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水晶の卵――青い傘の占い師の言葉

 志彌。(ゆきみ) さんに、オンラインサロン「青い傘」内で占いをしてもらいました。これは、その結果に対するアンサー記事となります。

 芳川泰久は「新たな物語の測量者ジュール・ヴェルヌ」の中で、ラボアジェとラプラスの水分子の発見が、それまでの世界観を根本的に覆すものであったことを指摘しています。地火風と合わせて4大元素と称された「水」は、世界を構成する最も基礎的な要素と考えられていました。その「水」が、実はもっと小さなものに分割でき、なにか別のものと組み合わされることによって出来上がっていることが判明したとき、文字通り、世界の底が抜け、そこから別の世界の光が差し込んできたのだというわけです。
 ラボアジェはこの発見の他にも、質量保存の法則や燃焼のメカニズムを解明し、「酸素」の命名者となるなど、今では近代科学の常識に属する知を実験によって実証し、「近代科学の父」と称されています。彼の発見は、これまでの世界の見方を大きく変更し、「近代」という新たな物語の幕開けに寄与しました。これはもちろん、化学の分野に限らず、天文学等の分野においても同様でした。たとえば中山茂は、『西洋占星術史』で、コペルニクスの宇宙モデルと、それ以前のモデルとの差異を、次のように説明しています。

かつてプトレマイオスの天文学や占星術では、太陽と月はほかの五惑星と同じようにあつかわれ、七つの惑星としていた。しかしコペルニクス説では、太陽も月も惑星のメンバーからはずれ、そのかわり、われわれの地球がその一員として参加する。惑星は七でも五でもなく、六である。それでは、七曜を前提としているそれまでのホロスコープ計算がなりたたない。(中略)さらにもうひとつ、占星術にとって重要なのは、プトレマイオス宇宙は小さいものであったのに、コペルニクス宇宙はずっとひろいものになったことである。(中略)太陽中心説とは別に、ルネサンスの頃には、世界が複数あるか、宇宙が無限にのびるか、という問題で、哲学的議論がたたかわされていた。だから、人々はもう中世の狭いコスモスに閉じこもれなくなってきた。

 コペルニクス的な広大な宇宙空間では、「太陽は単なる一つの恒星」に過ぎなくなり、宇宙の中心=神としての特権性を喪失します。このことは、人間が、「天から、星から、神から、監視されながら、小さくなって生きている」世界の終わりをも意味していました。人間は遂に、神から与えられた「宿命」から「解放」されることになったのです。しかし中山は、この解放が、新たな不安――しかも絶対に払拭し得ない不安――の始まりでもあったことを指摘します。「『無限の前にめまいする』近代」とは、このようなよるべなき自由と、そこから派生するすべての責任を主体的に引き受ける強さを人間に要求する世界でもあります。そこでは、すべてが自分の決定に委ねられ、頼るべき指針を示してくれる大文字の他者は、本質的に存在しません。
 ですが、そのような“自由のめまい”に一生涯耐えられる人間が、果たしてどれほど存在するでしょうか。「近代」の占星術は、よるべなき人間たちの処方箋として、「科学」の座を滑り落ちた現在でも、相変わらず必要とされるものであることを、中山は科学史家として認めています。

昔から、ある人々の心の不安を減少させることに占星術は貢献してきた。その現代の情報化社会のなかでの役割は、未知の不安を減らし、不確実な未来を克服し、さまざまな選択肢のなかから迷わず決断することを助けるための、情報収集の手段のひとつだと考えられるのである。

 大文字の他者なき後、私たちの歩む方向を仄かに照らす光――それが「近代」における占星術であり、占いなのかもしれません。そこには、「不安」を慰撫するという消極的な効果ももちろんあるでしょう。ですがそれ以上に、自分がどのような「物語」の主役となり得るのかについてのヒントを示してもらいたい、という積極的な効果を期待されている場合も多いのではないでしょうか。

 もし、占いにそのような自分自身の「物語」のヒントを求めているのであれば、志彌。(ゆきみ) さんを訪ねてみるとよいでしょう。彼女の占いは、とても繊細で優しい言葉によって紡がれた、一篇の詩です。詩はその象徴性によって、幾通りもの「物語」を生み出していきます。それはさながら、H・G・ウェルズの「水晶の卵」に登場する、七色に反射する光の中に、未知の世界を鮮やかに映し出す卵型の水晶のよう。この言葉の水晶の中に、どのような「物語」の風景を見出すかは、あなた次第です。たとえば、志彌。さんは、私にこのような言葉を映し出してくれました。

鏡という質を持つ
写してわかる
写して 再構築する……
(中略)
鏡の向こうにいる自分は どう写る?
(中略)
フィルターをはずし 鏡に映る自分を よくよく見つめたとき 世界がかわるよ。

 どうやら、私の「物語」においては、「鏡」、というのがキーワードであるようです。私はこの「鏡」から、いろいろな言葉を連想しました。たとえば「鏡花水月」、たとえば「鏡の国のアリス」、たとえば「鏡地獄」、たとえば「凸面鏡」、たとえば「凹面鏡」、たとえば「内視鏡」、たとえば「眼鏡」、たとえば「合わせ鏡」、たとえば「鏡像段階」、たとえば「泉鏡太郎」、たとえば「八咫鏡」、たとえば「浄玻璃鏡」、たとえば「水鏡」、たとえば「万華鏡」、たとえば「鏡リュウジ」……。たぶん、まだまだたくさんの、「鏡」にまつわる言葉が存在するでしょう。このような無数の言葉の「鏡」に、志彌。さんの言葉を映し、写し、反射させ、再び組み直し、新たな「物語」を構築していく――それは本当に、スリリングで楽しい作業でしょう。
 ところで、眼球もまた一種の「鏡」といえるかもしれません。ふとそんなことを思いついて検索してみると、「目は『脳』を映す鏡」という記事に行きあたりました。もし、眼球が「脳」の風景を映す「鏡」であるなら、私たちが自分の目を通じて、目の前の「鏡」の中に見い出す像は、「脳」の電気信号の火花が描くイメージの反射ということになるのでしょうか――なんだか途方もない気持ちがしてきます。ですが、このような途方もなさもまた、志彌。さんの言葉がくれた贈り物として、大事に温めていきたいと思います。ありがとうございました。

■志彌。さんのサイトはこちらから→「零街の片隅

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