けにされていた。

・・・とその時

「キャー、引ったくりぃー!」
 耳をつんざくような女の悲鳴が辺りに響き渡った。
 そのとき初めてこの看板少年の顔に人類らしい表情が浮かんだ。
(この声の主がもし、若い女の人だったら・・・)
 これがそのとき看板少年の考えていたことである。
 彼の脳内でドラマは進む・・・

 彼は馬に乗っていた。
 馬の色は純白である。
 先にあるお花畑の中に倒れている少女がいる。吹けば飛んでいってしまいそうな、可憐な少女。
 その右手に抱えた籠にはマッチが一杯入っている。
 彼はその少女の傍らに馬を止め、降り立つ。そしてやさしく少女を抱き上げて、馬上に乗せるのだ・・・

 (・・・ん?)ここで看板少年の空想は止まってしまった。
 (ちょっとまてよ・・・。少女を抱いたままで馬の上になんか乗れるのだろうか?俺でも持ち上げられるような少女といったら六歳くらいの・・・、いやいやいや!それは人間的にダメだろう。・・・そこはやっぱり十八歳くらいでなければ。で、馬上で俺はその少女を抱きかかえ、・・・あ、でも、馬上で横抱きされては少女も『落ちるかもしれん』と思って恐ろしかろう。では少女を座らせるとする。どこに?前?男の前に女を座らせるのはどうか・・・。その・・・、何かのはずみで蛇が起きてきちゃったりなんかすると・・・)看板少年の顔がそのとき、無意味に赤くなった。 
 (やっぱり乗せるなら後ろ、か・・・。で、全速力で馬を走らせる。夕日に向かって。・・・あ、でも、もし馬がすべって急停止するようなことがあったとしたらどうする?俺の後ろに座る少女の体の前面が俺の背に寄りかかってきたりなんかしたら・・・)看板少年の顔がまた無意味に赤くなった。

― ドタドタドタドタ! ―

 想像に酔う看板少年の耳に、人の走る音が届いた。前からだ。かなり近づいて来た、と思うと、看板少年の左手前にある藪の中からボンッと人が飛び出してきた。男だ。しかも、好んで一サイズ下のTシャツを選ぶようなマッチョマンだ。
 そのマッチョマン、藪から飛び出してきた勢いを落とさず、まっすぐに看板少年の方へ全力で走ってくる。目の前にいる変な看板を背負ったヒョロヒョロの少年など、マッチョマンの眼中には当然ながら映ってはいないだろう。指先を綺麗に伸ばして走るその姿は、まるでオリンピックの短距離選手のように美しい。そのマッチョマンの手に、金色のハンドバッグが握られている。
 (うわっ、金ピカだぁ。趣味悪いなぁ)持ち物を見るとその持ち主がどんな人間だか、大体わかるものだ。看板少年はそのマッキンキンのハンドバッグを見た瞬間、その持ち主が頭に浮かんだ↓
 パンチパーマ
 の女性。
 五十歳前後。
 肥満体。
 子供は二人。
 どちらかの子供の名前は『サトミ』あるいは『ミカ』。
 笑うと金歯が二つ。
 『何言ってんのよぉ~んっ』って言いながら相手の背中を叩く。
 文字通り『ガハハハ』と笑う。

 マッチョマンから遅れることコンマ二秒、悲鳴の主が姿を現した。
 彼女の姿を見た看板少年の心臓がドキッと高鳴った。

― マ、マッチ売りの少女ではないか・・・ ―

 とても生身の人間とは思えなかった。長く、真っ直ぐで、そして滴るような黒色の髪。寄せた眉に寄る形の良いシワ。満天の星空のように輝くその瞳には、受けたショックと悲しみからきた、看板少年は行ったことはないけど多分そうだろうと思われる沖縄の海のように透明な涙がその縁に揺れている。そして、彼女の走る様はまるで、天界をクルクルと飛び回るイタズラ好きな天女のよう・・・。もちろん天女も見たことはないが。しかし、(あぁ!俺のマッチはどうだい?アカズキン!)と、あやうく叫びそうになった自分を彼はなんとか押しとどめたのだった。

 一度決めると看板少年の行動は早かった。ズボンのベルトを外し、その手に握った。看板少年の握っている場所の反対の端にはいつの間にか輪っかまで出来ている。看板少年がそのベルトの輪っかを、彼の前を走り抜けようとしたマッチョマンの足に向って無造作に放り投げた。すると、その輪はマッチョマンの右足を綺麗に捕らえ、その瞬間、看板少年はバンドをくいっと軽く引っ張った。たったそれだけで全速力で走っていたマッチョマンのバランスが大きく失なわれ、彼は恐ろしい勢いで地面に倒れ込み、バコンッ!と派手な音をさせてその顔面をしたたか地面に打ちつけた。
 看板少年が無造作に、地面に転がっているマッチョマンに向かってヒョコヒョコと歩きだした。彼の一定の歩調には、マッチョマンに対する恐れや気後れが無い。気軽で自然な歩みだった。
 近づく看板少年の先で、顔面血まみれのマッチョマンが物凄い形相で立ち上がってきた。
「おめぇかぁ!」
 叫びながらマッチョマンの巨大な拳が看板少年の顔面に飛んできた。
 (あ、でもこれ、当たっとかないと正当防衛ならんのじゃなかったっけ・・・)そう思いつつも、看板少年が反射的にそれをよけようとした一瞬、「てっめぇ!ぶっ殺すぞ、こらぁ!」と、甲高い声が聞こえた。それは、あの可憐なマッチ売りの少女の、その形の良い唇からジョロジョロ出てきたものであった。一瞬、彼はマッチ売りの少女の顔を見た。彼の目に宿っていた深い悲しみを、彼女が気付いたろうか・・・。次の瞬間、マッチョマンのパンチはきれいに看板少年の顔面を捉え、彼はベンチまですっ飛んだ。
 もしそのときに偶然、そこを通りかかった二人の警官が割って入ってこなければ看板少年はきっと、ロマンチスト代表としてマッチ売りの少女の命を奪っていたことだろう・・・。
「こらっ!大人しくせんかっ!」
 警官達がマッチョマンの体を必死で押さえ込もうとしていた。その周りで、「おら、いけぇ!そこ、タマつぶせ、タマぁ!」とエキサイトし、髪振り乱して飛び跳ねているのは、しつこいようであるが、マッチ売りの少女である。
 マッチョマンがようやく観念し、二人の警官に押さえ付けられ、一件が落着したかと思われたときにはもう、そこに看板少年の姿は影も形もなかった。

 公園に静けさがもどってきていた。
 看板少年は置き去りにしていた看板を拾い上げると、そこからちょっと離れた広場までゆっくりと歩いて行った。さっきの騒ぎで集まってきていた連中がもう誰も残っていないことは確認済みだ。
 噴水の傍にあるベンチの横に看板を置き、彼はベンチに腰掛けた。パリパリの一万円が二枚、彼のポケットに入っていた。さっき、殴られた直後にマッチョマンのポケットから抜き取った財布から頂いたやつだ。このお金を見ていると、さっきのマッチ売りの少女から与えられた悲しみも多少薄らぐような気がする。
 
― さぁて!何を食べようか! ―

 じっくり考える必要があった。ラーメンも良かった。五百円のラーメンが四十杯も食べられるかと思うと、自分が世界で一番幸せ者だという気になる。牛丼もいい。豚丼もいい。コンビニのカップラーメンにオニギリの組み合わせも捨てがたい。なんならそれにポテチをつけてもいい・・・。
 満ち足りた気持ちで目をつむると、看板男は大きく伸びをしてベンチに横になった。どうやらそのまま眠り込むつもりらしかった。看板少年がうつらうつらし始めて十分も経った頃、彼は近づいてくる人間の気配を感じた。うっすらと目を開ける。
 近づいてきたのは男で、その男は看板少年の寝るベンチの正面に来て、立ち止まった。(公園の管理人かなぁ~?セチガライなぁ)心の中で舌打ちしながらも看板少年はとりあえず管理人から話しかけれるまでは知らんぷりするつもりでいた。
 陽を背にしているため、男の顔は見えない。シルエットから彼がずんぐりとした体形をしていることが分かった。
「起きとるんやろ?おい、さっきのあれ、すごかったな、君。」
 男が声をかけてきた。
「うぅ~ん!」
 看板少年が大きく伸びをし、目を開けた。あぁ、空が真っ青だ。

 ま、この男、公園の管理人ではなさそうだ。看板少年は安心するとまた目を瞑り、面倒臭そうな返事だけを返した。
「おじさん、誰?っていうか、あれを分かった方がすごいと思うんだけど・・・。ま、どっちでもいいや。ふぁ~あ。」
 看板少年は巨大な口を開けて思いっきりアクビをした。まったく緊張感の無い男だった。
「さっき、男からぱくっとった財布の件は見逃したる。ま、殴られた慰謝料ってとこやろな。でもそれとは別に、ちょっとお前に話があるんやけどな。」
 ずんぐり男が言った。看板少年はちょっと男を見やると、観念したように起き上がった。
「おじさん、刑事?」
「・・・うーん、ホントはちゃうねんけど、ま、どっちゃでもええわ。それはええとして、お前のあの体術。あれ、どこで習ろたんや?」
 男が聞いた。
「まぐれだよ。」
「まぐれでベルトが外れて、チェーンで繋がっとる財布が消えるかいな。まぁええ。おい、お前、腹減ってないか?なんか食うか?奢るで。」
 (・・・いい人だ)看板少年の中で男の点数がドンと上がった。
 看板少年は彼と一緒にラーメン屋へと向かった。ここぞとばかりにチャーシュー麺を注文しようとした看板少年の希望はあっさり却下され、結局は一番安い、素ラーメンになりはしたが、やはりタダ飯は旨い。ラーメンを啜りながら看板少年は彼と話した・・・、といっても看板少年には話すことなど何もない。なので、看板少年はただ男の質問に答えようと努力した、が、看板少年には、彼の質問に答えようがなかった。名前、出身地、年齢、血液型、スリーサイズ・・・彼は彼自身について何も分からない。自分のことを思い出そうとするのはまるで、簡単な文字をず~っと見ているとまるで見たことのない文字に見えてくるような、あの不思議な感覚に非常によく似ていた。よく分かってるような気がするけど、考えれば考えるほど分からなくなる。
 それでも以前はけっこう思い出そうと努力したこともあった。が、今ではもう自分の過去に対しての興味はあまりなかった。記憶より今日のラーメンの方が大切だ。記憶が無ければ無いで、結構楽しく生きられる。
 
 看板少年は素ラーメンを三杯食べた。
「質問に答えられなくてすいませんねぇ。」
 満腹の腹を抱え、ゲップしながら彼は言った。
「お前、それは謝る態度やないで・・・。そうや!お前、仕事探しとるんやろ?そしたらワシの仕事、ちょっと手伝ってくれへんか?」
 ずんぐり男が言った。
「はぁ、犯罪以外なら何でもやりますけど、おじさんは何の仕事してんですか?」
「うん、ワシはな、スパイや。」
「は?・・・スパイって、あのスパイですか?」
「そうや。あのスパイや。じぇーむす・ぼんどぉや、お前もやらへんか?」
「はぁ・・・。」
 胡散臭いオヤジだった。
 (ま、・・・)看板少年は思った。(どうでもいいかぁ)結局はいつもこの結論にたどり着くのだった。
「やります。お金くれるんならやります。」
「よっしゃ、決まりや!ついて来い。」
 男が立ち上がった。
「ワシは‟アソウや。一応言っとくが、本名やない。コードネームや。これからはアソウって呼んでや。『様』つけてもええで。」
 自分で言っといて、アソウが恥ずかしそうにちらりと看板少年の顔を見た。
「はい、アソウ様。」
「・・・つっこまんかい!ワシ、どんだけキングやねん!・・・ま、それはそうとお前は、・・・・・・・・・‟メガネや。」
「は?なんで?俺、かけてないですけど・・・」
「お前はなんか‟メガネやねん、オーラが。」
「俺、ほめられてるんでしょうか?」
「そうやぁ。しかもガラス製のメガネやでぇ!えぇなぁ、自分!」
 アソウが看板少年、改め、メガネの背中をドンッと叩いた。
「イタっ!」
 メガネが悲鳴を上げた。
 ヒョロヒョロとやせ細った体。ぼんやりとした目。(確かに‟メガネ臭いかな)メガネはふと思った。ま、どうでも良かったが。

 アソウに連れて行かれたのは、これまた胡散臭い一区画だった。ひしめき合って建つビル群の一つ一つに、サラ金やら雀荘やら英会話学校やらがガン細胞のように無秩序にひしめき合って増殖している。
 ビルとビルの合間をひょろひょろ歩いて行くアソウの後にメガネがついて行く。やがて二人は、周りのビルの中でも一段と派手に古く、そして汚いビルの前にたどり着いた。ちょっと壁に手をついたら倒れそう、のレベルではない、倒れる、そんなビルだった。
「ここや。」
 立ち止まりもせずアソウは呟くと、ビルの中へと入っていった。と、続いて入ろうとしたメガネはビルの入り口で突然立ち止まった。
「あ、そうだ。思い出した。そういえばさっきの公園に看板忘れて来ちゃいました。ちょっと取ってきます。」
 そう言うとメガネは建物に背を向けて、歩き出した。
「ちょ、ちょっと待たんかい!お前、ほんまマイペースなやっちゃなぁ。考えてみ?お前、仕事、見つかったやないか。えらいやないか、じぶん!頑張ったやないか、じぶん!だからもうあの看板は要らんのんや。」
「う~ん、そういえばそうだなぁ・・・。」
「そうや、そうや。ま、大船に乗った気でいたらよろし。」
 アソウはメガネの腕を掴むと、エレベーターまで引っ張ってきて階上のボタンを押した。
 必死の音をたててエレベーターが到着した。
「あの、一応言っときますけど、壺なら買いませんよ。」
 メガネが言った。
「誰が霊感商法やねん!それに、一体誰が口に米粒くっつけた『公園の人』から金取ろなんて思うねん!まぁ、とにかく黙ってついてらっしゃい!」
 メガネの勘違いもひどいが、アソウもひどい。『コジキ』なんて言ったりしちゃいけないのである。
 
 目指す部屋は三階にあった。そのビルの最上階である。一番奥の部屋、エレベーターからその部屋までに二部屋ある。しかし、どの部屋にも人は住んでないようだった。それぞれのドアは鉄製で、クリーム色(?)のペンキが極限まで剥げ落ちている。ドアの四隅がボロボロに錆びれ、なかば崩れかけている。一歩間違えば廃墟である。・・・ん?というか、廃墟なんじゃないか、ここは?とメガネは思う。
 奥の部屋のドアも先の二つの部屋同様、崩れそうなボロボロのドアだった。アソウがそのボロボロのドアを無造作に開けると、ズカズカと中に入っていった。どうやらいつも鍵は掛けてないようだった。続けて入ったメガネの頭上にペンキの破片が降ってきた。
 入る時、ドアの横に貼られていた表札にちらりと目を向けた。そこには汚い手書きで、

― 世界公務員 日本支部 ― 

 と書かれていた。その書体の『どうでもいい』感は、メガネの作った看板に匹敵した。
「おーい、ミハダ君。今、帰ったでぇ。」
 アソウが叫ぶと、奥から女が顔だけ出した。
 綺麗な卵形の顔。形の良い眉。しとやかに潤んでいる瞳。そして何よりも印象的だったのがその唇だった。適度に紅く、絶妙にふっくらとしたその唇。(あぁ!)言うまでもないがこれはメガネの心の悲鳴だ。(あぁ!)ニ度、メガネの恋心が疼いた。
「支部長、ニュース聞きました?」
 まるで、水晶のように澄んだ声だった。
 (こ、この人だ!この人こそ・・・アカズキン!)メガネにはこのミハダと呼ばれた女性の話す内容なんてどうでも良かった。その声だけが彼の胸を貫いた。(あぁ、なんという凛と鳴る声!)
「ま、さもしいとこだが入りぃな。」
 アソウは靴を脱ぐと、それを鼻に持っていき、ちょっと臭いを嗅いだ。癖らしい。気持ち悪い。アソウは自らの足裏の香に、おもむろに顔をしかめると、メガネを室内に招いた。
 招かれるまま、メガネは部屋の中に足を踏み入れた。スリッパも何もないので素足のままだ。玄関から奥の居間まで廊下が一本通じている。居間の、ガランとした空間には、ソファー(らしきもの)が一つ、ソファー(らしきもの)の向こうに汚れた机が一つ、そのさらに向こうに壊れかけた木の椅子が一つ、そして居間の右手奥の角に、積み重ねられた雑誌の上にポンと置かれた五インチくらいの、オシロスコープ然としたテレビが一つある。以上。それ以上の物はこの居間にはない。カレンダーもない。植物もない。ペン立てや本棚もない。居間の、一つしかない窓にはカーテンすら掛かってはいない。そのために、ヒビの入った窓から外が丸見える。

 ミハダが飲み物を持ってやって来た。
 (あぁ、僕のアリス!)メガネが心の中で三度叫んだ。アカズキンはどこかへ行ってしまったらしい。
「あぁ、いらん、いらん。こいつは客やない。これからは同僚や。」
 アソウがどっかりとソファに座り込みながら言った。
「あ、そうですか。」
 ミハダはそう言うと、飲み物を・・・持ったまま下がっていった。さすがのメガネもぽかんと彼女の後姿を見送るだけだった。
「まぁ、すわりぃ。」
 アソウに言われて、唯一の椅子にメガネは腰掛けた。
 台所、らしきところからミハダが手ぶらで戻ってきた。
 「あ、このね~ちゃん、ミハダ君な。美しいやろ?見てみい、肌!」とアソウがミハダを紹介した。
「支部長、セクハラで訴えますよ。」
 ミハダは淡々と言うと、メガネに顔を向けた。
「ミハダです。どうぞ宜しく。えぇ~っと・・・」
「あぁ、ミハダ君。こいつ、‟メガネや。おもろいやろ?」
「・・・メガネ君、ね。」
 (あぁ、もう名を呼ばれてしまった!)「は、はい!あまり好きな名前ではないんですけど、よ、宜しくお願い致しします!」
「若いもんが好き嫌い言うてどないすんねん!がははは!まぁ、『何でメガネやねん!』っちゅう点がミソや。それさえ言うてもらえたら後はもうなんもいらんがな、がはははは」
 名付け親が笑う。子供の名付けなんてそんなもんだ。そりゃあ親殺しも増える。
「で、ミハダ君。ニュースってなんや?」
「これです。」
 ミハダがオシロスコ・・・テレビをつけた。(つくんだ・・・)メガネはちょっと感心した。
 深刻な顔がよく似合うニュースキャスターが画面に現れた。

 ・・・きほどもお伝えしましたように、状況は非常に深刻なものとなっております。それでは首相官邸前から田代さん、宜しくお願いします。

 画面が変わ・・・らなかった。
 何かの不都合で画面はスタジオのままだ。深刻な顔だったニュースキャスターの顔から『深刻』が消えた。にたりと笑った彼は、手を頭の後ろに組み、椅子の背に体をのけぞらせて短い足を机の上に乗せた。素足の彼の水虫が、画面いっぱいに映った。そしてニュースキャスターは、そのリラックスした格好のまま、薄くなりつつある髪を愛おしそうになでながら画面右手を向いて言った。
「ゲンちゃん、やったじゃん!今日の夜の生放送はこれで無しだね!ということわぁ~、こーちゃん達とぉ、この前知り合ったあの娘達とぉ、ギロッポンでぇ、・・・へっへっへっへ。でしょ?まったくゲンちゃんもその年でよくやるわよ。私なんて、もう打ち止めよ。ひやっはっはっはっは!それで、首相が死んだ時用の特番枠はもう取ってあるんでしょ?ねぇ、どうやって殺されるか、賭けない?ははは・・・え?切り?いやぁ、今のご時世で刺殺はないっしょ、いくらなんでもさ。やっぱり遠くからカミソリみたいな目をした凄腕のスナイパーがさ・・・え?なに?切り替わってない?画面?あ・・・」
 画面がここで切り替わった。
 首相が画面に現れた。いつもの不敵な態度が全く消え去り、キョロキョロと落ち着きなく、鋭い視線を辺りに配っている。そして時折り、その引きつったような笑みが彼の顔に一瞬浮かんでは消えるのだった。

― えぇ~、日本国民の皆様。もうご存知のこととは思いますが、先ほど私、一つの予告を受けました。それは・・・(ここで首相は一呼吸置いた)私、日本国代表たる、この私へ!こ、殺しの予告です! ―

 悲しげなバックミュージックが鳴り出した。そして、いかにも『小悪党』といった顔のその首相は重々しく話し出した。

― 古今、わが国におきましてはぁ、米国などと違いましてぇ、え~、指導者が殺された歴史など、まぁったくございませんでしたぁっ!まぁったく!え~、だからこそ、私は事態をまったく遺憾なものと受け止め、決して個人的なことではなくぅっ!国家としてぇっ!え~、あってはならぬことである!とこのようにぃ、日本国民の代表として考えておる次第でございます!え~、これがぁ、例えば、私一人の問題でありますならばぁ、私は何も言いますまい。甘んじて倒れましょう、日本のために!しかし、BUT、いや、しかし、です!今回の件はぁ、平和を望む日本国民全てに対する、いや、全世界の市民に対するぅ、え~、挑戦なのであります!今回、私に対する・・・クラ、・・・クロ、(おいっ!これなんて読むんだ?『あん』?よし!)あんころしの予告ですが、ここに私は断固、宣言いたします!
 私は死にません!
 ご安心ください!
 私は絶対に死にません!
 一歩たりともここから出ません。食べ物はすべて毒見させるし、人にも、誰にも会いませんっ!
 ・・・くそっ!大体、好きで首相なんかやってんじゃねぇんだっ!みんな俺のことバカだって言いやがるしよぉ!漢字なんてあんなもん、読めねぇってんだよ!ぜんぶひらがなでいいじゃんよぉ!俺、小学生の時は超優等生だったんだぜ。靴下も自分で履かないくらいだったんだぜぇ。それが何だよ、遠藤のやつ。俺を担ぎ出すだけ担ぎ出したら党から出て行くしよー。・・・いや、辞めよーかなー、マジで・・・

 ブツッ。
 ミハダがテレビを消して淡々と言った。
「要約しますと、日本国首相が本日十五時未明、メガフォルテと名乗る団体より暗殺予告を受けました。そしてさきほど、本部より指令を受け取りました。読みます。」
 ミハダはポケットからトイレットペーパーの芯を取り出した。
「それはなんやねん?」
 ミハダが少し顔を赤らめた。
「その・・・、今度の指令はここに書かれておりまして・・・。私がさきほどトイレへ、・・・いえ、大の方ではないんです!誓って大ではありません!」
 メガネは黙っている。メガネは知っていた。ミハダがウンコなんてしない、ということを。
「そんなんどうでもええねん。はよ、読みぃや。」
アソウが無情にも言った。
「は、はい。えー、
 
 この前の余興は良かった。
 また楽しませるように。
 しかし、全裸になるのはさすがに・・・な?
 
 今度は日本が狙われる。
 首相暗殺がメガフォルテという名のテロリストによって予告されるだろう。
 それを阻止せよ。
 あと、『メルトモ』と呼ばれる凄腕が日本に上陸したらしい。
 彼がメガフォルテと結びついて、何やら企んでいるらしい。
 メルトモを捕まえろ!

追伸: 裸、寒くはなかったのかね?

 以上です。」
「ごはっ!」
 アソウが噴き出した。
「支部長、『裸』というのは一体何の暗号でしょうか?」
 ミハダが言った。
「知っとるくせに・・・。ま、まぁ、ということや、メガネ。君の初仕事決定や。どや?嬉しやろ、じぶん?ワクワクやろ?」
「は?」
 メガネがその細い目を見開いた。
「『は』も虫歯もあらへん!お前が捕まえて来るんやで。」
「誰をですか?」
「そりゃ、決まっとるがな。あの、ほりゃ、指令にあった・・・、えーと、なんちゅう名前やったかな?」
 アソウがミハダを見た。
「『メルトモ』です。」
「あ、そう、そう。そのメルトモっちゅうヤツや。そいつを見事、捕まえて来てみせぇぃっ!」
「はぁ。・・・で、幾らもらえるんですか?」
「がめついやっちゃのぉ。よっしゃ、五千円やろ。どや?」
「やります!」
 即答だった。メガネは計算した。(五千円=ラーメン十杯。ということは五日分。・・・あ、麺とスープを別々にすると二倍!)
「その意気や!」
「それで、どこ行けばそのメルトモとかいう人物に会えるんでしょうか?」
「指令の紙にこれがくっついてたわ。」
 ミハダが三センチ四方ほどの小さな紙をメガネに渡した。
 メガネが紙を広げると、紙の真ん中に小さな手書きの二文字があった。

― 新宿 ―

 ・・・。A四用紙の余白が目にしみた。

― 第二話 メルトモやるとも ―

 メガネはあの公園に戻ってきていた。運良く彼の手製の看板は誰にも触られずに地面に残っている。その看板を再度、メガネは肩から掛けた。メガネにはあの、世界公務員とかいう連中に協力する気はもちろん、まったくない。
 あたりまえだ。『新宿』という二文字から一体どうやって一人の人間を探し出せと言うのか?人を探せ、という指示なのに写真もない。ただ『新宿』・・・。その文字を見た瞬間、メガネの脳裏に浮かんだのは、『あ、新宿さん、みぃ~っけ!』と地面に手をつく自分の悲しい姿であった。

 全てを忘れ去って歩き出そうとしたメガネの目の前に肉の壁があった。
「おい、さっきは世話になったな。ふぅ~」
 あのマッチョマンだった。しばらく見ない間にまたちょっと大きくなったような気がした。次の瞬間、メガネの意識が、ガツンという衝撃とともに消えていった。

「っ痛ぅ~!」
 起き上がろうとしてメガネは頬が焼けるように熱いことに気付いた。
「気が付いたか。ふぅ~」
 陰気な声だった。
 二人のいるのは、広いその公園の中でもことさら人気のない場所だった。遊歩道から道なき道を脇に入った奥にあり、普通の人はまず入ってこない。周りをサクラだのイチョウだのの木々で囲まれているため、昼でも薄暗い。来園者がそこに立ち入ることはまずなかろう。公園の管理人でさえもそこにそんな空間があるとは知らないのではないか。

 メガネは「イタタタ」と起き上がりながらも、マッチョマンとの距離、あちこちに落ちている木の枝の種類、長さ、土の乾き具合、落ち葉の様子など頭に入れていた。起き上がりながら、メガネはゆっくりとマッチョマンに目を向けた。
 マッチョマンはメガネからすこし離れたところに立って、サクラの幹に体をあずけてタバコを吸っている。足を組んで立っているところがカッコイイ。吸っているタバコの長さからすると、メガネがここに運ばれてからまだそんなに時間は経ってなさそうだった。
「お前のせいで俺、もう少しでム所行きだったじゃねーか。ふぅ~。財布は落とすわよぉ。ふぅ~。」
 頭を振っているメガネにマッチョマンが低い、ドスを効かせた声で言った。
 (行きゃよかったのに・・・)もちろん口には出さない。
「ま、今回はよ。金で解決してやる。お前、持ち金全部出せ。ほら。ふぅ~」
 (ん?ポケットさぐらなかったの、この人?)とメガネは心底驚いた。世の中、このような善人もいるものだ。
「・・・五百円。」
 メガネにとっては出血価格である。が、マッチョマンは善人である。それを聞いたマッチョマンは火の付いたタバコをメガネに向って投げつけた。
「おい、慰謝料だよ、慰謝料!ナメてんぢゃねーぞ!慰謝料の意味わかってんのか!」
 (慰謝料の意味、わかってんのか!)また口に出さない言葉でメガネがリピートした。意味はない。
「う~ん、だって、ないものはないですよ。とりあえず、俺、」
 メガネは言った。
「帰りますね・・・」
 去ろうとしたメガネの肩に、怒りに震えたマッチョの手が伸びてきた、その時、
「あのぉ、わたし、ちょっとといれですか?」
 外人だった。マッチョよりもでかい。真っ赤な顔に大きな目が、鼻が、口が付いている。半そでのシャツからは、筋肉の塊のような腕がはみ出ていた。しかし極端な猫背である。まるで、寒さで身を縮こまらせているようにも見える。
「は?だ、誰だ、おめぇ!」
 マッチョが完全にビビっていた。
「わたし、メルトモ。でも、まだヤラナイとも・・・」
 多分、・・・ジョークだ。
「・・・!」
 マッチョがいきなり外人に殴りかかった。ブン、という恐ろしい音がしてマッチョの拳は空を切った。
「危ないですか?やめた方がいいですか?僕も危ないですか?」
 そう言いながら外人はちょっと嬉しそうにマッチョの腕をひょいと掴むと捻りあげた。
「あたたたたた!」
 外人は軽く握っているだけのように見えるが、マッチョは顔をのけぞらせて痛がっている。
 (ちょうどよかった)と思ったメガネは二人を背にして歩き出そうとした。
「ああ、あなた、待つのか?待つのか?聞きたいことあるのか?」
 そう言いながら外人がメガネの服を後ろから掴もうとしてきた。
 それをひょいっとよけたメガネに向かって、外人が突然、マッチョマンを投げてよこした。
「あー、あぶないじゃないか。」
 と、全然危なくもなさそうな声でメガネは言うと、メガネ目掛けて正面を向いてやってきたマッチョマンの両肩に手をかけ、クルッと後ろを向かせた。マッチョマンはどうして反対を向けさせられたのか分からず、目をシロクロさせている。メガネは後ろを向いたマッチョマンの両ヒザの後ろに軽く蹴りを入れた。すると、カクッとマッチョマンのヒザが地面に落ち、上半身だけの筋肉の塊となってメガネと外人の間の肉の壁となった。
「ヒュー!」
 外人が賛嘆の口笛を吹いた・・・、と思ったら、外人のくせに空吹きとなり、口からシューと息が漏れただけだった。
「あなた、やります。すごいタワシ・・・。タワシ?ちがう、ちがう。う~ん・・・・。あ、ワザ!ワザ!ね。わたし、強い人好き。あなたとわたし、やる?」
 外人が嬉しそうな顔でメガネに微笑んだ。
 マッチョマンこそいい迷惑である。
「おいコラッ、離せっ!このっ!」
 と言いながら、マッチョマンが突然起き上がった。そのマッチョマンのお尻の辺りをメガネが足で押した。「おわっ!」押されたマッチョマンは起き上がった勢いのまま、外人に向かって飛び出す形となった。
「レロモレクワッ・・・・!」
 何を言っているのかまるで不明なマッチョマンの声が途中で止まり、あたかも電気銃で撃たれた屠殺場の牛のようにどっとその場に崩れ落ちた。
 (あ~あ。めんどくさ)とメガネは思ったが仕方ない。外人に目を向けた。
「さて、わたし、ここといれに来ただけね。でも、よかったね。あなたに会えたネ。」
「いやぁ、俺はいいですよ。おじさんに会っても別にうれしくないし、めんどくさいし・・・」
 そう言ってメガネは外人に視線を向けながら後ろに下がり始めた。
「ノー!ボーイ!ダメね!逃げる、ダムね!あ、ちがう、ムダね!・・・・ん?(ギュロロロロロ!!!!)おおおおおっ!オーマイッ!オ、オ、オ、オ、オーマイガッ!あなた、ちょと待つね!ちょとだけね!」
 外人は腹を抑えながら苦しそうにそう叫ぶと、いきなりズボンを脱ぎだした。
 (・・・・)メガネはそのまま外人に背を向け、歩き出した。
「うううぉおおっ!あ、あなたぁっ!もう、もうすこしだからぁっ!ちょ、ちょっと待って!ヘイ!ヘイ!へ・・・あひっ・・・」
 野クソしている外人をほっておき、メガネは公園の遊歩道まで出てきた。
 平日のお昼どきだからなのか、公園内は閑散としている。
 空を見ると、大きな塊の雲がいくつもぽかりぽかりと浮いている。(ああ、いい天気だ。・・・・ラーメン食べよう)とメガネは決めて、アソウと行ったラーメン屋に足を向けた。あそこのチャーシューメンは食べたことはもちろん、見たことすらない。そして、(今日という日がとうとう来てしまった・・・)感慨にふけるメガネの両足が勝手にスキップしている間に、公園の出口に達した。
 (さぁて!)と逸るメガネの側頭部にいきなり、チリチリとした感覚が走った。やわらかい葉っぱか何かで微かにつつかれたような感覚だった。

 その瞬間、
 
 ビュッ!と何かが飛んできた。
「ん?」
 メガネが頭を右に振ると、その頭のあった場所を拳大の石がすっ飛んでいき、ガランと乾いた音を立てて‟土台公園と書かれた石碑に当たった。
「ボーイ!わたしは悲しい!わたし、まだ半分しか出てない!ワイ?ナゼ?」
 振り向かなくてもメガネには見えるような気がした。彼の巨体と悲しそうな顔、そして、洗ってない手・・・。
「もう許してくださいよ。めんどくさいし・・・」
 メガネがそダラダラとそう言った瞬間、メルトモの太くて長い足がメガネの腹目がけて突然飛んできた。メガネが後ろに軽くジャンプしてそれをかわした。
「オー、あなた、やっぱりすごいネ。わたしの蹴り、かわしたのはあなたとあと千人くらいネ。あなた・・・、誰さんね?」
 外人の目が怪しく光っていた。
「うーん。誰だろう?」
 メガネが面倒くさそうに呟いた。
「わたし、強い人好き。強い人見たらヤリたくなるネ。これ、ホンノーネ。私、すごく強い。あなた、ちょっと、強い。わたしとヤるね。」
 セリフだけ聞くとただのセクハラである。メガネこそいい迷惑であった。
 (しょうがない)メガネはゆっくり外人に向かって歩いていった。不意をつかれた外人は一瞬身を引きそうになったが、次の瞬間、プロレスラーのような構えをしたかと思うと、恐ろしい早さでメガネにタックルしてきた。
 外人の手が、体が、メガネに触れたか触れないかした瞬間であった。外人の体が見事にメガネの上の宙を舞い、扇を型どってメガネの背後に地響きを立てて転がった。
「ディエエエムッ!」
 叫んだ外人は自分に何が起きたか分からなかった。分からなかったが、しかし、それこそ本能からであろう、倒れたまま両手を伸ばし、メガネの足を取ろうとした。
 メガネはその外人の大木のような右手を、そこに落ちていた汚い手拭のようなもので絡めとった。そして絡めとった瞬間、外人をコロリと裏返し、うつ伏せにすると、その左手も巻きつけた。そして、巻きつけた瞬間に、これも落ちていた木の棒で手拭の余ったところを巻き取ると、それを外人の首に回してから肩甲骨の辺りで器用に縛りつけた。その間、二秒もない。あっという間の出来事に外人は息さえできなかった。
「うぐぐぐ・・・」
 外人が必死でそれを外そうと動くが、手拭はビクともしない。
「あぁ、それ、動くとよけい締まっちゃうよ。」
 メガネはのんびりと外人に忠告しながらも、彼のズボンのポケットをまさぐり出した。彼がウンコを半分しかしていないのを恐れたりしないところ、さすが路上生活者である。
「あひゃひゃひゃぁ!や、やめるね!い、今すぐ、動かないね!」
 メガネの手が動くたびに外人がその巨体をねじらせた。
「お、あった、あった。」
 メガネは外人の後ろポケットから財布を抜き出し、探りだした。クレジットカード、ポイントカード、海外紙幣、お守り(?)、・・・多々あったが、外人の身分を示すような、免許証などはなかった。しかし、メガネの一番好きなものがあった・・・。
 メガネは五万円を抜き出すと、さりげなく自分のポケットに入れた。
「ああ、あなた!それはダメネ!ゆるさないよっ!ゆるさないよっ!」
 と、転がったまま何もできない外人が脅した。
 メガネが彼の後ろポケットに財布を返そうとしたときだった。ポロリと白い紙が地面に落ちた。
「ん?」
 メガネはそれを拾い上げ、広げてみた。そこには、‟せかいこうむいん にほんししゃと書かれており、親切にもその住所が(もちろんこれもひらがなで)書かれており、連絡先の電話番号も書かれていた。かわいらしい小さな丸文字だ。
「あれ?・・・う~ん。おじさん、だれなの?」
 メガネが必死で手拭を外そうと四苦八苦していう外人に聞いた。
「い、言うわけないね!これ外したら、言うね!」
 現在、こんなセリフは映画でも聞けまい。
 そのとき、メガネの頭の中にミハダの声が降ってわいた・・・。
「あのぉ、当てましょうか?おじさん、メガフォルテのメルトモって人ですよね?」
「おおおおおお!ノー、ノー!わ、わ、わたし、そんな人なわけないね!わたし、うそ嫌いね!わたしじゃないね!だ、だれね、メルトモ?!」
 現在、動揺した者のこんなセリフは小説の中でも言わない。

 (なんという日だろう)メガネは空を見上げた。 
 (五万円と五千円・・・・)
 いったい何というステキな日なんだろう!

「ボーイ!はやく外さないと、たいへんよ!ボーイ!はやく外しなさい!ヘイッ!」
 必死で叫ぶメルトモの口に、メガネは落ちていた靴下を押し込んだ。『フガァー!オゴォー!』
 さらにメガネは、メルトモの前ポケットから携帯電話を見つけ出し、それを使って支部に電話した。呼び出し音が二つ鳴り、アソウが出た。事情を説明している途中でアソウがせっかちに、「よっしゃ、すぐ行く。ちゃんと見張っとくんやで」と言い、電話を一方的に切ってしまった。場所も何も聞かずに。一体、どこに行くつもりなのか?・・・メガネが掛け直すとアソウが出て吼えた。
「おい、メガネ!お前、今、一体どこにおるんや!」
 せわしない・・・。

 アソウがカローラツーでやって来たのは半時間後だった。
「ようやった、ようやった!」
 アソウが車を降り、『もうかってまっか?』の姿勢で手をこすり合わせながら大げさにメガネを褒めた。
「で、どこや、ほれ、あ、あのぉ、メ、メルトモっちゅうやつは?」
「こっち・・・」
 メルトモは公園入口にあるトイレの後ろに運んであった。あまりにも暴れるのでちょっと‟落としてあったが、アソウとそこに行くと、もう目を開けていた。
 疲れたのか、さすがにもう暴れてはいないが、メガネには敵意を、アソウには胡散臭そうな目を向けていた。
「こいつがメルトモか。」
 アソウがメルトモを見ながら言うと、口をふさがれているメルトモがアソウを見上げた。
「おい、こいつをはずしぃや。」
 アソウがメルトモの口の中にある靴下を気持ち悪そうに見ながらメガネに言った。メガネはうなずくと、辺りを見回し、変色した割り箸を見つけ出すと、それを使ってメルトモの口から靴下を取り除いた。
「おまえ、日本語は話せるんか?」
 アソウは聞いたが、靴下を取り出されたメルトモは、「クワッアァアァアァァ・・・。ぺっぺっぺっぺっぺっぺ!ウゲェッ、ウゲェッ!」とそれに答えるどころでなく、辺りに唾を吐きかけた。
 そして、散々吐き散らかしたあと、「もちろん、ピラピラよ」とようやく言った。
「ペラペラ・・・や。ま、それはそうと、おいメガネ。お前、こんなのほんま、よう捕まえたのぉ・・・」
 アソウがメルトモの巨体に目をやり、その動きを押さえ込んでいるのがただの小さな手拭だということを知って、心底感心したように言った。
「よっしゃ。とりあえずこいつ、事務所連れてこか。」
 メルトモはもう観念したのか、大人しく言うことをきいた。

 ギィィィィ!
 メルトモを座らせるとソファがしなった。それを正面の椅子に座ったアソウが心配そうに見やりながら尋ねた。
「あんな、ワシ、気ぃ短いねん。はよ喋らんと、お前、モンブランやで。で、お前、何者や?」
「日本人、同じことばかり聞く。わたし、ネイム忘れた。わたし、名前ない。もう何度も言った。」
「じゃかぁしぃ!名前はもう知っとるんじゃい!ドタマかち割るぞ、ワリャァ!」
 メルトモがその巨大な肩をすくませ、助けを求めるように周りを見回した。しかし、そこに居るのはメガネだけで、彼はテレビの下から抜き取った雑誌を見ていた。(やっぱり女はいいなぁ・・・)彼が飽きずにずっと見ているのは、表紙の巻頭カラーを飾った青色髪の少女とその側にいる笑顔の老女であった。彼の視線は二人の女性の間を行き来していた。異性への好みのストライクゾーンがひたすら壮大な男であった。

「よっしゃ、じゃあ質問変えよか・・・」
「その方がよかね。」
 メルトモがにこやかに答えた。
「じゃかぁ・・・ゴホッゴホッゴホッ!黙って答えんかい!」
「黙ってたら、答えられやしませんね。」
 もしも視線に熱を加えることが出来たなら、メルトモは今、アソウの視線で黒焦げになっている最中だろう。アソウはメルトモをたっぷり二分間は睨み付けた後でゆっくりと言った。
「お前はメガフォルテの一員やな?」
「そうである。」
「なんでエラそうやねん・・・。メガフォルテは全部で何人や?」
「一億万人。」
「・・・今度の首相暗殺の件にお前はどう絡もうとしとるんや?」
「からむ?からくないよ、わたし。大丈夫!」
「食えへんがな!暗殺やがな、暗殺!食うたとしても何が『大丈夫!』やねん!暗殺の件にお前がこれからどう関わろっちゅう腹や、って聞いてんのや!」
 アソウの白目に無数の血管が浮いている。
「教えない。」
「なんや、エラそうに・・・。ま、言うわけないわな。それで、お前らのボスは・・・メクロやろ?」
 メルトモが固まった。
「やろ?」
 突然、メルトモが巨大な声で泣き出した。
「ど、どないしたんや?」
 メルトモのそのあまりに哀れな様子に奥の部屋から出てきたミハダが、メルトモを一目見たときから流し目を送り続けていたミハダが、もらい泣きした。
「お前ら、なんやねん!」
 アソウが叫んだ。
「いや、わたぁし、ほんとはこのこと話せたくない。でも話す。内緒。ここだけの秘密。誰にも言わないで。」
 そう言ってメルトモは話し出した。
 彼の、しょっちゅうあちこちに脱線する、分かりにくいことこの上ない話を要約するとこうである・・・。

 メルトモにはメルトモそっくりな兄が一人居た。 
 その兄というのがどうしようもないヤツだった。
 生来のパチンコ好きがたたって、自分の金はおろか、家族の金にまで手を出した。
 そのせいで家は売られた。
 家族全員がヤクザに追われた。
 両親は度重なるサラ金の催促の電話のために一流企業を首になった。
 その心労が祟って二人とも病気になった。
 一家の貧しさはひどく、ある正月、一杯のザル蕎麦を家族四人で分け合って食べたこともあった。
 妹はそんな状況が耐えられず、とうとう去年、行方不明になった。
 シカゴの町をフラフラと歩いている彼女を見た、というのが彼女に関する最後の目撃談だった。
 そして、兄は相変わらず開店前から並んでいる・・・。

 メルトモは話し終わると、一段と声を張り上げて泣いた。ミハダも泣いている。今度はそれにアソウが加わると、まるでアパート全体が揺れるような騒々しさとなった。
「あのぉ、おじさん、外人でしょ?外国にパチンコってあるの?それに、ザル蕎麦って・・・」
 メガネの声が部屋に、アソウに、ミハダに、響いた。
「はっ!・・・な、何やコイツ、全部嘘かいな!何っちゅうヤツや!泣いて損したわ。返せ、涙!」
 メルトモがまだ鼻を啜りながら言った。
「でも、いい話はやっぱりいい話ね。これ聞いたら、私、もうダメ・・・」
「じゃかぁっしゃあっ!もうええわい。こいつ、ちょっとベッドルームに入れとこ。腹減ったわ。何か食いに行くで。」
「彼一人置いてて、寂し・・・大丈夫でしょうか?」
 ミハダが湿った声で言った。
「大丈夫や。おい、メガネ。こいつ簡単に外れんようにしっかりと結び直したんやろ?」
 (飯飯飯飯)「はぁ、大丈夫です。」(飯飯飯飯)
 メガネが言った(飯飯飯飯)。
「よっしゃ。じゃ、行こか。」
 アソウが言った瞬間だった。
「あぁ、私、日本のラーメン好きです!チャーシューラーメン、世界一です!」
 捕虜が大声で主張した。
「わぁった、わぁった!買ってきたるさかい、おのれはだぁっとれ!」
 ミハダが密かに台所から果物ナイフを取り出してきて、メルトモの傍にそれを落としていったことなど、ラーメンで頭が一杯の男達には当然目に入らなかった。
 そして、一時間後・・・。
 三人が帰ってくると、当然ながらメルトモの姿は部屋から影も形も無くなっていた。しかも、無くなっていたのはメルトモの姿だけではなかった。

「ないっ!ないないないない!なぃっ!」
 メルトモの消えたことでメガネのことをひとしきり責めた後、台所にある引き出しをひっくり返しながらアソウが叫んだ。
「何が無いのですか?」
 澄み切った瞳のミハダが尋ねた。
「データや!ワシが五年もかけて調べた、メガフォルテについての情報が入ったデータが消えとるんや!減給もんやでぇ!」
 減給、と聞き、ミハダが動いた。
 アソウのことだ、自分だけがその責任を被るようなことはしない。その影響はミハダの給料にも当然、降りかかってくるはずだった。ミハダはメルトモを逃がしたことを心底後悔した。恋より金である。
 念のため戸棚の中、テーブルの下、ソファの下、果てはトイレの中にいたるまで三人で探しぬいた挙句、結局それは見つからなかった。やっぱりメルトモが盗っていったようだった。
 三人とも疲れ果て、居間にぐったりと腰を下ろした。
「そもそも、メガフォルテというのは一体どういう団体なんですか?」
 メガネがアソウに聞いた。
 アソウの目が遠くなった。
「・・・そうやなぁ、あれはまだワシが世界公務員になりたての頃やった。まだ日本支部もなかった頃でな。ワシは世界公務員本部でただ一人の日本人やった。そこに入ってきたのが二人目の日本人、メクロやった・・・」


― 第三話 アソウの回想 ―

広い敷地だった。
アソウは一人、芝生の上に座り、今日の講義の復習をしていた。本を開いても頭に浮かんでくるのは木曜の担当講師である、エッセンスのことだった。可愛らしい顔、美しい金髪、牛のように揺れる胸。彼女を見ているだけで人々は幸せになれる、と言われているのに、アソウはそれだけでは満足できなかった。
 彼は様々な手を用いてエッセンスを我が物にしようとした、といっても、デートに誘うだの、花を贈るだのといった、普通の男達のような手段を取るには彼はディープに過ぎた。彼は、彼自身も自覚するほどのブサイクだった。重力に押しつぶされた身長。太くて短い手足。眉毛は八の字に繋がっている。自分の外見に良い所など、誓ってない!これが青年アソウの出発点だった。

 そこでアソウは考えた。考えに考えた。そして、青年アソウが考えついた方法というのが、盗撮、盗聴、尾行、身上調査だった。スパイ養成機関で学んだ技術の全てを彼はエッセンスのために、そして、彼女のためだけに、駆使した。もちろん、教官であるエッセンスの目をくぐってのストーキングは熾烈を極めた。彼女に見つかる度、アソウはその元々崩れている顔がさらに崩れるほど殴られた。それでもアソウは持ち前の粘り強さで(これが女にもてない理由の第一であったのだが)彼女のストーキングを続けていた。そして、そのうちに彼のストーキングの十に一つ、二つはばれなくなり、さらに日が経ち、彼の技術が向上するにつれて、ばれない度合いはさらに高まり、そのうちエッセンスをして、アソウは自分のことを諦めた、と宣言させうるほどにまでアソウの技術は高まった。  
 そして今日、この美しい青空のもとでアソウは今までの苦しかった道のりを深く噛み締めていた。

 「ん?」アソウはふと、首筋に手をやった。ほんの微かな、ピリピリする電気のようなものを感じたのだった。ヘンタイの勘である。彼は教科書から目を上げてあたりを見回した。すると、アソウの視線の先、広場の向こう側に男が一人座っている。そして、そいつがアソウをガン見している。
 ヤツの、爬虫類のような細い目から発されてくる視線が、まるで噛んだ後のガムのようにネッチャリとアソウの全身に絡みついてくる。
 小太りの体。太い手足。そして気持ち悪い目。アソウは一目で彼のことが嫌いになった。青年アソウは思った。(なんて醜いヤツなんやろ)

アソウはすぐに、男についてリサーチした。その結果、男のコードネームが『メクロ』だということ、そいつが三週間前に世界公務員に入隊したこと、そして、彼もまたアソウと同じ日本人だということが分かった。
アソウとメクロは見た目だけじゃなく、考え方まで似ていた。メクロもまた同時に、アソウに関する調べをつけていたのだった。
 その時からアソウとメクロの、エッセンス争奪戦が始まった!・・・争奪戦?そう、あえて彼らの戦いを争奪戦と呼ぼう!たとえ勝利者が得られるのは、エッセンスから向けられる、道の反吐でも見ているような視線と、そして、容赦ない殴打だったとしても!

