見返りなるものを見返してみる
今回はこちらのブログについての感想など。
https://rentalhanashiaite.hatenablog.com/entry/2020/12/06/060210
毎度おなじみ、レン話さんことレンタル話相手さんのブログである。
彼の文章をかいつまんでご紹介してみる。ちょっと長いけどお付き合いください。
世の中の親切には二通りあって、親切をあたえるだけで返礼をもとめないorうけとらない「掛け捨ての親切」と、親切をする側と受ける側のあいだでなんらかのギブ・アンド・テイクが発生する「見返りのある親切」があり、レン話さんは後者を推奨したいと述べている。
理由は、親切を提供する側の一方的な持ち出しばかりでは、親切の総量と質がおちる。
その点、親切をうけた側から、親切をした側に、相応のお返しや対価が届けられれば、世の中の親切行為もより循環しやすく、その質も底上げされるだろう。
わたしはこのように読み解いた。
このテーマ、実はレン話さんと彼を取り巻くひとびとのあいだで長らく議論になっている。かくいうわたしも何度か口をだした。
そしていまも口出ししようとしている。
以下は、彼の論理に対してわたしが持つ疑問である。
見返りのある親切と商取引はどこが違う?
経済とは、AがBにものやサービスを提供し、BはAにその対価を支払うことでなりたっている。
仮にAが、持てるものをすべて無償で提供し、その対価を受け取らないなら、それは奉仕の精神でありボランティア行為となる。
しかし、いつもいつも無償提供ではAの生活は破綻する。
だからBは常に正当な対価を支払い、Aの生活を支える。
ツイッターではしばしば「働きたくねー」「5000兆円ほしい」といった書き込みを見かける。
これは多くのひとが、ほんとうはいやだけど、自分のため世のため人のために労働している一面の表れだと考える。
他方で、お客さんの喜ぶ顔が見たくてという言葉もある。
いくら客が喜んだとて腹の足しになるわけではないのに、それを働き甲斐とするひとを、わたしは数多くみてきた。
働くのやだといいつつ毎朝出勤し、また、客のよろこぶ顔がみたいからと今日も店を開ける。
それに相応の対価を支払うことで、わたしたちはいつまでも恩恵にあずかれる。
こうしたことを踏まえると、顧客が労働から受ける恩恵は「親切」の一種に分類可能で、それ受けたときには対価という「見返り」を適切に支払うことが慣例であり義務でもある。
交換レートもおおよその相場が成立しているから、トラブル少なくスムーズにやり取りできる。
つまり見返りがあって然るべき「親切」はもうビジネス化された。
これらとは違う方向性で「掛け捨ての親切」も社会システムとして機能している。
災害ボランティアや炊き出し、身近ではこども食堂などがそれに当たる。
定年退職者がセカンドライフとしてボランティアになるケースも少なくない。
これら「掛け捨ての親切」でこそなりたっているジャンルで見返りを求めると、親切の意味や親切そのものが消滅するので、このスタイルは世の中がかわってもこのまま生き残ることだろう。
レン話さんは「見返りのある親切」を独自の理論として多くのひとに広めたいと言われる。
しかしそれが世に広まり成熟すれば、待っているのは今まさにあるこの世界にかぎりなく近いのではないか。
少なくとも私はそう思う。
レン話さんは私がいま述べた意見をどう思うのか。
機会があれば聞いてみたい。
ひとまず文に綴れそうなのはこのあたりまで。
新たに思うところがあれば、またちがう場所ちがうときにお目にかけたい。
ありがとうございました。
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