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上原投手にご飯を食べさせてもらったこと。

こんにちはプチ鹿島です。

本日のスポーツ紙各紙の一面は「上原引退」でした。遂にこの日が来たか・・。

私は新人の頃、上原浩治さんにとてもお世話になりました。空腹のときによくご飯を食べさせてもらったのです。上原さんと面識はありません。

え、どういうこと?

今回は2011年8月に出版されたムック本「スポーツ選手 この異名がすごい!」(スコラムック)に寄稿したものを掲載します。

『【雑草魂】上原のルーキー年を命懸けで見守った!』(プチ鹿島)

「もう終わり見えてますよ」。

上原浩治のインタビュー記事を最近読んだ。「30歳代後半に差しかかれば、現実をちゃんと見ないと。今日が終われば明日。」という。

「上原様もそんなことを思う歳になったのか・・」。私はしばし「あの年」のことを思い出した。

かつて日本テレビの番組「雷波少年」で「熱狂的巨人ファン」という企画があった。無名の芸人がテント生活をしながら巨人を応援し、優勝したら顔と名前を公開する。巨人が勝ったらご飯を食べることができ、負けたら絶食。そんな「生活の様子」が毎週放送されていた。

私は1999年のシーズンを「新・熱狂的巨人ファン」としてテントで過ごした。

当初は私でなく他の芸人が張り切ってテント生活をスタートさせていた。大手の吉本が巨人の優勝を確信して将来有望な若手を送り込んだとか、そんな芸人話が楽屋でウロウロしていた。

しかし、巨人は開幕ダッシュに失敗、連敗街道。「巨人ファン」はなんと1カ月でギブアップ。そして私が「新・巨人ファン」」に任命されたのである。

テントに拉致されたあと「そういえば3月頃に“リポーターのオーディションがあるから”と日本テレビに行かされたなぁ。雑談だと思っていた野球の話が本題だったのか」。私は前任者の爪痕が残るテントのなかでボンヤリ思い出していた。

最下位を争う巨人。「新・巨人ファン」は「戦後処理」のためにこれからシーズン終了までお勤めをしなければならない。

しかし、そんな暗澹たる状況に光を差し込んでくれた選手が現れた。上原浩治である。

ルーキーの彼は、私がテント入りした5月から調子を上げ、なんと5月30日から9月21日まで15連勝を記録したのだ。

登板日は日曜が多かったので「サンデー上原」という異名が付いた。この意味が、ありがたさがわかるだろうか?つまり、

「どんなに巨人が不調でも、上原が投げる日曜の夜はご飯が食べられる」のである。神様、仏様、上原様!

しかもですよ、上原の小気味のいいピッチングは試合時間を短縮し、8時すぎには大抵終わった。ディナータイムも早い!

よく「脳内の快楽物質でドーパミンがどうの」と言われるが、上原のテンポの速い快投を見ていると1週間のストレスを忘れ、ドーパミン溢れまくりだった。あの快感は今でも生々しい。いつしか私はルーキー投手を「上原様」と呼ぶようになった。命の恩人だもの。

テントでは昼間はファンレターを書くのが日課だった。新聞を4時間ぐらいかけて読んでいるので(スポーツ報知は差し入れされていた)、選手の情報には異常に詳しい。毎日手紙を選手に一方的に送りつけていた。

そんなアホに、信じられないことに上原様から「返事」がきたのである。しかも便箋1枚にギッシリ。「いつかあなたにお会いしてみたいです」と最後に書かれていた。

おまけに野球カードにサインを入れて同封も!なんてありがたい。涙が出て仕方なかった。さっそくテントに祭壇をつくって野球カードを飾った(ヒマだからそういう時間はいくらでもある)。

星野中日の優勝が決まった翌日、残り試合はいくつかあったが私のテント生活は終了した。

シャバに出た私は上原様が「ルーキーで20勝」を賭けてマウンドに立つ神宮球場に行った。どうしても生で上原様に声援を送りたかったのだ。

上原様は見事に20勝を達成したのだが、この試合のハイライトは別にあった。

ペタジーニに敬遠指令が出たとき、勝負できない悔しさから上原様はマウンド上で泣いたのである。

私はまた惚れ直した。最近の巨人でこんな人いたか?ともすれば「お嬢様野球」と言われていた巨人に。

「雑草魂」という異名は確かに上原様にピッタリだった。

※以上、2011年8月「スポーツ選手 この異名がすごい!」スコラムックより。

私はこのときの体験が強烈でしたので、同じ理由で松井秀喜さん高橋由伸さんも「松井様」「由伸様」と感謝しております。

あ、よい機会ですので私の巨人に対する愛憎や葛藤をまとめたコラムも掲載しときます。2014年発売「KAMINOGE」36号掲載コラムです。

「教養としての巨人ファン 」とは何か?(プチ鹿島)