アソウの視線が目の前のひび割れた壁を突き抜けて遠くに向けられていた。
「あの時のワシらの情報戦には教官たちでさえ敵わんかったんや。なんせ、エッセンスの持っていたパンツの素材、その製造会社、そして製造日まで全部言い当てられることができたのはワシらだけやったんやで。すごいやろ?」
 その時、ミハダがアソウに向けた視線。ゴキブリを見るような視線。そのミハダの視線こそまさに、エッセンスが当時、アソウとメクロに向けた視線と同じものだったに違いない。
「ワシらの戦いは卒業まで続いたんや・・・」
 アソウが言った。
「ワシらは一言も言葉を交わしたことはない。ワシらには、言葉がついてこれへんかったんや・・・」
 名言だ。
「で、ワシは卒業すると日本支部を任され、メクロは、・・・まぁ恐ろしく色々なことをやらかしてきよったんやが、最終的にメガフォルテというテロリスト集団を作り上げた、ようや・・・。というのもメガフォルテのセキュリティの壁ゆうんが案外ぶ厚くてな。なかなかそのボスが誰なんかが掴めへんのや。このワシが、たかだが団員数数十の小規模テロリスト集団のボスが誰かっちゅうのを探るのに五年も掛かったんや。しかもまだ、ボスはメクロやないか、っちゅう憶測レベルや。でも、もしメガフォルテのボスがメクロやったとしたら、それこそ、あいつはホンマのアホやで・・・。あいつが世界になに求めとるのか分からんけど、この世界、壊すほどの価値もあるか?ほんま、アホなヤツやで。」
 アソウはその最後の言葉を、まるで吐き捨てる様に呟いた。
 夕日が部屋に入り込み、アソウの醜い横顔を照らし出していた。

― 第四話 メガネの冒険 ―

 深夜、メガネは星空を見ていた。まったく知らないビルの屋上だ。
 散歩がてら街をうろついているうちに道に迷ってしまい、自分がどこに居るか目星をつけるために上ったビルだった。
 驚くほど多くの星が見える。
 (例えば今ここにミハダさんが居たら・・・)メガネは考えた。(『宝石を散りばめたようだわ』と言うに違いない。『好きよ』って言うかもしれない)メガネの空想はさらに膨張を続ける。(『愛してる、なんて軽々しくは言えないよ・・・でも、ミハダ、俺、お前のことを・・・ア・イ・シ・テ・ル』)
 ぐぅ~、腹の音が夜空に木霊し、メガネはその気持ちの悪い妄想を止めざるを得なかった。
「腹へったなぁー。」
 口に出してみるとちょっとは気がまぎれると思ったが、そうでもなかった。
「ん?なんだあれ?」
 夜空に浮かぶ瞬きの一つがこちらに近づいてきている。‟UFO!”という文字がとっさに浮かんだ。しかしその光が近づくにつれて、バラバラと喧しい音がする。残念ながらそれは、ただのヘリコプターだった。
 そしてそのヘリコプターは、メガネの今立っているこのビルよりちょうど五階分くらい低い、向かいのビルの屋上に着陸しようとしていた。
 ヘリコプターからの強烈なサーチライトが辺りを照らし出し、プロペラの巻き起こす風で埃が舞い上がる。まるで映画のワンシーンのようだ。

「かっこいぃ~!」
 メガネは感動のため息をついた。何となく、得した気分だった。
 きっと大金持ちの社長がアメリカかなんかから帰ってきたところに違いない。ヘリを見ていると何となくそんな気がした。
 着陸はしたが、まだプロペラの廻っているヘリから四人の男が飛び出してきた。プロペラの起こす風で服がもみくちゃにされている。そして建物から、二人の男が出てきてその四人に合流した。建物から出てきた二人のうちの片方が六人の中で一番チビだ。周りに立つ男達の半分くらいしかない。
 『あの小さいのがわがままワンマン社長だな。そして他の奴らがボディーガードか・・・』メガネは思った。(きっとマフィアのボスでもあるに違いない。巨大なカジノを何件も経営して、家に帰るとバブルのお風呂に美女が六人入っていて・・・)メガネの連想が暴走を始めようとしたときだった。
「あーっ!あいつ、メルトモじゃないか!」
 彼らの様子をずっと目で追っていたはずのメガネが今、ようやくそれに気付いた。メルトモは、建物から出てきた二人のうちの一人だった。巨大な体、そして、寒くて縮こまっているかのような極端な猫背。顔は見えないが間違えようのない特徴的なシルエットだった。ちなみに、社長風な男のシルエットといえば、ずんぐりとした、丸っこい感じで印象が薄い。(所詮は社長か・・・)メガネが意味なくチビをバカにした。自分もチビのくせに。
 
 男たちは屋上の陰でしばらく話していたが、チビとメルトモが、四人の男たちに代わってヘリに乗り込んだ。起立した四人の男たちに見守られながら、ヘリの羽音が段々大きくなっていった。
 (ここは見て見ぬふり、だよな、やっぱり)そう考えると、メガネはヘリコプターに背を向けて、コンクリートの上にしゃがみ込んだ。向こうに金属製の物干し台がいくつか立ち並び、安物のハンガーと一緒にベッドシーツが何枚か干されており、それらが風に揺れている。
 (ここで俺がヘリコプターに飛び乗り、バッシバッシと社長以下をやっつけてメルトモを捕まえて、ヘリでミハダさんを迎えに行ったら・・・)

 ― かっこいい・・・ ―

 アホである。が、何を思ったか、彼は起き上がると、急いで物干し台のいくつかを倒し、干されていたシーツを外して、それを丸めた。そうしておいて、いくつかのハンガーを組み合わせて丸くなったシーツの周囲を囲うと、ハンガーボールのようなものを二つ作った。次にメガネは物干し台の、竿の代わりに使われていたロープを三つの台からそれぞれ外し、それを全てつなぎ合わせると、長いロープを作った。そのロープの両端に二個のハンガーボールをくくりつけ、さっきの場所に走り戻った。飛び立ったヘリが、方向を変えてメガネのいるビルに向って来た。

 (『メガネ、あなたって人は・・・』)メガネの脳裏にミハダの甘い声が響く。
彼はロープのちょうど真ん中を自分の体に巻きつけると、二つのハンガーボールを握り締めた。そして、ヘリが彼の頭上を通り抜けようとしたとき、メガネの手から二つのハンガーボールが次々と飛び出していき、ヘリの足に絡まった。
 グン、と衝撃を感じた瞬間、メガネの体が宙に浮いた。
「ぐわっ!」
激しく後悔したのは、ビルの屋上から離れ、数百メートル下の夜景を足元に見た瞬間だった。

 ヘリはまた加速し始め、その光は今やさらに遠ざかり、星の海の中に入り込んだかと思うと、次には星々の間の闇に紛れ込み、消えていってしまった・・・


(第五話に続く)

― 第五話 メガネの秘密 ―


   首相暗殺予告まであと三日を数えるのみとなりました。
   警視庁では現在、厳重な警戒体制を固め警備に当たっております。本日は、暗殺専門家、高梨さんにお越しいただいております。
   高梨さん、それで、今回の件ですが・・・
   た、高梨さん?
   [小声で鋭く]
   (高梨さん!高梨さん!起きてくださいっ!本番始まってますよ!ちょっと!高梨さん!)

 メガネが消えた次の日の朝、アソウとミハダは真剣な表情で向かい合っていた。二人には騒々しいテレビの音さえ耳に入らないようだった。
「そんな殺生な、ミハダくん!今のはあかんでぇ。」
「また『待った』ですか?」
「いや、そこまで言うてへんがな。ただな。いや、ワシも別に五百円が惜しいわけやないで。ただ、朝から負けるって気持ち悪いやんか、な?ちょっと今の手は『無し』という手でどや?」
「『待った』ですね?」
「もう、ミハダ君ったらぁ、かなわんわぁ~!よっしゃ、分かった!じゃ、こないしょー。ワシの角!これ、やるわ。どうや?決して損はないでぇ~」
「駒の取引き、これで三度目です。将棋のルール変わっちゃってますけど。」
「ちぇっ。分かったわい。ほれ、五百円・・・上げたぁ~!」
 そう言って五百円玉を持った手をアソウが上に上げきった瞬間、ミハダの手が消えた。そして同時にアソウの手からも五百円玉が消えていた。
 残像さえ残さない、ミハダの恐るべきワザだった。

「・・・それにしてもあいつ、どこ行きさらしよったんじゃ。」
 むしゃくしゃをぶつけたくなって初めてアソウはメガネが居ないことに気付いたらしかった。
「そういえば、あの子は一体誰なんですか?偶々出会った、とおっしゃってましたが、そうあちこちにあるような偶然とも思えませんね・・・。」
「さすが、ええ勘しとるのぉ、ミハダ君は。その通りや。ま、君には話しててもええやろ。あんな、アイツ、実はエッセンスはんの子供やねん。」
「!?・・・では、エッセンスという方は日本人だったのですか?」
「いや、イタリア人とフランス人のハーフで、生粋のアメリカ人や。でも大の日本好きでな。よく演歌聞いて泣いとったわ。」
「でも、メガネ君の顔は明らかにモンゴロイドですよね?」
「そうや。劣性遺伝っちゅうんか?あのひ弱そうな体、見てみぃ。ワシ、初めてあいつ見たとき泣きそうなったわ。」
 いないとここまで言われるのだ。

「まさか支部長。・・・支部長が彼の父親・・・レイプは犯罪です。」
「何で和姦全否定やねん!ちゃうちゃう!エッセンスはんは日本人と結婚したんや。嫌なヤツでな。金持ちってことを鼻にかけさらしけつやがりおったヤツでな。慈善事業なんかに寄付したりすんねん!偽善者やねん!気持ち悪いねん!その上、ちょっと顔がエエからって紳士ヅラしやがってやな、エッセンスはんがドアの前に立つと一々ドア開けよんねん!じゃかぁしぃっちゅうねん、なぁ?」
 哀れな嫉妬深い類人猿である。
「で、ワシ、一度だけその男に会ったんや。白黒つけよ、思うてな。これがまた腹立つほどええヤツなんや。ワシに無担保、無利子で一万円貸してくれるしやな・・・。」
 猿以下の男だった。

「で、メガネ君は一体どうしてホームレスに?」
 ミハダが話を元に戻した。
「そう、問題はそこや。あんな、エッセンスはんが結婚した日本人、尾道って言うヤツねんけど聞いたことあらへんか?」
「尾道・・・?えっ、・・・ま、まさか尾道財閥の尾道、ですか!」
 ミハダの目に一瞬燃え上がった、見も知らぬ女性への嫉妬の炎にやはりアソウは気づかなかった。だからもてないのである。
「そのまさか、や。尾道は一時期メクロと、正確にはあいつの興した会社とやけど、親しく付き合うてたんや。でもな、あのメクロがただの付き合いなんてするわけないやろ?そのうちあいつ、エッセンスはんの屋敷に自由に出入りするようになったと思うたら、いきなりエッセンスはんのお茶に薬入れて手篭めにしようとしたんやで!ひどいヤツやろ?ひどいヤツやろ?」
 アソウの顔が怒りで赤く膨れ上がり、普段の二倍の醜さになった。
 なぜアソウがそこまでエッセンスの内部事情に通じていたのか、ミハダはアソウにその訳を訊かなかったし、知りたくもなかった。
「で、それ知った尾道が激怒してな・・・。ン?何で尾道がそのこと知ったかって?くっくっくっく。密告があったんやぁってぇ!くぅっくっく。まぁ、それ以来、尾道とメクロとは犬猿の仲になったんや。で、エッセンスはんが突然姿を消したんが、四年前のことや。」
 またアソウの顔が膨らんだ。
「突然の失踪やのに、誰も騒ぎ立てん。どう考えてもおかしいやろ?ところがもっとおかしいのは、旦那とエッセンスはんの息子、メガネのことやな、この二人の態度や。二人ともエッセンスはんのこと忘れとるんやで!存在すら覚えてへんねんで?おかしいやん?そのうち尾道が公の場に出ることは少なくなってきてな。三年くらい前からぱったりと姿を見せんようになった。いや、生きてんのは生きてんねん。ただ、まるで魂が抜けたようになってもうててな。七十歳くらいやのに、外見も中身もまるで百歳くらいになってしもたんや。で、メガネや。あいつも記憶を失くしてる点は尾道と一緒や。でも、尾道は実際より老けて見えるようになったんやが、メガネの場合は実際より若く見えるようになってんねん。なぁ、ミハダ君。メガネの本当の歳、ほんまのところ幾つやと思う?」
 アソウが聞いた。
「今までの話から言うと・・・」
「うん。」
「まさか、・・・二歳とか?」
「どんな計算で二歳やねん!喋られへんやん!ヨチヨチやん!話きいてないやん!」
「そうですわね。」
「そこ認めたら、ワシ、しゃべる気失せねんけど・・・。あいつ、今年、二十五や。見た目はせいぜい十五くらいにしか見えへんけど、あいつホンマは二十五なんやで。」
「私と一緒じゃないですか!・・・ほとんど。」
「ちゃんと、『ほとんど』って付けよったな・・・。ま、この二人に一体何が起こったのかは謎や。でもこの件にメクロが絡んでおることは間違いあらへん。」
「でも、母親のことを忘れるなんて・・・」
「そうや。エッセンスはんがそのこと知ったら、泣くでぇ。でも、ワシ、エッセンスはんはもうこの世にはおらへんと覚悟しとるんや。」
 アソウはそう言うと、机の上に乗っていた最後のお煎餅に手を伸ばした。
 アソウの手が最後のお煎餅に届く数舜前、ミハダの手が消え、煎餅に伸ばしたアソウの手は虚しく空を切った。

 ミハダがパキリと煎餅を頬張った。
 乾いたその音が室内に響いた。

― 第六話 メガネ、脱出劇 ―

「うぇ~、こりゃ臭い!」
 メガネの目の前に恐ろしい量のゴミが散らばっていた。
 そこは薄暗い廊下であった。
 ここを通り抜けないと先に進めない。仕方なくそこに足を踏み入れたメガネは、あまりの臭さに気が遠くなる思いだった。丸められたティッシュ、紙くず、弁当箱、布切れ、そして一番我慢できないのが生ゴミだった。米粒があちこちに散乱しており、何に由来するのか、茶色い汁があちこちに水溜りをつくっている。ヌルヌルするその水溜りに足を踏み入れなければならないたびにメガネの体中に鳥肌が立つ。メガネのくせに。
 そうして恐ろしい苦労の末、メガネがようやく通路の終わりにたどり着いたときだった。

「ここホント臭いっすねぇ。」
「あぁ。さっさとこのゴミ捨てて行こうぜ。・・・それにしても昨日の宴会、すごかったなぁ。メクロ様の裸踊り、お前、初めてだろ?」
「はい!俺、マジ感動っす。あ、いや、でも、メクロ様の裸踊りじゃなくて、アレの方っすけど・・・」
 とっさにメガネはゴミの間に体を潜め、ゴミと化した。

「あぁ、臭い臭い臭いっ!」
「もういいっすよ。もう充分くさいっすよ。・・・でもメクロ様っていっつもアレやるんっすか?なんか俺、ちょっとメクロ様の印象変わったかなぁ~って。」
「あぁ。・・・そのことについてはあんまり口にしない方が身のためだぞ。ま、俺もここ入って長いからよ、メクロ様が宴会するときゃ、ほぼ確実にアレやっちゃうこと知ってるからさ。その、・・・時々はメクロ様によ、『ちょっと抑えた方が・・・』って言っちまうんだけどよ・・・」
「へぇ~!マジっすかぁ!あ~っ!俺、分かっちゃいましたよ!分かっちゃいましたよ!」
 後輩らしき男が嬉しそうに言った。

「もしかしてぇ、田崎先輩ってメガフォルテの幹部、とか?とか?ぢゃないっすかぁ~!?いや、マジ、メガすごいっすね~!」
「ば、ばぁか、おまえっ、やめろよぉ~!まだそんなモンぢゃねぇよ!」
「あぁ!田崎先輩、今、『まだ』って言いましたよねぇ!メガかっこいいっすよぉ、ほんと!」
 楽しそうな二人だった。

「あ~っ!あれじゃねぇっすかね、あれっ!」
「な、何だよ?」
「もしメクロ様が日本獲ったら、田崎先輩、・・・ウダイジィンとかぁ~?」
「ばぁかっ!俺のは左向きだっつぅの!うははははははは。なに期待してんだよ。んなことあるわけねーだろ~。吉田ぁ!うはははははははは」
「そぉっすか~?いや、あり得ますって!俺、マジで田崎先輩のことソンケーしてんっすよ。」
「まぁ、もしもの話、あくまでも、もしもの話、な?もしも俺がよぉ、・・・ま、んなことぁ~あり得ねぇけどよぉ!えははははは」
 田崎先輩、体がくねった。

「もし万一俺が右大臣になったらよぉー。・・・俺、お前に市町村の一つ、上げちゃおーかなぁーっなんて、マジで考えてんだよっ!ひゃっはっはっはっは!俺も、そんだけお前のこと認めてるっていうかさ・・・」
「えぇー!まじっすか!?田崎さん、それチョーヤベーっすよ!チョーヤベーっすよ!」
「いや、だからよ、吉田ぁ。落ち着けって。例えばの話だよ。例えばっ!」
「俺、ほんと、田崎先輩に一生ついていくっすよ。・・・ホント俺、どんだけ田崎先輩のことソンケーしてるかって、先輩に伝えてぇーっすよ。青森にいる母ちゃんに聞いたら分かりますって!俺ホント、田崎先輩のことしか話してねぇっすから。すげぇ~イジンがいるって!」
「偉人って、死んでんじゃねぇか、それぢゃ!うはははははは!ま、さっさとこれ片付けて行こーぜ。」
「うぃ~っす!・・・あ、そういえばシュショーの暗殺ってあと三日あとっすよね?」
「ああ。」

「・・・」
「ん?どうした、吉田?」
「あの、俺ぇ、実は誰にも言えないことあっちゃったりしてるんっすよマジで・・・」
「なんだよ、水臭え。俺にだけは何でも相談しろって言ったろ?」
「田崎先輩・・・」
「あんだよぉ。」
「・・・あ、ぜってぇ~笑う!田崎先輩、ぜってぇ~笑うって!」
「ばか、俺がお前のこと笑ったことあるか?一つもねぇよ!お前のこと、俺・・・。だ、だからさっさと話せよっ!よけー照れんだろ!」
「えぇ~、マジ困るんですけどぉ~!」
「いいから、話せって!」
「ええ~っとぉ、・・・いや、マジ照れるんっすけどぉ~!」
「じゃあ、目ぇつむっていえよ!」
「あ!」
「なんだよ!」
「田崎先輩、今、エッチなこと考えてねぇっすよねぇ?」
「ば、ばかっ!ミソ汁にごすんじゃねぇよっ!」
「じゃあ言いますよぉっ、俺!」
「おう・・・」
「いや、マジ、とびそーなんですけど。」
「こいつぅ~!とんでみろよっ!俺によっ!」
「じゃ、言いますよ!」
「ああ。」

「・・・シュショーって誰っすか?」
「ひゃはははは!お前、何小出てんだよっ!シュショーっていや、日本のドンに決まってんだろ。」
「いや、あの、偉さは知ってるんっすよ。それで、・・・名前、なんていうんっすか?」
「・・・。・・・み、みなと」
「港っすか!」
「いや、み、みとべ・・・みたいな。」
「御堂だよ!」
 メガネが答えを口にしながら姿を現した。
「そう、それっ!御堂!・・・だ、誰だぁっ!」
 田崎が叫んだ。
「おぅ、だぁ~」

 もう一人の男、吉田はいきなりガニ股になると、この暑さだだというのにわざわざポケットに手を突っ込み、反り返ってメガネに近づいてきた。メガネの頭一つ分くらいは背が高い。そして、メガネから数センチの距離まで近づくと、その顔をメガネのヘソの辺りまで落とすと、そこから顔を上に持ち上げながら凄みを効かせてようやく残りを言い終えた。
「~れぇなんだよっ?おめーはよっ?」
「俺はメガネだ。」
「知らぁねぇ~よ!」
 そりゃそうだ。

「おい、お前、怪しいな。一緒に来い。」
 もう一方の男の方はちゃんと日本語を解するようだった。
「うーん。どうしよう。お前、ホントにエライのか?」
 メガネが田崎を真っ直ぐに見ながら言った。
「なっ、何言うんだよぉ~。突然よぉ~。」
 田崎が言った。その声にちょっと張りがある。
「あぁ~っ!田崎先輩、赤くなってるぅ~!」
 ― ポカッ ―
 とりあえず吉田の頭を殴ると、田崎はメガネに背を向けて言った。
「ま、まぁ、俺がメクロ様に口利いてやれるっちゃあ、やれる・・・な。おめぇ、入団希望者か?最近多いんだよな、裏口から入ってくるヤツ。おい、今度からちゃんと正面からこいよ。まぁ、今回は俺の顔に免じてやるからよ。ほれ、ついて来な。」
 田崎は身を翻すと指をクイックイッと動かして歩き出した。吉田が田崎の背を眩しそうに見つめながらそのすぐ後ろを歩き、メガネが一番後を歩いた。
 
 そして・・・

「で、お前はその男をぉ、縛りぃもせずに、こぉこに連れてきたぁ、と言ったぁ?」
 田崎、吉田、そしてメガネの三人は今、五人の男に囲まれていた。声を掛けたのはそのうちの一人、メルトモだった。

 ビルで見かけたあの小太りの男だけが椅子に腰掛けており、メルトモはそのすぐ脇に立っている。残りの三人は、床に直に座らされたメガネ達を囲むようにして直立不動だ。予想通り、部屋に入った瞬間から田崎と吉田は、まるで自分達自身が捕まった潜入者であるかのようにビクビクし、床に座らされた時も自然と土下座になり、小さくなって震えていた。

 (それにしても・・・)椅子に腰掛けた小太りの男を見てメガネは思った。(ほんと、サングラスの似合わない人だなぁ・・・)
 薄暗い部屋の中でサングラスをしている目的もよく分からないが、小太りの男のその小さな丸いサングラスは、そのメーカーでさえ自社のサングラスをその男に使用されるのを嫌がるであろう、と思われるほど似合っていない。

「なぁにぃ?!」
 椅子の男がメガネに向っていきなり大声を張り上げた。
「は?何も言ってないよ!」
「いいや。お前、今、サングラスのことで俺を・・・誉めた?」
「・・・誉めてない。で、あなたがメクロ?」
 メガネが言った。
「!」
 メクロが驚きのあまり、椅子から落ちそうになった。どうも、心臓は小さいらしい。
「ど、どぅして、それを?」
「だって、・・・アソウさんにそっくり。」
「あぁあああ!それ、ぜぇったい!ぜぇったい!ぜぇったぁいに、言ってはいけない言葉だったなぁ!聞きたくなかったなぁ!」
 怒ると顔が膨れるところまでがアソウと似ている。

 周りの男達の顔が青ざめた。
「ボ、ボォス!お、落ち着いたくさい!おいっ、タカ、マカ。こ、こいつらをはやく地下牢に連れて行くか?」
 メルトモが・・・尋ねた。
 タカ、そしてマカと呼ばれた、メルトモと同じように筋肉隆々の男達がメガネの腕に手を掛けた。

「田崎と吉田は明日死刑・・・」
 メクロが不機嫌にぼそっと言った。
「へ?」
 その瞬間、吉田はようやく見ることができた。
 秋田の晴れ渡った空を・・・

 (楽しかったべなぁ。おっかさん元気だべかなぁ~。東京、来なきゃよかったべなぁ~。やっぱりお米はアキタコマチが一番だぁ、ってよし子、言ってたよなぁ・・・)

 彼はその直後に気を失っていた。そして、気が付いたら田崎と一緒に地下牢にいたのだった。
「田崎先輩、ひどいべ、ひどいべ!」
 田崎に食って掛かろうとした吉田ははっと止まった。
「た、田崎先輩・・・」
 田崎は泣いていた。
「おい、吉田。俺、あの世行ってもお前を弟子にしてやるからな・・・」
「田崎先輩・・・」
 吉田も喉をつまらせた。と、その時。
「おい、おまえら。」
 地下牢の鉄製のドアの隙間からメガネが顔を覗かせた。
「おまえら助けてやる。その代わり俺の言うこと聞くか?」
「あぁっ!」
 田崎と吉田は涙にまみれたお互いの顔を見合わせた。

「助けてくんろ!」
「失せろ、ボケ!」

 二人の声が重なった。
「あ、そう。」
 あっさりそう言うと、メガネの顔が消えた。

「なぁにさ言うだか、このすっとこどぉっこいが!」
「なんだとぉっ!それが先輩に向かって言うセリフかっ!」
「こんなバカチンコ、先輩でも何でもないべ!このウスラハゲチン!」
「チンって二回つけたなっ、こいつっ!」
 大声で罵り合いながら一つになって転がり回る二人の頭を、いつの間にかその牢に入り込んだメガネがポカッと殴った。
「静かにしろよ!」

「あぁ、お兄さん、助けてくんろ!オラだけでええから助けてくんろ!」
 吉田がメガネの膝に縋った。
「お前、それでも男か!」
 田崎がまた叫んだ。
「だからうるさいって言ってるだろ!」
 ポカッ!
「よし、じゃ、お前は残れ。」
 メガネが田崎を指差して言った。
「えぇぇぇぇ~っ!」
 田崎の変わり身は早かった。
「すんませんでしたぁっ!俺も連れてってください!こいつよりは役に立ちます!」
「ほんと、あんたってひどは・・・」
「ま、とにかく俺、道を知らんからな。二人で案内しろよ。」
「で、どこに行きたいんっすか?」
 両手を擦りながら田崎が言った。蠅の動きである。

「そうだなぁ・・・。もう面倒だからメクロのとこ行ってさっさとアイツ、捕まえてこようか・・・。さっきの奴らなら三人くらいまでなら何とかなるだろ、お前達二人が一人を担当してくれたら・・・な。」
「え?」
「べ?」
 田崎と吉田の息がぴったり合った。
「それはやめた方がいいですよぉ」
「んだ、んだ。メクロ様は魔法使いだべっ!」
「は?魔法使い?」

「吉田の言うとおりなんですよ。ほんと、メクロ様にはどんな人間も歯が立たないんっす。」
「だからって、魔法ってことはないだろう・・・」
「いんや、あれは魔法だべ。田崎先輩も覚えてるべ、ひと月前の源次郎先輩のこと。」
「(ごくっ)あぁ、もちろんだ。」
「なんだ、その源次郎とか言うヤツは?」
「源次郎・・・、そう、バナナの大好きなヤツでした・・・」
 田崎が低い声で源次郎の好物の話から始めようとした。

「おい!時間がない、手早く説明しろ!」
 メガネがせかした。
「せっかちな人だなぁ~。分かりましたよ。まぁ、一言でいうと、国家公務員のスパイだった源次郎は、メクロ様に記憶を消されちゃったんです。」
「なに?」
「ほんと、ありゃびっくりしたべぇなぁ。源次郎先輩、まったく覚えてないどころか、赤ん坊みたいになっちまって・・・」
「そう言いながらお前、源次郎に自分のオッパイ吸わせようとしてたじゃねぇか。」
「い、いんや、そんなつもりじゃ・・・。だ、だって、あの、あまりにかわいらしかったから、つい・・・。な、なして、田崎先輩がそんなこと知ってるべか!?あんとき、あの部屋には俺と源次郎先輩しか居なかったのにっ!」
「ふふふ。壁に耳あり、障子に目あり・・・ってな。」

「しぃっ、静かにっ!」
 メガネが突然二人を黙らせた。
「ど、どうしたべか?」
 吉田が青い顔をして聞いた。
「今、女の声がした。」
「女?」
 田崎と吉田の声がまた重なった。
「あっ、田崎先輩!またあのババアでねぇか?」
「えっ?アレ、まだ生きてんのか?」
 田崎が目を見開いた。

「ババアって誰のことだ?」
「そうさねぇ、あれは去年の冬、初雪が初めて・・・」
「いや、いい。それでその女はどこに居る?」
 話し始めようとした田崎を遮ってメガネが言った。
「確か、この廊下の一番奥の部屋・・・ですたよね、田崎先輩?」
「あぁ。でもまさかまだ生きてるなんて・・・」
 田崎が薄気味悪そうに首をすくめた。
「よし。お前ら、ちょっとここで待ってろ。俺ちょっと行って見てくる。」

 メガネは妙な胸騒ぎを感じていた。
 この女の声、確かに聞き覚えがあるような、ないような・・・。
 メガネは牢を出ると、右手へと向った。

 相変わらず薄暗い廊下だったが、さっきのゴミ溜めに比べると多少かび臭いがまだ耐えられる臭いだった。

 (大体、・・・)メガネは廊下を歩きながら、もう何百回も呟いたセリフをまた心の中で言った。
 (あのヘリに乗らなきゃよかったんだ・・・)


(第七話に続く)

第七話 空中からのメガネ

 あの夜、と言っても昨日の晩の話だが、必死でヘリコプターにしがみついていたメガネは、寒さと、そして正面から吹き付けてくる強風と戦っていた。『戦う』といっても、ロープが体に食い込まないように両手でロープを押さえ、ただ必死でこらえているだけである。
 ともすれば気が遠くなりそうになるメガネを支えていたのは、イザベラ(=ミハダ)への燃えるような、盲目的な、現実無視的な、恋心だけだった。

 メガネにとって十年にも感じられたそのヘリの飛行時間は実際、一時間もない。
 メガネの足元に光り輝いていた町の瞬きはすぐにまばらとなり、やがて、ただ闇だけが茫々と広がっていた・・・

 大気から木の香が濃く漂い始めたとき、眼下に建物が二棟現れた。
 まるで研究所のように殺風景なその建物の上でしばらくホバーリングしていたヘリは、やがて、建物の中庭へと徐々に高度を落としていった。
 ほとんど意識を失いかけていたメガネが、ヘリが建物の屋上付近でホバーリングしているときにそのかじかんだ指でロープを外し、そのロープと共にその建物の屋上に骨一つ折ることなく飛び降りることが出来たのは僥倖であった。

 屋上に無事飛び降りて、ようやく一息ついたメガネは大きくため息をつくと、縁から下を見下ろした。ちょうどヘリからメルトモとあのズングリした体格の男とが出て来るところだった。ヘリは彼らを吐き出すと、また夜空へと飛び去っていった。
 辺りが静まってほぼ一時間後、メガネが行動を開始した。ロープを近くの配水管に結びつけると、彼は壁を伝ってゆっくりと下に降りていった。とりあえずこの屋敷の場所さえ押さえておけば十分だろう。メガネのこれからの計画は単純だった。この建物の外に逃げだしてアソウ達に連絡すること、これだけだった。そこには何の問題もない・・・はずだった。

 凹凸の多い壁面を降りるのに大して苦労はなかった。地面まであと七メートル、五メートル、四メートルまで来たときだった。
 グゥワン、グワン、グワン!
喧しく吠え立てながら黒いドーベルマンが二匹やって来た。涎を辺りに飛び散らせ、歯を剥き出して走ってくるその犬達の猿顔が憎悪に歪んでいる。
 
 メガネは急いで、近くに突き出ていた四角い煙突のような物の上に辛うじて降り立つとロープの残りを回収した。
 (うっさいなぁ。よっぽどヒマだったんだろうなぁ。あんなに張り切って・・・あ、尻尾振ってる。自分でも尻尾振ってること、気付いてないんだろうなぁ)とメガネが下を覗きこんで思った瞬間だった。
「くぅおっらぁ!静かにせんかぁ!」
 まるで爆撃のような声がしたかと思うと同時に、メガネのすぐ頭上の窓がガバッと開いた。
 侵入者に尻尾振ってる番犬も番犬だが、そのせっかくの働きを問答無用で黙らせる飼い主も飼い主である・・・

 メガネ、その怒声を聞いた瞬間、煙突の中に後ろ向きのまま飛び込んだ。いや、‟落ち”た。
 ―ハトに豆鉄砲―
 声を立てなかったのは我ながら偉いとは思ったが、どうも実際のところは、声を立てる前に気を失っていたようだ・・・

 あまりの悪臭に目が覚めた。
 自分の上にゴミが乗っている。よく見ると、横も、下も、ゴミだらけだ。
 そこはゴミの海だった。
 悪臭が鼻を素通りして脳に刺さった。

 メガネは、その悪臭に再度意識を失いそうになりながらも、何とかゴミの海を泳ぎきり、固いコンクリートの地面に降り立った。
 そこが巨大な部屋だということには、床に降り立って初めて知った。
 ゴミで遮られてはいるが、どこからか明かりは漏れてきている。あちらこちらとさまよい歩いた挙句、メガネはようやくそのゴミの部屋のただ一つだけしかない(たぶん)ドアを見つけた。メガネはそのドアに走りより、開けて外に出ると、急いで後ろ手にドアを閉めた。
 一生分のゴミの香であった。
 体内に詰まったゴミを吐き出そうと、「ぐえぇ、ぐえぇ」とえずいてもえずいても、えずき足りなかった・・・
 
 ようやくメガネが落ち着きを取り戻したのは、三十えずきもした頃だった。
 薄暗い廊下がメガネの目の前にあった。
 思いっきり深呼吸し、一歩踏み出した。
 その瞬間、メガネの足がなにかグニャリとしたものを踏んだ。かがんでよく見ると玉葱の残骸だった。あたりをもう一度よくみまわすと、メガネは軽く微笑んだ。もう何も言うことはない・・・。『運』というやつさ・・・。

 メガネの目の前の廊下一面に、生ゴミ、粗大ゴミ、衣類ゴミ、プラスチックゴミが敷き詰められ、バージンロードを成している。
 (だから・・・)メガネは思った。(あのヘリに乗らなきゃ良かったんだ)

(第八話に続く)


第八話 老婆

 奥から聞こえる女の声が段々大きくなってきていた。

 廊下の両側には、メガネとその仲間達の閉じ込められていた部屋の扉とまったく同じ扉がずらりと並んでいる。どの部屋にも人の気配はまったく感じられない。
 よく見ると、各部屋の上部にはプレートが掲げられており、薄汚れて見にくいが、そこには確かに『洗浄室』や『器具室』などと書かれていた。ここは牢屋かと思っていたが、どうもそうではないらしい。
 
 聞こえる・・・。
 女の声だ。
 ブツブツとひっきりなしに何か呟いている。
 
 (ここだ・・・)その部屋は一番奥にあるため、光もあまり届いてはいなかった。
 ドアを開けようとしたらここもやはり、メガネの閉じ込められていた部屋同様、鍵が掛かっている。取っ手を回しても開かない。低い女の声が、ドアから滲んでくるように聞こえていた。

 メガネが細い針金を二本、ズボンのポケットから取り出した。
 メガネを連行してきた、マカとかいう男の胸ポケットに差し込まれていたペンを失敬し、それから取り出したものだ。自分の部屋、そして田崎達のドアを開けたときに使ったのもこの二本だった。

 メガネは床に片膝をつくと、針金を鍵穴に差し込んだ。『オー、イエー。アイムカミン。ユー、ファック・・・』知らないはずの英語もスラスラ口を割って出てくる。スパイ映画でよくあるシーンだ。

 カチン・・・

 小さな音が鍵穴でした。『オー、ビッグ、スモール、ユー、ミドル!』メガネは立ち上がるとドアノブをゆっくりと回した。
 ドアが、かすかにキイキイいいながら開いた。

 部屋の中は電気が切れているらしい。真っ暗だ。一体いつからこの暗さが続いているのだろうか・・・。
 ドアを細目に開いて、多少なりとも廊下の明かりを入れるとまだ見当がつくほどにはなった。ようやく目も慣れ始め、メガネが恐る恐る部屋に足を踏み入れた時だった。

「エミ子さんかい!お夕食はまだかしらねぇ!」

 すぐ右手から、巨大な大声がメガネの心臓を止めた。その瞬間、メガネの耳に、彼をやさしく天国に誘う、楽しそうなジングルベルの合唱が聞こえた、ような気がした。

 心臓の止まったまま、メガネは音の出た方向に目を向けた。
 そして・・・
 
 (うわっ!)叫びそうになった自分をようやく抑えた。
 
 いたっ!すぐそこに!
 
 ボロボロの布が、かたまって置かれてるように見える。その塊の上に老婆の首が乗っている。
 その老婆の首が、上向きで左右に細かく動いている。ネズミがクンクンあたりの様子を窺っているようなその老婆の動きがとても、怖い。

『お、お婆さん。俺、ちょっとあなたに聞きたいことあるんです・・・』
 メガネが勇気を振り絞って小声で老婆に声を掛けた。
「え?何だね、エミ子さん!聞こえないよ!」
 老婆が叫び、メガネが飛び上がった。

『しぃぃぃ!お婆さん、もっと静かに話してください!』
「あぁ、エミ子さん、疑ってるんだね!ホントにお腹ペコペコなんですよ!あぁ、たっちゃんが帰ってきたら言いつけますからね!ほんとに図々しいったらありゃしない!」
 メガネの言うことなど一語たりとも聞いてない。

 メガネは、自分の存在を老婆に知らせるためにすべきことを色々考えた。顔を近づける。肩を叩く。棒で突つく・・・。その中でメガネの選んだ方法は、彼女の手を自分の手で軽く叩く、というものだった。
 彼はまた一歩、大人の階段をのぼったようだ。

「ん?あれ、あんた、は?」
 ようやく老婆は、メガネがエミ子さんではないことに気づいたらしかった。

『おばあちゃん、僕は世界公務員のメガネって言います。偶然ここに連れてこられたんです。で、これからここを出て逃げるんですが、・・・一緒に来ませんか?』
 メガネ自身が考えてもいなかった申し出だった。ここでホントにこのババアに、連れてってくれ、と言われたらどうするのだ?

「あぁ、たーちゃん!」
『は?』
 それはメガネの本名に偶然合ってはいたが、いかんせん、メガネは自分の本名を知らない。
 老婆は手を握っているのが息子の『たーちゃん』だと知ると、まるで津波のように話しかけてきた。

「あぁ、たーちゃん!ちょっとお聞き!あのね、エミ子さんがまたお夕食をくれないんだよ!まったくあの子ったらホント気が利かないっていうか、図々しいっていうか、さ。もうっ!たーちゃんは男の子なんだからちゃんと言わなきゃだめじゃないの!ううん、口だけだとやっぱり駄目ね。女は張っ倒して言うこと聞かせなきゃ!」
 ババアはもう彼岸に住んでる。
『しょうがないな・・・』
 時間がなかった。
 首相が殺されても別段かまわないが、それを阻止しないことにはお金をもらえず、メガネにとってそのことは当然、このババアよりも遥かに重要なことだった。

『じゃ、おばあちゃん。ドアは開けておくから、適当に逃げてくださいね。』
 部屋から出て行こうとして外したメガネの手を、突然、老婆がギュッと握ってきた。

 一瞬、メガネの動きが止まり、そのメガネの手を老婆が優しく撫でた。記憶の奥底から何か暖かいものが湧いてくるような気がした・・・が、それはあくまでも一瞬の出来事であり、これからしなければならないことが山ほどあることを考えるとここで足を止めているわけにはいかない。メガネがその手を振り切って行こうとすると、老婆が思いがけなく優しい声で言った。
「たーちゃん、いいかい。顔はやめなよ。ボデーにしなよ、ボデーに。」
 ババアの頭の中では、もう出来上がってる図があるようだ。
「ボデーだよ、ボデー!たーちゃんっ!ボデーーーーー!」
自分で言ってて次第に興奮してきた老婆の叫びを後に、メガネはその部屋を後にした。

廊下を、田崎達のところまで戻った。そして、彼らを促して三人で廊下を先へと進んだ。先程の老婆の手の感触が残っている。
気持ち悪いが、なぜか暖かい・・・


(第九話に続く)


第九話 鼻歌の竹田君

「異常はなぁいかどうか?」
 見回りで歩いていた男に、まるでナゾナゾを聞くようにメルトモが声をかけた。
「は、大丈夫であります!」
 男が答えた。
「うん。引き続き続け?」
「はっ!」
 男は敬礼すると、メルトモとは逆の方向に歩き出した。
「そうだ、おい。地ぃ下の様子、ちょっと寝てね?」
「は?」
「寝てね?」
「・・・はっ!」
 男が階下に向かって歩き出した。
 メルトモの部下にするにはもったいないほど気転のきく男だ。

 この男、竹田君という名前なのだが、大の口笛好きだった。そして、『~好き』な人によくあるように竹田君もまた、自分の『好き』は、他人の『好き』だと勘違いしてしまっていた。そう、・・・竹田君はいつでもどこでも誰の前でも、容赦なく口笛を吹くことができた。その甲高い響きは当然、周りの大ひんしゅくをかったが、当の竹田君、一向にそれに気付かない。

 ある日、廊下を偶然通りかかったメルトモがその口笛を耳にした。メルトモ、聞いた瞬間耳を押さえ、のたうち回りながらもなんとか竹田君の部屋に乗り込み、これを禁じた。永遠に。
 口笛を吹くことの出来なくなった竹田君はかなり悲しい、寂しい。口笛を吹きたい、でも吹けない。煩悶の波に押し潰されながら、竹田君、どうしても口笛を諦めきれない。そして彼は、ついに発明した。
 ・・・鼻歌。

 彼は音の出所を口から鼻へと移すことに成功した。
 『これなら静かだし、メルトモ様のご機嫌のおかげで、僕の口笛を聞くことが出来なくなってがっかりしているみんなにも、きっととても喜ばれるだろう』竹田君、本気でそう思ったのだった。そして、その芸術もまた、予想通りすぐに迫害の憂き目にあった。
 『うるさくはないが、何か気持ち悪い』というのがその理由だった。

 そんな竹田君にとって、誰に気兼ねすることなく鼻歌えるのが地下だった。地下こそ竹田君のカタコンペだった。
なので竹田君、メルトモに地下に行くように命じられたときにはウキウキで、スキップしかねない勢いであった。

地下の薄暗い廊下をリズム良く歩きながら、竹田君、持ち鼻歌である『ワルツ一発』の一番を気持ちよく吹き切った。そして、南国の悲しさを切なく歌った二番の盛り上がり部分(竹田君はこの部分が大好きだった)にあと一吹きまできて竹田君の足は自然と止まった。これから迫り来る情熱に備えてのことだ。竹田君、目を閉じている。盛り上がり部分が始まった。
竹田君、目からなんか垂れてきている。
序章、中章、そして・・・終幕・・・。
全てのドラマは終わった。
竹田君、こみ上げてくるものを抑えきれないらしい。
目をギュッと閉じ、両手で胸を抱え込んでゴミの上にしゃがみこんでしまっている。

そんな竹田君の前に、メガネ、田崎、吉田の三人があっけに取られた顔をして立っていた。
そりゃあ、目を開けて、三人の男を見つけた竹田君の方も驚いたね。
でも、竹田君のは、驚きより恥ずかしさの方がちょっと多かったかも。
次の瞬間、竹田君の意識はメガネの蹴りによって、飛ばされた。そして、彼は田崎と吉田によって牢の一つに運ばれて、ドアに鍵までかけられた。
そう、竹田君、ようやく、思う存分鼻歌える自由を手に入れたのだ・・・


(第十話に続く)

第十話 ギメガたるもの

 メガネは道に迷っていた。
 歩いているのはメガネだけではない。彼の後ろには田崎もいた。吉田もいた。
 しかし、この建物に住んでいるはずの彼らは、地下のことはまったく知らなかった。彼らはただメガネの後について歩くだけ。そう、完全な役立たず。
 (カス共がっ!)メガネの怒りに気付かないカス共は、「おっ、先輩っ!これ見れ、これ!すげぇ~べ!」「うわっ、お前、何これ、洋モンじゃねぇ~かっ・・・うわっ!」と歩みを止めたりする。もちろん、そんなときはメガネも止まる。だから、一行の歩みは遅い。

 最初の廊下から踏み込んだ枝道は少し行くとさらに枝分かれしていき、もうどこにいるのかさっぱり分からない。実際は同じところをグルグルと回っているだけだったのかもしれない。
 三人の誰も、よく分からない。
 そのうち二人は気にもしていない。

 迷い始めて一時間近くも経った頃、壁の色が変わった。
 どうやら棟が変わったようだ。

 その時・・・
 ウーウーウー
 遠くでサイレンの音がしたかと思うと、どこからか放送が薄っすらと流れてきた。


   えぇ~、えぇ~。ごほん。
   えぇ~、田ぁ崎ぃと吉ぃ田ぁ。
   帰って来ない?帰って来ない?
   今すぅぐぅ、帰ってぇ来ない?
   悪いようにするぅよ。
   だから安心付きでぇ大丈夫。
   田ぁ崎ぃと吉ぃ田ぁ、帰ってぇ来ない?
   フフフ・・・

 メルトモが最後に笑った理由は不明である。

 放送から明らかなのは、さっきの鼻歌男をメクロ達がもう救い出している、ということだ。ということはもう集結もしているだろうし、武器も持ってるだろう。で、これからメガネ達を追って来るはずだ。
 メガネは自分の方から攻めるのは諦めた。
 まずはこの建物から脱出することが先決だ。

 別棟に入ってしばらく一本道が続いた。そこをさらに行くと、やがて左手に部屋が現れた。『地下管制室』と書かれたプレートがドアの上部に貼られている。ドアを開けた。
「『管制室』か・・・」
 部屋は広かった。大人が二、三十人も楽に入りそうだ。そして、その広い部屋の真ん中に、ポツンとテーブルだけが置いてある。部屋にあるのはそれだけだ。テーブルの上にはなぜだか果物籠が置かれている。

「あ、あれ、食っていいべかな?」
 吉田が涎の垂れそうな顔をして誰かに聞いた。
「いいよ。」
 メガネがそう答えると、吉田と田崎が先を争って部屋の中へと走った。メガネは二人をほっといてその部屋を出ると、廊下を急いだ。

―アガッ!―
―ヒィヤァッ~!メ、メガネさんっ!ちょ、ちょっと来て下さいよっ!―
 田崎が叫んでいる。
 メガネが面倒くさそうにその部屋に戻ってきた。
「メガネさん、ちょっとこれ見てくださいよ。信じられないっすよ。」
 田崎が瑞々しいバナナを手にとって、その裏側をメガネに見せた。バナナの真ん中部分にはボタンが、そして両端には細かい穴がいくつも開いている。

「おい、もしかして・・・」
「はぁ、これ電話っす。」
 田崎が言った。電話を食べようと口に入れた吉田はテーブルの傍で口を押さえて呻いていた。

 メガネが、バナナの腹のボタンを押した。
 プルルルルゥ プルルルゥルゥ
 バナナはちゃんと使えた。その上、ちょっとお洒落でもある。

 プルルルルゥ プルルルゥルゥ

 しかし、アソウもミハダも電話に出ない。十五回目の呼び出し音でアソウがようやく電話に出た。
「今、何時やと思とんねん!このガキァ!ゾクレまくでぇ、こらぁ!」
 『ゾクレ』とは何なのかは分からなかったが、メガネは声をひそめて話し出した。
「アソウさん、俺です。メガネです。」
「なんや、メガネかいなお前っ!何時やと思てんねん!朝かけんかいっ、朝!」
 ガチャッ・・・ツー、ツー、ツー

 うそぉ・・・

 もう一度だけ掛けてみる。あのピグモンがこれで電話に出なかったら、意地でもここから抜け出して、あいつを絞め殺してやる。

 プルルルルぅ、カチャッ

「おぉっ!メガネやないかっ!すまんかったのぉ、ワシ、寝起き悪いねん。ガッハッハ。で、おまえ今、どこに居んねん?」
「メクロの屋敷です。」
「な、なんやて!」
 うるさい男だった。メガネは受話器を耳から離した。
「ホンマに、か?メクロやったんか?」
「はぁ、まぁ、多分そうだと思います。」
「思うってお前!まぁええわ。で、そこどこや?」
 メガネが田崎から聞いた住所を告げた。
「何や、そんなとこやったんか。よっしゃ、三時間でそっち行く。ちょっと待っとれよ!」
 ガチャッ・・・ツー、ツー、ツー
 まただった。彼はここに来て、一体どうするというのだ?建物のどの場所に、どういう状態でメガネ達がいるということを、一体どうやって知るのだ?そんなことよりも何よりも、何でこんな生物が世界公務員の支部を任されてんだ?
 
