「プロレスラー馳浩」について。
こんにちはプチ鹿島です。
「馳浩」論は3年前に出した拙著に書いたのですが、今回は文字量を半分以下におさえつつ、再度まとめてみました。加筆した部分もあります。
「プロレスラー馳浩」について。
90年代を象徴するプロレスラーとして、まっ先にあげたいのは馳浩である。
昭和(80年代)の新日本プロレスのリングでは猪木や長州がどろどろした情念をたっぷり見せる、暗くて求心力のある試合をしていた。10代の私は魅了されていた。
しかし、馳の覚醒ですっかり風景が変わった。
馳のプロレスは情念の正反対の明るいスタイルだった。アマチュアレスリング流のさわやかでけれん味のない匂いを発散し、合理的でサバサバしていた。
私は馳の明るさがイヤでイヤで仕方なかった。「これは新日本の伝統を壊しているのでは?」と敵視した。
人間は子どもの頃に見ていたものに愛着を持つ。私にとって昭和新日本を内部から明るく壊す馳浩は認めることはできなかった。
そんな私がなぜ馳と「折り合い」がつきはじめたのか。
最初の理由を言う。
私はスタイナー・ブラザーズこそ、90年代新日本プロレスのアイコンだと思っている。
彼らの高度な技の数々は東京ドームをはじめ、新日のビッグマッチに新しい風を吹かせた。数々の雪崩式の技や合体攻撃は大きな会場でも映えに映えたのだ。
スタイナー・ブラザーズの魅力を引き出した功労者は馳だった。断言できる。スタイナーズが映えたのも受けがおそろしく上手かった馳がいたからである。スタイナーズは日本プロレス界に確実に進化と影響を与えた。馳がいたからである。
武藤敬司と馳浩の2人に共通なのは「猪木プロレスの呪縛」から自由という特徴をもっていたこと。
明るい2人から放たれる新・新日本の香り。「スタイナーズ」というお題を通してさらに明るく激しいプロレスが確立された。
考えてみてほしい。「猪木対スタイナー・ブラザース」はピンとこない。食い合わせとしておいしくなさそう。対長州でも同じ。
新時代の驚異のプロレス、スタイナー・ブラザーズとどんな絡みを見せることができるのか。すなわちそれが90年代の新日本トップグループの役割だったと言えまいか。
凄い、激しい、でもなんか明るい。平成プロレスはこうして確立されていった。
馳は佐々木健介とのタッグでIWGPタッグチャンピオンにもなったが、健介をうまくリードして試合を作り盛り上げていた。安田忠夫のデビュー戦の相手も馳が務め、合格点と称賛される試合に仕上げてみせた。
忘れてはいけないのは武藤敬司の化身ことグレート・ムタの日本マット凱旋2戦目となった広島サンプラザでの試合(90年9月14日)だ。
ムタが日本で本領を初めて発揮したのはこの試合。このあと現在までスーパースターとなっていることを思うと馳が果たした役割は大きい。
93年9月23日の天龍源一郎との試合は忘れられない名勝負だ。
この日の横浜アリーナではハルク・ホーガンとムタがタッグを組んだ豪華なカードもあった。そして天龍はこの数日後に大阪城ホールで藤波辰爾との大一番を控えていた。そんな状況でおこなわれたメインの試合が天龍対馳戦だったのだ。当時の新日本プロレスのビッグマッチツアーの恐ろしさを感じる。
つまりファンからすれば、この日の天龍対馳は勝負論より「品質」だった。
しかし素晴らしい攻防の連続で会場の雰囲気はいつしか「馳が勝つのではないか」と騒然としだす。観戦していた私も手に汗を握ったのを今でも覚えている。こういう難しい状況できちんと名勝負をしてみせた馳には唸るしかなかった。
そして大事な点をもう一つ。
馳は道場でも若手や新弟子をコーチした。新日本プロレス道場すら内部からも「変えてしまった」のだ。
馳浩のファイトスタイルや存在には「好き」「嫌い」はあろう。
