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糸井さんのツイートについて

糸井重里さんのツイートが炎上していることについて。
私もそのツイートを見た時、あれ?糸井さんどうしたんだろう?どういう意図の言葉なんだろうか?と訝った。

夜になってツイッターを開いたら、また糸井さんがその件が炎上していることについてのツイートをしていて、それもまた、なんだか腑に落ちないというか、意図の読めない書き方するなぁと感じた。それから批判ツイート、擁護ツイートひと通り読んでみた。

擁護ツイートで面白かったのは、
批判する人は余裕がないですね、というのと、
批判する人はヒマなんですよ、というもの。

余裕がなくて、ヒマ。

前者はココロのことでしょう。
後者は物理的に、ずっとツイッター見てる時間があるってことかな?

自分はどちらかと言えば批判の立場に近い。

糸井さんのことは尊敬している。達成したい大切な目標がある年はほぼ日手帳を使ってきたし、ほぼ日サイトは、開始直後から見ているし、言いまつがい、ブイヨンの写真集なども購入してきた。TOBICHIの活動も素晴らしいと思う。
何故糸井さんの作るものが好きかと考えてみる。多分、本質を考えたこだわりを感じるコンセプト、それでいて遊びゴコロや、知的なことを教えてくれること、日々のホッとした時間を与えてくれるところ…糸井さんのふんわりのんびりした空気感が好きなんだなぁと思います。もしも東京にいたなら、ほぼ日の入社試験を受けてみたい。そんなことも思っていた。

書いていて、ああ、結構わたし、糸井さんのことすきだったんだなぁとびっくり。

現政権が発足してから私は一度も自民党に投票していない。どうやら私は少数派のようだ。だんだん戦争が現実味を帯びてきている気がして、差別や分断が広がっている気がして、現政権の人達の薄ら笑いが心の底から腹立たしくて。
とても怖い。
でも、そういうことに対して何一つアクションを起こせない自分のことを情けなく歯痒く感じる。今回の選挙は本当に本当に悔しかった。

だから、だから、糸井さんのあのツイートを、どう解釈したらいいのか全然理解出来なかった。なんだか、やれやれ面倒だけど選挙に行ってきましたよ、ご褒美でもおくれよ、と言っているみたいに感じる。
モヤモヤした感情を拭えない。

多分擁護ツイートの人の指摘は正しい。
私には、あのツイートを小粋に感じたり、ただのボヤキだよねと思ったりという発想をする余裕など微塵もない。
今も、どういう意味なんだろうと考える。
そう、私には考える時間、ヒマはある。

考えるヒマがないというのは、危険なことなのではないかと思う。仕事に追われてヒマがない。子育てに追われてヒマがない。介護に追われてヒマがない。その全てが重なってヒマがない。そんな人がたくさんいると思う。

ヒマがなければ、ほぼ日の今日のダーリンを読めない。
お金がなければ、ほぼ日の高品質で洗練された手帳も、腹巻きも、買えない。

今自分はココロの余裕がないのは確かだ。
選挙に真剣だったからこそ、糸井さんのツイートが全く理解出来ないのだろう。これもまた、私と糸井さんの分断なのだろうか?
投票用紙に名前以外のことを書く例えとしてのあの言葉たちが、どれくらいの重さ、軽さでの気持ちなんだろうか?
今日のダーリンコラムぐらいの文章量で説明してもらわないと、私には伝わらないと思う。

糸井さんは泥臭いことや、あまり見向きもされないものだとしても、その良さを見抜き、オシャレにして私たちに提示してくれる。そんなところが凄いなと思う。

政治に関することも、そのようにして私たちに提示して欲しい。いや、政治というコトバは私は好きじゃない。その言葉が既にみんなを遠ざける呪文になっている気がするから。

昔の糸井さんのコピーの意見広告で、兵隊さんたちがどうぞのポーズで、まずは総理から前線へ、というのがありました。あれを知っているからこそ、リスペクトしていたからこそ、今回のツイートの真意が分からない。
あれから30年以上経った今、糸井さんは何を考えているのか…。ただただ、分からないのです。考え過ぎのだけなのでしょうか…

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