「ひぃやぁっ!」
 部屋を歩き回っていた田崎が悲鳴を上げた。
「どうした?」
「どうしたんっすか?田崎先輩?」
 メガネと吉田が田崎のもとへと急いだ。
 田崎が壁の前でコケている。

「またぁ、田崎先輩!それって先輩の十八番のバナナゴケじゃないですかぁ!びっくりさせないでくださいよぉ、はっはっは」
 田崎はガバッと立ち上がると、キョロキョロ辺りを見回した。
「あっれぇ~?おっかしいなぁ?」
「どうした?」
 メガネが尋ねた。
「今、確かに壁が飛び出てきたんです。」

「ひやぁっはっはっはっはっは!」
 田崎とメガネの体が、吉田の突然の豪笑にビクッと震えた。
「何がおかしいんだよ?」
「いんや、田崎先輩の起き上がったときのあの顔!口寄せから目が覚めたイタコみたいだったべ!」
 ・・・彼女達は本当にそんなおもしろい顔をしているのだろうか?

「あっ、俺、リンゴ食おうと思ってたんだ。」
 吉田が机まで戻り、果物籠から真っ赤なリンゴを取り出した。
「ほれ、田崎先輩!うまそうだ・・・へっ?」

 ドンッ!

 今度は田崎とメガネがバナナゴケした。
「な、なんだ?」
 メガネが叫んだ。
「ほら、今のっすよ!今の!」
 田崎はそう叫ぶと、同じように倒れているメガネを見た。メガネの顔をしばらく見ていた田崎が、プッと笑った。「メガネさんのあのこけ方・・・」そう言ってまたププッと笑った。

「・・・」
 メガネはのろのろと起き上がると、吉田のところへ行き、吉田の掴んでいるリンゴを奪い取ると、いろいろ調べ始めた。
「オ、オラ何もしてねぇだよ!ただスターキングデリシャスを食おうと・・・」

「これだな。」
「何ですか?」
 田崎もそこへやってきた。
「多分、こうすると・・・」
 メガネが果物籠にリンゴを戻し、もう一度持ち上げた。すると、さっきメガネ達の倒れた辺りの壁が、しかも足元付近だけが一瞬盛り上がったかと思うと、またすぐに元の状態に戻っていった。
「へぇぇぇ!こりゃおもしろい!」
 
「組み合わせの問題だな・・・」
 メガネが果物籠の果物を動かす度にその壁の上や下や真ん中が動く。メガネは何度か試していたが、やがて、「これか」そう言ってパイナップルの上にドリアンを乗せた・・・

 と―

 ガタッ!
 壁の一部が四角に飛び出し、今度は元に戻らなかった。まるで壁から生えたコンクリートのテーブルのようだ。その上には一冊の本が置かれている。
 三人が本の回りに集まった。
「それにしてもブッサイクだべぇっ!」
 吉田がその本の表紙を見て言った。
 たしかに・・・

 その本の表紙には、眠っている人間の顔が立体的に彫られており、手の込んだ装飾が為されていた。
 顔の色も、まるで本物のような色使いで気味が悪いくらいだ。その表紙の鬼気迫る芸術性は確かにすごい。が、いかんせん、モデルたるその人間の顔が、表紙の芸術性をゼロに、どころか、マイナスにまで下げている。
 それくらい醜い。

 モデルは、たぶん男。
 髭の剃り跡が青いから。しかし、顔に濃い化粧が施されている。唇はケバケバしいほど紅く、目元は不気味なほど華やかだ。もしかしたらモデルは女、かもしれない。どちらの性にせよ、その獅子鼻、顔に出来たブツブツの多さ、唇の厚さ、が人並みはずれている。顔色だけはいいから、見てるとなぜか腹が立ってくる。

「あぁ、これはキタナイな。」
 メガネが感心したように言った。
「ところでコレ、何なんでしょう?」
 田崎がメガネを見やった。
 
「本、だろ?ま、こんなとこに隠されてるとこみると、持って帰るべきだな。時間がない。おい、吉田。これを持て。」
 メガネが部下に命じた。
「いいっすよ。」
 吉田は本を持ち上げると、興味深そうに手の中でひっくり返した。
「こういう物が隠されてるってことは、この棟の上はおそらくさっきの棟よりも警戒が厳しいだろうな・・・」
 メガネは独り言のように呟き、しばらく考えていたが、やがて顔を上げて言った。
「よし、とりあえず俺が入ってきたとこまで戻って、そこからこの建物の外に出る。」
「メガネさんってどこから入ってきたんですか?」
 田崎が聞いた。吉田はまだ本をいじっている。
「お前たちと会ったとこだよ。」
「えぇぇぇ!あそこゴミ捨て場っすよ?」
「知ってるよ。あいつらもまさかゴミ捨て場から逃げるとは思ってないだろ。」
「臭いっすよ、あそこ!」
「知ってるよ!しょうがないだろ!」
 メガネはあの臭いを思ってうんざりした。
 
「あっひゃあ!!」
 ドン!
 メガネは叫ぶと本を床に落とした。
「おい、気をつけ・・・」
 メガネが注意しようとしたその時だった。

「いったぁ~い!もぉう!キー! あ~っ!ね、ちょっとこれ、『人間のくせにハラスメント』、略して、『ニンハメ』じゃない?ニ・ン・ハ・メェ!やっだぁ~、もう、信じらんなぁ~い!ポンポン、プンプン!」
本が、喋った。

 吉田、田崎、メガネの三人が本を見下ろした。その沈黙を本が破る。
「あのさ、あんた達!何ボケーっと見てんのよ!早くあたしを持ち上げなさいよ!ホント、タロイモみたいな顔揃えて!頭に殺虫剤溜まってんじゃないの!」
 本はハスキーボイスだった。

「おい、・・・。持ち上げてやれよ。」
 田崎が吉田に言った。
「いやだべ!オラ、絶対いやだべ!こんなモン触ったら伝染るべ!」
「お前、さっきまでそれ持ってただろうーが!」
「やだ、やだ、やだ!絶対やだべ!こいつ気持ち悪すぎるべ!」

「やだ~、ホント信じらんなぁ~い!レデーに対してぇ!あんたの方が百兆倍キモイって~のっ!なにさ、このイモ虫!ギョウ虫!牛糞臭いんだよ!ほらっ、しっ、しっ!さっさと農場帰れ!このクソコロガシ!」
 恐ろしく口が悪い。
「ちょ、ちょっと!分かりましたから!」
 メガネが本を拾うと、ゆっくりと机の上に立てた。
「あんた、分かってんじゃない。あのウンコ二つ、さっさと流しちゃいなさいよ。」
「まぁ、まぁ・・・、許してください。で、あの、お名前は?」
「人の名前聞く前に自分が名乗るっ!常識よ・・・」
 本がそっぽを向いて言った。拗ねてるらしいが、愛らしさはゼロだ。逆に、見る者に殺意さえ抱かせてくれる。


 プチッと何かが一本、メガネの頭の中で切れた。
「す、すいません。俺、メガネって言います。で、こいつらが田崎と吉田。俺たち、決して怪しい者じゃないです。たまたま道に迷ってこの部屋入ってきちゃったんです。」
「ふぅーん。あんたたち、バカそうだから信じるわ。」
 『プチッ』。また切れた。

「でもね、あんた達、ここから早く出て行かないとメクロにやられちゃうわよ。」
「あれ?あなたはメクロの味方じゃないんですか?」
「味方、ねぇ。まぁ一応、私、メクロの父母よ。正確には『だった』だけどね。」
「ええええええ!」
「でも、あの子もグレちゃってさぁ・・・。ほんと、いつまでも愛されてるって思っちゃったりしちゃってるのかしら、あのガキ・・・。」
「ひ、ひどい親だべ。」
 吉田が囁くように言った。

「・・・あの、今、『父母』って?」
「そうよ。父母。父であり、母であり・・・」
「はぁ?」
「『ギメガ』よ。・・・あら?あなた達、もしかして『ギメガ』のことも知らないのぉ?まぁ、やだっ!今どき・・・ほぉっほほほ、ほぉっほほほ!ほぉっほほほ!やっぱりぃ~、ウマとシィカァって予感?ほっほっほっほっほ」

 本当に嫌なヤツだ・・・。
 その時だった。
 ドガドガドガドガ!
 廊下から足音が聞こえてきた。
「やばいっ、追っ手が来た!」
 メガネは左右に目をやった。感動的なほど何もない。

「そうだ!」
 メガネがまた果物籠からいくつかの果物を取り出し、幾つか組み合わせを変えては籠に収めていくことを繰り返していた。
「確かにこれであの壁が開いたと思ったんだけどなぁ・・・」
 ブツブツ独り言を言っている。
「おい、ここは調べたのか?」
 廊下から声が聞こえる。
「いえ、まだです。」
「よし。第二隊は先に行け。俺とお前らはこの部屋の捜索にあたる。」
 テキパキと指示を出す声にはやる気が満ち溢れている。

『あぁ~!来る、来るぅ!』
 吉田が囁き叫んだ。
「ん?おい、鍵がかかってるぞ。誰かこの部屋の鍵を持ってないか?」
 テキパキ男が言った。
(鍵掛けといて良かった!)メガネの額に汗の玉が浮かんだ。
「ちょっとぉ!その汚い汗、私に落とさないでよ!」
 本が言った。

 『ぷちっ』(集中!集中するんだ!集中!)殺意を集中力に昇華させてメガネは手元に全神経を集めていた。
 カチャッ!
 とうとうメガネは成功した。本の出てきた壁のちょうど九十度横の壁に、ぽっかりと四角い穴が開いた。その時・・・

 ガチャッ!

 部屋のドアが開かれ、まさに『テキパキ』といった感じの男を先頭にした一団がなだれ込んできた。
「こ、こやつらをひっとらえろぉ!」
 テキパキが叫んだ。
「穴に飛び込め!」
 メガネは叫ぶと、本を掴んで壁に向かって走った。
 ま、きっとあれだ。どうせゴミ捨て口に違いない・・・。
 メガネの第六感が悲しそうに呟いた。

 吉田はその穴から頭を差し込んで下を覗いてみた。真っ暗で何も見えない。頭を戻した吉田の顔色が悪い。
「あの、オラ、高所恐怖症だがらとてもこんな高いトコさあぁぁぁぁぁぁ・・・」
 田崎が、吉田を穴から落とした。
「じゃ、メガネさん、俺、先に行きます。」
 言ったときには田崎の体はもう穴に消えていた。

 メガネはバナナを取ると、そのボタンの一つを押した。

  ピィーッ ピィーッ ピィーッ

 恐ろしい音が部屋中に鳴り響いた。いや、実際には音自体は小さなものだったが、興奮した追っ手達の耳には鋭く突き刺さり、その動きを止めるには十分だった。

「動くな!」
 メガネが言った。皆、固まった。
「これは爆弾だ。ここにこれを、こう刺してっと・・・。」
 メガネはバナナをマンゴーとキウイの間に突き刺した。

「これが倒れると爆発する!この建物ごとだ。その人数で動き回ると危ないぞぉ。」
 言い終えたメガネは穴に走ると、頭からそこに飛び込んだ。

 ゴクッ!

 テキパキ男が生唾を飲み込んだ。
「みんな、動くなよ!」
 テキパキ男がすり足でテーブルの所まで行き、その傍で深呼吸を一つした。
「ハアァァァッ!」
 気合とともに彼は驚くべきスピードをもってして正確にバナナだけを取り出した!マンゴーもキウイもピクリとも動かない。
「おおおおぉぉぉ!レンタン様ぁ!すげぇ!」
 一団に驚きと賞賛の叫びが起こった。

 (ふっ・・・。こいつら・・・)テキパキ男がバナナをゆっくりとテーブルの上に置いた。すると、バナナから、
 ピィーッ ピッ ピィーッ ピッ ピィーッ ピッ
バナナの警戒音が消えない!消えないどころか、より危険そうな音がしている!
「あのぉ~、レンタン様。それって、あの、電話じゃ・・・」
 一団の一人がおずおずと言った瞬間、
「ぐぇっ!」
 テキパキ男の目にも留まらぬ地獄突きがそのオセッカイさんにクリーンヒットし、オセッカイさんは白目を剥いて床に倒れた。

 メガネ達が飛び込んでいった壁の穴は、テキパキ男がバナナを取った瞬間、閉じた。閉じた原因は、どうも果物籠の中のバナナを取ったせい。いわば、メガネにまんまとはめられた、ということは皆分かった。かといって今からこの果物達をどうかして、あの壁の穴をもう一度空けよう、という気持ちにはならなかった。だって、難しそうだし・・・。

そこで、彼らはこの部屋に入ってからの数分を、『無かったこと』にすることにした。いや、誰が言い出したのでもない。それは一種のテレパシーだ。『一生のうちの数分を失くしたからといって、一体どうだというんだい?』テキパキ男の顔が皆を見回した。そして彼らは黙って部屋から廊下に出た。
 もちろん、オセッカイさんも、その部屋から出され、まるでうたた寝をしているような自然な格好で廊下に寝かせられている。・・・じゃ、こっからでいいかな、みんな?
「くそおー、あいつらどこいったんだろうなあ」
テキパキ男が叫び、皆がその背を追い、・・・走り去っていった。

「ぎゃあぁぁぁぁぁ~」
 メガネがギメガを抱えて穴から身を投げだした瞬間に彼(彼女?)の立てた悲鳴だ。彼女(彼?)の顔がさらに歪み、もうこの世の人の顔ではない。
 落下する感覚。真っ暗なので、壁は見えない。運良く壁には一度もぶつからずに下まで落ちることができた。しかも、下に着いた瞬間、ぐにゅっとした感覚がメガネの背中全体に伝わった。コンクリートの床に嫌というほど体をぶつけるのを覚悟していたメガネにとって、これは意外だった。
「あぐぅっ!」
 メガネの背中にあるやわらかい物体が悲鳴を上げた。田崎と吉田だった。

「あぁ、すまん、すまん。」
 メガネは立ち上がると、周りを見回した。真っ暗で何も見えないが、声が反響するところをみると、どうやら小さな部屋に居るらしかった。
「あー、踏まれてる、踏まれてる。いま私、踏まれてるぅ・・・」
 地底から這い上がってきた何かのような、暗い声が聞こえた。
「はあ~あ。まぁ、だうせあたし、ただの本だすぃ、紙だすぃ、そりゃぁ踏まれても痛くも痒くもなさそーに見えるんだろーけどぉ~・・・。」
 メガネの足の下だった。
「あ、す、すいません!」
 メガネは急いで足をどかすと、ギメガを拾い上げた。
「・・・いい度胸してるわね、あんた。死ぬ?」
 ギメガが、瞬きしない目でメガネをまっすぐに見ながら、ド太い低音でささやいた。

「うぐぇっ!」
田崎と吉田はその時にようやくその臭いに気付いたようだった。
 二人が吐かなかったのは奇跡だった。
そこに漂っていた臭い・・・メガネがほんの数時間前に嗅いでいた臭い・・・腐った卵、そこにドリアンを混ぜ合わせ、三ヶ月前の牛乳うんこを加えたような臭い・・・。
 あのゴミの海の臭いだ。(・・・ということは、あの場所ともつながっているはず)メガネはちょっとホッとした。

「くっさぁ~いっ!何なのよ、これ、ゲロ?テロ?」
 ギメガがいまさら悲鳴を上げた。
「とにかくここから出よう。」
「で、出るって、どこさ行けばいいだか。暗くて何にも見えねぇべ。」
「壁を伝って歩くんだ。」
 メガネはそう言うとそろりそろりと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待っでぐれ、メガネさん!オラも連れてってくんなきゃあ!」
「お、おいっ、吉田!これは俺だ、俺!あっ、そ、そこは俺の・・・」
「おい、田崎!そんなにくっ付かれると動けないだろーが!もっと離れろ!」
「そんなこと言っても、メガネさん・・・」

 三人は連れ立って暗闇の中をそろりそろりと歩いた。やがて、カツンッと音がした。メガネの指の爪がドアに当たった音だった。
「よし、ドアがあったぞ。」
 メガネがドアのノブを捻った。扉が開き、明かりがドッと流れ込んできた。
「うわぁ!まっぶしいべぇ!」
 三人(と一冊)はようやく光の下へと出ることは出たのだが・・・
「うわっ!な、なんだ、このゴミの山はぁ!?」
そこはかなり幅のある廊下だったのだが、その廊下一面に、おびただしい量のゴミが少しの隙間もなく床を埋め尽くしている。
「さ、行くぞ。」
 ギメガを抱えたメガネがさっさと歩き出した。
「メガネさんゴミっすね!」
 田崎が嬉しそうに言った。
 ・・・『メガネさんのやって来たゴミ場に行けますね』だろ、田崎。

「あの、ほんとにこの方向でいいんだべか?」
 吉田がまた聞いてきた。
「いいんだってば!うっさいなぁ。」
 メガネが言った。
「でも、メガネさん。俺たち、地下からさらに地下に落ちたわけだから、上に上がらなけりゃいけないんじゃないんですか?」
 田崎が吉田よりはだいぶましなことを聞いてきた。
「うん、その通りだ。ま、上を見てみなよ。」
 田崎と吉田が上を向いた。送電線が幾つか見えるだけの、何の変哲もない天井だった。
「天井がどうかしたんだべか?」
「うん。天井から何かぶら下がってるだろ?あれは何だ?」
「・・・電線でしょう?」
「その通り。じゃあ、電線は何のためにある?」
「・・・。」
 田崎は真剣に考えていた。あれは・・・何のためにあるのだろう?

「・・・本気か?」
 メガネが信じられない目つきで二人を見た。
「ちょ、ちょっとメガネさん。俺は見ないでくださいよぉ!はははっ。田崎先輩と一緒にしてもらっても困るっすよ。ほーんと、大の大人が、やめて欲しいっすよ・・・。」
 吉田が威張っている。その根拠は何だ?電線が何のためにあるかを知っているからなのか?
「じゃあ、お前、言ってみろよ!電線は何のためにあんだよ!」
 田崎が聞いた。
「あれはねぇ、暖房だべよ、田崎さん!」
「は?」
「まぁ、最近は光だの、コードレスだの色々ありますけど、あれ、基本は暖房なんっす。」
「・・・」

 田崎は叫びたかった。『吉田は間違っている!』と言いたかった。しかし、あまりにも自信に満ち溢れた吉田のその態度にはどこか田崎を寄せ付けない、真実の威厳のようなものがあった。
「・・・暖房で、いい。」
「えぇ?本当っすか?電線って暖房だったんっすか?」
 田崎が叫んだ。・・・もう何を言ってるのかすら分からない。

「もういいよ、どうでも。」
 ほんとだ。メガネが言葉を続ける。
「それで、電線には基本的に二つの方向しかないわけだ。電気が送られてくる方と送る方と。ということは、送電線の側、いわば、外からこの建物に電気を提供してくれる側さえ分かったら外に出れるだろ?」
「なるほど!さすがメガネさん!」
 田崎が言った。

「でも、どうやってそれを見分けるんです?まったく同じように見えるんですけど。」
「そう。そこは電気会社でも注意が必要なわけだ。逆にしてしまったら流れる電気も流れなくなるからな。だから電気屋さんは電線の送電側、いわば外に出られる方の側には普通、シールなんかを貼ってんだよ。ここの場合は、・・・ほら、あれ。赤いテープが一方の端に巻いてあるだろ?ということはその方向が外。」
「ま、まじっすか!?何かすげーいいこと聞いたなぁ。なぁ?吉田。」
「俺、かんどーっす。マジ、すげーっす!」

[蛇足だが、彼らは後日、電線を見るたびにそれを思い出しては、誰かに教えて自慢していた。ところがある日、『そんなわけないぢゃん。ばかぢゃん』と、夏のビーチで言われる・・・。]

 地下の地下。三人(と一冊)がようやく棟の変わり目にやってきたことを、壁の色の違いが教えてくれた。しばらく歩いているとやがて、メガネ達は三叉路の道に出た。まっすぐ行くと行き止まりで、そこにはドアがあった。しかし、メガネはそのドアには向かわず、右手に曲がった、いや曲がろうとしたそのときだった。

『止まれ!』
 メガネが低く、しかし鋭く言った。後ろの二人がビクッと止まった。
『脅かさないでくださいよ、メガネさん!どうしたんっすか?』
 田崎がメガネに聞いた。
『向こうから何人か来る・・・』
『えぇ~!に、逃げなきゃ!』
 吉田はもう、体の体勢を変えている。
『いや、一本道を戻ってる暇はない・・・』
 メガネは小さく言うと、一瞬考え込むと、二人に言った。
『ちょっとここで待ってろ。』

 メガネは一人、突き当たりにあるドアまで体勢を低くして小走りに進むと、そのドアの取っ手を廻してみた。鍵はかかっていない。ドアが開いた。メガネはするりとその部屋の内部に入っていった。二分ほど経ち、メガネが出てきた。そして田崎達の所へと急いで戻って来ると早口で言った。
「あの部屋の天井から上に出られそうだ。あそこから行こう。近道になる。」
 それからメガネは、「ちょっとこれ持って、あの部屋に行っててくれ」と、ギメガを吉田に手渡しながら言うと、ゴミの中にしゃがみこんで何か熱心に探し始めた。
「あの・・・、なに探してるんっすか?」
 吉田が聞いた。
「うん、・・・武器。早く先行けって。」

 そこは狭い部屋だった。六畳ほどの広さの部屋に壊れかけた古い棚や机などが雑然と置かれている。いかにも人に使われてなさそうなその部屋にもちゃんと電灯が点いているのが不思議といえば不思議であった。
 田崎達がその部屋の中でやきもきしながら待っているところへようやくメガネが走り戻ってきた。
「急いで作ろう。奴ら、もうすぐそこだ。」
 メガネが取り出したのは、電化製品用の配線の束、そして汚い布切れ、などなどだ。
「それが、武器っすか?」
「うん、まぁ、そんなとこだ。」
 メガネはそう言うと幾つかの配線の両端のゴムを手早く剥き、それらを結び合わせて三メートルほどの長さの線を作った。そして、布切れを手早く両手に巻きつけて即席の手袋を作ると、それをしたまま配線を掴んで吉田に手渡しながら「ちょっとこれ持って、俺が合図したら渡してくれ」と言った。

そして、今度は田崎の腕を掴んで、「ここに来い」と部屋に幾つかある電灯の下に彼を連れて行き、「俺をおぶってくれ」と頼んだ。「はぁ・・・」田崎は気乗りのしない返事をしたが、それでもしぶしぶといった感じで腰を低めた。メガネは田崎によじ登ると、田崎は頼りなさそうにフラフラと立ち上がった。
「もちょっと右、右。ちがう、そこは左だよ!お箸持つ手だよ!あ!もう少しだけ左!よし、ここっ!そのまま。ちょっと動くなよ。おい、吉田。ちょっとこれ持ってて。それからさっきのヤツちょうだい。」
 メガネは電球を二つはずすと吉田に手渡し、さきほどの延長させた配線に布を巻きつけたままの手を差し出した。

「は、はぁ。」
 吉田が電球を受け取り、配線を渡そうとしたとき・・・
「あちぃっ!」
 吉田が叫んだ。
 吉田の手から落ちた電球が床に落ち、二つとも、パリンと割れてしまった。
「・・・あ、そうだ。電球熱いから。」
 メガネが言った。
「遅いっすよ!」
「ちょっとそこら辺から布でも拾ってそれで受けてくれ。おい、田崎、吉田が電球壊しちゃったからちょっと移動。あっちの電球とるぞ。」
「は、ひゃいぃ。」
 田崎の膝が爆笑している。

 メガネは移動先で同じように電球を外すと、今度はちゃんと両手を布で巻いた吉田に次々とそれらを渡していった。
 最後に延長配線の端を電球を抜いた後の窪みのどこかに取り付け終わると、ようやく田崎に言った。
「よし。下ろしてくれ。」
「くぅうう!ぷはぁ!」
 田崎はメガネを下ろすとそのまま床に転がった。
「ちょっとそれ持ってこっち来て。落とすなよ。」
 メガネが配線を伸ばしながら、四本の電球を手に持っている吉田に言った。
「あの、メガネさん・・・」
 吉田が電球を落とさないよう慎重に歩きながら言った。
「なんだ?」
「・・・ここで問題です。あなたのご出身地の電灯(伝統)は?」
「うるさい!早く来い。」
 メガネがさっきの配線のもう一方の端を、今度はドアのノブに括り付けた。
「これでいい・・・と。」

 次に、ボロボロのズボンを拾ってくると、その両足部分の端を縛った。足部分を縛ると、ズボンはまるで変わった形の袋のようになる。その袋状のズボンの片足部分にそれぞれ二本ずつ細長い電球を入れると、メガネがズボンの上からいきなりそれを蹴った。ポシュッという音がして電球は四本ともあっという間に砕けてしまった。そして、五十センチほどの長さのビニールの紐でズボンの腰部分をキュッと縛り、そこを下にしてズボンを持つと、今度は吉田の肩に乗ってドアの上にそれを取り付けた。そして、そのズボンの腰部分から出ている余分な紐をドアのノブに、さっきの電線と一緒に縛りつけた。これらの作業を大急ぎで片付けると、メガネは手袋を外して床に捨てた。
「今度は俺たちの番だ。天井裏に上がる。棚と机をここに運び出すぞ。」
 三人は黙々と働いた。やがて、なんとか屋根まで上れるほどに家具を積み上げると、一人ずつ上り始め、一番最後に屋根に到着したメガネが積み上がった家具を蹴り倒すと、恐ろしい音がして家具は倒れていった。

 一方、メガネ達が苦心惨憺している部屋の外。
 ちょうどその部屋の前を悠々と通り過ぎ、廊下の先を急いでいた見回りの一行は、ドガーン!という恐ろしい物音を聞いて皆一斉に後ろを振り返った。「あの部屋からだ!」という声と共に、廊下の先にある部屋へと走った。そして、先頭の男が取っ手に触れた瞬間、ジリッと火花が散った。「ヒィヤァッ!」男が大げさな身振りで床に倒れた。その後、三人が取っ手を捻ろうと挑戦し、電気ショックにあえなく撃沈した。そして、彼らはようやく道具を使ってそのドアを開けることを思いついた。
 サルからヒトへの大きな一歩である。

 ドン!
 下から豪快な音がして天井全体が揺さぶられた。
 小柄な三人が立って歩けるほど天井裏(そこまで広いともう天井裏という感じでもなかったが)は広く、音がしたのは、三人がその広い天井裏を並んで歩き始めて間もなくのことだった。

「メガネさん、あれなんだべ?」
 吉田が聞いた。
「あぁ、爆発したんだよ。あいつらようやく部屋の中に入れたのか。えらく遅かったな。さては仕組みがばれて空爆発させられたかな?」
 メガネの心配がまったくの杞憂であったことは言うまでもない。あの爆発で、一団はお星様の群れとなった。その群れの隣にいる星達こそいい迷惑だったろうが・・・。
「爆発?」
 田崎の声が吊り上った。
「そう、爆発。あのな、電球の中に入ってるガスっていうのは案外強力なヤツで、よく燃えるんだ。で、あのズボンの中はそのガスで一杯な上、ガラスの破片が入ってる。あいつらがドアを開けようとしてノブに触るとまず電気でしびれる。でも電灯を点けるような電気はそんなに強くはない。でもあいつらビビッてあのドアを荒々しく開けようとするだろ?蹴ったりしてね。そうするとあのズボンの中身が揺すぶられてさらにガスを出す。で、あいつらがドアを開けた瞬間、ズボンの口を結んでいる紐が引っ張られて結び目がほどける。結び目がほどかれるとズボンの口が開いて破片と一緒にガスが落ちてくる。ガラスの破片っていうのは電気を帯びた金属、この場合はドアの取っ手だ、とぶつかると火花を散らすんだ。火花はガスに引火して・・・な?それで爆発したのさ。」
 田崎、吉田は一言もない。

「すっげぇ~!」
「すごいべ!メガネさん、すごいべぇ!なしてそんな詳しいですか?」
 二人の言葉にメガネが本気で照れている。

「うーん。実は俺もなぜだか知らないんだよ。俺、そもそも自分が誰なのかさえ知らんし・・・」
 田崎と吉田がお互い、ちょっと気まずそうに顔を見合わせたが、当のメガネは一向に気にしてないらしかった。
「あ!」
 田崎は突然叫ぶと、さっき上ってきた屋根裏の入り口へと、猛然とダッシュで戻って行った。そしてその懐に何かを大事そうに抱え、小走りで彼は帰ってきた。
「どうし・・・」
 メガネが言いかけてハッと息を飲んだ。田崎の懐からギメガの目だけが見える。血走ったその目はカッと見開かれ、置き去りにされた憎悪に燃えて三人を睨みつけていた。

(第十一話に続く) 


第十一話 ゴミの向こう側

 無数のゴミ袋で満ちている部屋だった。メガネが最初に落ちてきた部屋でもあった。

 三人と一冊はもうこの殺人的な臭いにも慣れ、それほど気にはならなくなっていたのだが、それでも部屋の臭いは彼らの鼻を多少ひくつかせた。
あらためてこの部屋を見ると、どうも本来はゴミ置き場なんかではなく、ただの普通の部屋だったようだ。一体何を考えて地下全てをゴミ捨て場にしようと思ったのか理解に苦しむ。

メガネ達一行はゴミの山をかき分けて進んだ。ゴミの海は泳いでも泳いでも先へ進まず、汚なさはなお増すばかり。しばらく歩き、メガネが立ち止まった。彼の足元には彼をヘリコプターからここへといざなってくれた懐かしのハンガーボールが落ちている。

「ここだ。」
 メガネが立ち止まった。
「上を見ろ。」
 全員が上を向いた。ゴミしか見えない。
「ここを登って上に行く。」
「えぇぇ!?」
 二人、プラス一冊が同時に言った。

「おめぇーはかんけーねぇべ!」
 吉田が、田崎の抱えているギメガに向って言った。
「雰囲気よ、ふ・ん・い・き。」
 ギメガが吉田を見もせずに言った。
「多分、・・・この上だ。」
 メガネは言い放ち、一人で上り始めた。
「多分って・・・」
 しょうがなく二人がメガネに続いた。

「ひぃ、ひぃ、ひぃ・・・。ま、まだだべか?メガネさん!」
「も、もう少し・・・だ、と思う。はぁ、はぁ、はぁ」
 ようやくゴミの山の頂上に辿り着いたとき、三人はそこがゴミの上だということも忘れてごろりと横になった。
「うぅ、ぐぉほぉん、ぐぉほぉん!も、もう駄目だ・・・」
 田崎が酸素をかき集めながら言った。

 三人はすぐには動けず、しばらく横になっていた。

「ほ、ほら。あ、あれだ。はぁはぁはぁ。あの穴から俺は落ちてきたんだ。はぁはぁはぁ。」
 メガネが天井を指差した。なるほど、メガネの指す先には、二メートル四方ほどの四角い穴が開いている。
「あ、あんだら所に、はぁはぁはぁ、あ、穴、はぁはぁ、穴なんて開いていたっぺなぁ~、はぁはぁはぁ。」
「お、俺も、し、知らなかったよ。ふぅ、ふぅ、ふぅ。でもなんで、ふぅふぅ、部屋の天井に、ふぅふぅ、開いてんだろ?」
 疑問は尽きない。
 ようやく三人の息が収まってきた頃、メガネが起き上がった。

「よし。じゃ、あの穴から脱出する。」
「どうやってあの穴さいぐだ?あそこまでかなりあるべぇ。」
 確かに三人の居る場所からその穴までは三メートルくらいはありそうだった。
 メガネは突然、近くにあるゴミを手に取ると、その口を開け、ゴミを下に落とした。
「こうやってビニール袋をなるべくたくさん集めてくれ。」
「はぁ・・・」
 『動きたくない』オーラが平等に三人を包んでいた。それでも三人は体に鞭打って黙々と作業を続け、やがて、四、五十枚の袋が集まった。

「さて。」
 メガネは集まった袋の中から四枚を手に取ると、その隅をそれぞれ結んで大きな四角形を作った。
「こういう四角をあるだけの袋で作ってくれ。」
 また三人の間に沈黙が落ちた。
 ぐわぁーっ、ぐわぁーっ!
 突然の音に三人の体がビクッと震えた。
「な、なんだべ?」
 周りを見回した。カラス?
 音の主はすぐ判明した。ギメガだ。彼女(彼?)は飽きて寝てしまったらしい。それにしても、イビキは体を表す、というのは本当だ。
 三人は数秒、気持ち悪いもの見たさでギメガの安らかな寝顔を見ていたが、やがて黙々と作業を続け始めた。

「これでよし、と。」
 広げると一メートル×四メートルほどの大きさの長方形が出来上がった。
「これでこいつを・・・」
 メガネがさっき見つけたハンガーボールを手に持った。
「上に放り投げる。」
 二人は怪訝そうな顔をした。
「どうやってこれで上に?」
 田崎がビニールを指しながら言った。
「パチンコの要領だよ。」
「パチンコ?」
「ま、いい。今から説明するからその通りやってくれ。」

 メガネはゴミの山を馴らしてなるべく平らにすると、今度は幾つかのゴミで二つの向かい合った壁を作り、ビニールで作ったさっきの長方形を両方の壁にかぶせた。そして、長方形のビニールのちょうど半分あたりの部分にハンガーボールを乗せると、ボールの重みで長方形が沈み込み、真横からみるとまるでMの字のように見えた。

「あ、そうそう。ついでに・・・」
 メガネはギメガを手に取ると、ハンガーボールに彼(彼女?)をくくりつけた。ギメガはそれでもぐっすりと眠っている。
「で、お前達はこのビニールの両端を持って、俺が合図したら思いっきり引っ張ってくれ。」
「そういう訳か!」
 田崎が感心したように頷き、それを横目で見た吉田が慌てて頷いた。そりゃもう、彼は絶対に理解してない。
「じゃ、いいか?せぇ~のっ!」
 二人は手にしたビニールを思いっきり引っ張った。

 バンッ!

 ハンガーボールが、まるで弾丸のように飛び上がった。『ひぃやぁああああ~!』年取った蝦蟇カエルのような声が上空から聞こえてきた。
「何か聞こえたか?」
「いんや。なんにも。」
 しかし、ボールはすぐに落ちてきた。
「もうちょっとこっちの高さが足りんな。」
 メガネはゴミで作った壁をさらに高くした。

「ちょ、ちょっとぉ!あんた達!」
「いくぞぉ、せぇ~のっ!」
「ひぃやぁあああああああぁぁぁぁ~!」
 ボールは恐ろしい勢いで穴めがけて飛んでいった。ハンガーボールに繋がれた紐はどんどん無くなっていき、もしものためにビニールで作っておいた紐も半分ほど無くなりかけた頃、ようやくその動きが止まった。メガネが紐を引っ張ってみた。びくともしない。それはボールが(ギメガが)無事に、外に出たことを示している、はずだ。

「やった~!」
 田崎と吉田が手を取り合った。
「よし、じゃ、俺から行く。」
 メガネがスルスルと紐を上っていった。続いて田崎が、最後に吉田が上った。
「あぁ~!」
 外の空気は、ただ外の空気というだけで、まるでシュークリームのように甘かった。三人は何度も深呼吸を繰り返した。
「助かったぁ~!」
「よし、さっさと行こう。」
 メガネは白目を見せて気絶しているギメガをボールからはずしながら言った時、

 グワン グワン グワン!
 ワン  グワン!

狂ったような犬の鳴き声がすごい早さで近づいてきた。
「急げ!」
 メガネが叫んだ。
 煙突から飛び降りた三人は、必死で芝生の庭を走り抜け、塀にしがみ付いた。

 グワン ワン ワン!
 グワン グワン!
 二匹、すぐそこまで迫ってきている。
 メガネが塀の上に何とか上体を持ち上げた時だった。
「いてぇっ!」
 まだ塀にしがみ付いたままだった田崎が叫んだ。

 先に追いついた方の犬が田崎の左足の靴に噛みつき、荒々しく頭を振りたてていたのだった。もう一匹の犬もすぐそこに迫り、歯を剥き出し、噛み付く用意を整えながら走りよってくる。ようやく塀にまたがったメガネが、ポケットから何やら小さな物を取り出し、田崎の靴を噛んでいる犬に向って投げつけた。

 キャン! 

 犬が口を外した瞬間、吉田が田崎の体を引き上げた。
「まぁてぇるぅ?まぁてぇるぅって言うかぁ?」
 巨大な体からは想像も出来ない速さでメルトモが走ってきた。
 メルトモの後ろには、筋肉マン約数十人が地響きをあげて(実際には聞こえてないが)走って来る。
「ひぃえぇぇ~」
 吉田が観念したように叫んだときだった。

「おおいぃ!乗ぉれぇぇぇ~いぃ!」
 白いカローラツーがすごいスピードで角を曲がって来た。
「アソウさんだ!おい、お前たち!あの車に乗るぞ!」
 メガネが、吉田が、田崎が、次々と塀から飛び降りると、彼らの前で急停車した車に乗り込んだ。

「こぉらぁぁあぁ!むぅわたぁんかぁ!」
 塀の上に登った、ひと際元気な男が叫んだ。
「須永さぁん!さぁよなぁらぁ~!」
 先輩に向って吉田が陽気に手を振った。
 みんなが乗り込んだのを確認したアソウがアクセルを目一杯踏み込んだ。白いマークツーはタイヤを軋らせながら発車すると、通りを抜け、建物の角を曲がって消えて行った。
「メぇクロ様にぃ、おぉこられちゃったらぁ、困るぅ・・・か?」
 メルトモが悲しそうに言った。


(第十二話に続く)


― 第十二話 三次元記憶装置 ―

「ま、よく生きて帰って来れたの。」
 アソウが鼻毛を抜きながら言った。
 メガネがちょうど、ビルの屋上→ギメガ、までの一連の出来事の説明を終えたところだった。

「まぁ、そこの二人はどーでもええとして、問題はこの本やな。」
『まあまあ・・・』
 猛り立つ吉田を田崎が目で抑えた。

 アソウはテーブルの上に置かれたギメガにまた目をやった。
「『これがメクロの両親です』って言われてもやなぁ・・・、ただの、カマ表紙の本やないかい。」
 アソウが本を叩いた。
「あぁあ~、叩いちゃった、言っちゃった・・・」
 田崎が言った。
「なんやなんや!このワシにつっこみ指導かいな?」
「いや、起きると・・・」

「今、叩いたのあんた?」

 ギメガが田崎に向かって静かに聞いた。
 目が据わっている。
「ち、違う!この人!」
 田崎はまっすぐアソウを指差した。
 アソウの目が飛び出さんばかりに見開いている。アソウの隣に座るミハダの目もまぁ、アソウと同じようなリアクションだ。

「ふぅっ・・・」
 ギメガが一瞬溜まり、始まった。
「こらっ、デブ!本だと思ってナメてると来世まで後悔させるわよ!一寸どころじゃなく、二分刻みで煮込んで汁るわよっ!このトントンチキッ!だいたい、なに、それ?髪?生まれたての子供かと思ったわよ!あ、くっさぁ~いっ!なに、それ?息?死醜病?はやく肉屋に帰れっ!この、ミリグラムトン!」

 ・・・最後はたぶん、『百グラムでは値のつけられようが無いぐらいに安い豚肉野郎』ってことなんだと思う。けっこうカッコイイ名前だ。

 アソウの目には涙が溜まってる。
「何か言ったらどうなの!このスットコドッコイ!ヤカンでヘソ沸くわ、ホント!」
「あ、あの・・・。す、すんませんが、お宅さん、どちらさんで・・・?」
「はぁ~~~あああああぁ?」
 ギメガの顔が恐ろしく歪んだ。

「おい、こらっ!この薄らゲハッ!あああ?なんだって?人のこと殴っといて『お宅さん、どちらさんで?』だぁ~っ?いや、ほんと、すごいわ!その頭ン中、なに入ってんの?タンポポ?こわいわぁ~!あんた、何様?神様?願い事叶えてあげよう、みたいな?ふざけんなっ!てめぇのハゲから直せ!このハゲ!」
 ・・・ちなみにアソウはハゲてはいない。

「あのさぁ!そこのガキ(メガネのことらしい)にも言ったんだけどさぁ。なに?はやってんの、それ?いつから『自己紹介は他人から』ってことになってんの?ねえ?殺すわよ。私だってね、好きでこんな事言ってんぢゃないわけ、分かる?だいたいねぇ・・・」
「あ、あの、ワシ、ほんま、あやまります!ほんまにすいまへんでしたっ!観念したってくださいっ!ワ、ワシ、アソウ言います。よろしゅう、お見知りおきのほど・・・」

「あぁんたの名前なんてどーでもいいのよ、このポーク!私が喋ってる最中に口出すなんて・・・。ほぉんと何年ぶりかしら、こんな、く・つ・じょ・く!ほんと、あんたどこの王様?養豚国?私の話を止めようなんて百億万光年早いんだよっ!この家畜!」

 ああ、アソウ君、泣いちゃった・・・

「私、ミハダと申します。ところでお名前伺ってもよろしいでしょうか?」
 涙に暮れるアソウの横に立つミハダが申し上げた。
「は?『ミハダと申しますぅ』ってあんた・・・。はぁ~い、起きてるぅ~?今、私、このスットコドッコイと話してるの、見えない?オバさ・・・ぐぶっ!」
 ミハダの足がギメガを踏みつけた。

「・・・生まれ変わっても本かしら。」
 ミハダは足をギリギリ動かしながら、優しく言った。

「ず・・ずみまぜんでした・・・」

 ギメガが、・・・謝った。

『アレが・・・謝った・・・』
 四人の男の、声にならない声が流れた。

「で、お名前は?」
 ミハダが足をどかして聞いた。天使のように微笑んでいる。
「・・・えへん!おい、野豚!ま、今日のところはこれくらいで勘弁しておいてやる。あたしはギメガ。メクロの両親よ。まぁ、正確には両親『だった』存在、だけどね。」
 ギメガが上目遣いで皆を見ながら話している。

「私達はねぇ・・・、三次元型記憶保存装置よ。」
 ちらりと視線をミハダに向け、ギメガはすぐにそれを逸らした。
「さ、三次元型記憶保存装置!・・・名前、長いわっ!・・・ま、それはいいとして、すると、アイツ、完成させよったんか・・・。あ!あああ!思い出したった!アイツ、あのパーチーの時、泥酔したワシの部屋からあのメモをパクったんやっ!くうぅっ!思い出すとなおさらハラワタ煮えくり返るわ!」
 アソウの顔が怒りで赤黒くなり、なおさらの醜さを演出していた。
 しかし、アソウはふと我に返り、不思議そうな顔で言った。
「・・・う~ん、しかし、ワシのメモはこんな形態をとっとらんかったはずや。どうしてこんな形にしたんや、アイツ。かさばるやないかい・・・」

「あ、あの、アソウさん。どうでもいいんですけど、その三次元何とかっての、知ってるんですか?」
 メガネがアソウに聞いた。。
「当たり前やないかいっ!もともとワシの・・・、まぁ、それは言い過ぎやが、ワシとメクロの二人で発明したみたいなもんや。別個にな。しっかし・・・」
 アソウがマジマジとギメガを見た。
「ほんまに、何でアイツは本形なんてかさばる形態を選んだんや?けったいなヤツやで。ワシのメモからいったら体ん中に入れられたはずやのに・・・」
「それで、三次元記憶装置って一体何なのですか?」
 ミハダがアソウに尋ねた。

