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琉球を視る、 序:本土復帰と沖縄返還

 表紙の写真は,『オキナワグラフ2012年5月15日号』沖縄の本土復帰40周年を記念する号。『復帰っ子』と呼ばれる1972年生まれのなかでも,1972年5月15日に生まれたおふたりが復帰っ子のアイデンティティを語っています。来年はいよいよ50周年。あれから10年を経て復帰っ子は何を語るのでしょうか。

 さて,『琉球を視る、』といいつつ沖縄から入ってゆきます。かつてそういう区切りを付けた人々がいたというだけの話であって,島は変わらず風と水が流れ,経糸を継ぎ緯糸を変えながら一織の布を織りつづけていると思うのです。

 私の興味の中心は琉球処分までにありますので,琉球を中心に視ていきたいと思っていますが,序章ということで私が琉球に興味を持った入り口,つまりきっかけを書いてゆきたいと思います。
 私は,東日本大震災(以下,単に「震災」という)の翌年2012年4月から4年間,転勤で沖縄に赴任し暮らしていました。希望した転勤でしたが,沖縄にはそれまで一度も行ったことがなく,深い理由もありませんでした。ただ,震災と余震と放射能でぎすぎすした東京に母子共に疲れ,震災当時,小学校1年生だった息子が「とおいところにいきたい。」とつぶやいたので,赴任先の中で一番とおい沖縄を希望したのです。
 那覇空港からゆいレール(モノレール)に乗り最初に下りたのが県庁前駅。那覇市内,いや沖縄県内の経済の中心地である久茂地(くもじ)と呼ばれる街には巨大なクルーズ船を思わせる県庁,デパートリウボウ(その名はルーツである琉球貿易商事からきています。),国際通りの入り口,琉球銀行と沖縄銀行という沖縄2大地銀の本店,高層ビル,片側4車線の久茂地交差点・・・そこには,想像していた沖縄はなかった(笑)
 良くも悪くも沖縄を意識することなく,母子ともにすぐにそこでの暮らしになじんでゆきました。単に図太いのか・・・(いや,水が合ったのだと申しておきましょう。息子が転校初日に同級生とキジムナー探しにでかけた話もいつか書きたいですね。)
 水が合ったというのは事実で,再び沖縄に暮らし,沖縄に骨を埋めると思っていますので,そういう気持ちで琉球と沖縄を視ているつもりです。

 話を進めましょう。
 きっかけは,引越後すぐに訪れることになります。この年は,沖縄が本土に復帰して40周年にあたるメモリアルな年で,久茂地交差点には
  『本土復帰40周年』
という巨大な横断幕がはためいていました。
 ここで文筆家なら,青い空,大通りを行きかう自動車,そして南風(ふぇーかじ)にはためく横断幕を,目を閉じればそこに見えるような美しい言葉で紡ぐかもしれません。

 横断幕は,那覇で一二という大きな交差点の上空にかかげられ,その異質さに圧倒されました。その後,沖縄県民(以下,単に「県民」という)が横断幕好きだと知ることになるのですが,それは数か月先・・・同窓会の案内すら横断幕を使って行われていた!そして横断幕に幹事の携帯電話の番号が書かれているなど色々ツッコミどころもあり,横断幕だけで一日語ることができそうです。けれどもこれは別の話,いつかまた,別のときに話すことにしましょう。

 さて,私は,この横断幕をみて『本土復帰』という漢字四文字に対して違和感をおぼえました。
 これを読んでくださっている方は,沖縄がアメリカから返還され本土に復帰したことを
  『本土復帰』
  『沖縄返還』
どちらの言葉で記憶していますか?あるいは,どちらの言葉がしっくりきますか?