リックルードとの腰ふり合戦とか私は嫌だった。藤原喜明が新日本にUターンしてきたときはギスギスした暗い闘いを期待していたのに馳が迎えうったら明るい試合になっていた。「こんなの新日本じゃない」と怒りを覚えた。馳のジャイアントスイングを声に出して数えるファンではなかった。
それでも馳に対しては常に複雑な心境だった。
疑問や怒りを持つ一方で、ドキドキする名勝負を繰り広げる。平成初期の新日本名勝負として思い出に残るのは「天龍対馳」「猪木対馳」「武藤・蝶野対馳・佐々木」そして「スタイナーズ戦」。皮肉にも馳がいつも絡んでくる。
だから常に煩悶していたのである。笑われるかもしれないが。
馳から「解放」されたのは、多様性という考え方に気づいたからだ。
昭和の新日本プロレスやアントニオ猪木のような試合を一つの団体に求めるからストレスがたまるのではないか?猪木的なヒリヒリした試合を求めるなら、UWF系があるじゃないか。
観戦の仕方をこちらで多様に持てばいい。そう気づいた瞬間にとても楽になった。馳を受け入れるか否か。私は馳に負けたのだと思うが、でも受け入れたことで明るい新日本プロレスもいいじゃないかと思えることができたのだ。
オーバーな表現ではなく、平成初期の私は馳との闘いにひとり悶々としたといっていい。
しかし多団体時代を受け入れ、各々の価値観を楽しめばいいのでは?と気づけたのはボンクラ学生の私にしては収穫だった。
そういう見方、楽しみ方は今も他のジャンルで役立っている。
馳は素晴らしいレスラーだったと自信を持って言える。あの時代に果たした役割を覚えているからである。
【そして永田町へ】
新日本プロレスにはなくてはならない存在となった馳浩。しかし1995年、馳はあっさり政界へ転身、1996年1月4日、東京ドームで新日本プロレス「ラストマッチ」。
同郷の石川県の森喜朗にスカウトされたのだ。私は「ああ、なるほど」と思った。
それまで馳に感じていたやり手感、鼻につくほどソツのない立ち居振る舞い。これはプロレス界ではなく政界ならもっとハマるはずだと納得したのである。
馳のしたたかさ。
古いファンなら覚えていると思うが馳が番組中にMCの山田邦子さんを叱責したことがあった。あれは馳からすれば「絶対にプロレスファンはこっちにつく」という計算があったはずだ。
おぬしもワルよのう。したたかよのう。
馳は昔から政治家だったのだ。
【馳に感じていた「みにくいアヒルの子」感が解消された】
あまりに昭和のレスラーと違うので馳は「アヒル」だと思っていたが、本人は「白鳥」へのステップアップを最初から考えていたのかもしれない。
いつしかそんな構図に気づいた。そこまで感じさせるしたたかさが馳にはあった。
プロレス関係者にこの話をしたら「そう。馳はそのうちどこか行っちゃうんだろうなぁと思ってたよね」と言っていた。
馳の「アヒルの子」感は、当時彼を見ていた人間なら薄々感づいていたのだ。馳はプロレス馬鹿には見えなかった。そんな合理的な姿がやはりファンからすれば物足りない点でもあった。
しかし馳浩からすれば「上」しか見えない。野心家である点も政治家の条件にはぴったり。
なので私は昔から言っているのだが、馳浩を「プロレスラー議員」枠で語るのは間違いなのである。
出馬の経緯からして違うのだから。
馳は森喜朗からスカウトされたという「エリート」。プロレスラー議員という枠で見るのではなくむしろ「政治家のなかの政治家枠」として見なければいけない。
もちろんこのエリートという意味には「永田町にピッタリ」という皮肉もある。
政治屋が政治家になっただけ、とずっと前から私が考えるのはそういう意味である。
【文科相になった馳に望んだこと】
馳浩が文部科学大臣になったときに私は「馳が着手すべき物件がある。それは組み体操だ」と言い続けた。
小中学校の運動会で「組み体操」の事故が多発しており、「危険すぎるのではないか」と世の注目を集めていたのだ。
この問題のポイントは、組み体操は文科省の学習指導要領に入っておらず、あくまで各学校の特別活動でおこなわれていだ。