「あれは卒業前やった。実は、ワシとメクロが一日だけ仲の良かった、というか、気の合った日があったんや。ちょうど、エッセンスはんに男が出来たっちゅう噂の最終的な確認の取れた日でな・・・。エッセンスはん家のお風呂から流れてきた毛髪は定期的にDNA透析してたんやが、それに、・・・男モンが混ざっとった。」
 そう話す、未だに悔しそうな外道の目が遠くを見つめている。

「ワシが学校の屋上で沈んどると、メクロが同じように沈んで現れたんや。いつもならどっちかが居なくなるっちゅうのがワシらの暗黙の了解やったんやが、その時だけはワシら、隣り合って黙って座っててな。三十分くらいの青春の苦い沈黙や。その時にメクロと話してたんが、新しい記憶保存装置についてやった・・・

 三次元記憶保存装置ってのはその名の通り、記憶の保存装置や。言うなれば、コンピューターのハードドライブみたいなもんなんやが、その性能は、コンピューターの何万倍、いや、おそらくは何億倍もいいヤツや。なんせ当時ワシらは膨大な量のエッセンスはんに関する情報を持っておったんでなぁ。その量があまりにすごすぎて、学校にあったコンピューターくらいのハードじゃもたへんかったんや。」

「なんだか、勇ましい敗北者の話って感じっすね。」
 吉田がぼそりとつぶやいた。

「やかましいっ!・・・で、まぁ、ワシらには大量の情報を一瞬で操れるドライブが必要やった。何でメクロがこんなかさばる本の形を最終的にとったのかは知らんが、当時のワシらが注目してたんが、生物の情報処理システムや。コンピュータの情報処理法は基本、『0』と『1』や。そんな単純なシステムではどうしても扱える情報の量は限られてまう。膨大な情報を処理するとき、どうしても分割して保存しなければならないことになる。それじゃダメなんや!情報の〝熱〟がない!ワシらの集めた情報はただの情報やないっ!それは、いわば、『エッセンスはん』そのひと本人なんや!熱いんやっ!」
アソウが額の汗を拭った。

「例えるとやな、ようやく手に入った、脱がされたばかりのパンティーを、『0』『1』コンピュータに入れようとする。するとやな、せっかくのパンティーはただの冷たい、〝情報〟になってまう。情報の一面しか入りきらんからな。色とか材質とか・・・な。せっかくのそのホカホカのパンティーが、それではあまりにかわいそうやった!消えていくその温もりがあまりにも無念やった!」
熱弁を振るえば振るうほど他人が引いてしまう。特殊な趣味を持つというのは茨の道なのだ。

「ワシらはそれが悲しゅうて悲しゅうて!お前らにこの悔しさが分かるかっ!」
「分かりません。」
 ミハダが冷たく言い放った。

「・・・」
 アソウの熱は一挙に冷やされたようだ。

「そ、そこでワシらはお互いに、二次元ではない、三次元の情報処理装置を開発しようとしておったのだ。で、どっちの完成もみんうちに卒業や。で、ワシは世界公務員の一員になってから装置の、まだアイディアだけだったがな、完成させた。で、それを書いたメモをメクロのヤツめに盗まれた、ということや。まぁ、ワシの書いたメモとはかなり違う形にはなっとるが・・・。」
 アソウがギメガに触れながら言った。

「さわるんぢゃないわよ、ウジムシッ!」
 アソウの手がビクッとギメガから離れた。

「それにしても・・・。機械に両親の記憶を植え付けてしまうとは・・・。ギメガはん、一体何が起こったんでっか?」

「ま、親の愛とでも言うのかしら。かわいい息子のために・・・ね。」

「実験体にされたわけね。」
 ミハダさん、ギメガの心を躊躇無く一刀両断である。ギメガがミハダを睨んだ。が、目を合わさず。

「・・・ま、それで、ここに記憶が移されちゃうと本体の方は一挙に老けていく、というわけ。」
「一挙にって、どのくらいの速さで老化は進むんでっか?」

「そうね・・・」
 ギメガが上目づかいで考えている。オトコオンナのこの不気味な顔で考え事をされるとどうしても、善事を考えているように見えないから不思議である。

「・・・個人差も大きいみたいだけど、そぉねぇ、平均的には、一年に対して、二、三年くらいは老化が進むようね。」
「二、三倍やがな。そりゃまたひどい副作用やな。しっかし、・・・」
 アソウとミハダがメガネを見た。

「なんでこいつは若返ってんねん、ギメガはん?」
「そんなこと知らないわよ。言ったでしょ、個人差が大きいって。」
「いや、いくら個人差が大きい言うても、逆流もありって、・・・なぁ。」
 アソウはそう言うと、ハッと思い出したようにメガネを向いた。
「そういえば、お前、メクロの地下で婆さんを見たって言ってたな?」
「はい。」
 メガネがアソウを見た。しばらく考えにふけっていたアソウがようやく口を開いた。
「・・・ま、十中八九、それはエッセンスはんやな。・・・言わば、お前の母親や。」
「はぁ?」
 メガネの脳裏にあの老婆の姿が映った。

「アレが・・・ですか?あり得ん!」
「あぁ、そういうことね。それにしてもこのガキがあのクソ女の息子だったとはねぇ。」
 ギメガが言った。

「あり得ん!」
 『恵美子さん、お夕食はまだかねぇ?』シワ枯れたあの声がメガネの頭の中で飛び交った。
「あり得ん!」
 背筋の寒気を取り払うように、メガネがもう一度叫ぶように言った。

「ま、お前の記憶もここに取られとるんや。覚えてないのもしゃあないやろ。」
「ちょっとおかしくありません?」
 ミハダが言った。

「ギメガさんの中には少なくともメガネ君のお母さんであるエッセンスさんの記憶、その夫である尾道さんの記憶、そして実験台に使われたメクロの両親の記憶、・・・」
「実験台ぢゃないわよ!『愛』よ!『愛』!」
 叫ぶギメガを無視して、ミハダは言った。
「いわば色々な記憶がこの中に入り混じっているわけでしょう?そうすると、エッセンスさん、もしくは尾道さんの記憶がここにいるメガネ君を思い出さなかったのはおかしいんじゃありません?」

「確かにそうやな。」
「このくされぺちゃぱいが・・・それはな、・・・」
 ドガッ!「ぐべっ!」ギメガの鼻の頭にミハダのカカトが落とされた。
「な、何しやがんだよ!この・・・」
「この?」
 微笑んだミハダが静かに尋ねた。

「ふ、ふんっ!」
 またギメガの負けだ。
「私の中に収められた個人の記憶って、それぞれ一ページずつに割り当てられているのよ。一つのページは他のページのことは知らないわ。で、今開かれているページ、要はワタシ達ね、は、メクロの開けた最後のページ、というわけ。」
「あれ?一人で一ページなんですよねぇ?じゃ、ギメガさん、あなた達、は?」
 メガネがそう言ってギメガを見やった。
「私たちはね・・・フフフ。ちょっと照れくさいけど、」
 ギメガの目が潤み、その視線がドコカを見ていた。そしてその声が一段と高まった。

「愛の集合体よ!夫婦というのはどこまでも永遠の愛の集合体な・・・ブッ!」
 ミハダのネリチャギがまた落ちた。

「な、何すんのよ!しんじらんないっ!鼻落ちちゃうじゃない!」
「落ちればいいのよ、そんな鼻・・・」
 ミハダがギメガを見下ろして言った。

「まぁ、まぁ、ミハダはんって・・・。で、今、ギメガはんはメクロの両親のページが開いとるっちゅうわけですな。他のページは開かれへんのですか?」
「無理。ページをめくることが出来るのは基本、メクロだけよ。私にだってどうすることもできないわ。」
「ということは、や。これから出来ること、一つしかあらへんやん。」
「そうですわね。」
 ミハダが言った。
「・・・もう一度あの屋敷ってわけか。」
 メガネがため息をついた。

田崎と吉田が泣きそうな顔を見合わせている。
「ま、今日はもう遅い。『たなぼた刑事 ~欲情編~』見なあかん。明日にしょ、明日に。」
 アソウが立ち上がりながらそう言うと、田崎と吉田の方を向いた。
「お前らのホテルはあそこや。」
 アソウの指差す先に半壊の台所があった。

「・・・」
 田崎と吉田がまた泣きそうな顔をした。


 まるで水の中を歩いているようなもどかしさ。
 様々な意味のない景色の瞬き・・・。
 自分が夢を見ているということは分かっていた。
 そして夢の中でふと気づくと、メガネはどこか暗い部屋に横たわっていた。
 いや、その部屋が暗いのではなくて、自分が目をつむっているからだということも、メガネは知っていた。

 『・・・ちゃん、・・ちゃん。そろそろ起きなさい。』暖かい声が聞こえた。『もうちょっとだけ・・・』メガネは自分がそう呟くのを聞いた。『たーちゃん、おかぁさん、もう・・・』(・・・ん?どこへ行くの?・・・あぁ、これは夢なんかじゃない!おかぁさんがどこかへ行ってしまう・・・)体を動かそうとした。必死で目を覚まそうとした。しかし目が開かない。(おかぁさん、待って!ちょっと待って!すぐ起きるから!)あまりに懸命に体を動かそうとするものだから体は火照り、汗が出てきた。でも、それでも体は動かない。もどかしくてもどかしくて、涙が出てきた・・・

(かぁ・・・)「・・・さんっ!」
 がばっとメガネは起き上がった。やっぱり事務所の暗い居間だった。手の平で顔を拭うと汗とそして涙がへばりついてきた。ホッとため息をついた。(母親、だったのか今のが?)分からなかった。自分の過去にそれほどの興味はなかった。大体、無いものをどう欲しがれというのか?しかしこの、自分が潰れてしまいそうな不思議な気持ちはなんだ?このどうしようもない想いは?焼け付くような痛みは?

 台所からは田崎達の鼾が地鳴りのように響いてくる。水でも飲もうと思い、メガネは立ち上がろうとして、それに気づいた。
 下半身が、濡れている。
 まるで水を浴びたように濡れている。
 「ま、まさか!」メガネはガバッと起き上がると、布団をめくった。そこに、一枚の見事な世界地図が描かれていた。

 メガネはフッと笑い、片手で髪をかき上げながらやさしく問うた。

 カサベラ?寝小便する男は・・・嫌いかい?
 明日など来なければ良い、と思った。


(第十三話に続く)


― 第十三話 再会 ―

― では、今日の五つ星の星座わぁ~!・・・CMの後でっ! ― 

 朝からハイテンションなそのアナウンサーの疲れ切ったその満面の笑みが痛々しかった。

 『ふぅ~』ミハダの形良い唇から静かに、緊張から開放されたようなため息が漏れるのをメガネは聴き逃さなかった。
「そういえばミハダさんって、占い、信じなさそうですよねぇ。」
 吉田がパンを頬張りながら聞いた。それを聞いたミハダが、キット吉田を向いて言った。
「当たり前でしょ、あんなもの。信じさせようとする方も、信じる方も、救い難いほどの低能低俗だわ。」
 ミハダが立ち上がって台所に行きながら言った。
 しかし、CMが終わった瞬間、ミハダはテレビの前に座り、何気ない振りを装いながらもその視線は熱く画面に向けられている。
 ギメガが、そんな彼女に蔑んだような視線を向けている。

― はぁいっ!今日の五つ星運勢さんわぁっ!!ダラララララ~ ―

 目に隈の浮いたアナウンサーが痛々しいまでにはしゃいでいる。
 ミハダの、サラダをすくう手が一瞬、完全に止まった。

― ララララ~ タラ~ン!しし座のあなたっ! ―

 ミハダの顔が少し歪んだ。
 メガネには、それがミハダの喜びなのか失望なのか分からなかった。

― そしてぇっ!今日のダメダメ星人さんわぁっ!おうし座のあ・な・たっ! ―

「ミハダさん、お誕生日はいつなんですか?」
 メガネが聞いた。
「黙って食べなさい。オシメ買ってあげないわよ。」
 強烈な攻撃だった。メガネは、ミハダがおうし座だったことを知った。

「なぁっはっはっはぁ~!そらちょっとひどいわ、ミハダ君!なんぼなんでも、なぁ、メガネ?君も言うたれや、『オマルにして下さい!』って。」
「ひぃやぁっはぁっはぁっはぁ~!」
 吉田が鼻からもスープを噴き出しながら狂い笑いしている。
「しっかしね、メガネさん。俺も実は小便たれって有名だったんっすよ・・・」
 田崎がメガネを気の毒そうに見ながらそう言った。
「・・・しゃんしゃいまででちゅけど」
 グワッハッハッハッハ 
    ヒイヤアッハッハッハ
        ホホホホホホ
             プップププププ

 笑い声が部屋中に響いた。
 平和で明るい光景だ。
 殺意に体を震わせているメガネを除いては・・・。

― ではニュースです。メガフォルテを名乗る団体の首相暗殺予告がいよいよ明日に迫り、本日、俗に『デスクジ』と呼ばれるクジの最終発売日を迎えました。

アナウンサー:
「加藤先生はもうデスクジは買われましたか?」

  経済学者:
「いや~、私は買ってないんですけども、ワイフがこの前買ってきましてですね。」

アナウンサー:
「さすが経済学者の奥様!すばやいですねぇ!」

  経済学者:
「はははは。」

アナウンサー:
「それで、先生の奥様はどちらのクジをご購入なさったのでしょうか?」

  経済学者:
「いやー、実際、これは迷いましたよぉーっ!
 なんせ二択でしょ?
 大体、メガフォルテの実力が分からない。
 まぁその部分は皆、共通したハンデなんですがねぇ。
 ま、そういうわけでですね、店頭で一時間ほど悩み・・・
 あ・・・、まぁ、悩んだらしいですよ、ワイフが。
 で、四十分ほども悩んだ末にですね、とうとう買ったんですよぉ、黒チケ!
 ・・・ワイフが、ですけどもね。」

アナウンサー:
「そうでしたかぁ。
 黒ですかぁ。
 (なぜかちょっと勝ち誇ったような顔をしている)
 では先生は首相は暗殺される、と?」

  経済学者:
 「い、いや、私ではなくワイフが、ですけどもね。
  ま、実際私も、もし買うとしたら黒でしょうね。
  まぁ、例え当たったとしてもこの人気では大した配当とはならないんですけどねぇ。
  まぁ、銀行に金を眠らせているよりはまだまし、とは言えるでしょうねぇ。」

アナウンサー:
(画面に向かい笑顔で)
 「さて、皆さんはどちらのクジをお買いになられましたでしょうか?
  昨今のこの不景気、久しぶりに国民が一丸となって参加できるこの参加型のイベント!
  結果が待ち遠しい限りです!
  黒も白も、どちらも当たるといいですね!
  では、また明日、この時間にお会いしましょう!
  それでは皆さま、さようならぁ~!」

 アソウがテレビを消してにやりと笑った。
「ワシも買ったのは黒やねん。」
 殺される首相を守る側である者のセリフではなかった。

「本部からの連絡が届いてました。」
 トイレから戻ったミハダが言った。
「ほうか・・・、ん?どこにや?」
「トイレの隅に張られた、クモの巣自体がそうでした。」
「またトイレかいな。しかもクモの巣ぅ?なんやそれ。」
 アソウは立ち上がるとトイレに向かった。

『おぉ~、ホンマや!これ、ある意味すごいで。おい、みんな、ちょっと来てみぃ!』

 皆、連れ立ってドヤドヤとトイレにやって来た。
「ちょっと、吉田ぁ!あたしを運びなさいよぉ!」
 ギメガが叫んでいる。
 東北の堕星、吉田。今では〝足〟にまで昇進である、本の。
 
「確かに・・・」
 田崎が感心したようにため息をついた。
「で、なんて書いてんのよ?」
 ギメガが言った。

 アソウがトイレに屈みこんで指令を読み出した。
「え~っとな、『拝啓 アソウ様 本日はお日柄もよく、絶好の夏晴れ。例年通りの海開きが待ち遠しいものです』・・・」
「海開き?」
 メガネが言った。

「そうや。イタリアの本部で毎年、ビーチパーティーが開かれるんや。飲み放題、食べ放題、ビンゴゲーム、スイカ割り、そしてダンスパーティー、何でもありの無礼講や。おもろいでぇ~」

「支部長、続きを。」
 ミハダがアソウを促した。
「あぁ、そや、そや。え~っと、『今年は日本支部も創立七十七年目を迎え、』七十七周年ってなんやねん!間違いにもほどがあるわ!大体、世界公務員の発足自体、まだ四十年くらいしか経っとらんやないか!・・・まぁ、ええわ。で、と『益々のご発展、ご精進、本部一同お祈り申し上げております。今年は例年にもなく・・・』っておい、長い挨拶やなぁ。ちょっと省くわ・・・。え~とっ。ここからかな?『今回のビーチパーティーには是非ご家族ご友人お誘い合わせの上・・・』、まだ続いとるで。飛ばして、飛ばして、と。・・・ん?『では、本件に入・・・』・・・ここで切れとる。」

「はぁ?」
 ギメガが呆れた声を出した。
「あんた達、どれだけビーチパーティーを楽しみにしてんのよ。」

「ほなこという言うてもなぁ。あれ、ホンマにすごいねんで。仮想大会ってあるやんか?」

 って聞かれても・・・
「知らん。」
 当然ギメガがそう答えた。

「でな、ワシ三年連続、『かぐや姫で賞』やねん。」
「なんだべ?その賞?」
「最高賞やないかい!」
「いや、そんなこと言われても・・・。」

「かぐや姫が最高ってことは、その下にはどんな賞があるんですか?」
「『かぐや』の下は当然、『白雪』や。次が『おやゆび』。ブービー賞は『スプーンおばさん』やねん。」
「最後、明らかに『おばさん』ってついてますよね?」

「ええねん。〝元娘〟や〝元〟。それよりも、や。指令がここで終わりなわけない。本部のことや、きっと連続して通信文送っとるはずやで。お前ら探せ、探せ!」
「探せったって、どこを探せばいいんだべか?」
 吉田がケツを掻きながらだるそうに言った。

「ちょっとあんた!どこ触ってんのよっ!きったない!これから、ぜぇったいに私に触んないでよね!触ったらあんた、ミンチにするわよ!」
 ギメガが〝足〟に言った。
「わ、分かってるべ!うっせぇなぁ。」
「あんな、本部の連中はお茶目なんや。ちょっとしたトコにな、例えばな、こ、こんなトォ~イレの、ういしょっと、ドアの蝶番とか・・・あっ、・・・あった。ん?こりゃ去年の指令やないかい!」

「あんたたち組織、公務員じゃなかったら発足した瞬間に潰れてるわよ・・・」
 ギメガがつぶやいた。
「同感だわ。」
 ミハダが無表情に言った。

「よっしゃ。とりあえず、メガネは玄関から行け。ワシはベッドルーム、ミハダ君は居間、そしてゴミ二人は台所や。」
「ゴミ・・・」
 田崎が虚ろに繰り返した。

 一時間、そして二時間が経った。
 指令は至る所から出てきた。

 靴箱の中の棚の裏側、ベッドルームの窓の外枠一面、冷凍室にある製造年月日の不明なアイスクリームの中(これは吉田が隠れて食べようとして偶然発見したものだったが、半分は彼の腹の中に入ってしまっていたため、指令自体の趣旨は結局不明だった)、台所の食器棚の割れた食器の裏側、などなどなどなど。
 しかし、これらの指令はまだ比較的、目に付くレベルだと言えた。
 ある指令など、扇風機の説明書の中の『故障かな、と思ったら』という見出しの指令になっていたりもした。

 まさかこんなところに、という意表を突くレベルが、ムダなレベルが、・・・高い。

 そう、指令は探せば探すほど出てきた。
 〝無数〟といってもいい。
 皆、最初のうちこそ宝探しをしているような気になり、指令を見つけ出すたびに喜びの声を上げていたものだが、時間が経つごとに徐々にその歓声は小さくなっていき、しまいには例え指令を見つけても無言でそれを居間のテーブルの上に置くか、面倒な場所にあるような指令なら無視した。

「はぁ~、もうだめやぁ~!」
 アソウの丸々とした上半身が、まるで水を浴びたように汗でぐっしょり濡れていた。
「きりが無いっすよぉ!」
 アソウの側に田崎、その隣に吉田が座り込んだ。
「休まないでくださいよぉ!時間ないですよ!」
 メガネが言った。

『あいつ、何であんな張り切っとるんや?』
 アソウがメガネを親指で指しながら田崎達に囁いた。
『やっぱりあの年で世界地図描いた男は違いますね。・・・まだ筆も下ろしてないのに。』
 田崎が囁いた。
『くぅっくっくっくっ!お前、なかなかウマいやないかい。』

「聞こえるような陰口やめてください!」
 メガネが言った。

「うぐう~っん・・・いや、それはまだしょっぱいって・・」
 グースカ寝ていたギメガがゴニョゴニョ言いながら、テーブルの上で寝返った。

「なんの夢見とるんや、アイ・・・あの方。」
 アソウがそう言ったとき、その背中を不機嫌に見たメガネが素っ頓狂な声を出した。
「あ~!ありました!」
「?」
「あ、ホントだ。」
「一体、どうやったんだべか?」
 みんなは集まると、アソウの背中を見やった。

「おい、なんや、なんや?」
「アソウさんの背中に指令が書かれてるんですよ。」
 メガネが言った。
「何やとぉ?」
 アソウは叫ぶとTシャツを脱いだ。そして、広げた自分のTシャツを信じられないような顔で眺めた。
「そんなバカな!ワシ、一昨日からこのTシャツやで!」
 それを聞いた瞬間、ミハダが二歩、アソウから離れた。

「一体どうやったんや?ま、ええわ。とにかくよかったよかった。え~っとぉ、『・・・この度、ロス支部のベニがご結婚することになり・・・』まだ世間話続けとるでぇ。飛ばし、飛ばし、と。あ!『さて、メガフォルテに関する最重要情報を今回盗まれた、ということはひどく残念なことであり、貴君の不注意、つくづく遺憾に思われます。これを機会に是非、情報の重要性とその保持の方法について・・・』やっぱばれとる・・・。ええええぇっ!な、なんやてぇ!『・・・なお、今回の不祥事に関しましては言語道断、世界公務員にあるまじき由々しき事態、いや、事件であり、今後他の公僕への戒めと致しまして、国家公務員日本支部支部長アソウ殿の給金を、今月分より五割引きとさせていただくことに決定致しましたことをここにお知らせいたします。なお、減棒の期間についてはまた後ほど指令にてお知らせする予定となっているような・・・』やてぇっ!そ、そりゃないでぇ!あんまりやぁ!」

 裸のアソウの上半身が興奮で赤くなり、怒りで湯気立っていた。
「抗議や!ワシ、本部に断固抗議すんねん!これは人権侵害や!セクハラや!マスコミにもチクッたる!赤十字もローソンも、全部味方にすんねん!」
 アソウが唾を吐き散らしながらわめいた。

「そんなことしたら支部長・・・」
 ミハダが静かに言った。
「・・・死にますよ。」

「ひっ!」
 アソウの赤かった顔がみるみる青くなっていった。
「ここにまだ続きがありますよ。」
 メガネがアソウのTシャツを、鉛筆で持ち上げながら言った。

「ん?『なお、この処分も以下の指令を滞りなく遂行することが出来るのであれば、減棒は無しとする・・・』。あぁ~!さっすがや!公務員万歳や!不景気に最強や!」
 アソウは喜んだ。
 喜びのあまり、彼は左脇に小さく書かれていた、以下の文には気づかなかった。
「『・・・なんて可能性は、夢にも思うまじよ(笑)』」
 
「で、指令は?」
 ミハダが聞いた。
「『①メゾフォルテ一味を一人残さず捕まえること。②ギメガの謎を探り、怪しいと思ったモノは全て保管しておくこと。以上』だそうや。」
 
 この連中、この指令にたどり着くまで3時間半はかかっている・・・


(第十四話へ続く)

― 第十四話 母 ―

 指令:①メゾフォルテ一味を一人残さず捕まえること。
    ②ギメガの謎を探り、
    ③怪しいと思ったモノは全て保管しておくこと。

「・・・変ですね。」
 指令の中身を聞いたミハダが首をかしげた。
「どうしたんや、ミハダ君?」

「だって、支部長でさえ昨日までアレのことはご存じなかったんですよね?」
 ミハダがギメガを顎で指した。
「あ、そういや、そうやな・・・。」
「私、支部長とメクロのあの気色悪い変態物話でまだ吐き気はするんですけど・・・」
「ほっとけっ!・・・でも、言われてみると確かにそうや。なんで本部は『ギメガ』のこと知っとるんやろう・・・」

「ギメガの‟謎”ってことは、本部はギメガが何かを知らない。でも、‟ギメガ”って名前に何らかの含みがあることは知ってるようですね。でも、それが具体的に何かまでは分からない。だから‟全て”を保管しろ、といったところかしら・・・。でも、誰が本部にそれを漏らしたのかしら?何のために?」

「いや、ちょっとまて。誰かが漏らした可能性もあるが、本部が独自に探り当てたって線も考えられるやないか。」
「あの本部にそれはありえません。」
 ミハダがアソウの言葉を瞬殺した。
「ミ、ミハダ君!本部のジョジョリーノはんはすごいんやで!あの人の隠し芸は半端やないっ!」
「はい。分かってます。私に『ちょんまげ』したのは彼ですから。」
「あ、あれは〝挨拶〟やっ!これから本番ってところやったのに、ミハダはんがあいつを半殺しにしてしもうたからやな!・・・」
 無意味なことにエキサイティングするアソウの声が高まったとき、当のギメガが目覚めた。

「ふうわぁああ!ああ、よく寝たわぁ!いやいや、快眠、かいみ・・・ん?」
 ギメガのちょうど真上にアソウの、豊満な生の乳房があった。ギメガの顔が歪んだ。
「・・・なに?これからみんなでハム作り?」
 殺気を感じたアソウが驚くべき早さでピョンッとうしろに飛びのいた。デブのくせに・・・。
「まぁ、とにかく。このボウフラ君達の居た場所にまた行くしかなさそうね。」
 ミハダがさりげなく田崎と吉田を傷つけた。


 太陽が輝いている。強烈なその光に照らされて、森の木々が濃い緑に萌え上がっている。
 その森の一本道を、白いカローラツーがのんびりと走っている。全開にした窓からは新鮮でひんやりとした森の空気が入り込んできて、肌に気持ちいい。

 道の両側には背の高い木々が立ち並び、緑のトンネルを成している。
 トンネルの緑の影によって、道は、しっとりと、湿り気を帯びているように見える。

 運転席のアソウは、贅肉を固めたようなその顔に木漏れ陽を受ける度、顔をしかめている。
助手席にはミハダ。
そのミハダの膝の上にはギメガが乗り、またぐっすりと眠っている。
後部席にはメガネ、田崎、吉田が、それぞれダラリと座り込んでいた。
減給のかかっているアソウ以外、どの顔にも、まるで緊張感が無い。

「なんだかぁ・・・、幸せっすねぇ・・・。」
 吉田が半分眠りに落ちながら言った。
「おう。・・・おまえ、・・・向こうに着いたら手ぇ、洗えよ・・・。」
 田崎が吉田に答えた。二人の会話が成立していない。

 メガネは流れていく外の緑を眺めていた。
 森の緑は滴るように濃い。しかし、メガネの眠そうな目は閉じられもせず、かといって積極的に景色に目を向けているわけでもない。
 彼の顔はいつも通りぼんやりとしたもので、ひとケタの足し算すらできそうにない。しかしその阿呆顔の彼の、滅多に作動しない脳細胞は今、わずかに動いてはいた。彼は、今朝見た夢のことを考えていた。

 夢の中、彼は何か柔らかいものに体中を包まれていた。それに包まれているせいで身動きが取れないのに、それが嫌じゃない。ぼんやりとした、懐かしい、皮膚の感触。この感触をずっと前に自分は感じていたような気がするけど、それがいつだったかは分からない。

「見つからんようにここからちょっと歩くで。」
 しばらく走ったのち、アソウが車を停め、エンジンを切った。
 エンジンの音が消えると同時に窓から、風の音、鳥の鳴き声、葉っぱの落ちる音、がどっと流れ込んでくる。
「おい・・・」
 アソウが振り向いた。

 一人残らず、涎を垂らして爆睡している。

「起きんかいっ!」
 アソウが怒鳴った。
「ん?う~ん!あれ、もう着いちゃったの?」
 田崎が、伸びをしながら言った。言いながら口の端についた涎を手で拭いている。

「おまえら、緊張感無さ過ぎやぞ!」
 減棒リーチのかかった運転手は、ひどく不機嫌だった。
「あぁ~!気持ちえがっただぁ~!」
 車の外で、吉田が大きく伸びをしながら言った。

― バシッ! ―

「いでっ!」
 アソウの平手が吉田の後頭部で鳴った。
「おまえらここ住んでたんやろ?案内せいっ!」
「あ、俺ら住んでいたっていっても何ていうか、その、外には出してもらえなかったんです。女子寮みたいに。」
「気味の悪い例えね。」
 ミハダが軽い足取りで歩きながら言った。

「い、いや、男同士でどうとかそういうんじゃなくてですね。ただ、やっぱし山の中だし、道に迷う恐れもあるかなって、ただそれだけの話なんだべよ!ね?先輩!」
「そ、そうっすよ!男同士でなんて!」
 田崎も吉田も必死だ。

『お前がやったんだろ?』
『やってねぇって、刑事さん!』
『あんなか弱い婆さんを何度も刺すなんて可愛そうな真似しやがって。』
『な、何度もだぁ?なめんなっ!おれゃあちゃんと一発で仕留めたんだよっ!・・・あ・・・』
 と自爆する犯人のようなものだ。

 皆、連れ立って歩き始めた。
「な、なんで俺たちから離れて歩いてるんっすか!」
「そ、そんなことないで!なぁ、メガネ?」
「そうだよ。気にし過ぎだよ、お前たち。好みの問題じゃないか。」
 そう言いながら、アソウとメガネは吉田と田崎から微妙に距離をとって歩く。

 しばらく歩くと、先に森が開けていた。
『ここや、ここ。』
 アソウが小声で指差した先に、コンクリートの塀で囲まれた、こじんまりとした、まるで病院のような殺風景な建物が建っている。
『おい、見張りは何人や?』
 アソウが田崎に聞いた。
『二人。いや、三人です。それと犬が二匹。』
「犬ぅ?」
 犬と聞いた瞬間、アソウの声量が元にもどり、同時に足を止めた。
 ・・・今までの小声はなんだったのか?

「だめやわ、ワシ。ホンマ、動けへん。いや、マジで。だって足、すくんで歩けへんねんもん。あぁ~、もうっ、ちょと痛うもなってきたでぇ、ワシの腹!おい!メガネ・・・あと頼むわ。」
「これで、残った給料分も無しですね・・・。」
 ミハダが冷たく言い放った。

「くふぅっ!いや、ワシ、ホンマに犬あかんねん。『南極物語』見てもうた時、テレビ消そ思うても、よう画面に近づけへんからプラグ引っこ抜いた男やねん。『かわいいっ!』言って犬にしゃがみ込む女にカンチョすんねん。ワシ、ほんま、犬見ただけでもうボロボロやねん。チワワやねん。」
「そうですか。じゃ、行きましょう。」
「ミハダ君!ワシの話聞いとったんか!」

 五人(と一冊)はソロソロと建物に近づき、塀から五十メートルほど離れた茂みに身を隠した。
 森はそこで終わり、そこからは建物の周囲にめぐらされた塀まで身を隠す場所は何もなく、ただ足首までの雑草が一面に生い茂っているだけだった。
 
 かなり古い建物らしく、塀にはそこかしこにヒビが走っており、ヒビから草さえ生えている。
 五人(と一冊)はしばらくそこで様子を見ていたが、うっそうと立つその建物は、まるで廃墟のように静まりかえっている。
「ちょっと見てくる。」
 メガネはそう言うと、風の向きを確認し、腰をかがめたままで塀まで小走りで走っていった。
「ほんまアイツ、今回はなんかえらいやる気やな・・・」
 アソウはそう言いながら、大して動いてもいないのにやたらと吹き出てくる額の汗を手で拭った。

 メガネは塀に辿り着いた。
 彼はそこでしゃがみ込み、しばらく様子を伺うようにしてじっとしていた。そして、大丈夫だと判断したのだろう、すっと立ち上がり、その勢いだけで、助走もなしに塀の上めがけて飛び上がった。
 メガネの体がグングン宙を切っていく・・・

「おぉっ!」
 メガネの様子をハラハラしながら見ていた皆の口からため息とも感嘆ともつかない吐息が漏れた。しかし、メガネのジャンプは塀の頂上どころか、半分ほども届かなかった。その上、彼は着地に失敗してコケた。
「あっ!」
 皆が息を飲んだ。
 メガネはゆっくりと立ち上がると、尻をはたきながらちょっとこっちを見た。

「あれは、恥ずかしいでぇ・・・」
 アソウがしみじみ言った。
「支部長、あれを見てください。」
 ミハダの指差す方向に、開いたままの扉があった。
「この建物にはもう誰も残ってないんじゃないでしょうか?」
「う~ん。見るからにそうやの。あそこから入ろか。」

「あの・・・、メガネさん呼びましょうか?」
 吉田が一応確認した。塀ではメガネが、まるで憑かれたようにジャンプを繰り返している。

「見ちゃあかん!試練やっ!アイツは今、アイツにしか見えん壁を乗り越えようとしとるんや。大きゅうなれよ、メガネ・・・。さ、いこ、いこ。」

 塀から恐る恐るなかを覗くと、建物の正面玄関が開け放たれ、暗い建物内が奥まで丸見えになっている。人影はまったくない。
「やっぱりあいつらココを捨てて行きよったな。」
 誰もいないと分かるとアソウはいきなり大胆になり、体も元の大きさに膨らんだ。
「おい、メガネ!アホなこと続けんと、はよこっち来んかいっ!」
 こちらからは陰になっていてその姿は見えないが、どうせまだ飛び続けているに違いない。アソウが大声でメガネを呼んだ。


 暗い建物内にアソウ達が足を踏み入れようとしたとき、メガネが追いついてきた。しばらくみんな無言で歩いていたが、アソウがぼそりと言った。
「メガネ。・・・お前、新種のカモシカみたいやったでぇ。」
「ぷっ!」
 吉田が口を押さえて笑いをこらえた。

「さて、無人ってことは、どうせ部屋を廻ってみても大した収穫は期待できませんね。」 
 ミハダが言い、足を止めた。
「そうやな、重要なものは全部運び出したんやろからなぁ。ちょっと見て回って、地下牢まわろか・・・。ま、どうせエッセンスはんは居らんのやろうけどよ。」
 アソウがソワソワと辺りに目を向けながら言った。
 どうやら彼は彼なりにエッセンスに会うかも知れないと思い、緊張しているようだ。
「では、行こか。」

  カツン カツン カツン
  カツン カツン カツン

 五人が

  カツン カツン

歩いていた。

  カツン カツン カツン 
    
人影のまったくない建物はまるで寝静まった巨大な、

  カツン カツン カツン 

巨大な空洞の生き物のようであった。

  カツン カツン カツン カツン カツン カツン カツン
  カツン カツン カツン カツン カツン カツン カツン・・・

「ミ、ミハダ君!こんなとこにハイヒールはないやろ!」
 それほど大きな音ではないからこそ、妙に人をイライラさせた。

「まさかこんなとこだとは思わなかったものですから。」
「お、俺は気にならないべ!そのハイヒール、ステキだべ!」
 吉田が、なぜかハイヒールだけ褒めた。

 やがて、鉄製のドアが目の前に現れ、その長く、薄暗かった廊下がようやく終わりを告げた。
 ドアを開けると中庭があり、三メートルほどの廊下が、中庭を二分するように渡されている。廊下の向こうにはこちらと同じ殺風景なドアが、半分開いたままある。
「お。もひとつ棟があったんやな。」
 アソウがまぶしそうに顔をしかめて、照りつける陽光を手で遮りながら言った。
「そうです。地下牢はあの棟の下にもあるんです。」
 田崎が陰気な声で言った。
「なんや、お前、暗いな。」
 アソウが聞いた。
「はい。私、ウンコしたくて・・・」
 それを聞いた瞬間、みんなの足が止まった。

「・・・行けば?」
 ミハダが露骨に不快そうな顔で言った。
「いえ、いいんです。そのために皆さんを待たすのも何だか恥ずかしいですし・・・」

「『ウンコ』って言い切っといて恥ずかしいもクソもないやろが!それ聞かされたこっちの方がなんや気ぃ使うねん!はよ行ってこいや!」
「本当にいいんですか?じゃあ行きますけど・・・。ちゃんと待っててくださいよ?絶対先に行かないでくださいよ?」
「じゃっしゃぁ~!はよ行ってこいや!このウンコ!」
 怒るアソウの顔はさらに丸くなり、怒るアンポンマンみたいな顔になった。
「ぢ、ぢゃあ、行ってきますけど、本当に待っててくださいよ!ね?ね?」
 田崎は手で『ごめん』をしながら、内股でトイレ目掛けて駆けていった。彼は、廊下の途中にあったトイレに入り込むその瞬間まで、『ごめん』し続けていた。

「じゃ、行こか。」
 田崎の消えた瞬間、アソウが言った。
「そうですね。」
 誰も依存はなかった。

「はぁ、はぁ、はぁ!ひ、ひどいっすよぉ~!」
 ウンコ田崎が一行に追いついた。
ちょうど一行はその時、新しい棟に入ってすぐ右手にある階段の前で揉めているところだった。
誰も真っ暗な階下に降りようとはしなかったのだ。

「怖いわけやない。ただワシ、もう五十やで?ライター持ちながらなんて、よう歩かれへんだけや。肩もたへん。」
「昨日、一升瓶持ち上げて直に飲んでたべ?」
 吉田が言った。
「あれはリハビリや!そういうお前が行かんかい!」
「・・・いや、オラ、イタコの中に世話になった人いるがら・・・。ミハダさん、どうですか?怖いものなさそうだべ?」
「口寄せ『される人』にするわよ、あなた。」
 ミハダが吉田に向って言った。
「でも、ここはやっぱりお母さんに会いに行くメガネ君が・・・」
「いやぁ、俺、さっき思い出したんですけど、俺のお母さんって俺の生まれる前に病気で死んだんですよ・・・」
 
 そう。ちょうどその時だった。ウンコ田崎が一行に追いついたのは。
行く人は、決まった。
皆、ウンコを見る。
にこやかだ。
アソウがおもむろに彼にライターを渡した・・・。

「ちょ、ちょっとぉ!押さないで下さいよ、アソウさん!」
 田崎が震える声で言った。
「押してない!支えとるんや!」
「どっちでもいいっすよ!ただそんな引っ付かないで下さいよ!」

「わぁった、わぁった!」と言いながら、アソウはまた田崎の真後ろに張り付いた。そしてアソウはぼやいた。「なんでワシにはないねん・・・」
 
 階段を下りる直前にメガネは、近くの部屋から取ってきたカーテンとカーテンレールを使って松明を作った。
 しかし、充分な明かりを得るためには二本しか、いわば二人分しか作れなかった。それで公平にジャンケンした結果、聖火の一本は先頭を行く田崎が、そして、もう一本は列の最後を行くことになったミハダが持つことになった。
 それがアソウには不服だった。
 『・・・かといって、松明が欲しいからって先頭には絶対なれへん。かといって一番後ろは背中が寂しいし・・・』
 では、ぶつくさ言わなければいいものを、この男、それができない。だからもてない。

 道はかび臭く、うねうねと曲がりくねっていた。
「こんなに暗いと道に迷っちゃいそうですね。」
 田崎が、子泣き爺いのように背中にすがり付いているアソウに向かって言った。
「お前、ホンマはもう迷ってるんやないか?」
 アソウが言った。
「・・・なぁ、吉田・・・」
 アソウに答えず、田崎はまっすぐ前を見ながら吉田に言った。
「この道でいい、のか?」
「オ、オラに聞いてるだべか?わかるわけないじゃないっすか!」
「ちっ!」田崎が苦々しく舌打ちした。
「なに偉そうに迷ってんねん、お前!この役立たずのウンコ!」
 アソウが吼えた。

「大丈夫っすよ、多分。この道で多分大丈夫。」
 吉田の後を歩いていたメガネが言った。
「この道で何となく大丈夫そうな、気がする・・・」
「おぉ、メガネ、なんやお前、ニュータイプみたいやで!」

「ん?」
 田崎が突然立ち止まった。その直後を歩いていたアソウが当然、彼にぶつかった。
「何して・・・」
 怒鳴ろうとするアソウを田崎が押さえた。
「ち、ち、ち、ちょっと、な、な、何か、き、聞こえせんか?」
「は?」
 アソウは耳を澄ました。

 ・・・聞こえる!

 プヒー プヒー
『な、何の音や?』
 アソウがささやいた。
『あれ?この音、確か前にもどっかで・・・』
 メガネが言った。

 音はすぐ先の部屋からだった。
 プヒー プヒー ふぅ・・・ プヒー プヒー
『た、ため息入ってたよな、今?』
「あっ!」
『しぃぃぃ~っ!こら、メガネ!静かにせんかい!』
「いや、音の出所が分かったんですよ。おい、田崎、吉田。あの音はアイツだ、あの口笛男。」
「え?・・・あっ!あ~!!」
「竹田君!」
『だ、誰かそこに居るの?』
 か細く震える声が聞こえた。それはあの、口笛好きな竹田君だった。

 鍵を開けると、メガネは竹田君を部屋から廊下へと連れ出した。
 細く青白い顔、まるで骨と皮だけのような体。
 これぞ〝恵まれないアフリカの子〟の見本の様にやせ細ってしまった竹田君だった。

「で、引越しのときの音とか聞こえんかったんか?」
 竹田君のあまりの弱々しさにさすがのアソウも声を和らげている。
『いえ・・・』
 竹田君の、寄り道だらけの果てしなく長い話が始まった。

 僕はみんなに忘れ去られて、ここにとり残されたんだ・・・

 竹田君の言いたかったことを一言で言うと、これだけである。
 その一言を言うために竹田君は自分の身の上話から始めた。
 その話をするときの彼の声がまた、〝瀕死の蚊〟みたいなんである。
 竹田君の話を聞くことは実に拷問以上の拷問以上の拷問であった。
 しかし皆、爆発しそうな気持ちをじっと抑え込んで、彼の話に耳を傾けていた。

 『まぁ、無理もない。この建物には誰も居ない、ということを聞いて一番ショックなのは、取り残された彼なのだ・・・』というのが皆の共通した考えだった。さらに言うと『そんなだから取り残されるんだよ、このカメ!』というのも共通している。

「で、お前のこと、結局誰も思い出さんかったわけやなぁ~」 
 アソウが竹田君の傷口に塩を塗った。
『アソウさんっ!』
 田崎が小声でアソウをたしなめた。
「それにしても、仲間から忘れられるなんて・・・。あ、でも、本当はみんな、あなたのことしっかり覚えていたんだったりして。」
 竹田君の傷口に塩をてんこ盛りにしたのはミハダだった。

 (恐ろしい人・・・)

 皆、そう思った。竹田君は静かに床に崩れ落ちている。

 それにしても、

炎に照らされた竹田君の痩せた顔を見ながら皆が思った。

・・・すぐ死にそうだ。

「あ、ここ!」
 なんとかまた歩き出した六人(と一冊:まだ爆睡している)の先頭を行く田崎が突然叫んだ。彼はドアの開いている部屋を明かりで照らした。
「あ、そう、そう!ここ、ここぉ!ここにオラたち閉じ込められていたんだべ!」
 吉田も興奮している。
「懐かしいべなぁ!」
 ・・・と、なぜか懐かしがってもいる。

「ま、とりあえず先急ぐでぇ。」
 アソウが言った。実はこのとき吉田君はブツブツとこの地下牢の成り立ちを皆に話そうとしていた。いや、もう話し出してはいた。残念。誰にも気づかれなかった。

「居る!」
 メガネが言った。
「は?何や?」
 アソウが怪訝そうな声で言った。
「しぃっ!静かに・・・」
 メガネが鋭く言った。

 皆が話を止め、足を止めると、闇が煩わしいほどに広がった。

「何も聞こえへんでぇ?」
 アソウが言った。
「いや、向こうに何か・・・あっ、まさか!」
 メガネが走り出し、前を歩く吉田を抜き、吉田の横を歩く竹田君→アソウ→田崎の横をそれぞれ抜けて先頭に出ると、田崎の握っていた松明を奪い取って叫んだ。
「先行ってます!」
「おい、待たんかい、メガネ!松明は置いてけ!」
 アソウの言葉がメガネの消えた闇に溶けた。

「はあああ!暗い暗い暗いぃぃ!ミハダ君、早く前に来たらんかいっ!ぼけっ!」
 カツン カツン カツン カツン
 ミハダが落ち着いた足取りで近づいてきた。そして、アソウの傍を通るときボソッと言った。
「秘孔突きますよ・・・」
 
 メガネの消えていった後を追って、ミハダを先頭にした一行がとうとう一番奥の部屋に到着した。そしてミハダがその部屋に入ろうとしたとき、メガネがそこに立っているのに気づかず、危うくぶつかりそうになった。ミハダはとっさに、松明を振り下ろした。
「ぐぅわっ!」
 振り下ろされた松明はメガネの頭をとらえ、火の粉がメガネの顔一面に飛んできた。
「あ、あぶないじゃないですかっ!ミハダさんっ!」
 メガネが半泣きで叫んだ。

「こんなとこ立ってると危ないじゃない。燃えるとこだったわよ。おっほっほっほっほ。」
 こんなに笑うミハダを、メガネは初めて見た。
 笑うポイントというのは人それぞれ違う・・・

「・・・と、とにかく、これが・・・こちらが、話していたあのお婆さんです。」
 まだドキドキ鳴る心臓を聞きながら、メガネが床を指差して言った。

「!」
小さな物体が部屋の床に倒れているのを見て、ミハダが音にならない悲鳴を上げた。
「し、死んでるの?」
 ミハダの声が震えていた。つくづく不思議な精神構造をした女性だった。

「いや、生きますよ。寝てるだけじゃないですか?何か寝言いってたし・・・」
 メガネが深刻な顔をして言った。

 ドゴッ!

