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ゴキブリの美しさに気づいた話

蒸し暑くて堪らない夜は公園のベンチで冷えた発泡酒を呑むに限る
その夜は暑かったがそれでも多少風があって数刹那、暑気が和らいでいた
発泡酒はすぐぬるくなる
安いクーラーボックスは必須である
千円しない
買い求めて欲しい
発泡酒は店で無料で貰える保冷用のクラッシュアイスに沈めておく
クラッシュアイスは無料だからがっつりいただいておく
そうしておけばキンキンとまではいかないがかなり冷えたものが呑める
ある程度はちゃんと冷えたものでないと呑んだという実感が湧かない
体がそうなってしまっているのだ
ジジェクがいうように資本主義社会ではちょっとでもぬるくなったやつは既にゴミなのだ
今は便利なもので350ml缶用の保冷容器がある
それは二重真空構造の魔法瓶と同じ造りのものでディスカウントストアーなら300円くらいで手に入る
これもクラッシュアイスの底に沈めておけば外がいくら暑くても飲物はそう簡単にはぬるくならない
夜の公園には淋しがり屋のギター弾きがつきものだがそれもいない
近くの駅から自宅へ帰る人がたまに通り抜けるだけである
たまに良い風が通り過ぎるのでそこまで苦しくはない
ベンチは桜の樹の下にあるが夏なので死骸は埋っていない
あれは春限定の話だ
夏は埋っていない
桜の枝越しに青く暗い夜空が見えていた
バター醤油味のポップコーンをつまみに二缶空けた頃には結構酔いが回っていた

ポップコーンを食べ尽くすと袋の底にポップコーンの欠片がわずかに溜まっていた
それを無意識の内に地面にまいてしまった
そんなことも忘れてしばし陶然としていた
するとバター醤油の妖しき香りに誘われた蟻たちが足元で狂喜乱舞しているのが見えた
しかしそれはそう見えただけことで彼ら彼女らは苦しい作業をしていただけなのかもしれない
この暑さの中、重いポップコーンを引きずっていくのは苦役には違いあるまい
その作業にしばらく見とれていると一匹の真っ黒いゴキブリが私にもよこせとばかりにポップコーンの欠片にしがみついているのが見えた
それはおまえの主観だろといわれればそれまでの話だがバター醤油の妖しい香りは明らかにゴキブリを狂わせていた
とにかくこれを手に入れるためなら死んでもいい
そういう覚悟が感じられる挙動を繰り返していた
そのゴキブリは三島由紀夫風の武士道の実践者のようにも感じられた
蟻だって必死である
この暑い中、野外で深夜労働してるのにゴキブリなんぞに横取りされてなるものかと一所懸命の抵抗を続けている
ただどうしたわけかその夜の僕はゴキブリの方に強いシンパシーを感じてしまっていた
ゴキブリの勇姿をもっとよく見たいという欲望にかられて単4電池一本で光るチープなLED灯を鞄から取り出して死闘するゴキブリを明々と照してやった
するとなんと美しいのだろう
キラキラしたキューティクルに覆われたその姿に魅せられてしまった
ゴキブリという地球の仲間を美しいと思ったのは初めてであった

ペルシャに伝わるイーサー(キリスト教で救世主とされる人物)の伝承に次のようなものがあるらしい
これはイスラム教の伝承であるせいかキリスト教のそれとは一味違う内容になっている
あるとき弟子を引き連れてイーサーは街角を歩いていた
ある弟子が腐った犬の死骸を見つけた
うわぁ汚い汚い
バッチいもの見つけちゃいましたぜ
イーサーさん
わしらバッチいものを見つけてしまったんでげす
どうですか
イーサーさん
汚ねぇでがんしょ
イーサーは黙っていたがおもむろに腐った犬の口を開いた
そして一言
この犬の歯はダイヤモンドより綺麗だろといったという

この話の教訓はなんだろうか?
最も厭わしいものの中にも何か美点がある?
違う
イーサーは単に美しいものは美しいといっただけである
まあこれも一つの解釈に過ぎないが…

ゴキブリは蟻たちの執拗な攻撃をかわしながら前脚でポップコーンをがっちりホールドして全力疾走した
タタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ
蟻の群れから逃げおおせたゴキブリは全身から雄叫び(雌だったかもだが)をあげているように見えた
呆気にとられた蟻たちを尻目にポップコーンを安全地帯まで運んだゴキブリは爆発しそうな心臓を鎮めるために一瞬静止する
それはシャブを喰ってとち狂ったアメフトの選手の最後に残った理性のようにも見えた
ゴキブリの死を賭した闘いは終わりその姿は暗がりの中へ消えた
そうやってシェイクスピアのそれとは一切関係のない真夏の夜の夢は終わった
ふと眼をあげると公園の端で一匹の白い猫が何かを追いかけ回しているのが見えた
その猫の冒険譚についてはまた別の機会に語りたいと思う



















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