「KAMINOGE」読者には野球に興味がない方もいるかもしれない。だけど子どもの頃からプロレスを見てきた方は多いと思う。そんな方にお届けしたいのが今回お届けする「教養としての巨人ファン」。実は絶妙にリンクすると思うのです。

KAMINOGEの連載をもとにした拙著「教養としてのプロレス」はおかげさまでもうすぐ4刷という嬉しい事態。

ここで私が書いたことは、一言でいうならコンプレックスからの解放だった。

世間のプロレスに興味がない人に「今まで無駄だと思っていたプロレスで学んだ経験が今の時代には有効かも」というプレゼンなのだ。

ギスギスした非寛容の時代、何に対しても合理性が求められてすぐに答えを出さなきゃいけない空気。無駄はゆるされない。しかしプロレスはグレーゾーンがゆるされてきたジャンル。今となっては物事を咀嚼するクセを学ばせてくれた。

この本で私は10代からのコンプレックスが解消されたわけだが、実はもうひとつ複雑なものを抱えていた。

それが「巨人ファン」という「あまり人前では堂々と言いづらい」物件である。

たとえば「どのこチームのファン?」と聞かれ「・・巨人です」と答えると、野球がくわしいという相手ほど「あぁ(半笑)」という表情になる。私の経験で言うのだから間違いない。「巨人ファン=野球のことをよくわかってないミーハー」と断定されるのだ。

昔のプロレスファンが少数派のコンプレックスを抱えたとしたら、巨人ファンにつきまとうのは多数派のコンプレックスである。

多数派だから好きになったわけではなく、物心ついたときにテレビで見た王選手の凛々しさに惹きつけられたとか、口数少ない父親が唯一感情を熱く吐露するのは巨人だったから自然と身びいきになったとか言っても通じないのだ。偏見である。

さらに言えば、巨人の試合を中心に見ていたとしても野球にはくわしくなる。スポーツはどちらかに肩入れして見たほうが絶対に相手チームの魅力とか選手の素晴らしさとかむしろ肌で学べる。それなのに、パ・リーグファンとかアンチ巨人であったほうが何か「野球玄人」としてふるまえる。差別である。

巨人ファンのコンプレックス、次は「勝つことだけが好きなんだろ。結果だけ求めるんだろ」という思われ方である。

これは「結果より過程に重きを置く」と言われているプロレス者としては放っておけない誤解だ。私は少年時代(80年代)の巨人が好きだった。「お嬢様野球」と呼ばれたじれったい頃の巨人が。原、篠塚、吉村、江川・・。他球団のファンからはエリートに見えたかもしれないが、応援する側からすれば勝負弱くてじれったいことこの上なかった。

だからこそクロマティ、中畑という異端の人間のおもしろさに気づいたし、「ひ弱なお嬢様」がたまに優勝にたどり着けたから興奮したのだ(日本シリーズでは何度も西武にボコられたが・・)。

巨人ファンのコンプレックス、次がなんとも重要だが「圧倒的な権力者ではないか、あのふるまいは何だ」というアンチ巨人からのツッコミである。

巨人の親会社は読売新聞で、そこにはナベツネがいる。ナベツネの嫌われっぷり。いや、ナベツネ以前からも巨人はドラフト破りを敢行したりFA制度導入を積極的に唱えたり、とにかく「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」というまさにジャイアンならぬジャイアンツのふるまいをしてきた。

これに関してはとにかく耳が痛い。はい、そうです、すいませんと身を縮こめるしかない。アンチ巨人になった人の理由もこの点が大きいのではないか?先日もある番組で一緒になったジャーナリストが「巨人さえ勝たなければいいんです私は」と社会正義のように笑顔で言っていたのが印象的だった。

そんな体験を経て私が学んだのは「当事者の気持ち」である。

世の中には誰がどう見てもツッコまれても仕方ない物件や事件がある。だけど理屈や正義を超えて「でも好きなんだ」という、とても不合理な理由も存在する。まずそれを自分自身で知った。