 彼女がメガネの後頭部をグーで思いきり殴った。そして手に持っていたギメガをメガネに押し付けると、身を屈めて老婆の半身を抱き起こし、やさしく尋ねた。
「おばあさん、大丈夫ですか!?」
 ミハダの声に、老婆がうっすらと目を開けた。
「あぁ!サチ子さん!」
 (エミ子じゃなかったっけ?)メガネは思った。が、口にはださない。

「おねぇがぁいだからぁ~、もうちぃょっとわたぁっしにやぁさしぃくしておくれでないかぁねぇ?うぅぅん、うぅぅん!わたぁっしはどうでもいいの!たぁーちゃんにだぁけやさぁしくしてくれぇれば!そぉう!わたぁっしはどうでもいいのよ!わたぁっしには、あさぁっごはぁんだけちぃゃんともらえぇれぇばぁ!」
「メガネ君・・・。訳して。」
「分かるわけないじゃないですか!なんか人種すら変わってるようですし・・・」

 メガネの後ろに立つアソウの体がプルプル震えている。

「おばあさん、とりあえずお腹空いたでしょ?これ食べて。」 
 ミハダがバッグからオニギリを取り出し、包みを開けて老婆に手渡した。
 老婆はお礼も言わず、ミハダの手からオニギリを奪い取ると、ガツガツ食べ始めた。
「お可愛そうに・・・。お腹が空いてたのね。」
 ミハダの目が、声が、慈愛に満ちていた。
 がしかし、彼女の優しさには、それに接する人に対して『何を企んでるんだろう?』と裏を勘繰らせる不思議な力がある。

「ふぁっあ~!カァカロットォ~!よぉ~っく寝ったわ~!」
 相変わらず、豪快な寝起きのギメガである。
 どこで目覚めても、まるで我が家だ。
 
 しかし、いきなり手元から立ち昇ってきた強烈な音声にメガネはビクッと体を揺らし、ギメガはその勢いでメガネの手を離れ一路地面へ、そしてギメガの落ちた先は・・・老婆の頭の上だった。

― ゴツッ ―

 鈍くも確かな音がした。

「ぐぇっ!」
 老婆がくぐもった声を上げた・・・、と思った瞬間、老婆は床に落ちたギメガの顔を見て、「あぁぁあぁっ!」と叫び声を上げた。
「あぁぁぁぁ~!」
 老婆を見たギメガもまた、叫んだ。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁあ~!・・・あ?」
 長い悲鳴だった、・・・が、二人ともお互いのことをさっぱり忘れていたらしいことは悲鳴の最後の疑問符からも明らかだった。
 双方、薄ぼんやりとした記憶の霧の中、必死でお互いのことを思い出そうとしていた。

「ルネッサンス!」
 ついにギメガが勝ち誇ったように叫んだ。
「あ、ち、ちくしょうっ!あ、あんたは、あんたわぁっ!あぁ~、イライラするっ!ここまで出掛かってんのよ、ここまで!」
 老婆が悔しそうに頭を掻き毟りながら喉に手刀をたてた。
 
 ・・・いや、老婆よ、相手の名を思い出せないと口惜しがる前に、あなたは、『ルネッサンス』という名ではなかろうよ。

「たしか、二人よ!カリポなんとかとラポ何と・・・」
 老婆が言い終わる前にギメガが叫んだ。
「リ・カイポンだぁよ!」「メルポスト・ランキよ!」
「きぃ~っ!あと二秒で出るとこだったんだよっ!」
「言っちゃったもんねぇ~」
 なんだろう、この二人・・・。

「まぁったくもぉ。最近のカマは老人に対する口の聞き方も知らないのかねぇ~・・・」
 ある種の人々得意の、〝まったく関係ないところから攻撃〟にエッセンスは出た。
 そしてその体を支えるミハダの手をうるさそうに払い除けると、床にどっかと座りなおした。

 そのエッセンスに向かってギメガ、吠える。
「カマって何さ!大体、私たちはメクロの両親なんだからカマじゃないわっ!〝両性具有〟よっ!それにあんたよりも年いってるっつうの!もっと言葉に気をつけろっつうの!」
「ふんっ。錆びガマ。」
「きいぃぃ~っ!」
 ギメガはいいとして、エッセンス、さっきのギメガの体当たりで記憶が戻ったようだ。
 友情のミラクルである。

「あ、あの・・・」
 震えるアソウが震えながらエッセンスに声を掛けた。ようやく声が出るようになったらしい。
「・・・エ、エッセンスはん、ワ、ワシです。アソウです!ほ、ほんま、お元気そうで!・・・ウクククク!」
 アソウの瞳から涙が、汚水のようにあふれ出てきた。
「ワ、ワシ、この三十年もの間、言えずのアイムソーリー、そして、アイラブューを常に胸に抱いてまいりましてん。・・・この瞬間まで・・・」

「何?コレ?」
 エッセンスは親指でアソウを指しながら興味なさそうにミハダに聞いた。
「人のカス、です。」
 ミハダが誠実に答えた。

「ミ、ミハダ君、何いきなりワシにスペシウム光線ふりかけてんねん!・・・エッセンスはん、ワシですよ!エッセンスはんの下着のことなら誰よりも詳しかったアソウですよ!」

「見事な、〝カス〟っぷりっす。」
 吉田が言い切った。
「ほっとけっ!わあぁぁんっ!エッセンスはんっ!」
「えぇい、うっさいわねぇ!わたぁっしはこれからあっさごはんなの!家畜はさっさと養豚場に帰んなさぁい!」
『あのばあさん、容赦ねぇっすね・・・。』吉田が田崎にささやいた。
「エミ、・・・サチ子さん!早く朝ごはんにしましょう?」
 (言い直した!)しかし、そのどうでもいいことに気付いたのはメガネだけだった。

「おばあさん、今、オニギリ食べたばかりじゃないですか!」
 ミハダが優しく老婆をたしなめた。
「・・・あぁぁぁぁ!エミ・・・サチ子さんがまたいぢ、グブッ!」
 老婆が突然倒れた。
 最初に皆が考えたのは当然、ミハダによる姑攻撃だった。
 みんなが、うつむきながら、ミハダにちらりちらりとバツの悪そうな視線を投げ掛けた。
「私じゃないわよっ!・・・おばあさん!おばあさん、しっかりして下さい!!」
 老婆の体をとっさに支えたミハダは、軽く彼女の体を揺さぶりながら声をかけた。
「は!も、もしかして・・・」
 メガネが老婆の上にしゃがみこんだ。
 皆、メガネの手元を見つめていた。そして・・・
「あ、あいつら、エッセンスはんになんっちゅうことするんや!」
 上半身を露にしたエッセンスに対して、あのアソウが見るに耐えられずに目を逸らせた。

「・・・!」
 ミハダが固く目を閉じた。
「ひ、ひどい・・・」
 田崎がうなるように言った。
 吉田は声さえ出せなかった。
「な、何よ?どうしたのよ、一体?何があったの?」
 床に落ちたままのギメガがドラ声を張り上げて聞いた。
「ちょ、ちょっと見せ・・・」
 メガネが黙ってギメガを手にすると、エッセンスの上に持っていった。

「あぁ!・・・ひ、ひどいことするねぇ!」
 顔をしかめて言うギメガに向かって、メガネが静かに申し出た。
「あの、・・・ギメガさんが、記憶を持ち主に返すことはできないのでしょうか?」
「前言ったようにそれはメクロしかできない。でも・・・」
「でも?」
「全部じゃなくて、一部分だけなら、一瞬戻すことは可能かもしれないわね。」

「お願いします!せめて最後に、あの、・・・・は、母に、会わせてください。」
「ワシからも、頼む。このまんまじゃあ、エッセンスはんが不憫やっ!・・・くっ!」
 アソウが泣くまいと必死で自分を抑えている。

「多分、これでいけると思うけど・・・。じゃぁ、メガネ。ワタシの八十ページを開いて。そこがエッセンスの記憶の貯蔵場所よ。」
 メガネが本のページをパラパラとめくった。
「ありました!」
 ページを探し出したメガネが言った。声が多少震えている。

「よろしい。では、そこに書いてある文字を残らず読みなさい。」

― ゴクッ ―

 メガネが生唾を飲む音が聞こえた。
 今、一人の女性の記憶が明かされようとしている。
 しかもその人は、記憶を失った自分のことを一番よく知っている存在、〝母〟なのだ。

 もともと静かな場所である。物音一つしないその部屋のコンクリートの壁に二本の松明の明かりが、そして今、メガネの緊張した声が、反射して部屋中に響く。

「五月五日、『変態!』と初対面で二回殴られる。
 同日、廊下で顔を合わせた瞬間、何も言わずに殴られる。
 五月七日、本日の調査、五百三十二メートル地点にて発見され殴打・・・。
 あの、ギメガさん。これ、何ですか?」
「うるさいわねぇ!細かいこと言わないっ!つべこべ言わずに続きを読みなさい!」
「はぁ、・・・
   七月十四日、初めて平手で殴られる!
   八月五日、またグーにもどる(がっかり)
         (略)
   十二月二十三日、『聖なる夜ですね!』と言ったら飛び膝蹴りをされる。
   十二月二十七日、初めて股間を蹴られる。『今度やったらあなたの除夜の鐘、一生鳴らないようにするわよ!』と小粋な冗談を言われる。
 以上です・・・」

「史上最低のブログね・・・」
ミハダがつぶやいた。そして彼女は、ハッと顔を上げるとアソウを見やった。
「・・・ちゃうわ!ワシやない!どこの部分が、とは言えんが、ワシやない!」
 アソウは急いで肯定しながら否定した。

「こ、これがエッセンスさんの『記憶』?」
 田崎が言った。
「あぁ!なんて悲しいストォリィなの!」
 ギメガが泣いていた。

「ま、要は、暗号なの、これ全部。」
ギメガが、涙(様の液体)でドロドロになった顔を上げて、あっけに取られている一同を見ながら言った。
「腑に落ちない顔をしてるねぇ。ま、いいわ。・・・さぁ来たわ。みんな、エッセンスを見てて御覧なさい。」
 
 その瞬間、エッセンスがカッと目を開けた。
 そして、その血走った目が真っ直ぐにメガネを見据えた。

「あぁ!たーちゃん!」
 そして、その筋張った、枯れた小枝のような細い手をメガネに差し伸ばした。
『手を取ってあげなさい。』
 困ったメガネがミハダの顔を見ると、彼女が目つきでそう伝えた。

 メガネはおずおずとエッセンスの手を取った。
 エッセンスが何度もメガネの手を愛おしそうに撫で擦った。
「たーちゃん、たーちゃん、たーちゃん・・・」
 エッセンスは何度も言った。
「・・・ちゃんとご飯食べたぁら、歯をみぃがくのぉよ。」
 エッセンスはボロボロと涙をこぼしながらメガネを見つめて言った。エッセンスの、それが最後の言葉だった。
「わかったよ、・・・母さん。」

 メガネの言葉を聞くと、彼女は何度もうなずいた。
 そして・・・
 彼女の目の光は徐々に薄れていき、やがて消えた。
 メガネの手からエッセンスの手が滑り落ちた。

「亡くなったわ。」
 ミハダが静かに言った。
松明の揺れに合わせて、エッセンスの皺だらけの顔も揺れた。その顔にははっきり、微笑が浮かんでいた。

「エ、エッセンスはん・・・」
 大声で叫び出したい気持ちを抑えようとしてアソウの全身が細かく震えていた。大粒の涙だけがボタボタと彼の顔を伝わってはその円い顎から落ちていた。

「許さない・・・」
 メガネが低い声でつぶやくように言った。
「俺は、メクロを許さない・・・。」
 メガネの手には、エッセンスの手の感触がはっきりと残っていた。
 カサカサで骨っぽい手だった。
 しかし、メガネは確かにその手の、その撫で方を知っていた。
 自分の体が知っていた。


(第十五話に続く)


― 第十五話 三人の刺客 ―

 薄暗い部屋の中に二人の男が居た。
 そのうちの一人は、まるでプロレスラーのように巨大な体をしている。
 おかげでその場に一緒にいる、小柄な方の男が極端に小さく見える。

 二人とも椅子に腰掛けているのだが、それぞれの態度は肉体の大きさとは逆だった。
小柄な男はふんぞり返り、巨大な男の方が体を小さくしている。
 メクロとメルトモだった。

「ワシはな、ネチネチといつまでも同じことを言いたくはない・・・」
 メクロが甲高い声を出した。サングラスはもう掛けていない。
(って、もう二時間よぉっ!)
 メルトモが叫んだ。心の中で。

「ワシがあのギメガ帳を作り上げるのにどれだけの恨みと憎しみの日々を費やしたか、お前に分かるか?」
「はいぃ!」(わぁからないしぃ、わぁかりたぁくもなぁい!)
 メルトモが答えた。
「ギメガ帳を忘れてきたどころか、それをアソウに奪われる・・・。このことの重大さが本当に分かってるんだろうな?」
「はいぃ!」(ほぉんともう、どうでもいいねぇ~!)
「とにかく、一刻も早くギメガ帳を取り戻すんだ!わかったな!」
「わぁかりまぁしぃたぁかぁ?ボォス!」(たぁすかりまぁしたぁ。もぉ~、ほぉんとぉ、たぁすからましたぁ!)

「はぁ~。ほぉんとにボォス心配性。潔癖症。あ、これぇは関係なぁいね。」
 メクロの部屋から出てきたメルトモはブツブツ言いながら廊下を歩いていた。
 昨日移ってきたばかりのこの建物はまだピカピカで、廊下には埃一つ落ちてない。
 メルトモのいま歩いている廊下のちょうど右手には大きな窓が並び、真っ青な空の下に横たわる水平線が一望できた。
 メルトモは立ち止まると、近くの窓から外を眺めた。

「いい天気ねぇ~。・・・あ、一句できぃた。

  青空にぃ 
  青リィンゴ一つぅ浮かぁべたらぁ
  どこにあるのぉかぁ 
  わからぁなぁい       」

 その建物は海のそばに建つ元研究施設だった。
 ちょうど一週間前、廃墟と化していたその建物の横を偶々通りかかったメクロはそこを、一目で気に入った。 
 メガネの進入→脱出騒動で場所を特定され、引越しせざるを得なくなったのを良い機会として、メガフォルテ一同、昨日の緊急大引越しでここにやって来たのだった。
 しかしメルトモは、その引越しのドサクサにまぎれて、ギメガ帳を紛失したことをメクロに報告することをさっぱり忘れてしまっていたのだった。
 しかし・・・
 と、メルトモは思う。
 
 確かに保管の責任は自分にあったが、メクロがギメガ帳の事を思い出したのはたった二時間前のことだ。
 思い出す前は自分の部屋の飾りつけをメルトモと雑談しながら楽しんでいたのだ。
 失敗は、壁一面にモールとウサギのシルエットを鼻歌混じりに貼り付けていたメルトモの不用意な一言にあった。
 『ボォスの髪型は床屋でぇすか?ビューティーサロォーンでぇすか?』と、軽い調子で聞いてしまったのだった。

 メルトモの質問を聞いた瞬間、ウサギの『耳』部分にハサミを入れていたメクロの手がピタリと止まった。
 気配を察してボスに目をやったメルトモは(しぃまったぁぁ!)と後悔した。

 メクロの頭は、もう五十歳を超えているというのに異様に真っ黒で、そしていつ何時でもその七三の形がくずれるようなことは決してなかったのだった。
 以前、夜中にかなり大きな地震があったときも、自分の部屋から走り出てきたメクロの髪には寝癖ひとつなく、昼間とまったく違わない形をしていた、というエピソードは、メガフォルテ団内でも有名な話だった。
 そしてその時、そのモミアゲが本来の位置から二十センチほどずれて、メクロの顔の正面に来ていた、ということも・・・。
 
 『海は広いな、メルトモ・・・』メルトモの問いを聞いたメクロはしばらく黙っていたが、やがて優しく話し出した。
 『大きいしな。』フッとメクロが小さなため息をついた。
 『・・・行ってみたいか?よその国?』
 メルトモが耐えられたのはそこまでだった。

 『そ、そいえぇばぁ!』声が上ずっているのが自分でも分かった。
 この状況を切り抜けるには、それ相当のインパクトのある話をぶつけるしかない!
 『ギメガ帳を、どぉやらぁ、アソウたちにぃ、盗られてしまったぁ、よぉうでぇす!』

 メルトモよ、確かにそれはヅラよりもインパクトの大きい話題ではあるだろうが・・・。

『ぬ、ぬわぁにぃぃぃ!!!!』メクロの顔全体が吊り上った。それから二時間に渡るねちねちとした説教が始まったのだが、海に沈められるよりはまだましだった。

 (それにぃしてもぉ!)自分だけがそこまで責められるのには腹が立った。
「とにかぁくぅ、トウハーツの連中ぅを呼ぶか・・・どうか?」
 メルトモの自己問いかけの声が、人影のない廊下に虚ろに響いた・・・


 メルトモに呼ばれ、彼ら、トウハーツがやってきた。
 彼らを呼んでからかれこれ三十分になる。
 そう広い建物ではない。
 いや、むしろ狭いくらいだ。
 端から端をゆっくり歩いても三分もかからない。それを半時間・・・。

「どぉゆうこぉとよぉね?」
 さっきメクロに叱られた分をここで取り戻す。上司として当然だ。
「いや、それがでござるな・・・、フフフ。拙者、厠の場所を少々間違えましてな・・・、フフフ。」
 恐ろしく目立つ三人のうちの一人がメルトモに答えて言った。

 もし、混雑した公園にこの三人が腰掛けているベンチがあり、そこに十分な空きがあったとする。
 他にベンチはない。
 自分は死ぬほど疲れて、もう立っていられない、とする。
 しかし、誰も彼らと一緒に腰を下ろそうとは思わないであろう。
 金をもらっても嫌だろう。
 理由はただ一つ。
 彼らの変な髪型と服装だ。
 一人はチョンマゲ(そう、カツラなんかではなく、本物である)、一人はモヒカン、そして最後は辮髪なのである。
 その上、それぞれの服装が実にそのまんまなのである。

チョンマゲ=着物
モヒカン=上半身裸
辮髪=女物のチャイナドレス

 そのセンス、おそるべし・・・

「それで拙者らは、そのコアラとか言う本を奪い返せばいいわけでござるな?」
チョンマゲが言った。
本人はおそらくごく真剣に話しているようだったが、生まれついてのひどい鼻声のため、彼の言葉全部が冗談に聞こえる。
しかし、声は冗談でも、そのギラギラとした目が恐ろしいほど真剣であり、彼が只者ではない、というか、健康な人ではない、ということを告げている。
 その上、彼は異常に痩せていた。
着物からのぞく彼の胸元にはアバラ骨が浮き出ており、それが、その目と合わせて彼をどことなく人間離れした印象を与える。
水木しげるマンガの妖怪〝小豆とぎ〟に似てるっちゃ似てる。っていうか、そっくりだ。

「・・・コォアラじゃなぁい。ギィメガだ。これで三度目ぇっ!いぃかげん、おぉぼえんさぁい!」
 メルトモが叱った。
「フフフ・・・」
「なに笑てぇるか、このバカ!」

「ま、拙者どもにお任せ願いましょう。必ずや朗報をお持ちいたしましょう!」
「でも気を付けぇるぅ!相手はぁ、たぁだの連中ぢゃなぁいね!世界公務員よぉ。ちょと気を・・・」
「フフフ・・・」
「だから、なぁに笑ってるか、このバカ!」

「ま、メルトモ殿、お任せを!必ずや一週間後には吉報をお届けできましょうぞ。くわぁっかっかっかっかぁ~!」
「だぁ、かぁ、らぁ!首相ぉを殺すぅのぉは、明日ってぇ言ったでしょぅ、二分前に!こぉの、てっぺんハァゲ!今日中にギメガ帳を持ってぇくるのぉ!分かったぁ~?今日中よぉ!」
「くわぁっかっかっか~!いや~、こりゃ、メルトモ殿に一本取られましたな!くわぁっかっかっか~!」
 チョンマゲが笑っている、楽しそうに・・・。

「よぉ~し!では皆の者、ゆくぞ!拙者につづけ!」
 チョンマゲが立ち上がると残りの二人、モヒカン男と辮髪男がそれに続いた。モヒカンの方はむっつりとして何を考えてるのか分からず、辮髪の男は、チャイナドレスを着ているという段階からもう、何を考えているのか分からない。

「ところでどこ行くんだっけかな?」
 ドアを開けてメルトモの部屋から出ながらチョンマゲがモヒカンに聞いた。
「世界公務員のアジトです。」
 モヒカンがむっつりと答えた。
「ほう、そうか、そうか。なるほどな。くわっかっかっかぁ!」
 遠くなる彼らの後ろ姿を見てメルトモが大きなため息をついた。


(第十六話へ続く)

― 第十六話 指令のナゾ ―

 陽が落ちかけていた。
ようやく事務所に到着し、アソウがブレーキを思いっきり踏んだ。
「ぎゃっ!」
 キキィーッと車が前のめりになると、助手席のミハダはシートベルトのおかげで何ということはなかったが、後部座席で無防備に熟睡していたメガネ、吉田、田崎、そして竹田君は思いっきり前の座席に顔をぶつけて悲鳴を上げた。

「どっ、どうしたんっすか?!」
 田崎が寝ぼけ声で慌てて言った。
「・・・到着、や。」
 アソウが不機嫌に言った。
「もうちょっと静かに停めてくれても・・・」
 心地よい眠りから起こされ、皆ブツブツぼやきながら車を降りた。
 しかし、公平な目で一行を見ると、他の誰にもまして同情をそそられるのはアソウだ。
 彼はかろうじて運転席に座ってはいるが、その目の下には巨大なクマができ、長時間の運転でげっそりとやつれ果てて、はいないが、そんな感じであった。

「あぁ~!やっぱり家が一番っすね!」
 吉田がソファに飛び込みながら言った。
 ギシギシと古いソファーが喘いでいる。
 まるで、旅行から帰ってきたばかりの興奮冷めやらぬイタい子である。

「ところでこれからどうすればいいのかしら?首相暗殺は明日。もう夕方よ。」
 ミハダが椅子に腰を下ろしながら言った。
「そうやなぁ~。おい、どけ!」
 アソウが足で吉田をソファから追い出すと、その真ん中にドッカと座った。
 またソファが、今度は悲鳴に近く、喘いだ。

「とりあえずメクロ達の居場所をどうやって探るか、やなぁ・・・。それにしてもお前ら、ほんま役立たんのぉ。さっきの建物のこともよう知らんかったし、メクロの行きそうな場所も知らん・・・」
 アソウが並んで座る吉田と田崎を見て言った。
 彼らがお互いを見て恥ずかしそうに微笑んだ。
「ほめてないわっ!」

アソウは、彼らの横に陰気に座る竹田君を見やった。
竹田君、唇をしきりに尖らせている。
『口笛』のトレーニングだろうか?

「もうなんかどうでもええわ・・・。さて、これからどうしたもんかいのぉ。」
 また爆睡しているギメガをそっと机の上に置くメガネの手を見ながらアソウが呟いた。
「ん?ちょっと、メガネ、それ見せぃっ!」
 アソウが荒々しくギメガを掴むと、顔に近づけた。
「また怒鳴られますよ。」
 メガネが言った。
「おい、ここ・・・。書いてあるで。」
「なにが?」
「・・・引越し先の住所や。」

 本の背表紙には一枚の白い紙が張られており、そこには訂正線の引かれた住所の下に、『引っ越し先↓』と書かれ、しっかりと新しい住所が書かれていた。
「ワナ・・・、なわけではなさそうですね。」
 それを見たミハダが言った。
 それはまるで、外国人の書いたような、一生懸命さのにじみ出ている、とてもとても下手な筆跡であった。
「ま、ええやん。手間省けたわ。」
 アソウがげんなりとして言った。

 ふぐぁぁぁぁ!

 複雑な掛け声で彼は大きく伸びをすると、ふいにピタリとその動きを止めた。
「・・・なぁ、ミハダ君?今日、何日やったっけ?」
 アソウがミハダに尋ねた。
「二十二日ですが?」
「二十二・・・。今回の指令って何番やったっけ?」
「『4なー478』です。」
 アソウはそれを聞いて指を折り、何かを数えだした。
「指令番号なんてあったんですね。」
 メガネがミハダに言った。

「えぇ。昨日私がトイレで見つけた指令の最初の一文、覚えてる?」
「いいえ、さっぱり。」
「『本日はお日柄もよく、絶好の夏晴れ。例年通りの海開きが待ち遠しいものです』よ。」
「そうでしたっけ。で、それが番号?」
「そう。一文中、句点で離された二つの文の最初の二文字ずつ、『本日』と『絶好』が指令番号というわけ。」

「・・・?『本日』と『絶好』がどうして『4なー478』に?」
「暗号よ。『本日』『絶好』と来れば?」
「なんか、族っぽいっすね。」
 田崎が言った。
「大正解。『本日絶好、夜な夜な走る(4なー478)』ってわけよ。すごいわ田崎君。」
 淡々と冷め切った声でミハダが田崎を褒めた。
「はぁ~・・・。いわば語呂合わせなわけですね?」

 世界公務員本部といえば、メガネの立場からするとはるか雲の上の存在のようなものであったが、今、メガネはその雲の上が多少垣間見ることが出来たようだった。
 ま、世の中どうせ、知らない方がいい事ばかりである・・・。

「世界公務員本部長が大の日本びいきなの。それで、こっちに送ってくる暗号のキーワードはいつも日本に関するものなの。しかもかなりキッチュな物ばかりね。この前なんかは、『41』と『どん』よ。ではこの暗号から導き出される指令番号は何かしら?」
「・・・『870うー10』でどうでしょう?」
 メガネが答えた。
「その心は?」
「『よい(41)ウドン(どん)は花ドルうどん(870うー10)』・・・でどうでしょう?」
 言ったメガネはちょっと恥ずかしそうだ。
「筋はいいわ。でも残念。そのうどん屋は埼玉県限定よ。ローカル過ぎるわ。正解は、『44そー11』よ。」
「あの、・・・その心は?」
「『処女喪失タイ』を覚えてるかしら?」
「なっつかしいべぇ!オラ、ルージュちゃんのファンだったべ!」
 吉田が言った。
『な、なんですか?その、処女、何とかというのは?』
 竹田君がか細く言った。

「おめ、知らねぇだか!『処女喪失タイ』?去年、日本で一番有名だった超アイドルグループだべよ!ルージュちゃん、シャドーちゃん、チークちゃんの三人組でなぁ!かぁわいがったべぇ!『公園で喪失』は五億本売れた大ヒットシングルだべ!で、そのすぐ後に出たアルバムがな・・・」
 吉田の萌え油に火が点き始めていた。
「で、その『処女喪失タイ』と『41』『どん』との関係は?」
 メガネが急いで吉田と竹田君の間に割り込んだ。
「四月一日は処女喪失タイのデビューの日。だから正解は・・・『四月一日よーいどん!』よ。」
「・・・無節操ってことは何となく分かりました。・・・・それで、基本的な質問なんですが、・・・その指令番号ってのは必要なものなのでしょうか?」

「ふははははぁ!当然必要や!」
 さっきまでの疲れ切った表情もどこへやら、アソウの声にはまるで三年も睡眠をとった人間のような張りがあった。
「支部長達には、ね・・・」
 ミハダが言った。
「そう!指令の番号の組み合わせはこれまでに達成した指令の数とその内容、そしてその結果と解決方法はおろか、その指令を行った担当者の反省と感想を示してんのや。」
「あの数字とひらがなの組み合わせに?」
 確かにすごい。

「すごいやろ?びっくりやろ?」
「・・・いや、びっくりというか、それはちょっとないんじゃないか、というか・・・」
「ま、そんなことはどうでもいいんや。問題はなぁ・・・」
 アソウがにんまぁりと笑った。
「あいつらみんな捕まえた暁にはな、ウプププププ!ワシの給料ほぼ二倍になる、ということやねん!まるで忘れとったクジが当たってた、みたいな気分やな。そりゃ嬉しぃでぇ~!くぅぷぷぷぷぷ。」
「え?いきなり二倍ですか?」
 田崎が驚いた声で言った。

「あったり前やがな。公務員やでぇ!」
 アソウが歌うように言い切った。
「なんか矛盾あるような・・・」
 首をかしげる田崎を尻目にアソウは立ち上がり、大きく伸びを一つして叫ぶように言った。
「ゼニやゼニ!ゼニゼニゼニゼニゼニィ!!行くでぇ、みんな!」
 光る目、その目の下の隈、げっそりとした、ような、たるんだ頬・・・守銭奴だ。

 ・・・こういう人がいる。
 片手がようやく入るほどの狭い溝に落としてしまった十円玉を拾い上げ、そのせいで手が溝から抜けなくなってしまい、大騒ぎする人。自分の手よりも十円玉が大切な人・・・


(第十七話に続く)

― 第十七話 奇襲 ―

「支部長。明らかに道、間違ってますよね?」
 ミハダが冷たい視線を前方に向けながら言った。
 車は細い一本道を進んではいるが、辺りには草原が、ただ地平線まで広がるばかりだった。
「地図通りに来とるんやけどなぁ。」
 アソウがつぶやいた。

 景色がどこまで行っても変わらない。
 陽光に赤みが増し始め、夕方が近づいてきていた。
 しばらくすると前方から真緑色をした車がやって来た。

「あ、車や。なんやけったいな色した車やなぁ。ま、ええわ。ちょっと道聞いて来る。」
 アソウは路肩にマークツーを停めると走ってくる車に向って手を振った。
「・・・なんやえらい安全運転やな。」
 確かにその車は遅かった。
 おじいちゃんのこぐ自転車と同じかそれ以下のスピードだ。
 そのスピードでこの景色・・・
 現われた地点からまるで動いてないような気にさせられる。
 
 それでもその車はじわりじわりとこちらに近づき、やがてアソウの目の前で停まった。
「あのぉ、すんまへんが・・・」
 車に近づいていったアソウがぎょっとしたように足を止めた。
 
 運転席に裸のモヒカンが座っている。
 背筋を伸ばし、行儀よく座っているうえ、シートベルトもしっかりとしているが、モヒカンである。しかも裸だ。
 彼の薄い胸がさらけ出されている。
 全裸なのかどうかはアソウの立つ位置からは分からない。
 姿勢良く座っているがために、そのモヒカンの毛先が車の天井に当たり、だいぶ折れ曲がっている。

そして助手席。
そこには辮髪をした男(しかもこの男は真紅の女物のチャナドレスを着ていた)が座っており、さらに後部座席にはチョンマゲをした(もちろんこの男は着物を着ていた)男が両手を後部シートいっぱいに広げて偉そうにふんぞり返っている。

アソウの足が強張ったのも無理はない。
その三人がいっせいにアソウに目を向けたのだ。
ふつうの人間ならパンツを濡らしているところだ。

「なにか?」
 運転席のモヒカンがむっつりと言った。
「・・・いや、えらいすんまへんけど、道を教えてもらお、思うてですね・・・」
 モヒカンが車から出てきた。
  (背ぇ低っ!)・・・と思う前に、その男がちゃんとズボンをはいていたことにまずホッとした。

「ここなんやけど。」
 アソウがギメガの背表紙をモヒカンに見せた。ギメガはいつもながらぐっすりと眠っている。
「こ、ここはっ!」
 その住所を見た瞬間、モヒカンの細い目が大きく見開かれた。
「えっ!?」
 モヒカンの突然の大声にアソウの心臓が一瞬止まった。
「・・・ここから近い。」
「なんやねん!」
 ただの癖だったようだ。

 モヒカン男はそれから親切に道を教え始めた。
「・・・で、その後、道が二つに分かれる。・・・まるで女のように・・・」
 途中でモヒカンがぼそりと言った。
(こ、ここ、ワシ、笑えばええんか?)アソウが迷っている間にモヒカンの説明は続いた。
 そしてアソウは一つ発見した。(この男、むっつりスケベや!)
 
 モヒカンの説明には一々ワイ語が入り、その度にモヒカンは、自分で言っておきながら、にやりとするのだった。
 しまいには彼の話すこと全てがスケベに聞こえるから不思議である。
「・・・一本道に沿ってゆっくりと車を進めると、やがて両側にこんもりとした森が広がり、・・・」
 という具合だ。

「わかったか?」
 モヒカンがアソウに聞いた。
「えらいご親切に。ホンマ、助かりましたわ。」
「うむ。」
 モヒカンが車に乗り、エンジンを掛けてノロノロと走り出すまでアソウはそこに立って見送っていた。
 ・・・と、モヒカンの車がアソウの車の横を通ったとき、モヒカンの車が突然停車した。
 そして、運転席の窓からモヒカンは首だけ突き出すと、
「おいっ!」
とアソウを呼んだ。

「はい?」
 アソウが急いでモヒカンの車に走っていった。
『おい、あの女はお前の・・・コレか?』
 モヒカンが右手の小指を上げてヒソヒソと聞いてきた。
『い、いえ。彼女はワシの助手でして・・・』
 モヒカンにつられてアソウもなぜか小声になる。当のミハダが怪訝そうにこちらを見ている。
『そうか、まだ・・・か。あの日、かな?くっくくく。じゃあな。』
 モヒカンが口を手で押さえて笑いながらふたたび車を発進させた。
 ノロノロと過ぎ去っていく真緑の昆虫のような車を、痴漢にあったばかりのような顔でアソウが見送っていた。

「あそこか・・・」
 アソウが車を停めた。
 一本道の先には、昨日、田崎が我慢できずにウンコした建物の三分の一ほどの大きさの四角い建物が建っていた。
「昨日も思ったんだけど、・・・」
 メガネが言った。
「なんや?」
「いくらなんでも、メガフォルテって金持ち過ぎやしませんか?あちこちに建物持ってて・・・」
「ほんまや。」
 アソウがうなずいた。
「いや、それは違うんです。」
 田崎が言った。
「違う?」
「実は、昨日の建物も、そしておそらくこの建物も、・・・あのぉ、はっきり言うと、勝手に住んでるだけなんです。」
「はぁ?勝手に?」
「はい。メクロ様が目をつけた建物に勝手に、はい。」
「もし誰か住んどったらどないするねん?あ!も、もしかして住民皆殺し・・・?」
「まさか!そんなことしたら・・・、捕まるじゃないですか。」
「捕まるって・・・。お前ら悪の組織やろが。」
「やだなぁ!僕らそんな大それた者じゃないですよ。」
「じゃ、何やねん?」
「宗教法人です。」
「はい?」
「はい、メガフォルテというのは宗教団体なんです。」
「ふざけんな!メクロみたいな変態がどう人間を救うんや?!」
 アソウが叫んだ。もちろん、自分のことは棚の上にさえ上げてはいない。

「いや、ですから・・・。俺も今だから言えるんですけど、確かにメガフォルテの集会に参加すると気分がなんかこう、『俺は世界一幸せな男だ!』って感じで、嫌なことなんて忘れて、ほんとスッキリするんっすよ。今ならメクロ様がギメガを使ってたんだ、と知っちゃいましたけど、そん時はそりゃあ驚きましたね。『あぁ、俺でも生きてていいんだ』みたいな・・・。もう一生メクロ様について行こう!なんて一途に・・・ははははは。」
 田崎が、まるで狂信的な宗教集団から逃げ出してきた信者のように、嘘っぽい晴れがましさで言った。

「えぇぇぇ!あれ、ギメガのせいだったべか!?」
 吉田が悲痛な声で叫んだ。
「自分の彼女に、『浮気しても知らせないでね』って言うタイプのバカ男ね。」
 ミハダが吉田を串刺しにした。
「かわいそうやん、白痴に向って。しっかし、その信者集めの方法は悪どいのぉ。でも、それがまたどうして首相殺しなんてすることになったんや?」
「・・・さぁ?メクロ様の高尚なお思い付きは我々常人の計り知れない・・・」
 田崎が遠い目付きで言った。
「おまえ、まだ洗脳されたままやないかい!ふぅ~む、しっかしメクロのやつ、一体何が狙いなんや・・・?あ、でも案外、思いつきやないか?じゃ、つぎ、首相いこかってな感じで。」
「そんなわけないじゃないですか!日本政府を敵に廻していい事ないですよ。今なら税金も払わなくていいし・・・」
 田崎が言った。
「お前、案外ちゃっかりしとるの・・・。ま、理由はどうあれ、エッセンスはんに対する罪は消えへんのや。とりあえず連中を一網打尽にしてからゆっくり話を聞くか。で、侵入の方法やが・・・」
 アソウの周りに皆、集まった。

「あの門あるやろ?」
 アソウが道の先にある建物のゲートを指差した。
「あそこから・・・入る。」
 皆、黙っている。

 沈黙・・・

『あのぉ~、それからは?』
 静かなので竹田君の声がよく通った。

「以上や。」
「ええ~!」
「なんっすか、それ!」
「なんや、文句あるんか?」
「ありすぎて何から言えばいいかわかないっすよ!」
「うっさい!これでいく!」
「『これで』って何も・・・」

「しかし、この人数では目立ちすぎるんじゃないでしょうか?」
 もっともなことをミハダが言った。
 が、それ以前に、正面から入ることに一番の問題があるような気が、皆している。
「大丈夫や。これ見てみ。」
 アソウが車のトランクを開け、何やらごそごそ探っていたかと思うと、しわくちゃの青いシャツを一着、青い帽子を一つ、『あつそう!ピザ!』のロゴの入った保温袋、そして鼻メガネを取り出した。
「一人分の変装用具や。格好いいやろ?」
「・・・これで行け、と?」
 メガネがメガネを見つめながら言った。
「・・・うん。」
「だれがい・・・」
「君。」
 アソウがメガネににっこり微笑んだ。

(第十八話へ続く)


第十八話 侵入


 愛ちゃんの写真集三十二ページ。
 ここだけは何度見ても飽きることはなかった。
 なんせ、『清純』という言葉を生身にしたようなあの愛ちゃんが、■しながら▲を∵っているのである!
 
― ピンポーン ―
 
 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
モンペをはいた愛ちゃんをじぃっと見つめていた斉藤は、突然の音にサッと机の下に愛ちゃんを隠した。
電光石火のごときその早業に、普段の彼の行いの成果が見える。
しかし、それが玄関の呼び鈴だと気づいた彼は、愛ちゃんを机の上に置くと、面倒くさそうに立ち上がって、部屋を出て玄関に向かった。

「どなたぁ?」
 斉藤がドアの向こうに声を掛けた。
「ピザお待たせしましたぁ・・・」
 (バイトだな)やる気のないその声を聞いて斉藤は確信した。(俺も昔はやってたよ、そのバイト。辞めるときには引き止める店長を振りほどくのが大変なほど一生懸命働いたもんだ。それに比べて、こいつのこのやる気のない声はなんだ!いや、悪いのはちゃんと教育してない店長の責任だな。一つ、電話してクレームつけてやろう。あ、もしかしたら今電話すると、この持ってきたピザ、タダになるかも知れんぞ!・・・それにしても一体誰がピザなんて注文したんだろう?)
「ちょっと待ちな。」
 斉藤がドアを開けた。

 ドアの前には十五、六歳くらいの若者がボサーっと立っていた。
 (この態度!まったく・・・。)
「で、誰宛てなんだ?」
「えぇ~っとぉ、玄関に一番近い部屋に置いててくれって言われましたぁ。」
 (愛想の一つもないのか、こいつ。まったく。客商売ナメてんじゃねぇーぞ)
「じゃ、こっち来て。」
 斉藤の後をメガネがついていった。

「こっち置いてて。」
 斉藤はさきほどの部屋に入ると、テーブルの上に置いてあった愛ちゃんをさりげなくどかして言った。
「ご苦労さん。もういいよ。」
 ピザを見ると空いてない腹も空いてきた。

 構うことはない。喰おう。
 誰かに何か言われたらそんなもの来なかった、と言い通せばいいのだ。
 ピザ屋にクレームの電話でもすれば、客の機嫌を取るためもう一枚くらい持って来てくれるものだ、ということはバイトの経験上、知っていた。

「ん?」
 斉藤が振り返ると、少年はまだそこに突っ立ったままで言った。
「あの、お代・・・。」
 (『お代を、い・た・だ・け・ま・す・で・し・ょ・う・か』だろ!)「っていうか、俺かよ。」

 斉藤は怒りで体が熱くなるのを感じた。
 (絶対食ってやる。ミミも全部食ってやる。)
 宣言した。
 宣言しながら財布から札を取り出し、少年に渡した。
「毎度ぉ!」
 少年がニッと笑った。
 (笑うと案外カワイイ顔してるじゃねーか)
 斉藤が覚えているのはそこまでだった。
 何か硬いものが耳の後ろにコツンと軽く当たり、斉藤の意識は遠のいた。

 メガネは斉藤をすばやく縛り上げると、部屋の隅にある押入れに押し込み、急いで玄関に戻った。
 ドアを開け、門を見るとアソウ達がこちらを伺っている。
 親指を立てて合図すると、アソウ達四人と一冊(まだ爆睡している)がドタドタと駆けてきた。
 彼らは玄関を抜けると斉藤の部屋に集合した。
「ここ、病院だったんっすね。」
 ギメガを抱えた吉田が突然言った。
「どうして分かるんだ?」
 田崎が聞いた。
「家と同じ匂がするっス。」
「へぇ、お前ん家、病院だったのか?」
「いえ、俺ん家ってちょっと古くて、いつも定期的に消毒されてたんっすよ。」
「『されてた』って、一体誰に?」
 ミハダが聞いた。
「はぁ、近所の親切な人達っす。なんでも俺の家から伝染病が発生する、とか言って。」
「ひどい話やな。」
 アソウが珍しく同情的な口調で言った。
「いえ、物心ついたときから消毒されてたんで、気にもしませんでした、はははは。」
「悲惨な人生のスタートね・・・」

「お、いいもん見っけたでぇ。」
 アソウが持ってきたものは建物の案内図だった。きれいなパンフレットで、三つ折りにされている。アソウは机からピザの箱(当然、中身は空である)を床に落とすと、案内図を広げた。確かに吉田の言ったとおりだった。
 そのパンフレットの一番上には『海崖病院研究所案内図』とあった。

「〝病院〟と〝研究所〟。どっちやねん!・・・で、ワシらの今おるところがここやろ。」
 アソウが指で『管理室』と書かれた場所を押さえた。
「それから、部屋がいくつかぐるぅっと真ん中の階段の周りにあるわけやね。ヘンな階段やで。螺旋階段の病院ってなんや。でぇっと、一階にある部屋は全部で・・・え~と。」
「九室ですね。ここを入れて。」
 ミハダが言った。
「それにしてもシンプルな造りやなぁ。」
「個人研究所だったんでしょうね。あ、個人病院か・・・」
「どっちゃでもええねん。あ、ここに院長はんの写真あるで。なんかいかにも、所得隠してますって感じのセンセやなぁ。笑顔が気色悪いわ・・・。なになに、『都々逸大学医学部卒業。アルフォンヌパー大学大学院にて大脳生理学の研究に従事。特に、記憶を司るシナプス部位の特定、そしてその相対劣化に関する研究は世界的に有名』・・・やて。さっぱり意味パーや。紹介になっとらんがな。あ、・・・・おデブはんやがな。」
 太ったアソウがそう言った。
「しぃっ!上から何か聞こえるわ。」
 ミハダの言葉に皆、耳をそばだてた。

「あ、あれは『ナダ会』です。」
 田崎が言った。
「なんや?それ。」
「〝涙〟と書いて〝なだ〟と読ませるんです。新しい団員が入ったとき行う会で、その会を通過した新人が正式に団員として認められるんです。」
「言わば歓迎会、やな?」

「・・・フッ」
 田崎の唇の端がかすかに吊り上った。『ま、お前にはわからんだろうがな・・・』との、言わずに伝わるメッセージだった。
「おまえ今、ワシのこと笑ったやろ!なぁ、メガネ!お前も見てたよなぁ?」
「まぁまぁ・・・。なぁ、田崎。ところで、メクロはその時にコレ、使うんじゃないのか?」
 メガネが、吉田の胸元でぐっすり眠るギメガを指差して言った。
「いいえ、使いません。大体、私達がギメガを見たのは昨日が初めてですから。」
 田崎がメガネの質問に答えた。
「そういえばそうだったな。」
 しかし、信者達の不安を取り除く作業にギメガは必要不可欠のはずだ・・・

「気分が良くなるのはその『ナダ会』の時なのか?」
「いえ。その時は何だか厳かな気持ちになるだけで、特に何も。フクズケを頂くのは、あ、気持ち良くなることをそう言うんですが、それはフクヅケの儀式と呼ばれる儀式の時なんです。その時はメクロ様がお部屋で直々に新人にお会いされ、フクズケされます。その感じはもう・・・」
 田崎はその感覚を反芻しているように、トロンと遠くを見つめた。よっぽど気持ちのいいものらしい。

「ま、それはええとして・・・。ここにこのままおってもラチあかんわ。この地図によると・・・。三手に別れる必要があるな。この部屋出て右と左と二階や。今、外にはだぁれもおらんようだし、今がチャンスや。ワシは二階に行ってそのナダ会とか言うのをちょっと見学してくるわ。ミハダ君とメガネはこっから左行け。田崎と吉田は右や。ええか?」
『あの、僕は・・・?』
 アソウの視線がその微かな声の主の体を通り抜けた。
「今、なんか聞こえへんかったか?」
 アソウが言った。
「ひどいなぁ。じゃ、竹田君は俺達と来いよ。」
 メガネが涙目の竹田君に向って言った。

 それにしても、である。
 人は、真夏の日中に突然降ってきた雪に、どれだけ驚くことだろう?
 地図を指してテキパキと皆に指示を出しているアソウを見ながら、ミハダの目に浮かんでいた驚きはまさに、真夏に雪を目撃した人間の目に浮かぶそれであった。

「この落書き、一体何なのかしら。」
 ミハダが廊下の左右の壁を気味悪そうに眺めながら言った。
 壁一面に描かれていたのは、まるで幼稚園児が描いたような下手な花畑の絵だった。 ペンキがまだ新しい。
 時々、花の周りを飛び回っているコウモリがいる、と思ってよく見ると歪な形をしたチョウチョだったりする。
 実に愛らしい壁画だった・・・、オッサン達がそれを描いたのでなければ。
 
 田崎から昨晩聞いた時、メガフォルテの一団に女は一人もいないことが判明した。
 もちろん子供もいない。
 となるとこの真新しい壁画の作者達(というのもこのお花とチョウチョの数はとても一人では描ききれないものだった)はメガフォルテのメンバー、いわばいい年した野郎共である。
 そのヤロー達が集い、皆してこのお花畑を描いた、ということだろうか・・・。
 ‟病院の幽霊”よりも身の毛のよだつ話である。
 
 メガネ、ミハダ、そして竹田君はそのお花畑の中を歩いている。この廊下の先、左手にドアが幾つか見える。
「とりあえず片っ端から入っていきましょう。」
 メガネが言い、一番手前のドアを開けた。
 そのドアにも不気味な花が描かれている。
 ドアを開けた瞬間、ムッと男臭がした。
 泥のような匂い・・・。

「私、ムリ。次の部屋を見てくるわ。」
 ミハダはそう言うと、さっき吉田から受け取ったギメガを抱えてさっさと廊下を先に歩いていった。
 残されたメガネと竹田君はしばし呆然とその後姿を見ていたが、とりあえずその部屋に一歩足を踏み入れた。

 まず最初に目に付くのは、反対側の壁にある窓、そして、そこに映る夕焼けだった。
 窓は十分に大きいものだったが、沈みかけた夕日の光は弱く、部屋は暗かった。 
 メガネは部屋の電気をつけた。

 パッと光が点き、白い壁にその光が反射すると恐ろしく明るく感じた。
 趣味の悪い廊下の壁画に比べると、殺風景さという点でその部屋はまだましであった。

 寝袋が四つ、部屋の四隅にきちんと畳まれて置かれており、それぞれの寝袋の横にはお揃いの(!)バッグが置かれている。
 たまたまその一つに目をやったメガネは、そのバッグの取っ手に愛らしい熊の縫いぐるみのマスコットが、まるで首を吊っているようにぶら下がっているのに気づいた。

