【読書感想文】実験の民主主義


諸課題を解決するうえでも、市民の声を聴くのが大事だという思いがある。民主主義というか、市民の活動が個人的に重要だと思っているが、それが”いい”のかは立ち止まって考えるべきだと思っていた。つまり、自分たちにとっていいことが全体としていいのかは分からない。その意味で、宇野の本を手に取った。理論的にそれでいいのかを政治学者の目線でも語っていないかと。
一言でいえば、それについては、複雑化された現在においては、実験的にやるしかないというスタンスといえそうに思う

そもそも全体として"いい"のか、なんらかの答え/正解があるとする思想は「合理的なシステムがあれば、社会がよくなる」といった19世紀ごろのベンサムらの考え方に端を発するらしい。当時アメリカ独立戦争やフランス革命において躍進しており、注目の的はもっぱら議会(=立法府)だったと。ただ、J・S・ミルは代議制統治論を書いたが、そこで、議会は合理的な決定をできるかは疑問だとしていたよう。
またその一方で、行政府の権威性がその裏で拡大していたと。
法律はすべての事象を書ききれない時点で、読み方や解釈が発生し、実質的にその実行者である行政府の権威性が高まる。その時々での判断や現場での決断がおそらく求められ、結果的に彼らのパワーが大きくなっているということのように思う。
つまり、注目度でいうと立法府が先行するものの、裏で行政府の権威が高まっていた。ここあたりで、現実と思想の間でギャップが生じ始めたと。この時点で、「全体として"いい"のか」議論はすでに形骸化していると読むのがよさそうだと思った。

GaaS (Government as a Service)は政府が上にある構造ではなく、市民が自由に動くためのプラットフォームであるという立ち位置であると記述されていた点は、今更すぎるが、割と認識を変えてくれた。
今の仕事もどちらかというと会社で意思決定をする上での諸々の支援をするような部署に所属しており、偉い人がいて、承認されたものを実行するような、言われたことを進めるような意識で働いていたが、現場がやりやすいようにする目的なのだと思うようになった。
この構造で見ると、かなり現場は自由といえる。むしろ上はなんとかする側の人にも思える。
事務の権威性というのを信じているようになった。
資料やデータは現場で作る、その上で意思決定がなされる。解釈や加工次第で、伝えるメッセージも変わるとすると、現場のパワーも大きいと言えるのではないか。今まではそれが妙に不安に思っていたが、むしろそこが力だとみなすようになった。

政治においても実はもっと自由なんじゃないか。事務、実際の現場の声による操作ができるといえる。し、そこが割と希望に思える。GaaSという概念もなるほど、声をもっと拾える仕組みであると。これまで、紙のアンケート等で行ってきた市民の声の拾い上げ、目安箱は結局そこからがブラックボックスになっていて、自分たちの声がどうなったのか見えなかったのだとすると、プロセスの可視化によって、現場をエンパワーすることであり、紙だと不正もできただろうが、それを無くす意味では力の正当性をテクノロジーによって担保することのようにも思う。ただ、このとき大事なのは、その自由を行使しようとする、つまり政治的な営み自体を盛り上げるというか、積極的なかかわりをもたらすものの存在。ファンダム、特に自分たちで勉強会や推し活のコミュニティにおける裏技の教えあいなどにその可能性を見ると。

やりたいことをまずやってみることが何よりも先に来る。それがこの本でいう実験の民主主義であるといえる。なんとなく昨今の政治現場が現象としてまずいみたいな話ではなく、やりたいのに、これができない、これがやりづらいといった今この瞬間の課題をちゃんと気づく、認識する。やってみることが何よりも政治的関与になるような気がしてきたし、自分は頭でっかちになりすぎていると感じてきた。
一方で、とはいえ、総体として外交や人口減少などマクロの話は対処していく必要があるし、この話でいえば、かなり当事者のみの声が可視化され、もてはやされるような話にもなりそうで、それはそれでどうかとも思う。
結局考え続けることが必要には思うが、少し自由になれた気がするだけで、この本を読んでよかったとは言えそうだ。

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