見出し画像

初心者ながらに考えてみた 〜俳句と川柳の違い 自分的考察〜

「俳句と川柳って何が違うの」
と質問すると、おおよそ
「季語があるか、ないか」
と返ってきます。
確かに「季なし俳句」などの例外はあれど、俳句には季語があり川柳にはありません。

が、実際に作り比べたところ、季語のあるなしが違いなのではなく、季語のあるなしは句の作り方に影響を及ぼす、ということに気づき、このたび記事にしてみました。(あくまで自分目線)

自分なりに一生懸命まとめてみましたが、素人で初心者の言うことです。戯言と思って鼻で笑いながら読んでくだされば幸いです。

はじまりは​

俳句と川柳では、頭の使い方が全く違いました。句を作ろうと思ったときに、何から考え出すのかが全く違ったのです。

先ほども書きましたが、私は川柳を始めたばかりの初心者です。
イロハもわからず、自分の作った句を眺めては「季語があると俳句?」とか「季語がないから川柳?」などとテキトーに分類していました。

はっきり言って、それが俳句か川柳かなんてどうでも良く、要は自分の思ったことを五七五のリズムに乗せたかった、それだけだったのです。

そんなある日のこと、5月のカレンダーをめくってふと思い立ちました。
(そうだ、息子の絵で句を詠んでみよう)
息子(次男)に言ってみます。

「ねえ、ここ(カレンダーの裏)に絵を描いたら、合わせて一句作るけど」

次男は絵が好きです。すごく上手とは言えないですが、小さい頃はカレンダーの裏によくお絵描きをしていました。

私の提案は意外と気に入られたようで、黙ってにえんぴつで絵を描き始め、半日ほどで完成させてくれました。

絵の様子を文字にすれば、
『木橋の下を流れる川。一艘の小舟に傘を被った船頭がひとり。川は低い石垣の護岸に囲まれ、手前には一匹の錦鯉が泳いでいる』
こんな感じです。
句を詠むと言ったので、ちょっと古風にしたのでしょうか。
(次男に許可をもらってなく、絵が載せられまず、すみません。トップの画像はイメージが似てるものをお借りしました)

早速、句を考えました。
まず考えたのはこうです。
(ひとり小舟に乗って背中を向ける船頭がいる。川の流れに逆らうことなく流されてゆく手前には一匹の鯉。背中にどことなく漂う哀愁は、世間に逆らわず生きてゆく静かな悟りの境地)
そんなことを思いながら一句。

『錦鯉川の流れに遡らわず』

詠むときに特に意識しなかったのですが、錦鯉は季語ではないので、分類としては川柳としました。というか、作る前に季語を調べる気すらありませんでした。

さて、私のそんな様子を横で見ていた息子(こちらは長男)が、自分もやる、と絵を見ながら句を考えだしました。
長男は高校時代、学校で唯一人「おーい、お茶」の俳句で佳作に選ばれし男。強敵です。

長南の作った俳句。

「夏川や船頭と鯉ふたり旅」

長男は季語を入れました。
スマホで川にまつわる季語を調べ、絵に合いそうな「夏川」を選んで、それから句を考えています。
つまり「夏川」ありき、で句を作っているのです。

余談ですが、長男は最初「夏川の〜」としていました。が、私が「夏川の〜」の「の」って何? どういうこと? 現代語で言うと何? と攻め込んだら面倒臭くなったようで「夏川や」に変えました。
(私は「夏の川」の方が良いと主張しましたが、却下されました)

更に余談ですが「夏川の」の「〜の」は、古語の格助詞の同格というやつで、今で言う「〜で」の意味らしいです。
そして「夏川や」の「〜や」は切れ字で感動や呼びかけを表すそうです。「や」は字間に間を持たせ、後半の句を強調する役割があるそうです(全て受け売り)。

もとの話に戻ります。
長男の句は、私の川柳と比べてどこか明るい。私の句を見た次男は「私らしい」と言いましたが、まるで暗い女みたいでなんか嫌。
それに季語すら調べなかったことで、ちょっと自分に「手抜き」を感じてしまいました。(季語のない川柳が、俳句に比べ手抜きなのではなくて、この絵に対しては季語をつけるべきではなかったか、と思ったのです。)

そこで、長男の真似をして季語を入れてみることにしました。

『船頭を鯉にまかせて夏の川』

船頭に先導、鯉に恋、をかけてみました。
(わかりにく!)

先ほど詠んだ川柳に比べてぐっと明るくなりました。「夏」に明るいイメージや恋のイメージがあるからでしょうか。

しかしながら、確かに「絵」を見て考えた句なのですが、絵から感じた「船頭の哀愁や悟り」みたいなものはすっかりなくなってしまいました。

これが冬や秋の川ならまた違った句になったのでしょうが、長男の「夏川」に引っ張られたことで、同じ絵から全く感覚の違う句を作ってしまったのです。

なんか、川柳としても俳句としても失敗した気分です。

結論

まあ、結局どちらも名句ではないので良いのすが、作った過程はなかなか勉強になりました。

散々言われている「俳句は季語ありき』の意味を身を持って知った感じです。

川柳が心のままを詠むならば、俳句は季語(情景)の中に心をさがす感じでしょうか。

かくして私は、
「心のままを詠んだのなら、季語があろうがなかろうが川柳で良いのだ」「例外はあっても、俳句に季語はあるべきなのだ」
という結論に至りました。

出来上がった句を第三者が見ても、季語なし俳句と季語あり川柳(造語です!)の違いはわからないと思いますし、考え方は千差万別かと思います。

ただ自分としては、詠む前に「川柳」は「川柳」として、「俳句」は「俳句」として詠む心構えができるようになった気がします。

最後に自分的まとめを再度。
・心のままに詠んだら川柳
・情景に心を映すなら俳句

お粗末様でした。



なんかよくわからないから、とりあえず…