「ちょっと手分けして中を探ってみよう。携帯電話とか、何かのメモ、あとはそうだな、・・・財布、現金なんかあったら知らせてくれ、絶対。」
『わかりました。』
 竹田君がカトンボのような声で答えると、二人はそろってバッグの中身を床に開け出した。

 四つのバッグの中身はほぼ全て一緒。
 要するに、着替え、歯ブラシセット、タオル、などなど。これといった収穫もなかった。

 竹田君、こういう作業が好きらしい。
 無我夢中で歯ブラシセットまで分解している。

 そして、メガネが最後の空バッグの中を再確認しているときだった・・・。

『きゃっ!』

 抑えてはいるが、たしかにミハダの悲鳴だった。
 悲鳴が聞こえた瞬間、メガネの体が動いていた。
 部屋から走り出ると、隣の部屋のドアを開けた。
 誰も居ない!
 次の部屋にたどり着くと、その部屋の開け放たれたドアから部屋の中へと踏み込み、メガネはハッと息を呑んで立ち止まった。

 こちらに正面を向けていたのは体格の良い、長髪の若い男だった。男の寝癖のついた髪、ピンクのパジャマ・・・状況ははっきりしていた。
 ミハダは寝ていたこの男の部屋に入って、彼を起こしてしまったのだ。しかし・・・

 小柄なミハダは男をのけぞらせ、見事なチキンウイングフェイスロックをかけていた。
 男の額には血管が浮き上がり、白目を剥き、唇の端から白い泡があとからあとからこぼれ落ちてきていた。
「ミハダさん、落ちてる!落ちてる!」
 メガネがそう言ってようやく、ミハダがその華奢な手を男の首から外した。
 男がズルリ、と床に崩れ落ちた。

「何が起こったんですか?」
「部屋に入ったらこの生き物にいきなり襲われたのよ。」
 ミハダが男の顔面を軽く殴打しながら言った。
 男の顔が徐々に血にまみれていく。
 ミハダの息が徐々に乱れてきたが、どうもその息の乱れ、疲れからではないような気もする・・・

「も、もういいでしょう、ミハダさん・・・。と、とりあえず、その男、縛ってしまいましょう。・・・三日くらい目を覚ましそうにないですけど。」
 部屋を見回すと、男の寝ていたと思われる寝袋の口が開いていた。
 その寝袋の横には、ミハダの落とした熟睡中のギメガがあった。
 
 メガネはギメガを床から拾い上げると、ズボンの腹側に突っ込むと、白目を剥く男をその寝袋に押し込み、チャックを引き上げて寝袋を閉じた。
 そして、何か縛るものは、と周りを見回して驚いた。
 部屋の隅にお揃いの寝袋、お揃いの寝袋の傍にお揃いのバッグ・・・。
 いわばさっきの部屋とまったく同じ光景だった。
 メガネはすぐ先に置いてあるバッグを試しに開けてみた。
 着替え、歯磨きセット、タオル、などなど。
 中身まで一緒だ。

 メガネはその部屋にあった四つのバッグの中からズボン用のベルトをそれぞれ取り出すと、男の寝袋をそのベルトで四重に締め付け、その寝袋ごと、壁にある押入れの一つに放り込んでその戸を閉めた。
「さて、と。」
 念のためそれぞれのバッグの中身をもう一度確認してみたが、案の定、全くなかった、現金は。
「もう出ましょう。」
 ミハダが言い出し、部屋を出た。
 
 廊下を歩き、しばらく行くと、右手にちょっとした広間が現れた。
 そこはこの建物が病院(研究所?)だったときには待合室として使われていたようで、床の上には長椅子が四つ、奥に向って並んでいた。
 そしてその先、ちょうど建物の中心と思われる辺りに巨大な円柱があった。
 これが地図にあった螺旋階段であろう。
 階段はなぜか壁に包まれ円筒形を成しており、そとから階段が見えない造りになっている。
 そして・・・
 その壁に暖かそうな暖炉が描かれていた。
 病で来ている患者にとって、その避暑地的な絵に一体どんな効果があるというのか?
 夏はどうするのか?
 理解に苦しむ。

その広間を抜けてさらに行った突き当りには巨大な横開きのドアがあり、そのドアに『メルトモ』と大きく、おそろしく下手な手書きで書かれてあった。そしてその名前の下には『寝てるとも』とも書かれている・・・。
注目すべきは、そのドアの右上だった。その、目立たないところに確かに『解剖室』と書かれたプレートがあった。
おそらくメルトモには難しすぎる漢字だったのだ。
そして、周りの人間達の中にも、わざわざそのことをメルトモに告げて彼を嫌な気分にさせようと思うようなひどい人間は一人もいなかった、ということであろう。

 メガネとミハダがそのドアの前に並んで立った。
「『解剖室』・・・ですね。」
「・・・えぇ。」
「・・・入りますか?」
「わ、私は遠慮しとくわ。」
 なんとなくミハダの頬が赤らんでいる。
「あの大男の部屋じゃ、気持ち悪いですよね。じゃ、僕、行ってきます。」
 その大男を事務所から逃がしたのは他ならぬ、この乙女である、という事実を知らぬメガネはウインクをすると部屋のドアに手をかけた。残念、ウインクはミハダに向けた側とは反対側であった・・・。
「ミハダさん、じゃ、これ持っててくだい。」
と、メガネがミハダにギメガを渡したときだった・・・

「ひぃやぁ~!」
「あぁぁたぁすけぇてぇ~!」
 田崎と吉田の悲鳴が遠くで鳴っている。
 こっちに近づいてくる。
 しかも、近づいてくるのは彼ら二人だけの足音ではない。
 もっと大人数だ。
 ドアを開けようとしていたメガネがギョッと後ろを振り向いた。

「はあ・・・。」
 ミハダがため息をついた。
『ミハダさん!こっち!』
 メガネはメルトモの部屋のドアを細く開けると、その中に体を滑り込ませながら素早くささやいた。
「ここは分散したほうがいいわ。」
 さすが、世界公務員女である。
 しかし、メガネにはそのリスク分散の理屈は分からない。ミハダがこの部屋に入りたがらないのは、あのむくつけき外人の部屋だからだ、と思っている。
「じゃあここを・・・トイレだと思えばいいんですよ!」
「・・・。私、さっきの部屋に戻ってるから。」
 ミハダは急いでそう言うと、小走りで走り去ってしまった。
 家を出る時にハイヒールを皆に止められ、今はスニーカーを履いているため、速い。

 足音が近づいてきた。メガネはミハダを追いかけることを諦め、扉を細めに開けたまま、外の様子を眺めていた。           

― ドタドタドタドタ! ―

 足音と共に、田崎と吉田が必死の形相で現れた。そして、その後ろからは三人の男がこれまた必死の表情で追いかけてきている。
「ひいぃぃぃ!」
「まぁたぁんかぁ!田ぁ崎ぃ!吉田ぁ!」
 追いかける方の男達のうち、先頭を走っている男が叫んだ。
「ち、ちょっ、ちょっと待ってください!相田さん!」
 田崎がうめきながら長椅子に寄りかかるようにして立ち止まった。
「ぶぅはぁ、はぁ、はぁ!た、田崎さん!にげ、にげま、しょ、はぁはぁはぁ・・・」
 吉田は勇ましく言いはしたが、田崎がそこで止まってなければきっと自分が止まる役目を担っていたことだろう。

「お前らぁ、がぁ、はぁ、はぁ、はぁ、お、お前らなぁ!」
 相田と呼ばれた男もバテている。
「ひぃぃ!あ、相田さん、助けてください!はぁ、はぁ、はぁ、こ、国家公務員に、お、脅されて、はぁ、はぁ、仕方なかったんですよぉ!はぁはぁはぁ」
「お、脅された二人がぁ、はぁはぁ、何で二人だけでぇ、はぁ、はぁ、ぜぇ、ぜぇ、一緒に部屋を、ほぉ、ほぉ、ほぉ、さ、探っているんだあ!がぁ、はぁ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、オ、オラにぃ、はぁ、はぁ、はぁ、か、関してわぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・」
 吉田が肩で息をしながら言った。
「た、田崎さんにぃ、はぁ、はぁ、お、脅されました・・・。」
「よ、吉田!こ、この野郎!」
 ようやく呼吸が落ち着いたと思ったらいきなり仲間割れを始める、愉快なミジンコ達であった。

「ま、とりあえずメクロ様のとこ連れてくからよぉ~。フウフウフウ。か、覚悟しときな。」
 相田が言った。
 それにしても相田という男、ちょっと頭がおかしい。
 いや、中身ではない。
 表面の方だ。
 そのおかしさは彼を正面から見ると分からない。
 それは彼の後ろ髪にあった。
 彼は後ろ髪、しかも裾だけを、極端に長く伸ばし、首の辺りでまっすぐ横に切り揃えていた。
 後ろから見ると彼の頭は上方が丸く、下方が長方形をしている。まるで、のり弁のご飯部分のようにも見える。

その彼を後ろから見ていたメガネは今、悩んでいた。
(ほら、あのあれだよ!えぇっと、なんてったっけなぁ~!)喉元まで出掛かっていた。
メガネは一人、モンモンと思い出しに努めていた。
(ロケット→彗星→キャップ→ハニ丸→ジャジャ丸→・・・みたいな。うーん、その辺りにありそうなんだけどなぁ!)メガネ、それどころじゃないはずだが・・・

(あ!そうだ!そうだ!前方後円墳!そう!前方後円墳!あぁ、すっきりしたぁ。)

「ん?」
なんだか外が静かになったと思ったら、男達が田崎、吉田を取り囲んでウンコ座りで何やらヒソヒソと話している。細かいところまでは聞こえなかったが、話の断片で充分だった。
断片1.『・・・ま、大人の魅力ってモンを形にしたような人ですね・・・』
断片2.『・・・とんでもなくセクシーだべ・・・』

 話済み、やがて立ち上がった男達の目がぼんやり据わっている。
「では、まぁ、お前たちをメクロ様に渡す前にだな、ちょっと、その、ミハダって女もだな、うん、ちゃんと捕まえようかな、とだな。グフフ」
 相田は自分の涎が垂れてることにすら気付いてないようだった。

 (いかん!)メガネは思った。メガネの脳内で計算機が素早早く立ち上がった。
 (スケベな男達→ミハダの怒り→見境のない殺戮→世界公務員本部の怒り→アソウの減給→メガネの報酬減)しかも、アソウのことだ。メガネの報酬を最悪踏み倒すことも充分あり得る!

 メガネの行動は早かった。
 彼はそっとドアを閉じると室内の明かりを点けて周りを見回した。
 床には衣服やゴミが散乱し、壁には服が何着かぶら下げられている。
 部屋の隅に机が一つ、中央には元解剖台だと思われる台がでんと置かれている。
 その台の上に、よりによって真っ赤な布団が敷かれている。
 メルトモの、・・・寝台であろう。
 リサイクルと言えなくもない。
 メルトモは元解剖台の上でどのような夢を見るのだろうか?
 
 メガネは、メルトモの枕を手にすると、急いでその端を裂いた。
 そして、その中に詰められていた綿を取り出すと、そこら辺に転がっている飲み物の空き缶の中から一つ拾い上げ、その中に綿を一杯に詰め始めた。
 それから彼は部屋の隅に走ると、机の上に置きっぱなしになっているセンベイ(多分、センベイ)の袋から乾燥剤を取り出すと、その中身の、角砂糖のように透明な物質を部屋のあちこちにまんべんなくばら撒いた。
 次にメガネは壁に掛けられていた皮の帽子を手にし、綿を詰めた空き缶を持つと、部屋の角にある水道まで走った。
 最初は空き缶を、次に帽子を水で満たすと、それらをドアの横、部屋の電気のスイッチがある方の壁の床にまとめて置いた。

 それだけ済ますとメガネはまたドアを少し開き、外の様子をうかがった。
 待合室から男が五人、ちょうどこの部屋とは反対側の方へと歩み去っていこうとしているところだった。
 田崎と吉田が先頭を歩いているのだが、二人の態度は捕虜のそれではない。
 その足取りはむしろウキウキと軽い。
 そこまで見て取ると、メガネが空の空き缶を部屋の中央に放り投げた。空き缶はガランガランとけたたましい音を立てて部屋の床を転がった。

「ん?なんだ?メルトモ様の部屋からだな?」
 部屋まで走り戻ってきた男たちが、パッとメルトモの部屋のドアを開けた。
「あれ?おかしいな。部屋の電気が点いてるぞ。あんなに省エネにうるさいメルトモ様が電気を点けたままでいるはずはないのだが・・・。」

 彼らがどやどやと中に入り、その真ん中まで来たときだった。ドアの陰に隠れていたメガネはパチッと部屋の電気を消し、メルトモの帽子に貯めておいた水を床にぶちまけた。
 水は部屋中を満たし、ばら撒かれていた脱臭剤と反応するやいなや、猛烈な煙を発生させ、その白煙が暗い室内を急速に満たしていった。

「うおぁっ!何だ、何だっ!いったい、どう・・・ゲホォッ、ゲホォッ!」
「ゴホォッ!痛いっ!誰か俺の足踏んだぞ!ゴホッ!」
「ゴホッ!あっ!・・・エッチ。」
「おわあぁぁぁ!手、手が落ちてる!ケホッ ケホッ!」
「ゴホオォン!ば、ばか!俺の足を踏んでんだよっ!グホッ!は、早く、どけろっ!ゴホッ、ゴホッ!」
 あっという間に恐ろしい騒ぎになった。
 
 その騒ぎの中、メガネは見当を付けておいた男二人の腕を捕まえると、急いでドアから部屋の外に連れ出した。
「ゲホッ、ゴホッ!あ!メ、メガネさん!」
 田崎が驚いて叫んだ。
「グホッ、グホッ!だ、誰だ、グホッ、お前は?」
 相田が叫びをもらした。
「あ、間違った。」
 メガネは急いで前方後円墳の『円』の部分を水綿缶で殴った。
「ぐぅ・・・」
 相田が卒倒した。
「そこで待ってろよ。」
 メガネは田崎にそう言うとまた部屋の中へと入っていき、今度はちゃんと吉田を連れて出てきた。
「あぁ!ゲホッ、ゲホッ!メ、メガネさんっ!ガホッ、グホッ!お、おら、ゴホッ、メ、メガネさんに会いたくて、会いたくて!ズホッ、ズホッ・・・」
「・・・お前達のことはミハダさんに後で報告するとして、今はとりあえず、このドアをふさぐぞ。お前達、ドアを押さえてろ。」
 ドアの内側から『ゴホッ、ゴホッ!ドアだ、ド、ドアッ!早くドアを開けろぉっ!』と叫ぶ声が微かに聞こえ、ドアが内側から開かれようとした。しかし、田崎と吉田が間一髪でドアを押さえ込み、顔を真っ赤にして全身でドアを押し止めた。
「よぉ~し。そのまま、そのまま。」
 メガネはそう言いながらメルトモの靴を出すと、そのゴムで出来た踵の部分を床に何度か強く擦りつけ、そのままドアの下の隙間にグイッとそれを押し付けた。
 摩擦熱で変形したゴムが隙間にぴたりと張り付いた。

「手を離してもいいぞ。」
 メガネが言い、田崎と吉田が恐る恐る手を離した。
 屈強な男三人に全力で押されているにもかかわらず、ドアはビクともしない。
「すごい!一体どうやったんですか?」
 田崎が興奮して言った。
「安物のゴムは色々使いようがあるんだよ。とにかくミハダさんとこ行くぞ。ついて来い。」
 メガネがそう言って走り出した。
 二人がそれについていく・・・
 
「これで五人消えたことになるわね。」
 ギメガを持ったミハダが言った。ちなみにギメガはまだ寝ている。
 ミハダが〝起き抜け男〟に襲われた部屋である。
 ミハダは果敢にもその部屋で一人、メガネを待っていた。
 (どれだけミハダさんが心細かったことか!)メガネがその部屋のドアを開けたとき、ミハダがその瞳に涙を一杯に溜めて自分を見あげたのだ。 
 (俺はこのことを一生忘れまい!)とメガネは思った。

〔実際は、ドアの外を近づいてくる足音でミハダは目覚め、アクビ交じりに起きたところだった]

「はい。」
 胸一杯のメガネが答えた。
「とりあえず敵の正確な人数を知っておく必要があるわ。」
 ミハダの目が光った。狩人の、そして肉食獣の目だ。

「メガネ君、ちょっとあの変態野郎をここに出してきてちょうだい。」
「メガネさん、変態野郎って?」
 田崎が聞いた。
「いや、この部屋に一人捕まえたヤツがいてな・・・。とりあえずそいつを見ればお前たちも誰か分かるんじゃないか。」
 メガネはそう言うと、押入れの扉を開いた。その中には、寝袋で簀巻きにされた男が気持ち良さそうに眠っていた。

「あ、レンだべ。」
「ほんとだ。」
 二人とも妙に冷たい。
「どんなヤツなんだ、こいつは?」
「やなヤツだべ・・・。」
「こいつホント、格好ばっかなんすよ。」
「格好ばっかってどういうことなんだ?」
「いや、コイツ、要領いいんだべ。仕事は早いし、覚えは良いしで、オラより遅く入ってきたくせしてもうメルトモ様の片腕気分だべ。」
「じゃあ、お前らをバカにしたりするってことか・・・」
「いんや。」
「いや。」
 吉田と田崎が憎悪に燃えた目で同時に答えた。
「は?」
「こいつ、その上、すっげぇいい奴なんだべ。」
「そうそう。いつもニコニコしてやがって、なぁ?言葉遣いは丁寧だし、礼儀正しいし、その上、涙もろい・・・」
「お前たち・・・。言ってる自分らが恥ずかしくならんか?」
「いんや。」
「いや。」
 ミジンコ達がまた揃って答えた。

 ミハダに殴られ、膨れ上がったレンの顔を改めて見ると、田崎、吉田よりも遥かに神々しい顔付きをしている、ように見えなくもない。

 ドガッ!

 いきなりミハダが傷だらけのレンの顔を踏みつけた。
「えっ!なっ!ミ、ミハダさん!」
「こうでもしないと起きないわよ。」
 グリグリグリ!
 ミハダがスニーカーの底でレンの顔をこすった。
 恐ろしい眺めだった。
 見ている男達の背筋は自然と伸び、自然と直立不動の姿勢をとっていた。

「う、う~ん。」
「あ、目を覚ましたべ。」
 ドガッ!
「さっさと起きなさい!」
(ミ、ミハダさん、やめ・・・)
 メガネがプレデターにあやうく日本語で話しかけようとしたときだった。

「あ、あなたはさっきの!」
 レンがミハダを見ると言った。
「さっきはよくも私を襲ったわね!」
「襲った?いいえ!襲うだなんてとんでもない!あなたが僕のバッグに躓いて倒れそうになったのを助けようとしただけなんです!」
「嘘おっしゃい!・・・む、胸を揉まれたわ!」

(ウ、ウソついた・・・)
 皆、そう思った。しかしミハダに対して、口が裂けてもそれは言えない。

「そ、そんなこと僕しません・・・」
 レンの顔はポッと赤くなった。恥ずかしがっている様を見るとまだ十代のように見える。いや、実際、十代なのかも知れない。

 ドガッ!

 またミハダがレンの顔を踏みつけた。
「ホントに嘘の好きなボウヤね。立派な大人になれないわよ。」

 ドガッ!

 『立派な大人』がまたレンを殴った。
 レンはそれでもミハダに微笑んだ。
「でも、怪我がなくてよかったですね!」

 ドガッ!ドガッ!

「質問してるのはあたし!分かる?あ・た・し!あんたは余計な口をきかずに私の質問に答えればいいのよ、わかった?」

 ドガッ!

 レンが何か言う前にミハダが殴った。
「わ、分かりました!殴らないでください。お答えしますから!」
「最初からそうやって素直に出ればいいのよ。手間かけさせやがって・・・ぺっ」
 ミハダに何か憑依したようだ。
 質のよくないヤーサンの霊みたいなのが・・・。

「あんた達の正確な人数は?」
「貴方たちは一体な・・・」

 ドガッ

「質問にだけ答えなさい。」
「さ、三十二人で・・・す。」
「案外居るのね。」

「ふぅあ~!よく寝たぁ~!」
 その時、ミハダの手の中でギメガが目覚めた。
「うわぁっ!本が喋ったぁっ!」
 レンが叫んだ。
「ん?何よ、このガキ。張り飛ばされたいの?」
 ここにもまた、ミハダとよく似たタイプの生き物がいた。
「じゃ、あなた、もういいわ。」
 ミハダはそう言うと、レンの頭上で足を持ち上げた。

 グシャッ!

 ・・・良かったのかもしれない。
 そう。
 レンは苦痛の無い、暖かな国へと旅立っていったのだ。
 『もっとやさしくしてればよかったべな・・・』後悔はいつも遅すぎる。
 勇者を見送る六つの瞳に涙が・・・流れない。
 だって、明日は我が身、ですもの。

「さて、どうやって上の連中を始末するか、ね。」
「そういえば、・・・アソウさんはうまくやってるんでしょうか?」
 メガネが思い出したように言った。
「ちょっとぉ!何がどうなってんの?っていうか、一体ここどこなのよん?」
 野太い鼻声のオネエ言葉がミハダの手から沸いてきた。またうるさいのが一人増えたのだった。

(第十九話へ続く)


― 第十九話 アソウとメクロと仲間たち ―

 さて、メガネ達と別れた後のアソウの行動だが、大胆というか、無策というか、アホというか・・・。
 ま、結論からいうと、彼のナダ会への潜入は成功した。

 メガネ達と別れたアソウはそのまま、円筒形の螺旋階段のその向こう側の壁に設置してあったエレベーターに乗り、二階へと上って行った。
 もうこの時点で彼が、<エレベーターが開いた瞬間、敵が目の前にいたら?!>などと考えてなどいなかったことが分かる。
 しかも彼はエレベーターの電光数字を見ながら鼻歌なんて歌っていたのである。気分は我が家だ。
 
 エレベーターが開き、外に出ると、アソウの目の前、そして右手、の二方向に薄暗い廊下が広がっていた。
 正面の廊下をずっと行った先には、『目苦呂』と真っ赤な文字で書かれたドアがうっすらと見える。
 (あいつ、コードネームに漢字はご法度やとあれほどエッセンスはんから言われとったのに!)アソウが廊下をそのドアに向かって進もうとした時だった。

「メクロ様ぁ~!メクロ様ぁ~!」
 不気味な合唱が右手から聞こえてきた。
 アソウはちょっとためらった末、声の聞こえてきた方に行くことにした。

 歩くのに不自由するほどではなかったが、極端に照明の落とされた廊下だった。
 その廊下もあとすこしで終わろうとしたとき、正面に光が見えた。
 アソウは足を止め、体を廊下の壁にくっつけると、顔だけ出して中の様子を窺った。

 そこはちょっとした広場のようになっており、二、三十人の男が立ち並んでいる。
 皆一様にこちらに背を向け、正面を向いている。
 正面には、おそらく舞台があるのだろう、スポットライトを浴びたメクロ、その横にメルトモ、そして椅子に座らされ、恥ずかしそうにしている若い男が一人、皆よりも頭二つ分ほどの高みに居る。

「さぁ、何も恥ずかしがることはない、エミリー!」
 メクロがその若い男に、厳かに告げた。
 (は?エミリー?)鳥肌が立った。
「ワシの言葉を繰り返しなさい・・・。
   メクロ様 メクロ様、はいっ!
   〈メクロ様 メクロ様〉
   あなたは今ぁ、はいっ!
   〈あなたは今ぁ〉
   私のオフクロ様ぁ、はいっ!
   〈私のオフクロ様ぁ〉
   あなたのお乳をぉ、はいっ!
   〈あ、あなたのお乳をぉ〉
   くださいぃ、はいっ!
   〈くださいぃ〉        」

 (おい、おい。ちゃんと繰り返しとるがな、エミリーちゃん。そうとう恥ずかしいやろな・・・)そう思い、アソウがちらっと手前に目を移すと、アソウの居る場所に一番近いところで立っている男が咽び泣いており、しきりと顔を手で拭っている。
 (・・・どこや?どこで泣いとるんや、こいつ。こわいっちゅうねん、ほんま)アソウはその思いをぐっと胸に押し込めると、泣いている男の横までそっと歩いていった。
「ぐふぇっ!ぐふぇっ!」
 横に並んでみるとその男が、ともすると大きくなりそうな自分の声を必死で押さえつけながら泣いているのがわかる。
「くくぅ~っ!」
 その男の傍に立ったアソウが、男に負けじと泣き出した。
「ぐふぇっ!・・・」
「ぐくぅ~っ!・・・」
 二人のくぐもった声が辺りに響く、かと思いきや、周りの男達も皆、号泣したい気持ちを必死で抑えていたようで、男たちの、まるで巨大な腹鳴りのような、くぐもった音がその場に満ちていた。

 アソウが耐え切れずに、隣の男の肩に摑まって泣き出した。
 掴まれた男も堪えきれずにもらい泣きを抑えられなかった。
「ホ、ホンマ、すてきや!なぁ?ぐふっ!」
「そうだな。・・・う!い、いかん、お前、な、泣くなよ!」
「な、泣くなっちゅうたかて・・・ぐふぅっ!あ、あんたかて、泣くのやめなはれ!」
「と、止まらないんだよぉ!ぐわぁあああ!」
「や、やめなはれ!男やろ!お、おと、・・・ぐふぅううう!」
 とうとう男とアソウの二人はお互いに抱きしめ合い、声を張り上げ合って泣き出した。

「グスッ!と、ところでこれ、いったい何の儀式なんや?」
 ひとしきり泣き上げたところでアソウが男に聞いた。
「ひっく!な、何だ、お前、そ、そんなことも・・・」
「ひぐぐぐぅっうっ!」
「うぅ!や、やめろぉ!もうこ、これ以上泣かせないでくれぇ!ナダ会が台無しになっちまう!」
「ぐふぅっ!そ、そやな。で、あの舞台に立つエミリーってな、何者なん?」
「はぁ?お前、なんでそんなことも知ら・・・」
「うぐぅぁっ、はぐぅっ!」
「わぁっ!もうやめてくれぇ!な、泣くなぁ!あ、あいつは昨日来た殺人集団、トウハーツのリーダー、チョンマゲの弟じゃないか。」
「そ、そうやった、そうやった。うぐっ、ひっく。で、トウハーツって今ここに居るん?」
「うぅ・・・、い、いや、あいつらならさ、さっき世界公務員達を始末しにヤツラのアジトに向ってるはずだ。」
「そうなんやぁ・・・。うぅぐ。で、トウハーツって、も、もしかして三人組で、モヒカンとか居るんじゃ・・・?」
「あ、当たり前じゃないか。ふぅぐっ。チョンマゲ、モヒカン、ベンパッツンって言ったら裏の世界じゃ有名らしいぜ。うっうっ」
「ふぅ~ん。」

「なんでもな、メクロ様の大切な物を世界公務員達に取られたってことでメクロ様は大そうお怒りで、ウガンダから彼らをわざわざ呼んだらしいぜ。そしてな、お前、知ってるか?」
「ん?何をや?」
 男が声を低めて言った。
「メクロ様は首相の暗殺もそのトウハーツに命令してるってよ!」
「ホ、ホンマか?」
「おい、でも、これは内緒だぜ。誰にも言うんじゃねぇぞ!俺も偶々昨日、メクロ様の部屋の前を通ったときに聞いちまったことなんだから。」
「メ、メクロ様の部屋って、エレベーターの向かい側にある部屋やな?」
「そうだよ。お前、ほんと何にも知らねぇな。」
「す、すんまへん。で、このナダ会ってまだ続くんでっか?」
「いや、あと一時間くらいで終わりだ。」
「はぁ、ほうでっか・・・。じゃあナダ会終わったらまた会議でもあるんやろか?」
「自由時間らしいぞ。でも外出は禁止されてるけどな。ま、外に出たとしてもここには何もないし。」
「そうですな。じゃあ皆部屋で待機ってことやね。」
「ま、そういうことだな。」

「下の階で皆生活しとるわけでんな・・・。メルトモ・・・様とかも下の階でっか?」
「そうだよ。そうそう、メルトモ様の部屋のこと知ってるか?あの人、『解剖室』に住んでんだよ。ひゃっひゃっひゃ!笑うだろ?」
「『解剖室』?」
「そう、『解剖室』。一番広い部屋だってんでメルトモ様が自分で選んだ部屋がなんと、『解剖室』。ほら、あの人、漢字読めないから。」
「ほほう。じゃあエミリーもこれが終わると下に来るんでっか?」
「そうだろ。トウハーツが帰ってきたらすぐにフクヅケ式するってプログラム表に書いてあったからな。」
「フクヅケ式?」
「ほら、お前も受けたろ?あの、メクロ様と二人っきりでする、スゲー気持ちいいやつだよ。」
「あ、あぁ~!あれ・・・ね。あ、あれはすごかったなぁ~。なんか耳の尖った宇宙人とか来ちゃって・・・」
「何の話してるんだ、お前・・・。メクロ様と二人きりで受けたアレだよ。」
「そうそう二人っきりで!脱がされて・・・」
「脱がされねぇーよ!まぁ、メクロ様が額に指を突き立てるのにはびっくりするけどな。」
「そ、そうそう!爪痕がすぐに消えたら若さのあかしって、な!」
「お前、アレって何か知ってるか?あれはな、お前の過去の嫌な記憶をメクロ様が取り去ってくれるんだよ。」
「記憶を取り去る?」
「そぅ。本人がその記憶を嫌だと思えば思うほど気持ちよく感じるんだってよ。」
 なぜかアソウはそのとき、この建物を病院臭いとすぐに看破した吉田の実家には、はたして冷蔵庫はあるのだろうか、とふと思った。

「あ、でも、ワシ、記憶はちゃんと残ってまっせ?」
「そりゃそうだ。メクロ様も俺たちくらいのヤツらだったら完全に記憶をなくすまではしないんだよ。まぁせいぜいその嫌な記憶を吸い取るくらいなもんらしいぜ。」
「はぁ、そうでっか。」(確かにこいつ、いかにも雑魚って顔しとるわ・・・)

「でもよ・・・」
 男がアソウに顔を近づけて言った。
 男の口からは腐った納豆の魚のような臭いがした。
「メクロ様が恨んでる相手とかだとそりゃもう、ひどいことになるらしいぜ。」
「どうひどいんで?」
「なんでも、体から汁気を全部吸い取ってしまうらしくてよ。結局、後に残されるのはただ干からびたミイラみたいな体だけ!だってよ。」

「ひ、ひどいやんか!それで、メクロのヤ・・・様の恨んでる相手っていうのは例えば誰なんでしょうね?」
「はははは。冗談だろ、冗談!メクロ様が怒ったときには『ギメガ帳に載せるぞ』って言うらしくてさぁ、それを聞いたらあのメルトモ様でさえ真っ青になっちゃうんだって。はははは。メルトモ様もジョークが分かんないよなぁ。大体、本気で殺したいってほど人を怨む人間なんてそもそもいるわけねぇじゃーか。ホント困っちゃうよ。ははははは」

 (何てヘブンなヤツなんや、こいつは・・・)
「あ、ワシ、ちょっとトイレ行ってきますわ。」
「おう、すぐ戻って来いよ。また共に泣こう、同志よ!」
「もちろんですわ!ほな。」
 アソウは男と別れると、まっすぐにメクロの部屋に向かった。
 舞台では上半身裸になったエミリーが、両手に蝋燭を持って掲げられた棒の下を上向きでくぐっている。

― カチャッ、カチャッ ―

 むうぅ・・・。開かない。
 (あのむっつり、いっちょまえに鍵なんてかけとるで。世界公務員日本支部代表をナメんなよ)
 アソウは周りを見回してピッキングに使えそうな道具を探したが何も見つからない。
 最初彼は、静かにドアを押したり引っ張ったりしていたが、イライラしてくるにつれ、その方法は荒っぽくなっていき、ついにアソウはドンドン!と足で思いっきりドアを蹴り出した。
 その甲斐あって、ようやくドアが開いた。

「はぁ、はぁ、はぁ、人間様をなめるなよ、ドアの分際で!はぁ、はぁ、はぁ」
 アソウは肩で息をしながら勝ち誇って言った。
 そして、メクロの部屋にいざ足を踏み入れようとした時だった。
 彼は、全身に視線を感じてふと後ろを振り返った。
 そこにはメクロ、メルトモ、そしてその他大勢、がずらりと並び立ち、無言でアソウを見ていた。
 あの、涙男もいて、アソウと目が合った。
 涙男がアソウに向かって小さく手を振った。
 ちょっと恥ずかしそうだった。


(第二十話へ続く)


― 第二十話 邂逅 ―


 その部屋は廊下よりも暗かった。
「おい、メクロ。お前、まだ童貞やろ?」
 アソウがいきなり言い放った。
「・・・」
「ほんま、暗いやっちゃ。だからお前は童貞なんや。男としての道程や・・・」
「・・・」
「関係ないやんっ!」
「・・・」

 アソウはメクロの部屋に居た。
 二人っきりだ。
 三十年ぶりの邂逅だったが、ちっとも嬉しくも懐かしくもない。
 なぜなら両手を縛られてるから。
 メクロはキモイから。
 (アソウ自身は自分がメクロに似ている、などとは夢にも思ってなかった)
 
 アソウがこの部屋に運ばれてから一時間近くが経っていた。その間、メクロは一言も口をきいていない。
 最初のうちこそアソウも必死で無口を貫いていたが、そのうち、喋りた病のアソウは沈黙に耐え切れず、皮膚に赤いブツブツができ、全身が痒くなってきた。
 限界だった。
 ほっとくと命にもかかわる。
 こうして、アソウの口を突いて出てきた言葉が『童貞』云々だった。
 さらに己ツッコミだ。
 寒さは肌身に染みるが、痒みはおさまった。

「明日・・・」
 アソウがハッとした。
 初めてメクロが口を開いた。
 三十年ぶりに聞くメクロの声だった。

「明日、ロロリコンを殺る。」
「はぁ?ロロリコンってなんや?・・・あっ!あー!もしかしてあの本部で超優等生やったあのロロリコンかぁっ!」
「わざとらしいヤツだ。そんなおかしな名前は一つしかないだろ。」
「劇場効果や。でも、なんでヤツを・・・。ん!もしかして首相って本当にヤツなんか?」
「そうだ。ヤツだ。」
「噂には聞いとったが、・・・。それにしてもなんで、あんなウンコ優等生が一国の首相になれるんやぁっ!」
「知らん。でも事実、ヤツは首相だ。まぁ、俺にとっては好都合だったがな。くぅっくっくっく」
「お前の笑い方、ホンマ、キモイでぇ。」
 アソウがしみじみと言った。

「うるさい!・・・いずれにせよ、明日以降、全てが変わる。最初は日本、そして徐々に世界が、だ。俺が全てを変えるのだ!」
「お前なぁ、今日びそんな寝言は悪の組織でも使わへんで・・・」
「フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ・・・・」
「笑いが長いわっ!」
「おい、アソウ。世界公務員本部にいるとき、俺もまたお前と同じように記憶媒体を開発しようとしていたのを覚えているか?」
「あぁ、覚えとる。」
「そう、俺はとうとう成し遂げたのだ。お前も知ってる通りな。」
「〝ギメガ〟やな。」
「そうだ。」
「・・・ちょっとカッコエエ名前やん。」

「・・・だろ?」

「で、それと世界征服と何の関係があんねん?」
「お前、今の世界を動かしているのが一体何なのか、知っているか?」
「情報やろ?」
「・・・当たり、だ。・・・当てんなよ。」
「『記憶装置』『記憶装置』って振ってきたんはお前の方やんか。」

「・・・まぁいい。で、俺が生み出したのは、ただの記憶保存装置ではない。ギメガは無限量の情報を保存することはもちろん、その情報を取り入れる手段も、二次元だけじゃなく、三次元体からも吸い取ることができるのだ!それが何を意味するかわかるかっ!アソウ!」
「人の記憶を盗ることができるようになったんやろ?」
「・・・当てんなよ。すなわちっ!」
「うっさいわ!」

「すなわち、ある人間からその人間の記憶を消去すること!そして別の記憶をその人間に埋め込むこと!ギメガを使うとそれが出来る!イコール、人間を支配できる、ということだ。そう、人の記憶など物にしか過ぎないのだよ、アソウ・レイ・・・」
「ワシ、ファミリーネームないねんけど・・・」
「すなわちっ!俺が、俺の記憶を持った人間をその国の政府中枢に送れば、いや、もっと手っ取り早く、その国のトップ自体の記憶を俺の物にしてしまえばその国は俺の物になる、というわけだ!のわぁっはっはっは!」

「へぇ~。・・・ん、ちょっと待て。そしたら四の五のいわんと、さっさと首相の記憶盗ったらええやん。」
「だからお前の脳は女の憧れって言われるんだ。」
「・・・・・・・シワ無しってことか。二秒、考えたやないかい!」

「首相の記憶を強引に奪ったとしても、人民はついていかんだろ?わかるか、ノータリン?」
「お前がゆうたことやなかいかい!!」
 メクロはもう、アソウの顔すら見ていなかった。虚空を見つめるその目には、何か強烈な炎が宿っている。
「そう、だからこそ首相の殺害・・・。人間は誰でも死にたくない。だから死の恐怖の前では何にもできないのだ。生き死ににかかわる恐怖こそが人民を統べる方法なんだよ!・・・アソウ・レイ。」
「だから、誰やねん、それは!・・・でも、ま、確かにそうゆうもんかも知れへんな。」
「まぁ、死に行くお前には関係のないことだがな。」
「えぇ~!ワシ殺されるん?」
 アソウが上目遣いにメクロを見上げた。
 ・・・この男、今、多分、媚を売っている。

「おい、・・・こっち見るな。」
 気持ち悪そうな顔でメクロが言った。
「まぁ、今頃、お前のつれて来た他の連中も捕まってる頃だろう。」
「なぁ、あいつら捕まえたら、ワシ、開放してくれへん?」
「駄目だ。」
「もぅっ!メクロ君のいけずぅ~!」
「・・・」

(第二十一話に続く)


― 第二十一話 みぃんな、捕まる ―


 そして一階。
 あの暖炉(の絵のある)待合室。

「いたぞぉ~!こっちだぁ~!」
「よぉし、そっちに追い込め!」
 牧場でよく聞くセリフだ。

 最初に捕まったのは意外なことに、ミハダだった。
「ねぇ、あなた。この手、ちゃんと洗ったんでしょうね?」
 捕まっている方が、捕まえた方を『屋上から目線』だ。
「あ!す、すいません・・・」
 捕まえた方、完全にビビっている。

「もう二人、捕まえました!」
 田崎と吉田もまた待合室に連れてこられた。
「あっ、ミハダさんだ!ミハダさぁ~ん、捕まっちゃいましたぁ、はははは!」
 吉田が明るい。
「ちくしょういっしょうけんめいにげたのにつかまっちゃ・・・」
「田崎、セリフが棒読みよ。」

「よし、これであのアソウとか言ったヤツの仲間の全部だな。こいつらまとめて上に連れてけ。」
「はっ!」
 吉田が言った。

 ドガッ!

「なんであんたが答えてんのよ。」
 吉田の後頭部にミハダの上段スニーカー蹴りがめり込んだ。
「あれっ?メガ・・・」

 ドガッ!

 田崎にミハダの会心の一撃!
 田崎は意識を飛ばされた!

 連れてこられたのはメクロの部屋だった。
「ほう、こいつらが一味か・・・」
 メクロが一味を見た。
 いや、正確には彼の視線は一味の誰にも向いてなんかない。
 彼のそのまばたきのない視線はただ一点、ミハダに、もっと正確にいうと、ミハダの胸にまっすぐ向けられている。

「おい、ムッツリ!その目、やめんか!」
 アソウが言った。
 しかし、アソウが注意する必要はなかったようだ。
 ミハダの体から上にのぼったメクロの視線が、ようやくミハダの顔に達したとき、メクロはミハダの目をまともに見てしまった。
 怒っているときのミハダの視線は十キロメートル先のチンピラを打ち抜く、という。
 メクロはそれを、一メートルと離れずモロに見てしまったのだ。
 これでもう彼は、ミハダの顔を、たとえどれだけ機嫌の良い時の彼女の顔でさえ、二度とまともに見ることはできなくなった。
 ちょっと漏れちゃったかも、とメクロは思った。

「で、ギメガ帳は一体どこにあるのだ?」
 精一杯の威厳を取り繕いながらメクロがミハダに聞いた。
 誰もが明らかに手ぶらで、ギメガ帳どころか財布すら持っていなかった。
 しかし、そう聞いたあと、彼は激しく後悔した。(アソウも田崎も吉田もいるじゃん!なんでこの女に聞くんだよっ、俺っ!)

