水を視る、 二:水門の先に
表紙の写真は,荒川と隅田川の分岐点,つまり隅田川のはじまり。左手が現在の荒川,右手の青水門(岩淵水門)がみえる方が現在の隅田川。このあたりを見ると荒川が荒ぶる川だったとはとても思えないのですが,台風や大雨があると東北本線・京浜東北線の高架が水没するんじゃないかというくらい簡単に増水しますし,もう少し上流・秋ヶ瀬公園のあたりは氾濫することもあります。昔はさぞ荒ぶっていたことでしょう。
真夏のさかりに木製の水門(見沼通船堀)を見に行ってから時間はあきましたが,次に近代的な水門を見に行きました。日付を確認したら,昨年(2020年)の11月29日でした。また夏(2021年8月)がおとずれてしました…なんと筆が遅いことか(笑)。
(旧岩淵水門,通称赤水門-筆者撮影)
さて,『旧岩淵水門』こと『赤水門』は,荒ぶる川である荒川を鎮めるため,大正5年(1916年)から8年間の歳月をかけて建設されました。
工事を指揮したのは,日本人で唯一パナマ運河建設に携わった青山士です。ここでもパナマ運河が登場します。パナマ運河が水運の歴史,構造物としていかに重要であるかがわかります。
なお,青山士は,日露戦争や外国人排斥などが影響し,パナマ運河完成前に現場を離れ帰国しています。彼がそのままアメリカで活躍していたら,旧岩淵水門はいまの形では建設されなかった,あるいは,建設がもっと遅れていたかもしれません。
旧岩淵水門の建設に先駆けること大正2年(1913年),同じく青山士が指揮をして『荒川放水路』の建設が始まり,17年もの歳月をかけて完成しました。この,荒川放水路が現在の荒川です。当時,荒ぶる川と言われていた荒川は,現在の隅田川です。
現在の川幅の広い荒川の流量を隅田川(旧荒川)だけで受け止めていたのですから(多少,現在とは流量が異なるかもしれませんが),氾濫するのも当然と思われます。
ちなみに,赤い色が美しい旧岩淵水門ですが、建設当時は赤くありませんでした。昭和30年代の改修工事で赤い色に塗りかえられ赤水門と呼ばれるようになりました。
(大正13年(1924年)8月の状況-国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所パンフレットより)
東京の水害を防ぐという大きな役割を果たした赤水門ですが,昭和49年(1974年)から8年の歳月をかけ建設された『岩淵水門』(通称『青水門』)の稼働に伴い,その役目を終えました。
赤水門は,とても美しく,また人がいないわけでもないのにもかかわらず,ひっそりとしてどことなく不気味な印象を受けます。ここが心霊スポットだからとか,土左衛門が上がる場所だからということではないと思います。ほかの水門に行ってもなんとなく同じような印象を受けますので。
ここをすすんだら,この世ではないどこかに行ってしまいそうなそういう雰囲気があると思いませんか?
(赤水門の上空を飛ぶ大きな鳥はおそらく鷹。土手に鷹匠がいらっしゃいました。-筆者撮影)
江戸時代の人も同じことを感じたのでしょうか。鳥山石燕は『画図百鬼夜行』で『赤舌』という妖怪を水門の上を覆うように描いています。赤舌がまとうものは,黒い雲のようにも見えますが,赤舌が自在にあやつる濁流かもしれませんね。
(鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)より)
そして,上部の橋を歩くと,人を拒むかのような大きな錠(安全面から,錠を施すのは当然のことですが。)。
(赤水門上部-筆者撮影)
この閉ざされた入り口(?)を見て,向山貴彦の『童話物語』を思い出し,帰るとすぐに注文しました。
物語では,肌の色が異なるということから迫害され,両親と共に人がいなくなった古い水門に逃れ,両親が亡くなった後も孤独に水門で暮らす人物が登場します。物語では,悪者として描かれていますが,長い物語のなかで一番印象に残る場面です。
水門は,こういう暗く哀しい物語を連想させる何かがあるのかもしれません。