 沖縄の本土復帰に関しては,「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」(昭和四十六年法律第百二十九号)が制定されており,法令用語では『沖縄の復帰』といいます。
 先ほどあげたふたつの言葉の半分ずつ使われていますね。

第一条 この法律は、沖縄の復帰に伴い、本邦の諸制度の沖縄県の区域における円滑な実施を図るために必要な特別措置を定めるものとする。

「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」(昭和四十六年法律第百二十九号)


 以下,条文では沖縄の復帰や返還という意味において「返還」という言葉は使われていません(第百五十五条の8たばこに関して1か所使用が認められる。)。

 しかし,本土の方であれば,おそらく沖縄返還と記憶している方が多いのではないでしょうか。これは,沖縄の復帰が、『安保密約』と『沖縄返還協定』とセットで取り上げられることが多いことによるのだと,私は考えています。

 というわけで,私は,それまで1972年5月15日にあった歴史上の出来事を沖縄返還と記憶していたため,横断幕の本土復帰という漢字四文字に違和感を覚えたのですが,違和感の直後に『視点』の違いに気づき少なからずショックを受けました。
 私は,なんとごう慢なのだろう。

 さらに,もうひとつ。そもそも,県民にとって本土復帰は喜ばしいことなのだろうかという疑問。
 沖縄は,中国→薩摩→大和(戦前日本)→アメリカ→日本とその主を変えて生きてきました。いまだに中国のほうがよかった(実際には知らないだろうというツッコミはなしで。)という県民にお会いしたこともありますし,日本がいなければ・・・と嘆く県民もいます。
 戦中と戦後の写真を見比べると,明らかに戦後の収容所のほうがきれいな服を着て,健康に見えなくもない。大和は手榴弾と毒薬しか与えてくれなかったけれど,アメリカはアメとチョコレートを与えたのではないか。それでも,「本土並み」を合言葉に,アメリカ世(ゆー)の終わりを喜び祝うのでしょうか。
 アメリカでは,黒人は「白人並みの生活」を求め,ネイティブ・アメリカンは「土地と自治権」を求めるそうです(すべての人がそうではないだろうと思いますが)。その話を聞いたとき,なんとなく,沖縄県民は前者,アイヌは後者に近いような印象を受けました。

 写真に写るうわべとは異なる様々な苦難があったことも,その苦難がいまも続いていることも,そのごく一部かもしれませんが,理解しているつもりですし,より深く理解する努力をしているつもりです。
 しかし,本土復帰が県民にとって祝い喜ぶことなのかどうか,私にはわからないのです。
 県民のアイデンティティとは,幸せとはなんだろう。

 そんな疑問から,『本土復帰』と『沖縄返還』のあいだにあるものを知るために,その距離・溝を埋めるために,琉球の最後『琉球処分』から少しずつ遡るように視ることをはじめました。
 余談ですが,私が高校時代に使っていた山川出版『詳説日本史』では,琉球処分について4行で記述されています。ひとつの王国がなくなったという大きな出来事について,これ以上は削れないという簡潔な記述となっています。ちなみに,本土復帰については8行。外交・安保問題と絡めているからなのか倍増しています。
 なお,琉球処分という漢字四文字にも視点の違いによって異なる言葉があるようです。けれどもこれは別の話,いつかまた,別のときにはなすことにしましょう。

 教科書は書き手の視点を排除したごくあっさりとした記述ですが(もちろん教科書はそうあるべきものですが),琉球の歴史に関する本を読んでいると,書き手の視点が異なることに気づきます。    
 まず,当時の琉球の人々が書いた『中山世鑑』『中山世譜』『球陽』などの記録や書物。琉球には,明・清派と大和派がいたので同じ琉球人でありながら視点も異なり,贔屓する側への忖度が伺え興味深いものがあります。
 次に,研究者の論文や書物。琉球史の研究者にはもちろん県民あるいは沖縄出身者が多のですが,内地の方もいます。やはり立場が異なり,見えているものも異なることが伺えます。
 一方で,琉球を訪れた外国人である冊封使やバジルホール,チェンバレンなどが書き残した書物は,本国へ報告するための冷静な視点であったり,未知の島を訪れた新鮮な視点で,フラットな眼で見ているように感じ,私にはとても好ましく思えました。

 私は,内地出身の日本人として琉球を視るとき,偏った見方をしてしまうのではないかというおそれを抱いています。一方,沖縄に骨を埋めようと思うほど琉球・沖縄に強い思い入れもあり,琉球贔屓になってしまうのではないかというおそれも抱いています。ややもすると,ふたつの視点がからみあってこじらせてしまうかもしれない。
 それでも,海を渡ってきた外国人たちのように,フラットな眼で琉球を視て,フラットに琉球について考えてゆきたい。そんな挑戦のために,この連載をはじめてみようと思ったのです。

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