一方でアソウは、ビビリながらもメデューサに立ち向かっていくそのドン・キホーテの勇気を認めないわけにはいかなかった。
アソウと二人きりの時とは話し振りまで違っている。
さすが、一団を率いて首相暗殺を計画するだけのことはある。
言葉に迫力が、重さがある。

(こいつ、)
アソウは思った。
(・・・大人になってる)

「なんの話でしょう?」
 ミハダが真っ直ぐな視線をドン・キホーテに向けたまま、答えた。
「ええぃ、しらばっくれるんじゃない!」
 ミハダを直視できないメクロは、田崎を睨みながら言った。
(え、俺っ?)田崎がメクロに睨み付けられて混乱している。

「まあ良い。そのうちトウハーツが戻ってきたら意地でも吐かせて・・・あっ!」
 メクロはようやく気付いた。
「メルトモっ!トウハーツに急いで連絡しろ!すぐ帰ってくるように言うんだ!」
「あ、あの、メクロ様、それがそのぉ、メルトモ様がどこにもいないのです・・・」
 部屋にいた部下の一人が言った。
「な、なにぃ!・・・ま、いいや。じゃあ、お前、早くトウハーツに連絡して戻ってくるように言うんだ。」
「はっ、かしこまりました。」
 彼は急いで部屋を出て行った。
「まったく、手間をかけさせやがる・・・。」
 言いながらメクロの脳がフルに回転し始める。

(こいつらがここに居るということは、どうせアソウのことだ、ギメガ帳をきっとここに持ってきているはずだ)
「メクロ様ぁ!ごぉめんなぁさい!」
 メルトモがのぉっそりと部屋に現れた。
「お、お前!・・・今まで一体どこに居た!?」
「はぁ、トォイレでぇす。・・・なんせぇ、ティッシュペーパーが足りなかったですか?」
 この部下が素手じゃなく、ちゃんとティッシュペーパーを使っていた、ということはちょっと新鮮ではあった。

「・・・まぁいい。とりあえず世界公務員達はこうやって捕らえた。」
「ワァオ!おひさぁしぶぅりですねぇ。」
 メルトモが満面の笑みでアソウ達に向って言った。
 あれほどナイフのように尖っていたミハダの視線が今や、恥らいを含んだ、乙女のソレへと急変していた。
 部屋の中でそれに気付いた者は一人も居なかったが・・・

「おぅ、久しぶりやな。まぁ、ミクロたりとも会いたいとは思わへんかったけどな。」
「いやぁ~!そりゃぁ、てぇきびしいでぇすねぇ!はぁっはっはっは」
 メルトモが大口を開けて笑う。その巨大に開いた空洞からノドチンコが見える。
・・・と、大口で笑っていたメルトモが突然、電池が切れたように真顔になった。

「あれぇ?うぅ~ん・・・」
「なんだ?どうした?」
 メクロが聞いた。
「あ、いやぁ・・・。なぁんだか足ぁりない気が・・・。」
「・・・まったく。それじゃ、もう一回行って来い!」
「いえ、トォイレじゃなぁいでぇす。はっはっはっはぁ。まっ、いいかぁ。」
 豪快な男だった。決して出世できないタイプである。

「メクロ様」
 さきほどトウハーツに連絡をしに行った男が戻ってきた。
「トウハーツ様ご一行は今から五分後くらいには戻って来るそうです。」
「ん?早いな。」
「はい。・・・道に迷ってここら辺を迂回していたとかで・・・」
「・・・。」
「あと一つございます・・・。」
「なんだ?」
「一階の部屋、全てを捜索しましたところ、やはりギメガ帳は見当たらない、ということです。」
「ふ~む。ま、いいか。どうせこやつら、トウハーツの拷問には耐えられまい。・・・ん、でもちょっと待てよ」(アソウのヤツ、どこに隠しやがった?こいつのことだ、最初にギメガ帳を見たときからそれが何かということにすぐ気付いたに違いない・・・。よぉ~し。あの手を使うか。部下どもにも俺の勝負強さを見せつけてやれるいい機会だ・・・。ふふふふふふふふふ)

「ふふふふ。おい、アソウ。」
 メクロがそう言いながらアソウを見た。
「・・・ん?」
 アソウがビクッと体を震わせた。
「お、お前!今、寝てただろ!」
「あぁ、すまん、すまん。今日はぎょうさん働いとるんで疲れたんや。」
「まったく・・・。緊張感のないヤツだ。で、アソウ。久しぶりに俺とちょっと勝負しないか?」
「なんや、突然?」

「お前、昔から『あっち向いてホイ』が得意だったな?」
「うん。」
「それをちょっとやってみないか?」
「は?」
「負けた方が、勝った方の言い分を一つだけ聞く。これでどうだ?」(フフフ。勝負好きなコイツのことだ。すぐに乗ってくる。で、俺が勝ったらギメガ帳の行方を聞く。負ければ・・・『パス三まで』システムに移行すればいい!くっくっく)

「いやや。」
「なっ!なんだとぉ!」
「疲れてるって言うたやろ?何が悲しゅうて、オッサン二人で『あっち向いてホイ』せなあかんねん。そのトウガラシとかいう連中来るまでワシ、ちょっと寝かしてもらうわ。そいつらが来たらどうせきっと寝られへんのやろ?」
「そ、そんなことはない。ち、ちょっとは寝れる!・・・五秒くらい。」
「いらんわ、そんな微睡。」
「わかった!一回だけ!な?頼む!」
「う~ん。どうしよー・・・」
「いいじゃねぇ~かぁ~、アソウ!アソウ!アソウ!アソウ!」
「えぇーい!うっさいわ!わかった、わかった。やったるわい。やったる・・・けど、その代わりに何してくれんねん、お前?」
「は?」

「だから、ワシが睡眠時間を削るだけの価値あることを何かしてくれるのかって聞いとるんや。」
「お、お前!自分の立場分かってるのか!捕まえてるのは俺のほうだぞ!」
「あ、そう。じゃあええわ。やらへん。」
「・・・ホ、ホント信じ難いほど図々しいヤツだ・・・。分かった。何が望みだ?あ、言っとくけど、五百万両ちょうだいとか言うなよ。」
「・・・お前なぁ!それ、お前が最初に言ったことやないかい!」
「・・・俺はそんなダサいこと言わない。」
「お前の場合、その存在自体がダサいんや!母親から『イカ臭い』言われてる息子、ワシ生まれて初めて見たわ!」
「そんなこと言われてないっ!お前の方こそ父親に見つかって、『あんまりやりすぎんなよ・・・』って言われたってことは調査済みだっ!しかも小学生のときに!」
「いや、それはその・・・。ワシは早熟だったんや・・・。」
「世間じゃそれを『ヘンタイ』と呼ぶのだ。」
「ワシは変態やない!『好きなことに我を忘れる』人や!お前の方こそ『見つかった日、興奮した・・・』って日記に書いてたやないかい!」
「な、お前、いつの間に俺の日記をっ!お、お前な!言っていい事と悪い事あるぞ!みんなに聞こえたじゃないか!よぉし、お前がそのつもりなら俺だって言うぞ!みんなの前で言うぞ!」
「な、なにをや?」
「『シャワーを使った中国雑技団』」
「あっ!お、お前、それはないでぇ!」
「ふぁはははあはぁっ!」
「ちょとまち~やっ、お前っ!あれはなぁ!・・・うわっ、な、なんやっ!」
 バサ・・・
 二人の間に天井からギメガが落ちてきた。

「あっ!」
 アソウとメクロのやり取りにあっけに取られていた全員が声を上げた。
「ギ、ギメガ帳!」
 メクロが素っ頓狂な声を上げた。
「『ギ、ギメガ帳!』じゃないわよ、まったぁく、このイカ臭息子っ!」
「か、母ちゃん・・・」
 メクロの目が泳いだ。
「ホント、黙って見てたら、あんたぁって子は!何だね、このブタの昔のことをジメジメと!誰だって昔の嫌な思い出の一つや二つはあるものよ!それを鬼の首でも取ったように!母ちゃん、なさけないやら恥ずかしいやら!」
「だって、母ちゃん!」
「『だって』も『ダッチワイフ』もないっ!このバカッ!あぁ、野ブタ!この子許してあげてね。本気で言ったわけじゃないのよ!ただ、野ブタとお友達になりたいって思ってるだけなのよ。
ほら、あんた!・・・野豚にちゃんと謝んなさい!」
「えぇぇぇ!・・・だって母ちゃん、コイツ捕まっ・・・」
「おだまりっ!ちゃんと謝んないと母ちゃん、・・・プ、プゥワァっするわよっ!」
「あ、あの・・・。ワシ、さっきからそうとう傷ついてんねんけど・・・」
「はやく野豚に謝んなさいっ!」
 
 そのときだった。
「頼もう!・・・ん、ちょっと違うか?」
 チョンマゲがモヒカン、ベンパツを引き連れて部屋に入ってきた。相変わらず奇抜な一団である。
「おお~っ!チョンマゲ!来てくれたか!」
 メクロがホットした声を上げた。
「ほら、注意散漫!鈴木先生からも・・・」
「えぇ~いぃ、うるさいっ!」
 メクロはギメガを手に取り、ページを捲った。

― おおっ! ―

 ギメガの変化は皆の見ている目の前で急速に起こった。
 メクロにページを捲られた瞬間、ギメガの顔から生気が、あれほどギラギラと吹きこぼれるようだった生気が、まるでポトリと音でもたてるようにして抜け落ちた。
 毒々しい顔の化粧が、すっと消えた。
 睫毛が半分くらいに縮んだ。
 巨大な二重は細く吊り上っていき、同時に鼻もまた、低く、細くなっていった。
 いまや皆の眼前にあるギメガの顔、かつての〝色彩豊かなヘドロ〟から一変し、正常な、いや、それどころか、かなりの色男へと変化していた。その間、二秒もない。

 新生ギメガ、〝色〟だけでなく、どことなく〝品〟すらある。
 (・・・?どっかで見たよな顔やな・・・)アソウがそう思ったとき、新生ギメガがカン高い声を上げた。
「ほ?ここは・・・?そなた、メクロかいな?ほっほっほっほー、お手前、年を取りましたぞぇ!」
「ちっ、尾道か・・・」
 メクロがまたページをめくろうとした。
「お、お前、親に向って何したんや!」
「うるさいっ!野豚!お前もこうしてくれるわっ!」
 メクロが左手を本の上に置き、右手の人差し指でアソウの額に触れた瞬間、アソウの動きがピクリと止まった。
「おおおおおおっ!」
 人々の驚きの声で部屋が揺れた。驚くのも無理はない。
 アソウが、彼らの眼前で急速に年を取っていくのだ。
 一人の人間に何十年もかけて訪れる変化が、ほんの数十秒に凝縮されて表出されていく・・・。

一人の人間がこんなにも変われるものなのか。
今、皆の頭の中には、その昔見たことのある、『植物の成長早送りビデオ』が流れていた。
(あれはあんまり面白くなかったけど・・・)皆、そう思いながらアソウを見ている。

はちきれんばかりだった彼の体全体は、空気が抜けていくようにしぼみにしぼんだ。
髪もまた、見る間に薄くなっていき、やがて耳の裏側にわずかな毛を残しただけで、全て抜け落ちてしまった。
顔の皺は見る間にその深みを増し、重力に逆らえず、顔面から垂れ下がっていった。
唇も、目も、鼻も、何もかもがカラカラに皺寄り干からび果て、アソウ、どう見ても今は、百歳を越えた老人だ。
変態っ気も消え果て、もうアソウだと分かる断片は無い。

「キィヤァー!」
 ミハダの悲鳴ではない。
 彼女は真っ青な顔をしているが、アソウの変化の一部始終を興味深そうに見守っていた。
 声を上げたのは、吉田、田崎、そして・・・メルトモだった。
「なぜお前が叫ぶ!」
 メクロがメルトモを見て言った。
「いつ見てもぉ、とても、とぉてもおそろしぃワザねぇ!」
 メルトモが青ざめた顔で言った。
「フフフ。では、お嬢さん、そしてプランクトン二つ。もうお前達に用はない。さようならぁ!」
 メクロは明るく別れを告げると、ミハダ、田崎、吉田の額を次々に触っていった。
 アソウの場合と同じ変化が三人に訪れた。

 かくしてメクロの部屋には今や、〝即身成仏〟のような老人が四体、壁を背にして並んで座ることとなった。
 それぞれの手には、『鯖』『鮪』『鱈』など、魚ヘンの漢字がびっしりと描かれた湯飲みが握らされている。

 蛇足だが、彼らがメクロからその湯飲みをもらったとき、文字通り、額を何度も床にこすり付けながらお辞儀を繰り返していた、という。
 あのアソウが、あのミハダが、である。
 〝亀の甲より年の功〟という、ちょっといいお話。


(第二十二話に続く)


― 第二十二話 メガネ立つ ―
  
 メガネは一部始終を天井から見ていた。
 さすがに天井からギメガを落としてしまったときには観念したが、そのあとの親子騒動、それに引き続く一連の事件、事故が幸いし、なぜギメガが天井から降ってきたのか、誰も気に留めなかった。

 (唯一、ミハダだけは気づいていた。後日、メガネはそのときミハダと視線が合ったことを、『絡み合った』と皆に有頂天になって言いふらし、ミハダのネリチャギで有頂天となる)

しかしながら、仲間四人がみな老人になってしまった後で、メガネが一つ悟ったことがあった。
人間、いつかは男女の壁などなくなる、ということだった。

あのミハダを見よ!
あれほどの美肌と美貌がいまや、他の三体のミイラと何にも変わらない。
まるで干し柿だ。
干し椎茸だ。

悲しいことだが、これが受け入れなければならない現実なのだ。
(いつか自分は結婚するだろう)とメガネは思った。
そして、(いつかはその愛する妻が年を取り、あのような生きる屍のようになるのだろう・・・)と。
(だがしかし!)メガネの瞳は燃え上がった。
(それでも俺はあいつを愛する!俺はミイラの妻でも愛してみせる!)と、メガネは熱く思っていた。
・・・そのときには当然自分もミイラになっていて、自分こそ嫌われる側にいる、ということにはまったく気づいてないらしい。

(しかし、これからどうするか・・・)最後の切り札だったギメガは取られてしまった。
管理室の斉藤も、寝袋で巻いたレンも、そして相田以下三人も皆、開放されてしまった。
これで敵は全員集合。
加えて、あの殺人的な髪型のヤツラは、どうやらプロらしい。
なんのプロか知らんが、あの髪型が怖い。
メガネ、絶対絶命である。
うんざりしながらもメガネは思った。(あ、今日九時、八チャンで『ラッコ物語』だ・・・)

静かに天井から移動を開始しようとしたメガネはふと気付いた。
(このままここにいれば、そのうちメクロ達もこの部屋から外に出るんじゃないか。そうすればギメガを盗み返して、アレにミハダさんを助ける方法を聞き出せばいいじゃないか!)助けようとする人数が少ないような気がするが、メガネ、気にしない。いつもの通り、竹田君、忘れられていた・・・。

「ふふふふふ。これで全ての用意が整った。よし、メルトモよ、皆を呼べ。革命前にちょっと一言、皆に与えることにしよう。ワシが王になるとそんなヒマもなくなるだろうからな、うふわっふっふっふ」
 メクロは上機嫌だった。

メルトモはすぐさま、さきほどエミリーのためのナダ会を行った場所に皆を集めた。
アソウが見物していたときよりも当然、人数は十人近く増えている。
そのため、会場は足の踏み場もないほど狭い。

「えぇ~、皆さん!本日はお日柄も良く・・・」
 もう夜だった。
「このように清らかな日に皆様にお会いできたことを私は何よりも光栄に思うのでございます。」
 さっきも会っている。

「さて皆さん。今日という素晴らしい日までの皆様の忠誠心!これ全て皆様の、皆様による、わたくし様だけのための物だったかと思うと、ただただ感謝の気持ちで一杯になるのであります!

あぁ、わたくし様、あなた方の気持ちがよく分かるような気がいたします!

ゴミのごとき自分の存在、それに比べるとあまりに光り輝いているこのわたくし様。そんな、微生物以下のあなた方が、真っ暗な夜空にただ一つだけ光り輝くこのわたくし様のために、少しでも役に立つことが出来るかもしれないという幻想を抱くこと!

あぁ、なんて素敵で無意味な妄想なのでしょう!

この妄想こそ、あなた方を支え、幸福にしてくれるのです。

この無意味な妄想より価値有るものが、一体この世にあるものなのでしょうか?

もちろんあなた方の、『役に立ってる』感もまた、単に妄想に過ぎず、あなた方お一人お一人のお力があまりに微力過ぎて、わたくし様にとっては、感じることすらできない『プランクトンのオナラ』、みたいなものではありますが・・・

だが、しかぁしっ!

せめて士気みたいなものを高めなさい、と!

まったく利用価値のないあなた方のため、私は敢えて言いたい!

あなた方のミクロの力を結集させよ、と!

そう!それがまるで、うだるような暑さのサハラ沙漠に吹く微かなそよ風のように、まったく腹の立つほど無意味なものであったとしても!

またあるいは、恐ろしいほど腹を空かせているときに目の前にある腐ったリンゴ!たとえそのような物であったとしても、です!」
ここでメクロは効果を高めるために言葉を切った。

「・・・それでも、『無いよりはまし』なのでございます!
ではっ!私、ここでこの情熱を歌にして一曲歌いたいと思います!
『乱れ牧場の夢たち』!」
 男達は感動して泣いていた。しかも、一人残らず・・・だ。
 きっと、橋が転げても泣く年頃なのだろう。

 メクロが、CDアルバムまるまる一枚分、計十二曲を歌い終え、ようやく楽屋に帰ってきた。
「すぅばらしぃかったぁでぇす!わたぁし、泣きました、そして、笑ぁいまぁした!」
 メルトモが理不尽なことを言った。

「うむ。まぁ、・・・一〇九点。」
 自分への点数付けだろうか?
 百点を越えている。
「おう、そういえば、さっき舞台の上で閃いたんだが、エミリーのフクヅケ式を舞台上でやることにした。」
「そぉれは例外的ぃですねぇ!」
「うむ。ちょっと俺の部屋に行って、ギメガ帳を取って来てくれ。」
「わぁかりましたかぁ!」
 メルトモが楽屋を出て行った。

 メクロの部屋に行く途中、メルトモは忙しかった。
 トウハーツには、暗殺の件の打ち合わせがあるから、集会後に集まるようにと指示を出し、夕食のメニューを『パセリ』と当番に知らせ―『パセリ』と言われた当番、意味分からず―、フクヅケ式を舞台でやるための準備をスタッフに指示し・・・、そして彼がメクロの部屋にようやく向かおうとしたとき、舞台から ― ガガアァァンッ!!!! ― と恐ろしい音が聞こえた。

「どぅしまぁしたかぁ?」
メルトモが大声で聞いた。
「す、すいません!スピーカーの一つを落としてしまいましたぁ!」
 片付けをしていた一人が言った。
「だぁいじょぉぶなぁの?」
「はぁいっ!怪我はありません!」
「あぁなたぁのこぉとじゃぁなぁい!スピーカーでぇす!スピーカー!」
「はっ!だ、大丈夫で・・・。・・・・あああぁ~!メルトモ様ぁ!スピーカー、壊れちゃいましたぁ!」
 男の悲鳴交じりの声が舞台に響き渡った。

「えぇぇ~!なぁんてこぉと!なぁんてこぉと!こぉれからフクヅケ式なのよぉぉぉ!」
 メルトモは舞台へと急いで戻っていった。
 そして、その途中で出会ったトウハーツの一人、モヒカンに自分の代わりにギメガ帳を取ってくるように、と伝えた。

「こぉのおばぁかぁ!おばぁかぁ!この、おばぁかぁっ!」
 歩き出したモヒカンの後ろで、スピーカーを落とした男をメルトモが気持ち良さそうに怒鳴りつけていた。

 ― ギイィ~ ―
 
 モヒカンはメクロの部屋の鍵を開け、ドアを開いた。
 真っ暗で何も見えない。
 部屋の電気を点けた。
 パッと明かりがついた。
 まぶしいほどの明かりの下に、ギメガ帳を持って男が立っている。
 その男はモヒカンを見ると、ニコッと笑った。
 『どきっ!』モヒカンが小さく声を上げた。
 モヒカンの胸中は音にすると本当にそんな感じだった。ただ、普通はそれを声に出しては言わない。

 モヒカンの胸を高鳴らせたその男の子が今、自分に近づいてきていた!
 『ドキドキッ!ワクワクワク!』モヒカンが呟やくように言った。
 彼は待っていた。
 その美少年が自分に近づいてくるのを・・・。

 ヒカンの胸が一体何の期待で高まったのかは、今となっては永遠のナゾである。
 いずれにせよ、モヒカンは幸せだった、とだけは言える。
 高鳴る胸の鼓動と甘い期待・・・それがモヒカンの覚えている最後の記憶だった。
 ギメガ帳を持つ男の手首がすぅっと伸びてきたかと思うと、トンッとモヒカンの首の辺りに当たった。
 その瞬間、モヒカンの意識は完全に途切れてしまった。

「ほっ、お手前、なかなか筋がよろし。」
 ギメガの表紙には、メクロが開けたままの、あの男の顔があった。
 吊り上った細い目、筋の通った鼻、薄い唇、そして高飛車な態度。
 見るからにお金持ちのボンボンだ。そのボンボンがメガネに言った。
「はぁ、そうですか・・・」
 『お金持ちのボンボン』という人種に初めて会ったメガネがどことなく恐縮して言った。

「ほっ、まったくあやつめ、ムチャしおるぞえ。ちと、ワテ、お腹が立ったえ。・・・これより攻め入る。法螺を吹けぇぇええ!」
「いや、持ってないですから、そんなもの・・・。しかも、敵は何十人っていますよ。真正面から責めるのは無理ですね。」
 もっともな意見だ。
「ほっ、そうでごじゃるか。・・・頭が高いっ!」
 いきなり新ギメガが叫んだ。
 メガネ、とっさに新ギメガを持つ両手を高く掲げる。
 貧乏人の悲しい性と無知だ。

「おまんが頭を下げればよいものを・・・。ま、そう気張らんでもよろし。うほぉっほっほっほ」
「あの、ところで、名前を聞いても良いでしょうか?」
「ワテの名か?ワテは尾道じゃ。」

― 尾道 ― 

 メガネの母、エッセンスの夫の名であり、メガネの父の名でもある。
 ・・・が、当の両人がそれを忘れている。
 記憶をなくしているメガネが分からないのも無理はない。
 しかし、尾道が自分の息子を分からないのは・・・子供へのただの無関心のようだ。
 最低の父親の鏡である。

「尾道さん・・・ですね。どこかで聞いた覚えがあるような、無いような。」
「うほぉっほっほっほ。まぁ、ワテら尾道財閥のことは昨今の受験問題にも出ておじゃるから当然、知っておろう。」
「はぁ、ま、そんなものですか・・・。まぁ、それはいいとして、この四体を元に戻したいのですが。」
 メガネが部屋の隅に座っている、ミイラのごとく干からびた老体四つを指差して言った。
 皆、手の茶碗は与えられたときのまま、ブツブツと盛んに何か独言している。
 昔日の栄光話か何かだろうか。

 尾道、それに目を向けた瞬間「無理」と言った。
 むげもない。
「ど、どうしてですか?」
「では聞くが、こんな体のワシがそんなことできると思うか?」
 ‟本”である尾道がもっともなことを言った。
「まぁ、確かにそうですけど・・・。」
「な?」
「はぁ・・・。じゃあ、どうすれば良いんですか?」
「簡単なことだえ。お前がやればよろし。」
 尾道が偉そうに言った。
「ぼ、僕にできるんですか?」
「出来る。」
「おぉ!」
 尾道の偉そうな態度も今は逆にかっこよい。
「その方法じゃがな・・・」
 メガネ、尾道の言うことを忘れないように必死である。
 何度かの練習の末、ようやくモノになりそうになってきた、という時だった・・・

「おおっ!モヒカン!・・・お、おのれぃ、おぬし、何者?」
 声がした。メガネがハッと振り向くと、ドアのところでチョンマゲがさっそくの抜き身の刀で構えている。
 本気で殺す気だ。
 捕らえるとか考えてない。
 真性のバカだ。
 これは怖い。

「ちょ、ちょっと待ってください!怪しい者じゃありませんよ!・・・僕が部屋に入ったらもうこの人、倒れてたんです!今、みんなを呼びに行こうって思ってたところなんですよ!」
 メガネが言った。
「お、おぉ、そうであったか。それはすまなかった。よし、ここは拙者に任せて、おぬしはすぐ皆に知らせに行くのじゃ!」
「わかりました!」
 メガネがチョンマゲの横を走り抜けようとしたときだった。
「ちょっと待てぇいっ!」 
 チョンマゲが鋭い目をメガネに向けた。

 (くっ!)メガネは一瞬、チョンマゲの秘孔を突こうと身構えた。
「おぬしの使っておるシャンプーは何だ?」
「え?・・・『シャン・イン・シャン』ですが。」
「ふっ・・・。では行けぃっ!急いでな!」
「は、はいっ!」
(何だったんだろう?何だったんだろう?)まだ心臓はバコバコ鳴ってる。
メガネはエレベーターまで走ると、急いで下に下りていった。


(第二十三話に続く)


― 第二十三話 チョンマゲとベンパツのちょっとした冒険 ―

「・・・で、お前はどうしたって?」
「ヤツを呼び止めましてな、シャンプーの銘柄を聞いたのでござります。・・・ふふっ、やっぱりきゃつめ、ワシのにらんだ通り、『シャン・イン・シャン』でございましたな。くわっかっかっか!」
「うるさいっ!シャンプーなぞどうでもいいっ!こ、この、ばかもんっ!て、敵が目の前にいるのに堂々と逃がすとはっ!このっ、げ、げほ、ごほっ、ごほっ!」
「まぁ、落ち着くことでござるぞ、メクロ殿。」
「お、お前が言うなっ!ゴホッゴホッ!さ、さっさとギメガ帳をと、取り返してこんかっ!グホッグホッ!」
「うむ。かしこまったでござる。おい、ベンパツ、行くぞ。」
 チョンマゲが後ろに立つベンパツに言い、二人、悠々と歩きだした。
「走れっ!」
 メクロが言った。
「ほほぅ。・・・おい、ベンパツ、走れ。」
 チョンマゲが言った。
「お前も走れ!」
メクロの顔が怒りで真っ赤だった。チョンマゲがメクロの顔をちらりと見やった。
「なんとせっかちなおひ・・・・」
「さっさと行かんかぁっ!」
 メクロの喉が張り裂けた。

エレベーターが一階に到着してドアが開いたとき、メガネは近くにあったダンボールの箱を運んでくると、開いたドアに挟み込んだ。
自動で閉じようとしたドアは虚しくダンボールに押し返され、そのたびにウィィィィ、ウィィィィと悲しく鳴いている。
(これでエレベーターが使えない、と。あとは階段か・・・)

この建物にある唯一の階段は、エレベーターの向かい、あのイミフな暖炉の絵の施されている柱の内部だ。
メガネは柱にある、『非常口』と書かれたドアを開けてみた。
鍵は掛かってないが、取っ手は固く、かなりの力を入れないと回らない。
(いい具合だ)メガネはニヤリと笑うとズボンのポケットから、さっきメクロの部屋から借りてきた整髪料(?)を取り出すと、内側の取っ手にドロドロと塗りつけ始めた。
そのままドアを閉め、管理人室へと走った。(警察ってそういえば何番だっけ?)メガネが走りながら考えていた。

 その頃、チョンマゲ、ベンパツがエレベーターのボタンを押してその到着を待っていた。
「・・・なかなかこないあるね。」
 ベンパツが言った。
「うむ。まぁ、急いては事を仕損ずる、というからな。あまり急ぐと子孫がずれる、ということだ。ところで、下に何しに行くんだっけ?」
「モヒカンを倒した賊を捕まえに行くあるよ。」
「お、そうか。・・・おぬしの記憶術、なかなかのものだぞ。」
「今、私をほめたあるか?自分をけなしたあるか?」

 エレベーターはなかなか来ない。
 二人は動かない。
 五分、十分・・・が経った。

 ちなみに、十分が経った頃、そこでエレベーターを待っていたのはその二人だけではなかった。
 二人の後ろにはメガフォルテの団員全てがずらりと並んでいる。その数、三十。
 皆じっとエレベーターの到着を待つ。

 ガチャッ。
 メクロがあくびをしながら部屋から出てきた。
「ん?」
 メクロの目の先、薄暗い廊下の先に、メガフォルテの団員全てが静かに立っている。
 その数、三十・・・

「おい・・・」
 メクロが一番手前に居た団員の肩を軽く叩いて言った。
「一応、聞くけどな・・・。皆で何をしてるんだ?」
「はいっ!エレベーターを待っております!」
「・・・そうか、そうか。やっぱり。・・・ちょっとごめんよ。はい、ごめんよぉ。」
 メクロは人込みを掻き分けて集団の先頭まで行った。先頭にはチョンマゲ、ベンパツがそれぞれ腕を組んでエレベーターの到着を待っている。

「来ないあるね。」
 ベンパツがまた言った。
「うむ、まあ急いては事を仕損ずると・・・。」
 チョンマゲが答えようとしたとき・・・バチッ!と彼ら二人の剃り上げられた頭部がいい音を立てた。
「て、敵襲かっ!」
 振り向いた二人の眼前にはメクロが立ち、階段のドアを指指していた。

「おお、その手があったか!かたじけない、メクロ殿。よし、行くぞ、ベンパツ。」
「はいあるよ!」
 ようやく集団が動き出した・・・と、三十秒もしないうちに下からチョンマゲの悲鳴が聞こえてきた。
 メクロがため息をつき、また人を掻き分け下まで降りていくと、チョンマゲが手を押さえて呻いている。

「い、一体、どうした?」
「取っ手が、取っ手がぁぁぁっ!」
「ん?」
 取っ手が鈍く光っている。ためしにメクロは指先でちょんと触ってみた。
「ひぃっ!」
 メクロが叫んだ。
「であろう?であろう?気持ち悪いであろう?」
「何か塗られてるぞ!毒かもしれん、すぐに手を洗うんだ!」
 メクロとチョンマゲは急いで二階のトイレへと向った。


(第二十四話に続く)


― 第二十四話 メガネ VS メクロ ―

 チンッ!
 メガネが受話器を叩きつけた。
「あいつらぁ、話くらい聞けよ!」
 天気予報、時報、道路情報、そして番号案内、と巡り巡った末にようやく思い出したヒャクトーバンだったのだ。
 呼び出し音が一回も鳴ることなく、メガネの耳元で『はい、僻地警察です!』と愛想の良い男性の声がしたのだ。
 その低い落ち着きのある声に安心し、心を開いたのだ。

 『明日の首相暗殺を狙ってる奴らのアジトから今、電話してるんすけど・・・』とメガネが言った瞬間、さっきの愛想の良さはどこへやら、声はいきなり険悪なものに急変した。『最近、ホント多いんだよねー、こういう電話・・・。お客さん、ヒマなのは分かるけど、もっとこう、ひねってくんないと、ね?せめて。ね?じゃ、こっちは忙しいから・・・チンッ』である。十秒も話してない。

「さて、どうやって上のみんなをここに運び出すか、だな・・・。めんどくさ・・・」
 管理人室から柱が見え、その奥からはメクロ達の騒ぎがかすかに聞こえてくる。
『ひぃやぁぁぁ!まだヌルヌルするぅ~!おい、俺の部屋からタオル取って来い、タオル!』
 非常階段のドアからはまた叫び声が聞こえた。

「もう外壁からは入りたくないな・・・。」
 メガネはそうつぶやきながら、壁の落書きを追っていた視線を何となく上に向けた。
「ん?・・・あっ!この手があったか!」
 
 メガネは管理室の天井を探っていた。
 ふつう、建物の天井には電気の配線などを定期的に修理するための入り口があるものだ。
 ここからメクロの部屋の床下へと行けばいいじゃないか。
「さっきもこうすりゃよかったんだ・・・」
 メガネは天井への足場となる机を引きずりながら、ブツブツ呟いた。
 
 さっき・・・
 メクロの部屋の天井に行くためにメガネは、決死の覚悟で建物の壁をよじ登っていったのだ。
 建物内の壁ではない。
 絶壁に建つこの建物の、外の壁だ。
 
 足元には数十メートルはあろう切り立った崖が暗黒に広がっている。
 崖下には海が荒れ狂っている。
 風は、ビュービューという音波を通り越して、ピーピーと鳴る超音波となりメガネを襲った。その強烈な海風に何度も吹き飛ばされそうになりながらもメガネは二階まで登っていったのだ。
 命綱なしでの挑戦である。
 この恐怖に比べるとロッククライミングなど、幼稚園でやる‟フルーツバスケット”以下である。
 そう、高枝切りバサミを使って散髪する恐怖に等しい。
 ちょっと違うような気がするが、こればかりは経験者にしか分かるまい・・・
 
 今、メガネは部屋の角に机を置くと、その上に椅子を重ね、それによじ登って天井を押してみた。
 が、ビクともしない。
 すべての角の天井を試してみたがダメだった。
 屋根裏への入り口は通常、角にあるものだが・・・。
 かといって、メクロの部屋同様、真ん中というわけでもなかった。
 (いったいどこにあるんだ?)メガネは天井を睨んだ。

 結局メガネは、天井を隈なく確かめるハメとなった。
 そして、縦の列の左から三番目と横の列の五番目の交差する場所にそれをようやく発見したときには、手の血という血が下降したせいで腕が心なしか細くなっていた。
 うんざり顔のメガネは、ぐっすり眠る‟尾道ギメガ”をズボンの前に押し込み、そこを開けると縁に手を掛け、体を一挙に引き上げた。


 メクロは考えている。彼の目の前では団員達が必死になってドアに塗られた物質を拭き取っている。
 (・・・アソウの手下がもう一人いたのは誤算だったな。しかし、結局この建物から出て行くことはできん。人を呼ぶにはここは遠すぎるし、車の鍵は皆ワシがみな持っておる。アソウの車の鍵もな。ということはヤツのできることは一つ。アソウ達の奪還、だな。首相暗殺はもう準備を始めねばならんし・・・。ということは、だ。出来ることは一つ・・・)
 メクロは何事かをメルトモに耳打ちした。
「ほほぃ。そぉのてぇがありました、かぁ?ひぃっさしぶぅりの‟ズンズンアァナ”でぇすねぇ!おぉもしろぉいですねぇ、おぉもしろぉいですねぇ?」
 メルトモがにやりと笑った。

メクロは薄暗い自分の部屋に入ると、椅子に深々と腰を下ろし、目を閉じた。最近では目を閉じた瞬間、自分がとうとう世界の王になった時の光景が自然と浮かんでくる。
そう。王のみに許された世界・・・

その世界では・・・
トイレへ行くにも、風呂に入るにも、必ず誰かが自分の先にいる。
先にいて、ドアを開けたり、閉めたり、体を洗ったり、尻を拭いたりするのだ。
自分は何もせず、ただヤツらに体を任せるだけでよい。
あぁ、服も着させるようにしよう。靴下も。
あ、でも靴下の穴とか見られるのはちょっと・・・。
あと、下痢の時、どうしよう・・・。
・・・・・・と、とにかく人を侍らせてやるのだ!
何人も何人も!
俺がどこかに行くたびにきっと大行列になってしまうのだ!
ふふふふふ!
―メクロの顔に笑みが浮かぶ―
沿道では人々が熱狂的に旗を振るのだ。
俺の来たことを歓迎するのだ。
ふふふふふ。
・・・あ、旗のデザインを考えないと。
・・・ふふふふふふ。
メクロの顔が、沖縄の市場で売られているブタ面のように微笑む。
あぁ、幸せだなぁ・・・。
メクロがそうため息をついたときだった。

「ごほん!え~」
 部屋の中にいつの間にか、か弱そうなガキが一人立っている。
「あぁ、お前もちゃんとメルトモ達と下の階に行ってないとだめじゃないか。」
 メクロが夢見心地に言った。
「いや、あの、俺、アソウさん達をちょっと返してもらいに来たんだけど・・・」
 メガネだった。
「アソウ?あ、そう。いいよぉ~。持ってってぇ~、って、おい!」
 メクロはようやく目覚めた。

「お前かっ!さっきからチョロチョロうろついとるヤツは!・・・ん?」
 メクロはようやくこの目の前の少年の手にあるギメガを見た。
 メクロ、もう一度少年に目をやる。
 どう見ても鈍そうなガキだ。

「ねぇ君、かわいいね。おじさんと前にどっかで会わなかったっけ?」
「昨日会ったばかりだ・・・」
「あれっ?そうだっけ?えぇ~と。お前・・・君の名前は?」
「メガネ。」
「いい名前だね!」
 (いや、このオッサン、気味悪いんだけど・・・)メガネの全身に鳥肌が立った。

「あの、で、アソウさん達を返して欲しいんだけど?」
 メガネがもう一度用件を切り出した。
「ほほほほほ。もぉちろん、返すさ。」
 (うぅわ!笑い方!)
「だが、ボウヤ。ここは取引きといこうよ。この四人を返すからさ、そのただの本をこっちに渡してくれないかなぁ?悪くない取引きだと思うよ。君の仲間全部と本一冊だぞぉ?ウマイボー二つ付けてもいいぞぉ。〝コーン〟と〝ポタージュ〟!」

「えぇ~、どうしよーかなぁー。でも僕、一人で決めちゃったら後からアソウさんに叱られるかもしれないしぃー。」
「大丈夫!アソウさんとおじさんとはお友達なんだ。だからおじさんが大丈夫って言ったらそれはアソウさんの大丈Vさ、はははは。」
 おっさん、ピースしながらそう言った。

「えー、どうしよーかなー。おじさんの目、なんか血走ってて怖い~。」
「ごめん、ごめん。おじさん、かわいい男の子を見るとつい。・・・ね?」
「じゃ、おじさん、ちょっと目をつむっててよ。手渡すとき恥ずかしいから。」
「もう、しょうがないなぁ。」
 メクロはそう言うと目を閉じた。

「おじさん、本当に目を閉じてる?」
「あぁ、本当だとも。」
「本当に本当?」
「あぁ、約束するよ。」
「じゃあ・・・」
 メガネがいきなりメクロの額を突いた。
 左手の人差し指だ。
 尾道から習った軌跡。これでいけるはずだった。

 が、その指先が額に届く寸前、メクロは目を開けながらメガネの手を左手ですくい、その勢いを利用してメガネの体を引き寄せ、そのバランスを奪おうとした。
 メガネはメクロのその動きに逆らわず、逆に、それに合わせるようにして体を傾けると、自由なもう一方の手をはね上げた。
 はね上がったメガネの手の先に、メガネの左手を掴まえているメクロの太い左手首がある。
 が、メクロの方が一瞬早い。
 メクロはかけ上がってきたメガネの右手の中指と薬指をワシ掴みにすると体を入れ替え、メガネを床に押し倒そうとした。
 メガネの体が宙に浮き、床に接触するかと思われたとき、メガネはダンッと床を蹴るとメクロの手から逃れ、メクロから数歩離れた床に降り立った。

「・・・。ボクゥ、いったい何者なのかなぁ~?」
 メクロが目を細めてメガネを見つめながら言った。

 二人はまるで何事もなかったかのように無防備に突っ立っているように見える。
「その体術、どこかで見たような・・。ボク、ホントに何者だ?」
「おじさん、俺、自分の記憶がないんだ。そのことについてはよく分かんないんだなぁ。」
「・・・。ああっ!そうかっ!お前、あの時のガキ!・・・かぁ?」
「あの時?」
「あ、でもちょっとまてよ・・・。コイツ、若すぎないか?う~ん・・・。あの時、急いでたからなぁ~。結果をちゃんと確かめずにあの屋敷出てったしなぁ・・・。ま、いいか・・・。おい、時間がない。そこに座れ。」
 メクロがそう言って椅子に腰掛けた。

 メガネもメクロの正面に腰を下ろし、ギメガを椅子の横の机の上に置いた。
 腰を下ろして初めて分かったのだが、メガネの正面、天井に近い位置に額が飾られている。額の中身は誰かの肖像画だということはわかるが、部屋全体が暗すぎてその人物の男女の別さえ分からない。
 メクロが話し始めた・・・


(第二十五話へ続く)


― 第二十五話 メクロの成り立ち ―

 それは七年前の夏だった。
 メクロの密かに続けていたギメガ帳の完成はもう間近に迫っていた。これが完成すれば・・・

 世界公務員を辞めて(雲隠れして)からメクロのしたことは、ダミーの社長を使って会社を立ち上げることだった。
 全ては、ギメガ帳を完成させるためにかかる莫大な費用を捻出するための手段にすぎなかった。
 メクロはただただギメガ帳の完成だけのためにその心血を注いでいた。
 当初はそれを使ってエッセンスの心を手に入れようと考えていた時期もありはしたが、ギメガ帳を使ってできる無限とも思われる可能性を考えると、それもまた小さな目的の一つにしか過ぎなかった。
 しかし、その小さな目的を達成できる日がやってきた。
 それが七年前だった。

 その当時、尾道財閥と関係する企業は無数にあった。
 その中でも特にここ数年、異常な急成長を遂げ、尾道財閥の主要な取引き会社の一つにのし上がってきた会社があった。
 それがメクロの会社で、名をコリンドロスといった。
 コリンドロス社の扱うサービスはただ一つ、―オトガメス―と名付けられた独自コンピューターの販売だけであった。
オトガメスPCとは、究極の音声対話型コンピューターであった。

オトガメスPCに、マウスもキーボードも要らなかった。
使用者は何をするにも声で命令するだけでいい。
『~したい』とPCに向かって言うだけで、PC内で使用者に最適なソフトを選び、画面にそれが現れる。
子供から老人まで、言葉さえ話せれば誰でも、どんなソフトでもその場で自在に操れた。

このまったく新しい形態のコンピューターは、その突然の出現から一年もかけず世界中を席捲し始め、コンピューター市場の勢力図を塗り替えようとしていた。
マッキントッシュウ社、マイグロソフト社、その他無数にある従来のコンピューター会社は見栄も外聞もなく軒並み、オトガメスPCの技術盗用に努めたが、その複雑さにあえなく敗退。
さればと政治家に働きかけ、法的にコリンドロス社の土台を崩そうと企てるも、元世界公務員の、しかもトップレベルの情報収集能力を持つメクロが相手ではどだい勝負にならず、果ては政治家の変態趣味や成金趣味、あるいは妾の情報、隠し子、整形手術の有無、短小包茎などなど、様々な弱みを逆にメクロに握られる始末。

結局、政治家も経営者も、その生き残りを考えるならコリンドロス社の傘下に入らざるを得なく、悔しさに歯軋りしながらもメクロの手足となってオトガメスPCの普及に努めざるを得なくなったのであった。

今や、世界がメクロを必要としていた。そして五年前、コリンドロス社は尾道財閥の巨大な門戸を叩いた。

― 超巨大企業と超巨大財閥の提携 ―

それは世界のビジネスシーンに特大のインパクトを与えた。
株価は戦争の影響よりも、コリンドロス社の動静に影響を受けていた。
世界の富そのものがコリンドロス社と尾道財閥を中心として回り始めようとしていた、といえる。   

一方、世界は日本による独裁的なコンピューター市場の独占に警戒の色を強め、各国のスパイが暗躍し始めた。
もちろん、この新たなスパイ戦争に世界公務員の様々なメンバー(若きアソウもその一人であった)も巻き込まれたのであるが、それはまた別の話である。
 
 とにかくそういうわけで、尾道財閥としては腹の中ではこの成り上がり者に対して苦い気持ちを抱いてはいたが、表面上はメクロを上にも置かぬ扱いをしたのだった。
 そのため、メクロが尾道の屋敷に訪れてくる度、尾道としては彼を歓待せざるを得なかった。

そしてある日・・・、ついにメクロはギメガ帳を完成させた。その効果は偶々ある事情で両親に試してみて、立証済みであった。彼はとうとう世界を手に入れた。彼の体が震えたのは、完成の喜びなんかではなかった。彼の脳内にはエッセンスの赤裸々な肢体が飛び交っていた。

「あなたの両親って、あの、・・・キモイページですよね?なぜ彼らをあんな風に?」
「ふっ・・・。おい、ボウズ。俺の目の前に広がっていたのは世界だぜ。親?家族?ちゃんちゃら小さいな。俺の肉親っていえばもう、地球とか、宇宙とか、そういった規模のもんだぜ。」
「はぁ、なんだか話が大きすぎてよく分かりませんが・・・。そんなもんですかね。」
「そんなもんさ。で、そこでお前に一つ質問だ。」
「はい、なんでしょう?」
「お前は世界の何だ?」
「は?」
「ちょっと難しすぎたな。質問を変えよう。お前、アソウ達と行動してて充実してるか?」
「いや、充実も何も、俺、ただ金のためにやってるだけだからなぁ・・・。」
「そう、そこだ!そんな一生でお前は満足なのか?」
「はぁ、まあ、満足っていうのがよく分からんですけど、こんなもんじゃないかと・・・。あまり考えたこともないし。」
「かぁぁぁぁ!それが若者の意見か!未来を見つめよ!夢を持て!ボーイズドントクライ!」
「それ、ユリ映画のタイトルなのでは・・・」
「えぇ~い!うるさい!蛆虫以下のお前らなど、こうしてくれるわっ!」
 メクロは机の方に走っていくと、机の下の一部をぐいっと押した。・・・何も起こらない。
「あれ?」
 メクロがさらにカチカチと何度かボタンを押したがやはり何も起こらない。
「・・・?・・・おかしいな。あっ、そうか!メガネ君!ちょっと、もっとこっち側に寄ってくれる?そうそう、そこの上ね。あ、もうちょっと右。ちがうちがう、君の右じゃなくて、俺の右だよ・・・そう、そこ!そのまま動かないで!」
 メクロはメガネの立ち位置を決め、すこし恥ずかしそうに咳払いした。

「・・・う、蛆虫以下のお前らなんて、こうしてくれるわっ!」
ボタンを押した。すると!な、何と、メガネと残り四匹の乗った床がカタリッと開いたかと思うと一瞬にしてメガネ達はその真っ暗な穴に吸い込まれるようにして落ちていってしまった!一階の、ちょうどこの部屋の真下の部屋の床にも同じような穴が開いており、メガネ一行はそこも通り抜け、さらに地下へと落ちていく。
「あー」 
 メガネの悲鳴もやる気がない。

「ぬっふぇっふぇふぇっふぇ~!どうだぁ、ゴミになった気分はぁ?」
 メクロがメガネ達の落ちていった穴を二階の縁から顔を覗かせて言った。
「へぇっへっへっへっへぇ」
 その他の手下たちは一階の穴の縁に集って笑っている。
「コォッホッホッホッホッホー」
 その手下達に混じってメルトモも笑う。
「ん?」
 そのメルトモが突然、笑いを止めた。
「ぬぇっへっへへへ!どうした、メルトモ?いぇっへっへっへっへぇ」

「あぁの、メクロ様。・・・今、おぉれたぁち、なぁにが可笑しいんでしょ?」
 メルトモが上を、二階にいるメクロを見上げて言った。
「ふへへ・・・へ?」
 メクロの高笑いが止んだ。それと同時に他の連中も笑いやめると、皆、きまり悪そうに壁のシミをなぞったりしている。

「ごほん!」
 メクロは咳払いを一つすると、もう一度穴を覗き込んだ。
「まぁ、お前たちは穴の底でゆっくり、世界が支配される様を見物しておけばよろしい。ま、その前に死ぬかも・・・!ひゃあはは・・・はっ!まったく!お前のせいで悪党として何か大切なものを失ってしまったではないか!」
 メクロがメルトモを叱り付けた。
「す、すいまぁせん・・・か?」
 メクロはブツブツ言いながら机の別なボタンを押した。そうすると、開いていた床がゆっくりと閉じていった。
三階分の高さから落ちたメガネ、そして、ミイラ四人は無事なのだろうか?
あぁ、心配だ。ああ心配だ。


(第二十六話へ続く)


― 第二十六話 括約筋の問題 ―

 さて、こちら絶好調のメガフォルテ団長である。
 結局、全ては当初の予定通りに進んでいる。
「・・・百三十点。」
 自分点、高得点だ。

「よし、トウハーツを呼べ!」
 アソウが言い放った。
「はいぃっ!」
 返事をしたメルトモが出て行ってからちょうど五分後・・・

 ― ガチャッ ―
 ・・・トン トン トン

「ノックしてから開けんかっ!」
 メクロに怒鳴られたチョンマゲはまるで何事もなかったかのように他の二人、モヒカン、ベンパツを引き連れて部屋の中に入ってきた。
 メルトモが最後だ。
「失礼いたす!」
 チョンマゲは部屋の中央まで来ると大声で言った。
「おそいわっ!」
 メクロが言った。

「さて、お前達にここに集まってもらったのは他でもない、明日の首相暗殺の件だ。明日、アイツはきっと部屋から一歩たりとも出ないだろう。それをどうやって殺すか、だ。お前たちの作戦を聞かせろ。」
「うむ。拙者ならまずは・・・、米国の大統領警備にあたってるSPを七、八人借りてきて身辺を警備させるでござるな・・・。」
「お前は殺る方なんだよ!」
「俺なら・・・」 
 モヒカンがむっつりと話し出した。
「大統領がその秘書と・・・ムフフフフ」
「はい、次。」
「私ならこうするあるよ。まず、出て来た敵を片っ端からこの殺人拳で・・・」
「・・・というわけで、お前らには俺の言う通りにやってもらう。」
 そして、メクロが説明を始めて十分後・・・
 グギュルギュルルゥ!
 素晴らしく健康的な音が部屋中に響いた。
「す、すまぬ。」
 チョンマゲが恥ずかしそうに言った。
「・・・はぁ~。まぁよい。とりあえず続きは飯を食ってからだ。」
「わっはははは。」
 照れ隠しに笑うチョンマゲであった。

「ご婦人、エビフライ定食を所望いたす。」
「私、カレーある。」
「おばちゃんのアワビ定食・・・クククク」
「そんな物とっくに腐ってるよ!」
 食堂のおばちゃんが叫ぶ。
 忙しいときに限ってこんな客ばかりだ。
「じゃあ、おばちゃんの・・・」
「はい、白米定食ね!」
「いや、白米の定食って・・・」
「大丈夫だよ!うちの自慢は白米だけだから!」
「・・・。」
 モヒカンの負けである。
 彼は素直にお膳に乗ったてんこ盛りの白米だけを持って席についた。

「線香を立てるにちょうど良い高さあるな、それは。」
 ベンパツが言った。そう言う彼はカレーを箸で食べる器用な男であった。
 一時間近くが経った。
 食堂からは一人去り、二人去り、とうとうトウハーツだけが残った。
 このメンバー、なぜか食べるのが異常に遅い。
 別に話に花を咲かせているわけではない。
 それどころかベンパツがモヒカンの飯について言った、『線香』云々の話以来、誰も言葉を交わしていない。
 箸の運びも普通。
 では一体何にそんなに時間をかけているのかというと、『咀嚼』だ。
 彼ら、まるで反芻でもしているかのようにモグモグといつまでも噛み続けているのだ。
 一噛みだけで優に五分くらいはかけている。

「ん?」
 ほとんどカレーを食べ終わったベンパツの目がなにやら宙をさまよった。
 と、彼の顔色が見る間に赤く、そして青くなっていく。
「ち、ちょっと私、『天使の涙を見てくる』あるよ。」
 ベンパツは言い捨てるようにして席を立つと、そそくさと食堂を出て行った。
「なんですか?その『天使の涙』って?」
 モヒカンがチョンマゲに聞いた。

「何か知らぬが、そこはかとなく美しい響きをもっておる言葉ではないか。拙者、その言葉気に入ったぞ。」
 チョンマゲが感心したように言った直後・・・
 グギュルギュル ギュルルウル!
 チョンマゲの腹から同じような特大の音が聞こえてきた。
「むっ?」
 本人が驚いている。

「まだ腹が減ってるのですか?」
「い、いや。これは・・・『鬼の腹太鼓』じゃ。拙者、ちと失礼する。」
 今度はチョンマゲが退場した。
「『鼻太鼓』?」
 モヒカンがそう呟いたときだ。
 ゴギャールンベルルル! グゥギャールンガルルル!
 モヒカンの腹から暴走族が出発した。

「ぐふっ・・・」
 一番鈍感だった分だけ、事は急を要している。モヒカンのミはもう蓋からあふれ出んばかりである。
「あっ・・・」
 走っていたモヒカン、足を止め、処女のごとく呻く。
「ぐぅぅうっ!こ、こんちくしょうっ!」
 どうやら彼は戦っているようだ。さっさと行けばいいのに・・・
「うふぅ・・・」
 ついにモヒカン、力なく、そして悲しそうに吐息をついた。
 彼の臀部が急速に盛り上がっていく。

 それからのメガフォルテ内部のトイレはまさに野外ロックコンサート会場ばりの悲惨な状態となった。
 全席満室。
 どの部屋も一向に空く気配はない。
 最初、ノックで室内の人間を急かしていた男達は結局耐え切れずに、次から次へと建物の外に飛び出していった。
今や誰もが他人の視線すら気にせず排便する。
残った唯一の理性はズボンの中で用を足すことを禁ずる。
しかし、その理性すら失する者、多数。
褐色のユートピアだ。

「な、何が起こった!?おい、メルトモっ!トウハーツっ!」
 騒ぎを聞きつけて急いで階下にやってきたメクロは、その惨状に目を剥き、ありったけの力で叫んだ。
「ふぅわぁ~いい」
 あちこちからささやき声のようなものは聞こえるが、あまりにも弱ったその声では誰がどこに居るのかまったく分からない。
 メクロはメルトモ達を探し出すために走り出した、と、その時・・・

「ふふふふふ。」
 この地獄絵図の中に笑い声が立った。
「誰だ!」
 メクロがイライラしながら言った。この状況でもメガフォルテの集団の中には笑い上戸が潜んでいるかも知らん。
 見つけ出したらただじゃおかんぞ!
 鋭い視線でメクロはあたりを見回した。
 そして、見つけた。
 なんと、笑い上戸は食堂のおばちゃんではないか!
 口を押さえて上品に笑うその姿が少しも奥ゆかしくない。
 と、突然、おばちゃんは帽子を取ると、白い作業着を脱ぎ出した。

「うぐわぁ~!何してるんだ!やめろぉー!」
 メクロが両手で目を固く覆いながら叫んだ。
 悲鳴のようでもある。
 そして、おばちゃんは全てを脱ぎ去った・・・。
 ああ、想像を絶する・・・と思いきや、なんと、その下から現れたのは、メガネだった!

