僕がマザコンになった話



小2の頃に母子家庭になった。
3つ上の姉と一緒に母親について行った。
当時の僕は、離婚というものが何なのかよく分かっていなかった。
それからは3人で暮らすようになった。母は僕らが起きる時間に仕事に行き、寝る時間に帰ってくる。
授業参観なんて来ないのが当たり前。
学校から帰ってくると机の上には1000円札。晩御飯は姉と2人でコンビニのご飯。
小学生時代はほとんどそんな生活だった。

中学に上がり母は以前より家にいる時間が多くなった。そしてしばらくして、母は再婚した。
相手は言葉も通じない外国人。
物心ついて、家にいるのが嫌になって、夜中に帰るようになった。帰れば毎日のように喧嘩で、家族との会話も減った、話したくなかった。
僕の誕生日も夜中に帰った。母は暗いリビングで泣いてた。それが当時の僕は鬱陶しく思ってた。
「お前も再婚したり家にいなかったり好きに生きてんだから俺にも好きにさせろ」
そんな事を口走ってた。
心底家族と関わりたくないと思ってた学生時代。

高校でも相変わらずの反抗期。すぐにでも家を出たかった。こんな家に生まれてこなきゃ良かったって何度も思ってた。

そして高3になり、初めて離婚の理由を聞いた、その時初めて知ったこと。
前の父は無職。
母は仕事を何個も掛け持ちして、前の父方の祖父が残した借金(家建つくらい)を肩代わりさせられ1人で返し続けていた。

それを聞いても当時の俺は、そんなの俺には関係ない。自分が悪いだろって思ってた。

高校卒業して社会人になってすぐ家を出た。
そして僕が21の時、母が倒れた。原因は脳溢血だった。幸い、その時は何事も無かった。
が、その一年後、また同じ原因で倒れた。その時に左腕と右足に麻痺が残った。
そして医者から「生きている事が奇跡。正直次はない。」と聞かされた。
それで初めて母の死が近づいている事を考えた。今まで母が死ぬなんて考えてもいなかったので、どうしていいか分からなくなった。
コロナ禍でなかなか入院している母にも会えず、入院してから1ヶ月くらい経った頃にようやく母と会うことが出来た。
車椅子に乗っていた母。体型もかなり痩せていて、声もか細くなっていた。母の病気を強く実感した。以前の母はもう居ないんだって。
そんな母は「ご飯はちゃんと食べているの?少し痩せたんじゃない?」
そう言って僕を心配していた。
母はいつも自分の事よりも僕の事を気にかけていた。いつだって自分の方が大変なのに。

帰り道、沢山泣いた。
今までの自分の行動。母への仕打ち。心無い言葉。
全て後悔した。
僕が母に負担をかけすぎた、きっと僕のせいでこうなってしまった。
自分の不甲斐なさに心底嫌悪した。

幸い母はまだ生きているけれど、いつまた再発するか分からない。
きっと死ぬのは怖いはずなのに、そんな素振りを見せないで、僕を1番に考えてくれている母。
本当に偉大だと思う。


絵を描くのが得意だった母。
花を飾るのが好きだった母。
コーヒーが好きだった母。
買い物に時間のかかる母。
方向音痴な母。
言葉使いにうるさい母。
くだらない話で笑ってる母。
きっと僕は母に似たんだなと思います。

あなたに心配をかけないように、画面越しでも僕の元気な姿を見せれるように頑張ります。

あなたの子供で良かった。
あなたが母親で良かった。
あなたが作る手料理が世界で1番美味しいです。
あなたが普段から言っていた
「口は災いの元、言葉は正しく使いなさい」
この言葉は僕の道しるべになっています。
あなたがつけてくれた名前が本当に好きです。
ここまで育ててありがとう。
大好きな母がこれからの自分の人生を楽しく過ごしていけますように。


僕がマザコンになった話。


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