そして好きだからこそ、「おかしいと思うときはおかしいと言う」という態度を学んだ。巨人と猪木を見て学んだことは期せずして共通するのだ。ファンになるということは喜びだけではなく怒りや矛盾も付随する。その共存を認めるという断腸の思い。この自問自答は時間がかかった。

巨人ファンのコンプレックス、最後は「金の亡者」という批判である。

先ほどの「権力をふるまう者」へのツッコミと似ているが、何でも金で解決するのかというツッコミもまた耳が痛い。誰だって自前の若手を育ててほしい。原辰徳が第一次政権のとき若手を積極的に登用したことでファンは「お!」と歓喜したことも実は伝えたいのだが、ここで言いたいのは「悪役を引き受ける」覚悟だ。

ヤンキースが「悪の帝国」と呼ばれても補強に金をかけるのは、自身が憎まれるほど球界が盛り上がる悪役を引き受けているからだと言われる。プロレスでいうならWWEだ。えげつない補強でも質の高いエンタメを提供しようとする意思には「悪役の正論」がある。巨人と巨人ファンはその覚悟を引き受けるしかない。

こんな私は新人時代のとき、ある番組の「熱狂的巨人ファン」という企画に抜擢されたことがある。ペナントレースの半年間をテント生活し、巨人の中継を見て応援するだけの生活。巨人が負けたら絶食し、もし優勝したら晴れて名前と顔がテレビで発表されるルール。それまでは顔にはボカシが入るという企画。

その年は中日が優勝して私の半年間は無駄に終わった。そこで憑き物が落ちたように巨人に対する熱狂度が野球全体に移行したのだ。巨人に愛想を尽かしたわけではない。野球観戦のみの半年間を経てあらためて野球が好きになったのだ。

それ以降は巨人戦だけを見る生活から、スカパーでその日おもしろそうな試合を選んで見るようになった。全国の球場を巡る小旅行が好きになった。今のお気に入りは広島マツダスタジアムとコボスタ宮城、そして甲子園だ。

年末の最強タッグの開幕戦に1年の終わりを感じるように、7月末の甲子園での阪神巨人戦は夏休み前のワクワク感を思い出す。なので大人になった今、密航している。ある意味プロレス観戦なのである。

それもこれもまず巨人という特定のチームに偏愛していたことがきっかけだ。ツッコまれやすい立場だったからこそ色々熟考できたし、野球全体を楽しむ態度を獲得できた。これはプロレスでも同じ。最初は「新日の熱狂的ファン」という、ともすれば偏狭な態度があったからこそ、その後いろんな団体の面白さを受け入れてゆく過程が自分でも興味深かった。

最初からニュートラルで「平等の立場です」なんて、絶対ウソだと思っている。

※以上が当時の原稿です。

こんな私ですが、命の恩人の一人である「由伸様」が無茶ぶりで巨人の監督になった(ように見えた)3年間は御恩返しと思い、久しぶりに熱狂的に応援しました。

昨年末、高橋由伸監督が辞任したときに『NumberWeb』に寄稿したものがこちらです。リンク貼っておきます。

『由伸巨人は革命的に面白かった。
ありがとう、またいつか必ず。』


最近人づてに聞いてびっくりしたのは、このコラムを高橋由伸さんが読んでくださったらしいということです。

ウルフ・・・いや、ウル、ウル。

高橋監督の第二次政権誕生時には必ず駆けつけて力になります!(よくわかりませんが)


※おまけ

「上原」コラムの話に戻ります。

上原投手も新人、私も新人と呼ばれていた頃の話。こうして原稿を読むと今から20年前のテントの中で『新聞を4時間ぐらいかけて読んでいるので』という風景があったことに笑います。それが売りになるのはこのあとずーっと先の話。

ちなみにこの「スポーツ選手 この異名がすごい!」(2011年・スコラムック)は春山敬さん(通称・セラチェン春山)が企画・構成を担当した一冊です。

この当時2011年の私は「東京ポッド許可局」をポッドキャストで配信し、少しずつ少しずつ知ってもらえるようになった頃でしたが、まだテレビやラジオ、コラムのレギュラーは無いとき。

そんな頃でしたがこのムック本では「上原」原稿のほか、

「砂の女王ホクトベガ」 

「『南海の黒豹』異名についての考察」

も書かせてもらいました。

さらに元・東京スポーツで異名の達人・櫻井康雄さんにインタビューさせてもらったり、

「東京ポッド許可局」の3人で「異名論」も紙上掲載してもらいました。

春山さんの仕掛けでありがたい機会をいただきました。

今回の『過去原稿掘り起こし』は以上です。ではまた。


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