「お、お前は!」
 恐る恐る両手を開くメクロの眼前にメガネが立っている。
「驚きましたね?」
 ニコニコしながらそう言いながらメガネが立っている。
「ちょっと怖いもの見たさもありましたね?」
 (あ、こいつ。笑ったらちょっとカワイイぞ・・・)メクロはちょっとだけ、瞬きの時間程度の間だけ、そう思った。

「あ、あそこから抜け出したのか!」
「まぁ、だからここにいるんですが。」
「一体どうやって・・・」
「うーん、今それを説明してもいいんですが、その前にちょっとやることがあるんですよ。まぁ、ゆっくり見物でもしててください。」
 そう言うとメガネはメクロをそこに残したまま、混雑したトイレへとゆっくり歩いていった。

 (バカめがぁっ!待てと言われて待つヤツがいるかっ!)メクロはジリジリと後ずさりし、メガネがトイレの入り口のドアから中に入り、その姿を消した瞬間、一挙に二階目指して走り出した。そして、自分の部屋のドアをもどかしそうに開けると、机の上に大切に置いていたギメガ帳を・・・
ないっ!ギメガ帳がないっ!机の上、下、横、床、ベッドの下。全て探して、ないっ!ないないないっ!

 (あ、あのボウズ!)ニコッと笑う、可愛い少年が頭に浮かび、少し心が温かくなる。
 (ち、ちがうっ!)メクロは激しく頭を振り、その映像を打ち消した。
 今、メクロは全てを理解していた。
 メガネのあの落ち着き、あの状況でのトイレ行。
 そうっ!あいつはギメガ帳を盗ったのだ!
 どうやってかは知らんが・・・。
 あいつだ!あいつだ!
 でも、あいつはあれを使えないはず!猫に真珠・・・貝?(だっけ?)えぇ~い、そんなことどうでもいいっ!
 「くそっ!くそっ!くそっ!」メクロは吼えた。
 この状況にまさにぴったりの言葉だった。


(第二十七話に続く)


― 第二十七話 時には乾くのも良い、という話・・・ ―

 メガネは焦らなかった。ゆっくりと、そして確実に・・・。
 相手の額に触れる直前のコツを忘れずに。

 最初はトイレに居座っている連中から始めた。皆、この短時間でげっそりと痩せている。彼らの額に次々とメガネは触れていった。
 メガネが目の前に現れると、皆、恥ずかしそうにうつむいた。
 そりゃあそうだ。
 個室に侵入されているのだ。
 
 メガネに額を触れられてからの彼らの表情は実に変化に富んでいた。
 ある者は悲し顔から怒り顔に、ある者はその逆に、またある者は難し気な顔に、と、とにかく忙しい。
 感情のすべてを代わる代わる浮かべるカメレオンのような者もいる。
 無理もない。
 なんせ、彼らは今、ギメガ帳に封印されていた彼ら自身の嫌な記憶と必死に戦っているのだ。
 手を縛られた耳元で黒板に爪をキィキィと立てられる拷問に等しい。

メガネはそんな彼らの姿を見て、一体自分は善い事をしているのか、悪い事をしているのか分からなくなっていた。
しかし、まぁ・・・、金のためだ。しょうがない。
 メガネは次々とトイレを制圧していった。
 
 今やほとんどの者は過去の辛い記憶を乗り越え、悪夢からさめたようにぼおっとしている。
 そしてメガネは、建物一階にある最後のトイレ、メルトモの部屋のちょうど横に位置するトイレに入っていった。
このトイレには個室が四つあった。手前三つの個室にいた男たちの記憶を戻すと、メガネは最後の個室のドアを開けた。
そこにいたのはモヒカンだった。
「お、お、お、お前、はぁ~・・・」
 何もかも出し尽くしたようで、彼には叫ぶ元気も残ってはいなかったようだ。
 
 ポンッ!
 
 メガネがモヒカンの頭を突付くと、彼はそのままポカンと上目使いで天井を仰ぎ見ると、そこで彼の動きはぴたりと止まった。まるで電池の切れた人形だ。そして、メガネがモヒカンの個室を出ようとする時だった。
「お、おい・・・」
 モヒカンが声を出した。
 
 記憶を取り戻したばかりの人間はとても人と喋れる状態じゃない、と、さっき尾道ギメガが言ってたはずだが・・・。
 さすがモヒカン、その髪型で人前を平気で歩けるだけはある。
「なんだ?」
メガネが応えた。
「あ、あの時、ばあちゃんのカツラ燃やしてしまって・・・ごめん。」
 モヒカンの目から涙があふれ出てきた。
・・・。・・・まぁ、辛い思い出っていっても人それぞれだ。
 メガネは無言でトイレから出ていった。
 糞尿で黄色くなったトイレ中、過去の記憶と戦う男たちはのたうち回っている。
 
 メガネが記憶を戻すごとにギメガ帳は薄くなっていった。
 『広辞苑』ほど分厚かったギメガ帳が、今や『コブ取りじいさん』ほどに薄い。

「これで全員だな。ああ疲れた。」
 メガネはため息をついた。

『あの・・・。アソウさん達を助けないと・・・』
 細い絹糸のような声が聞こえた瞬間、メガネの体がビクッと震えた。
「た、竹田君・・・。心臓に悪いよ!」
 当然、原因である竹田君には訳が分からない。

 先ほど、地下からメガネを助けてくれたのは、実にこの絹糸の君であったのだった。
 ギメガ帳を使わなくともその存在が忘れられる、という特技をもつ竹田君、一連の騒動の間、どこへも動かず、一階の一室でひたすら歯ブラシセットの解体作業に従事していたのだった。

 時が流れること、数時間・・・

 突然、頭上の天井の一部とその直下の床の一部が開き、四つの乾きモノと一人のメガネが目の前を流れていったのであった・・・。
 とっさに解体中だったリュックの紐をできるだけ穴に落とした瞬間、メルトモ以下メガフォルテの連中が入ってきた。
 メクロ、メルトモ、そして一団の騒ぎは前述通りである。
 ただ、その中に竹田君はいたのであり、その存在が誰の目にも止まらなかった、というだけだ。
 一団が去った後、メガネがリュックの紐と寝袋を使って穴から這い上がってきたとき、竹田君は部屋の隅で体育座りをしていたという・・・

「そ、そうだね!アソウさん達を助けに行こう!」
 メガネはそう言うと、竹田君と共に歩き出した。
「ふはぁっはっはっは。メガネ君、ここはな、〝アツモノに懲りて膾を吹く〟じゃ。男にはここ一番って時がきっと来るものだよ!」
「何言ってるのか良く分かりませんが・・・。」
「まぁ、何か物事を成すときには、焦らないことだ。人生じゃよ、メガネ君。人生という名の・・・宇宙船地球号じゃ。」
「・・・。・・・はやくアソウさん達を・・・」
 その瞬間、メガネの脳裏に悪魔が舞い降りた。

 (はっ!ちょ、ちょっと待てよ・・・。アソウさんが居なくなるとしたら世界公務員の日本支部長の座はどうなるんだ?もちろん一番の候補としては、ミハダさんだけど・・・俺、これだけ活躍しちゃってるし・・・。ふふふ・・・。い、いやぁ、まさかぁ!それはないだろう!ま、ミハダさんだな。それなら俺も納得す・・・ン?でも、ちょっと待てよ。ミハダさんと俺が・・・)
 
 メガネの脳裏には今、お腹の大きくなったミハダを優しく支えながら一緒に買い物をする自分の姿がはっきりと見えていた。

 (う~ん。アソウさんが・・・)「消えてくれたらなぁ・・・」
 メガネ、とうとう言っちゃった。

 メガネ、尾道ギメガ、そして竹田君がメクロのいるであろう二階への階段を登ろうとした時だった。

「すいませぇ~んっ!すいませぇ~んっ!」
 叫び声とともに、ドタドタと足音が近づいてきた。
 振り返った二人(と一冊)の見たのは、あの管理人、斉藤だった。そして彼の背後にはずらりとメガフォルテの団員達が続いている。
「メ、メガネさん、で、でしたよね。ああ、あの、お、俺たちにお供させてはくれないでしょうか?」
 皆、出し尽くした喪失感で頬がこけている。

「お、俺たち悔しいんです!メクロ様に、お、俺達の記憶を弄んだ罪の重かったことを身を持って教えてやりたいんですよ!」
 しかし彼ら、まだ、‟様”を付けていることに気づきもしない。

「でも、嫌な気持ちを忘れてたら忘れてたで、案外幸せだったんじゃ・・・」
「な、何てこと言うんですか!俺達、被害者ですよ!ヒガイシャ!」
「わ、わかりましたよ!」
「とりあえず、俺たち、メクロ様達を絶対探し出してきますんで、待っててください!」
 そう言うと斉藤達は急いで建物の奥へと走り去ろうとしたときだった。
「ちょ、皆さん!」
 メガネがみんなを呼び寄せ、階段の床を指さした。

 メガネが整髪料をつけたドアが開かれていて、床だったはずの板がはずされており、そこから地下への隠し階段が下に続いていた。
 皆ぞろぞろとその階段から地下に降りていく。

「ようやく気づいたか。遅いぞ、お前たち!30分待ったじゃないか!メガネはどこだっ!」
 メクロが叫んだ。
「こっちですぅ。」
 メガネがそう言いながらダラダラと前に出て行くと、なるほど、そこにはメクロ、メルトモ、チョンマゲ、ベンパツが勢ぞろいしている。

「おう、メガネか。よくもやってくれたな。」
 メクロが声だけは愛想よくメガネに言った。
「はい、何とか。」
 メガネはメクロの傍でモガモガと口を動かしている老人四人に目をやった。

「用件はもちろんわかってるな?さぁ、そのギメガ帳を俺に渡せ。さもないとこいつらの命はないぞ!」
 メクロが懐から出刃包丁を出した。
「嫌です。」
 メガネ、即答である。
『メガネさんっ!やばいっすよ!メクロ様、本気っすよ!』
 斉藤がささやいた。
「大丈夫、大丈夫。」
メガネが自信あり気に答えた。(向いてる刃先はアソウさん。ここからミハダさんまでの距離は充分。ま、とりあえず、アソウさんが刺されてから・・・、あ、・・・刺されたら、出るか・・・)
いづれにせよ、メガネの野望に変わりはないと思われる。

『でも・・・』
 斉藤は人ごとながら心配そうだ。いいヤツだ。
「よぉ~っし!十まで数えるからな!いぃ~ちっ!」
「さぁ~っんっ!」
 メガネが叫んだ。
「お前が数えるナっ!」
 メクロが叫んだ。興奮してるため、声が途中で裏返った。
「にぃ~いっ!」
 とその時だ。メクロ達を取り囲むように立つ斉藤達一団の中からメクロに向かって飛び出していった者がいた。
「あっ!」
 悲鳴が上がった。
「ぬっ!」
 メクロがくぐもった声を上げた。
『メガネさん、今だ!アソウさん達を助け出してください!』
「えっ?なんだって?」
 皆の気持ちを代表してメガネが言った。
『は、早くアソウさん達を・・・』
 言ってる本人の竹田君、どう好意的に見てもメクロに押さえられているようにしか見えない。

「この裏切り者がっ!こうしてくれるわっ!」
 メクロが竹田君の目の下の皮膚の薄いところを親指と人差し指だけで引っ張り上げ、バチッと離した!痛いっ!皆、一瞬目を瞑った。
『ああああああああ』
 竹田君、目を押さえながら床を転げ回っている。

 その時、メガネがふわりとメクロの方に体を躍らせた。
「ふんっ!」
 メクロが容赦なくメガネの体目がけて包丁を振った。
「ひいやあぁぁぁ!」
 斉藤達の目には、包丁がメガネの体に吸い込まれていくのがありありと見えた。
 ドンッ!
 何か鈍い音がしたと思った瞬間、「あいたたたたたたぁっ!なぁにすんのよ、このバカ息子!」
 この声は、あれだ、あのオカマ・・・そう、メクロ父母!
 一瞬のメガネの機転!

「あぁっ?ああ!母ちゃん、ごめんよっ!」
 メクロがビクッと体を振るわせた拍子にメガネは包丁を本に挟み込んでこれを投げた。
 
 ― ザクッ! ―

 飛び包丁の到着先は竹田君の鼻先五ミリほどのところだった。(あぁ、暖かいなぁ・・・)竹田君は失禁しながら失神していった。

「ちょっと、こらっ、メガネ!あんたもよ!ぶっ殺すわよ、あんた!」
「す、すいません、つい・・・」
「『つい』に『へちま』が実ってたまるかってんだ!」
 なんという理不尽。
「もういい!ねぇ、ちょっと、メガネ。あんた、あの壁まで私を連れて行きなさい!」
「あ、母ちゃん、そこは・・・」
「だあっしゃいっ!」
 皆ビクッと体を震わせる。
「・・・あの、ここでいいんでしょうか?」
 メガネがビクビクと言った。
「そこにでっぱりあるでしょ。それ押して。」
 メガネが押した。・・・と、
 ウイィィイィン
 卑猥な音が聞こえてきたかと思うと、メガネの目の前の壁が左右に開き始めた。
「おぉ!」
 そして、そのドアが開き切ると、そこから白い煙があふれ出てきた。
「ど、毒ガスだぁー!」
 誰かが叫ぶと皆、なだれを打って逃げ出そうとした。
「一人も動くんぢゃないっ!」
 メクロ母が叫んだ。そして、
「じゃないと毒ガスの方が良かったって死に方するわよ・・・」
と囁いた。その言葉は人々の心臓を止めた。
「メガネ、じゃ、そこの中に入って。」
「・・・は、はい。」
 もう毒ガスでも良かった。メガネは力いっぱい目をつむると、思い切って煙の中へと突入した。息を止めていたが、心臓が耳から出そうになり断念。もうどうにでもなれ、と思いっきり息を吸った・・・が、何も起こらない。
「?」
「ドライアイスよ。」
 キョロキョロするメガネを見てメクロ母が言った。
「あそこに老体が二つあるでしょ?美しい方に私をくっつけて。」
 これはまた究極のクエスチョンだ。二つの燻製、どっちが美しいのか・・・。

 メクロは決意を固めた。
 メガネがメクロ母に手を置き、右の方の、ほんのりとより美しいと思われる乾きモノに指を伸ばした。
「・・・あなたのその節穴の目に穴を開けるわよ。」
 理不尽ではある。しかし、外れた。・・・メガネは大急ぎでもう一方の老体に指をくっつけた。
 
 失った記憶だけを戻す作業とは違い、こちらは肉体全ての情報を戻す作業である。
 基本的な動作は一緒なのだが、ギメガを通して指先から抜け出していく‟何か”の感覚はこちらの方が圧倒的に大きかった。

 人間→ミイラ、の変化とは反対の効果が現れた。これもまた、圧巻である。
 メガネが指を差した皺だらけの老体が微かに震え始めた。そして、まるで空気を送り込まれた風船のようにみるみる膨らみ始めていた。
 縮んで皴だらけだった目に、鼻に、唇に、見る見る張りが出てくる。
 頭皮にわずかにくっついていた白髪が、フサフサとした銀髪に生え変わっていった。

「あぁ~あ!」
 ミイラ、じゃなかった。
 初老の女性が大きく伸びをした。
「か、母ちゃん・・・」
 息子(=メクロ)が二、三歩後づさった。顔が引き攣っている。

「あんたのことは後ね・・・。ちょっとそこでじっとしてなさい。」
 母が息子に言った。
 視線に突き刺された息子、それだけで動けず。
「ちょっとでも動いたら顔、ぐちゃぐちゃにするからね。」
 母が言った。表現が妙にリアルだ。

「ちょっとメガネ、まずはその四つから元に戻しなさい。」
 メガネ、最初にミハダ、次に田崎、次に吉田の順に次々と戻していった。
 そして最後に、かなりの逡巡のあとで、アソウを元に戻した。

「こらっ、メガネっ!なんでワシが最後やねん!あと、お前、ワシを戻す前にちょっとためらったやろ!なんちゅうヤツや!」
 元に戻った瞬間からうるさい、爆竹みたいな男だった。

「うぅ~ん!ようやく元に戻れたわ。」
 (あぁ、ミハダさん!)メガネが思った瞬間、「ちょっと、吉田、あなた、さっきどさくさにまぎれて私の胸に触ったでしょ。」
 いつの話か誰も分からない。
 当然、吉田も分からない。
「な、何の話してるだべか、ミハダさん!お、おら・・・ゴフッ!」
 ミハダの肘が吉田の鼻を顔面に埋め込んだ。
 老婆を経て、ミハダのキレ度の沸点が下がったようだった。

「うぅ~!くぅっ!いやぁ~、やっぱり元の体はいいなぁ!」
 田崎が伸びをしながら吼えるように言った。

「アソウさん!ミハダさん!・・・その他!」
 メガネが言った。
「『その他』って、メガネさん・・・」
「いや、皆さん、ホント無事でよかった!・・・ちっ」
「い、今、メガネさん、『ちっ』って舌打ちしたべ!」
「そんなことないよ、吉田。まぁ皆さん、記憶ないと思うけど、こっちも色々ありまして・・・」
「いや、記憶なら鮮明にありますよ。」
 田崎が言った。
「え?」
「ただ肉体が老いているってだけのようね。老いてる間もちゃんと脳は記録を取り続けてて、さっき記憶を取り戻すまでその自覚がなかった、というところかしら。」
「ミハダ君、するどいな。なんや、ババアになってIQが上がったんちゃうか。ムネQは変わらんよう・・・ごふっ!」
 アソウのシモQもまた上がったようだった。

「メガネ、こんどはコレ、ね。」
 メクロ母が、先ほど隣にいたミイラを指さした。
「これは誰なんですか?」
 メガネがそう聞きながら指をかざした。
「夫よ。」

「おお!」
「あっ!」
 メクロ母の夫、いわば、メクロ父が元の姿に戻ったとき、皆の口から驚きの声が上がった。
 そう。メクロ父、この建物がまだ病院だった頃のパンフレットに載っていた、あのうさん臭い院長その人だった!
「やっ!皆さん。はっはっは。」
 メクロ父、戻った瞬間、まるで道で出会った知り合いに挨拶するように、皆に向って片手を挙げた。この状況を把握しているのかどうか、実に気さくなオッサンである。そしてなぜ笑ったのかもわからない。

「うちの主人よ。ま、社会的地位と価値はあなた達より遥かに高いわね。」
 母がミハダに見下げたように視線を送りながら言った。実際、元の姿に戻った彼女はミハダよりも頭ひとつ分も背が高かった。

『ミ、ミハダさんっ!ここは抑えて、抑えて!恩人ですから、一応。』
 メクロ母に対してミハダの体が動く前にメガネは急いでミハダに耳打ちした。

「ほぉう、それで、君がアソウ君だね?息子からしょっちゅう話は聞いてるよ。いや、ホント君らの仲の良さは羨ましいな。〝甘梅一番〟!ワッハッハッハッハッハ」
 このオッサンが息子の交友関係に一切興味はない、ということがよくわかる。
ま、とにかく院長はバカに上機嫌だ。子供の友達が家に来るといきなりひょうきんなパパを演じようとする父親はどこにでもいるものだ。

「ねぇ、パパ。ちょっと聞いてくださいよ!アンソニーちゃんったらね・・・」
「か、母ちゃん!皆の前でその名前で呼ぶなよ!」
 息子(=メクロ)が言った。
 どうやらナダ会の時、新人に『エミリー』と名付けたルーツはここにあったようだ。

「うるさいわね、この子は!ホントに執念深いったらありゃしない。たかがケーキの一つくらいで私達をこれ(とギメガ帳を指す)の中に入れるなんて・・・」
「は?」
 アソウ以下皆の声だ。
「あの、お母はん?」
 アソウが恐る恐るメクロ母に声を掛けた。
「『メルポ様』って呼んでもいいわ。」
 メルポ様がにこやかにおっしゃった。
「・・・メ、メルポ様。で、メルポ様。今、言われた、その、『ケーキのため』っておっしゃいますと?」
「そ、ケーキよ。あたしとカイポンがアンソニーちゃんに内緒でケーキを買って食べちゃったことがばれちゃって。」
 メルポ様が長い舌で舌なめずりをした。おそらく『てへっ!』てことなのだろうか?今から一人喰らおうという鬼婆にしか見えないから不思議である。

「それで、それを怒ったアンソニーちゃんがこれ(と言ってギメガ帳を指さす)を使ってあたし達の記憶を取り出してしまった、というわけ。」
「そ、それだけでっか?」
 アソウが呻くように言った。

「そ、それだけとは何だ!行列の出来るケーキ店『シャボン・ド・ドリーム』のシフォンケーキだぞ!」
 確かに何だかすごいケーキっぽい。金粉とかまぶされているような・・・
「あの究極の甘さの技術!あのワザはあそこのパティッシェにしか出せないのだよ、アムロ君。」
「だから、それ誰やっちゅうねん!でもそんなに欲しかったなら、もう一つ買えばよかったやないかい?」
 アソウがもっともなことを言った。
「ばかっ!一つ千五百円もするんだぞ!おいそれと買えるか!」
「だってお前、金持ちちゃうんか?」
「俺はケチだ。そして、パパもケチだ。」
「おい、おい。アンソニー!それはひどいなぁ!ははははあははは」
 どうやらそうらしい。

「お前、もしかして首相暗殺の件も・・・」
 ビクッとメクロが体を震わせた。
「今、認めたわ。」
 ミハダが冷静にメクロの様子から判断した。
「アンソニーちゃん!なぁに?首相暗殺って?」
「いや、メルポ・・・様、こいつな、・・・」
「や、やめろっ!アソウ!」
「アンソニーちゃんはちょっと黙ってなさい。・・・アソウちゃん、おねえちゃんに話して御覧なさい。」
 (ど、どさくさにまぎれて今、おねえちゃんって!)
「はぁ・・・。三日前に首相の・・・え~っと」
「御堂です。」
 ミハダが助けた。
「そう、御堂!そいつ、俺達の後輩なんですけど、その御堂がメクロから暗殺予告を受けたんですわ。」
「まぁ!」
 メルポ・・・様がキッとメクロを睨んだ。
「なんでそんなイタズラしたの!」
 いやいやいや!イタズラのレベルじゃないと思うが。しかも、世界征服とか言ってたし・・・
「ご、ご免よぉ、ママぁ!」
 メクロが大声を上げて泣き出した。一応断っておくが、彼は五十歳を越えた成人男性である。
「ヒック、ヒック、だってアイツ、僕の盗撮動・・・芸術を取り上げたんだ・・・ヒック、ヒック」
 一応断っておく。この男性、酔っているのではなく、大粒の涙を流し、しゃくり上げているところであった・・・


(第二十八話に続く)

― 第二十八話 恨みはらさで・・・ ―

 それは遡ること、メクロがアソウのいた世界公務員米国支部に入所していたときのことであった。

 御堂(コードネーム:ロロリコン)が米国支部に研修生として入ってきたのはメクロ入所からちょうど一年後であった。
 メクロもアソウも自分の意思で入ってきたのに対して、ロロリコンの場合、特待生としての入学だった。
 特待生とは、世界中の中でもトップ数パーセントの大学のうち、さらにそのトップ数パーセントのトップのトップ学生、のまたトップを世界公務員本部が選定し、世界公務員に[なっていただく]制度であった。

 もちろん、メクロやアソウ達一般の生徒とは格段に扱いが違う。
 まず、ロロリコンとメクロ達が校舎で顔を合わせることはほとんどない。(メクロ達、底辺公務員には、特待生が入所してきたことさえ知らされることはなかった)
ロロリコンは別校舎で、特別なカリキュラムのもとに、特別な講師が特別なやり方で授業を行うのが通例だった。
講師以下、学校長も含め全員、その将来の本部長候補には絶対服従である。もちろんそれで本部長候補が天狗になり、支部の規律が乱れるということはあり得ない。なぜなら本部長候補は入校と同時にもうすでに最高管理職者としての自覚と風格、そして自信を持っていた。本当に実力のある人間は威張らないものだ。

 ロロリコンが米国支部に入所してきて数ヶ月も過ぎた、とある日のことである。
 ロロリコンは、ニーチェの超人思想の根底にある選民思想と哲学の本旨との矛盾について考えながら廊下を歩いていると、女子トイレからひょいと男が出てきた。
 
 世界公務員の制服を着ているから、掃除人とかではない。
 一瞬、間違って女子トイレに入ったんだな、と思ったが、その男、今度はなにやら小さな包みを抱えてまた女子トイレに入ろうとする。そこで本部長候補、当然、声を掛けた。
「おいっ、何してるんだ?」
「!・・・っておい、男かよ。おどかすな!」
「何してるんだ?」
 本部長候補、また尋ねた。

「しぃっ!見つかったもんはしょうがねぇな。ウンのいいヤツだ。くぅっくっくっくっ、今の分かった?トイレなだけに『ウン』。くぅっくっっくっく!ま、それはいい。よし、黙って俺について来い。」
 男はそう言うと女子トイレに急いで入っていった。ロロリコンが考えたのは一瞬だけであった。彼は本部長候補として、謎を突き止める責任があった。それで男の後について恐る恐る女子トイレに足を踏み入れた。

 (おぉっ!これが女子トイレか!)当然だが、小便器がない。気のせいかどことなくバラの香りがしてくる。
 当然ながら、ロロリコンはお坊ちゃんである。女子トイレに入る、などとは夢想だににしたことはなかった。・・・と、男は、と見ると、個室の中でなにやらゴソゴソやっていたかと思うと、「おい、出るぞ。」と鋭く言うと、肥満したその体に似合わずすばやい動きでトイレから出て行く。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
 ロロリコンが彼の後を追おうとしたそのときだった。
「きゃあ~っ!」
 運悪く入ってきた利用者と、まさに入り口を出んばかりだった男がばったりと顔を合わせてしまった。

 ロロリコンはハッとした。
 ここは女子トイレ、自分は男で本部長候補である。
 稲妻のような速さで沿う思った彼は、次の瞬間、男の足を引っ掛け、彼を押し倒していた。そして、彼の体を押さえつけると、「もう大丈夫です!変態は取り押さえました!」と女に言った。
「あぁ、ロロリコン様!」
出世の臭いに敏感な一部の女達にとって、ロロリコンは憧れの的であった。その女もそのうちの一人だったらしい。興奮した女はロロリコンの顔を見るとまるでとろける様な笑顔を見せた。
「お、おい、お前、放せよ!喜んで一緒に入ったくせに何して・・・」
 ロロリコンの下になった男、メクロが叫んだ瞬間、
ゴキッ!
 メクロのアゴにロロリコンの一撃が入った。
「こいつっ、凶暴なヤツだ!こんな状態でもお嬢さんを襲おうなんて!」
 (俺はサメか・・・)薄れいく意識の中でメクロは思った。
「お嬢さん、急いで警備班を呼んで来て下さい。」
「はいっ!」
 ロロリコンの言葉を聞いた女はうっとりとした表情で服を脱ぎ始めた。
「ち、ちょっと!君!警備班だよ、警護班!僕は警護班を呼んできてくれるように、と頼んだんだよ!」
 女はハッと我に帰ると、「はっ!あ、あたしったら!何してるのかしら!きゃあ、はずかしぃ~!」と走り去って行ってしまった
「?」
 ロロリコンも、そして下になったメクロも、女の消え去っていった辺りをしばらくぽかんと見ていた。
「・・・ま、しょうがない。」
 ロロリコンがメクロに言った。
「おい、君。今日のところは許してやる。もう二度とこんなことするんじゃないぞ。」
 (何だコイツ、偉そうに!)カチンとはきたが、いかんせん状況が悪い。メクロは何も言わずにその場を立ち去ろうとした。
「あ、そうだ。おい、君。さっきの箱を僕に渡したまえ。」
 ロロリコンがニッコリと手を差し出して言った・・・。

「そ、それからだ!それからあの地獄の日々が始まったんだ・・・」
 メクロがボロボロと血の涙を流しながら言った。
「アイツはその時、俺の学生証を確認して俺がどこに住んでいるのかを知ると、定期的に俺のところにやってきては俺が死にそうな思いをして集めた珠玉の映像や画像を持っていってしまうんだ!こ、これがどんだけ悔しいことかお前達にわかるかぁ!」
 エロ画像を取られた悔しさと怒りで、顔色さえ青くなっている。(・・・ホント、イタい人)メガネはそう思い、ふと気配を感じて後ろを振り向いた。
 アソウがメクロと同じ色の涙を流している。

「それだけじゃないっ!突然夜中に電話で俺を呼び出したかと思うと、『水一杯汲んできて』だ!『買ってきたシャンプー、ちょっと使っちゃったけど返品してきて』というのもあった!『服のボタンが落ちたから』というので校内中をはいずり回されたこともある!」
 もう言葉もない。
「で、卒業まであと四日、というあの日・・・」 
 メクロは感情を抑えて話しているため声が低い。その低さに怨念の深さが垣間見えた。見たくないけど。

 その夜中、メクロは忙しかった。
 トイレ、更衣室、体育館、保健室。主要なところを全て回収に回り、痕跡を残さないように後始末していった。
 世界公務員養成学校の二年間、メクロの人生を濃厚で芳醇なものにしてくれたこれらの機器の一つ一つに特別な思い入れがある。どの汚れ、どのシミもメクロの血と汗と涙の賜物なのだ。メクロは一つ一つをやさしく丁寧に外していった。それぞれの機器の中には、熟れた果実のようにぎっしりと宝石が詰まっている。それを想うと、機器を外す手間などなんでもない。自然と鼻歌が出そうになり、そっちを抑える方が、外す労働よりも大変なほどだった。

 作業が終わる頃にはもう朝日がうっすらと校舎に差し込んできていた。そして、メクロがクタクタの体で、装置を満載した袋を抱えて校舎を出ようとしたときだった。
「止まれ!」
 はっと正面を見ると、警備班、救護班、衛生班、風紀班がいつの間にか彼を取り囲んでおり、その一団の中心にロロリコンが凛々しく立っていた。
「よし、ではそいつを捕まえて証拠を押収しろ!」
 ロロリコンが一同にそう伝えた瞬間、隙をついてメクロは校舎の中へと逃走した。
「ヤツを追えっ!」
 ロロリコンのどことなく楽しそうな掛け声とともに逃走劇の幕が上がった。
武装集団数十人対デブ一匹。勝負は初めから見えていたが、ロロリコンは、「そこ、右に廻れ!ちがう!衛生班は正面からだ!」と、捕まえるのにわざと遠回りな指示を各班に与えていた。

『がはぁ、ぐぁはぁ、だはぁ!』
息が続かなかった。心臓が飛び出しそうなほど鳴っている。こめかみが心臓の鳴る度にズキズキと痛んだ。
メクロが何とか転がり込んだのは行き慣れていない男子トイレの一番奥の個室であった。そこで五分ほども経った頃だろうか、ガチャッとトイレの入り口のドアの開く音がして誰かが入ってきた。
「ここかなぁ~」
 ロロリコンだった。
「お~い、メクロ君。その荷物を全部渡してくれたら逃がさんでもないんだ・・・よっ!」
 
 ― ガンッ! ―

 掛け声と共に、ロロリコンが一番入り口寄りの個室のドアを勢いよく開けた。
「あれぇ~、ここじゃなかったねぇ~。じゃ、ここかな?」
 
 ― ガンッ! ―

 二つ目のドアを開けた。
 あと二つ。

「さぁて、メクロ君。どうするのかなぁ~?」
 ロロリコンが三つ目のドアを蹴り出そうとして足を上げた瞬間、メクロが個室から走り出てきた。その手には装置解体に使用したドライバーが握り締められ、まっすぐロロリコンに突進してくる。・・・が、惜しい!たまった疲れが足に来ていたようだ。メクロ、ロロリコンに届く前に自分で足を絡めてしまい、あえなく自爆。タイルの床に派手に転がった。

「さて、と。」
 ロロリコンが落ち着いた動作でメクロの手からドライバー、そして個室からずっしりと重い袋を取り出すと、それをどさりと二人の目の前の床に置いた。
「これでよし。」
「く、くそぉっ!これは俺のだ!俺の、・・・俺の全てだ!」
 盗撮画像を自分の全てだと言い切る男もすごい。画像にとっても画像冥利に尽きるのではないだろうか・・・

「さてと。ここで取引だ。」
 ロロリコンがドッカとモノの上に座ると、話を切り出した。メクロは鋭い目で彼を・・・いや、彼を見ることは怖くてできないので床を睨んでいる。大体、いじめられっ子はいじめっ子とまともに会話すらできないのだ。メクロはじっと床を見下ろしたまま、ピクリとも動かない。

「どうだい?これまで君が手に入れてきた画像は全て僕に譲るっていうことで手を打とうじゃないか。そうすればこの場は僕の力で何とかしよう。そうじゃないと卒業を間近に控えて君は退学、という憂き目を見ることになる。世界公務員を退学になるってことがどういうことか、もちろん知っているよね?」

 もちろん知っている。
 入学早々から耳にタコが出来るほど言われてきているのだ。
 世界公務員という存在はそれ自体、人類の『影』のような存在である。ましてやその構成員の養成機関である本部や支部の場所、学校の規模、講師の質、花壇の花の本数に至るまで、超がつくほどの極秘事項なのだ。そのため、養成学校を退学する、ということは、死ぬまでその人生を世界公務員の監視下に置くということを意味する。しかし、それはあくまでも表の規則。世界公務員の限られた予算の中からそんな連中のために一々監視など置く金など出してはいられない。そのため、退学者は皆、退学一年以内に不慮の事故を起こし、絶命することになる。いわば、一番手っ取り早い口封じだ。そのことを知っているからこそ生徒は皆退学を恐れ、必死で勉強するのだった。

 メクロの気分は今、下がりに下がって氷点下だ。
「その顔は、取引に応じる、と取っていいわけだね?」
 ロロリコンが立ち上がった。そして、立ち上がりざまに盗撮袋を持ち上げた。
「あ!せ、せめてそれだけは!」
「え?なに?」
 ロロリコンが手を耳に当て、メクロの顔のすぐ前に持ってきた。
『そ、それは・・・』
 メクロが消え入りそうな声で言った。
「うん、これ?そう、取引は今日から、でいいよねぇ?」
『くぅっ・・・は、はい。』
「え?何?聞こえないなぁ。」
『・・・そ、それで、い、いいです。』
「『いいです』って、なんだか偉そうだなぁ、いやだなぁ・・・」
『ふ、ふぐぅっ・・・ゆ、ゆるしてください。そ、それで、ゆ、ゆるして、ふぐぅっ、く、ください・・・』
 全てが終わった。メクロの在校二年分の苦労が・・・。全て仕掛けるのに一体どれだけの金と労力と工夫を注いできたか!それが今、・・・。ち、ちくしょう!この恨み、ハラサデオクベキカァァァァッ!
 


「あのとき・・・」
 メクロが絞り出すように言った。
「あのとき、もし、ギメガ帳ができていたらっ!媒体をあんなにバラバラにして持ち運ぶ必要などなく、捕まることもなかったのだ!」
 アソウがきつく目を瞑りながら、激しくうなずいた。
「あのとき!・・・ヤツの息の根を止めていたらっ!あの記録のすべてをもってして俺は人生を謳歌していたのだっ!」
 アソウが、また大きくうなずいた。
 あ、アソウの目から何か変な液体様のものが出ている。

「だから、俺は・・・」
 悲壮な顔でメクロが言った。
「アイツを・・・」
 言葉が自然と切れていく。
「殺らなければ・・・」
 余韻を大切に・・・
「・・・」

 メクロの告白に共感を覚えたのは当然、アソウだけである。
 アソウ以外のすべての者の胸の内、これは想像するに余りある。

 ― ナンジャソリャー ナンジャソリャー ナンジャソリャー・・・ ―

 という波の音が、彼らには聞こえていた。

 これまでのメガネ達の、そしてメゾフォルテの連中すべての、全苦労はこのメクロのロロリコンに対する個人的な恨み、もっと正確に言うと、「盗り合った盗撮動画」にあったわけだ・・・。
 単に巻き込まれた日数だけから言うと、メガネ達はまだ救われる。実質二日だ。だが、メガフォルテのメンバーを見よ!一番古いメンバーであるメルトモに至っては一体何年、メクロの怨恨につき合わされてきたであろう・・・。まぁ本人、あまりそういうことを気にするような繊細さは持ち合わせていないからいいが。
 しかし、他のメンバー、皆、また尻から何か出尽くしたような呆けた顔をしている。

「帰りましょうか?」
 メガネがアソウに言った。
「そやな。」
 アソウがどこか遠くへと視線を向けながら言った。
「本部からの、一網打尽の指令の件、どうします?」
 ミハダが言った。
「ほっとけ、ほっとけ。何かもう、ワシは胸がいっぱいや。」
 アソウがため息をついた。
 この男はやはり、メクロの一番の友である。

「あ、あの・・・」
 声がしてアソウが振り返った。田崎と吉田が立っていた。
「お、俺たちも連れてってくれないでしょうか?」
「えぇ~っ!お前らこいつらと残れぇ~や!」
 アソウが悲痛な声を上げた。
「支部長。引っ越す必要がありそうですね。」
 そういうミハダはメルトモの腕をしっかりと掴んでいる。
「・・・もうどうでもいいわ。さっさと行くでぇ!」

 帰りの車の中はひどかった。
 なんせ定員五名の車の中に六名である。
 ミハダのたっての頼みでメガネが助手席、ミハダとメルトモ、そして田崎は後部座席だ。メガネは時々ちらっ、ちらっと悲しそうな視線を後ろの二人に送る。

「いぃやだぁべぇぇぇ!」
 トランク入りの決定したときの吉田の叫びである。
「ひぃどいべ!ひぃどいべぇ!なして田崎先輩がいがねぇベグッ!」
 メガネが吉田の秘孔を付き、悲壮な顔のまま気絶している彼をトランクに押し込んで蓋を閉じた。
「あれっ?」
 田崎が不思議そうな顔をした。
「どうした?」
 後部座席を悲しそうに見ながら助手席に向かうメガネが田崎に聞いた。
「今、トランク閉めるとき何か聞こえたような・・・」
「ま、そんな日もあるさ・・・」
 メガネがミハダ達をまたちらっと見やって、そう言った。
「空耳っすね。」
 皆、車に乗り込み、アソウがエンジンを掛けた。彼は大きなため息を一つし、ゆっくりとカローラツーを走らせた。

 トランクを閉めるときに田崎が聞いたのは決して空耳なんかではなかった。
 その幽かな声は確かに、『吉田さんのことは任せといてください』と言っていたのだった。しかし真に驚くべきは、吉田を押し込める前に誰にも気づかれずにトランクの奥に入っていた、という竹田君の存在感であろう。透明人間、というのは実在するのである。


(第二十九話(最終話)へ続く)

― 第二十九話 大団円(最終話) ―

「かんぱぁ~いっ!」
 みんなでビールを持ち上げて声を張り上げた。
 元々三人でも狭かった部屋が、いっきに七人。しかも一人はでかい外人だ。足の踏み場もない。

「ぷはぁ~!」
 アソウがグラスの半分くらいを一気に腹に落とし込んだ。
「うんまぃのぉ~!」
 心底うまそうに言った。
「ほぉんとに!」
 吉田が答えた。
「こんな日にビール飲まんで、なに飲めっちゅうや、なぁ?って!だ、誰や、お前?」
 アソウが竹田君を発見した。
『あ、あの、竹田、です。』
 竹田君、意識して声を大きくしている。
「じょ、冗談やがな~!がははははは」

「そぉれにしてぇも、わたぁし、一体なぁにしてたぁんでしょうか・・・」
 メルトモがしみじみと言った。その哀愁漂う横顔をミハダが惚れ惚れと眺めている。
「そういえば、メルトモ様は一体どこの国から来たんですか?」
 田崎が言った。『様』はこの先、一生抜けないのだろう。
「・・・ちぃかくて、とおぉい国。」
 メルトモの目が細まった。
「・・・韓国。」
「隣じゃないですか!っていうか、メルトモさん東洋人だったん・・・」
「えぇぇぇぇぇぇぇっ!」
 驚くメガネの言葉を遮って悲鳴のような、非難のような、声がした。ミハダであった。
「メ、メルトモさんって、韓国人だったの!?」
 韓国出身と言ってるからには韓国人だろう。
「はぁい。そぉうでぇす!どビンゴ!」
「『ど』はいらへん、『ど』は。」
 ミハダが、メルトモから体を離した。
「ん、どうしたんだべ、ミハダさん?」
 吉田が言った。
「あたし、アジアンはちょっと。」
 男ども、皆、どん引きである。

「そ、そういえば、確かにミハダ君はどことなく赤レンガっぽい。・・・なあ、メガネ?」
 『なあ?』って言われても・・・。
『あ、でも、東洋人の男性の方が肌が綺麗で、僕、好きです。』
 囁きは、シンと静まり返った部屋の壁にコダマした。
「おぉっ!」
 ポッと頬を染める竹田君、そして同じように頬染める吉田と田崎以外の男達が身を引いた。
「なんやねん、お前ら!記憶無かった方がまだマシやったやないかいっ!」
 アソウが叫んだ。
「ホントに。」 
 メガネが言った。
「おい、メガネ!そう言うお前も昔のことで何か人に言えんような、下品で、身の毛もよだつような恥ずかしいこと何かあるやろ?いい機会や、全部吐き出してしまえ!」
 そういうものだけで詰まっている男が言った。
「いや、俺、記憶戻ってないですから・・・」

 ・・・・・・・・・・・・へ?

 皆の動きが止まった。
「なんでやねん!お前、尾道と一緒にメガフォルテのメンバーの記憶戻してたんやないのかい!」
「はい、戻してました。いや、尾道さんが言うには俺の記憶は戻らん、とかで・・・」
「うっそやぁ~!」
「うっそだぁ~!」
「あ!・・・もしかしてメガネさん、記憶戻すの怖くて仮病使ったべか?」
 雪国の人、どうも予防接種かなんかと勘違いをしているようだ。

「いや、尾道さんが探してくれたんですけど、結局俺の記憶ってギメガ帳のどこにもないって言ってました。」
「尾道のやつ、絶対ウソやで、それ!お前に財産渡したくないからや!ああ、惜しいことしたのぉ!記憶戻してたらお前、今頃は億万長者やでぇ!あいつ、なんちゅうヤツやっ!もう親やない!人でなしや!」
 ・・・と、当の息子の前で言う、人でなしである。

「いえ。全てが終わって帰るとき、メルポさんがメクロを脅して聞いたんですよ。そしたらやっぱりどこにも無かったそうです。」
「くっそー、メルポ様のやつ、尾道から一体幾らくらいもろうたんかのぉ!くっそぉー!」
 このヒト、もう腐りつくしてしまっているようだ。

「じゃあ、メガネ君、あなた何も変わってないのね・・・」
「はぁ、そういうことになります。でも、俺って元々そんなに大した思い出もないんじゃないかと思いますから・・・」
「うん!きっとま、そうや!ま、飲もうや!」
「さんせーいっ!」
 田崎と吉田が声を合わせた。
「こぉんどの乾杯ぃは、『ドラムカァーンッ』っていぃません?いえぇ~いっ!」
 メルトモ、また無意味な発言を・・・

「・・・でもやっぱり見た目は西洋人なのよねぇ。」
 ミハダはまだ迷っている。
『僕は皆さんとお会いできただけでホントに幸せなので今晩寝るところなんてどこでもいいんですよ、吉田さんの横ならもう、どこでも、寝ますよ。』
 酔った竹田君が何度も同じ事を叫んでいる・・・。
 (億万長者になれたかも。億万長者になれたかも。億万長者に・・・)気にしてないフリをするメガネの脳内の電光掲示板には、さっきから同じメッセージばかりが流れている。
「じゃあ、もういっちょうっ!」
「かんぱぁ~い!」
部屋全体がまた震えた。

― 蛇足 ―

部屋が震えたせいで暗い台所の冷蔵庫の上から一枚の和紙がはらりと床に落ちた。墨で何か書かれている。しかも達筆だ。
ビールのお代わりを取りに来たメルトモが、勢いよく冷蔵庫のドアを開けた。そして、ドアの起こした風で動いた和紙にメルトモは気付き、それを拾い上げ、酔った顔を和紙に近づけた。・・・が、残念。漢字の読めないメルトモにとって、その和紙は鼻紙以上の存在ではない。彼はフンッと一つ鼻を鳴らすと、その紙で鼻を拭き、丸めてからポイッとゴミ箱に投げ入れた。
彼は冷蔵庫から冷え冷えのビールを一つ取り出し、プシュッと蓋を開けながらギャアギャア騒ぎ立てているみんなのところへと戻っていった。

メルトモの大量の鼻水をやさしく包み込む和紙。そこには、こう書かれていた。

拝啓 アソウ様
   
残暑厳しい今日この頃、益々ご健勝のことと思います。

さて、先日お伝えいたしました、データ紛失の件に於けます減棒額に関しての最終的な決定をお伝えいたします。

前回の指令にて、減棒額は給料の半額、とお伝えしたと思いますが、昨今の世界的な経済状況の悪化を鑑みまして、三ヶ月の給料停止、本年度分全てのボーナスカット、そして本年度のビーチパーティーへの参加停止、と決定致しました。
よろしくお願い申し上げます。

敬具


 
追伸 なお、インド支部部長、カレーオージー様に今回、二人目のお子様が生まれました件で・・・
 

「世界公務員メガネ」了

#創作大賞2022

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