私が出演するラジオ番組のコーナーで文科省に電話して聞いてみたら、「特別活動に口をはさむことは各学校の自由を奪うことになる」という立場なのだ。たしかに何でも国に決めてもらうのは時代に逆行する。しかし「危険な組み体操」にかぎっては文科省の対応を求める声がすでに出ていた。
そんなときに馳が文部科学大臣になった。
馳は「危険な大技」については重々承知している第一人者なのである。バックドロップという大技で心肺停止までなったことがある。そのあと馳は受け身に磨きをかけ、90年代の大技が高度化するプロレス界を率先して引っ張った。
私の中で「大技の高度化がとまらないプロレス界」と「大技の高度化がとまらない組み体操」はまったく同じである。
そこに隠れているのは「観客のとまらない欲望」でもある。
もっと凄いものを見たい、という欲望はレスラーと中高生を危険な状況にどんどん追い込む。プロレスと組み体操、ほぼ同じ構図なのだ。
プロレスラーはなぜ高度で危険な技をするのか。お金を払っているお客さんの期待を上回るためである。
しかし、組み体操はどうか。あれはプロの興行でもなければ、生徒らは専門的に毎日トレーニングしているわけでもない。
いわば高度で危険な技を観客や教師の「感動や満足感」のために「無料で」小中学生の子どもたちがやらされているのだ。不条理である。
私は馳浩こそ危険な大技(組み体操)について提言できる人物だと思い各所で発言していたのだが、なかなか事態は動かなかった。
そんななか、やっと「組み体操の安全性検討 超党派議連が発足」(『東京新聞』2016年2月17日)というニュースがあった。
組み体操について考える超党派議員連盟の設立総会があり、馳浩文科相も出席し「組み体操は子どもに責任がないのに事故に遭う可能性がある。超党派で議論することが非常に重要だ」と発言した。
「危険な大技」「大技の高度化」には歯止めをかけたほうがいいと私は考える。馳のプロレスを見てきたからだ。「馳じゃなかったら今の危ない」と思ってきたからだ。
馳はこのまま「危険な組み体操」で名を挙げるかと思ったら、半年後の内閣改造で大臣ではなくなった。
この件に関しては、ちょっと技の仕掛けが遅かったのである。
※さて、ここまで本にまとめたものから抜粋しました。加筆部分もあります。
馳浩の「やり手」「永田町」感はある意味、誉め言葉でもありました。あの立ち回りの良さで出世していくのは予想できたのです。
しかし本当に永田町にぴたっとハマると、そこにはもう悪い意味での「政治家らしい政治家」しかない。そんな危惧も勝手ながらありました。
文春オンラインで対談したときも(2017年秋)、東京五輪なんかおかしくない?というテーマで馳議員と初めて向かい合いました。のらりくらり、想像以上に政治家でした。
森喜朗との具体的な「タッグ」についてはこちらを読んでください。
今回ここで馳浩論をあらためて書いたのは、金曜にダースレイダーとのYouTube番組で「馳浩議員」が話題に出たからです。東京五輪問題です。
すると我々の話題とは別にこんな問題も。
《自民党の国会議員による勉強会のメンバーが10代の少女を支援するカフェに大人数で視察に訪れた問題で、視察先のカフェを開催した一般社団法人「Colabo(コラボ)」は24日、視察に参加した馳浩・元文部科学相による10代の少女へのセクハラ行為や問題のある行動があったとして、馳氏を含む自民党の衆参議員5人と、東京都新宿区議らに対し、抗議文と要望書を送った。》(毎日新聞WEB4月24日)
今回もう一度、馳浩とは何かについて書いてみました。
過去から見ている者からすれば、どこか同一線上につながっているようにも見えるのです。
ただ、プロレスラーとしては素晴らしかったことも念のために書いておきたかった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。