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『ファイナルソード』をクソゲーと呼んだことは何故波紋を呼んだのか?

クソゲー

ゲームに触れていればしばしば見聞きするこの言葉が最近、一部のゲームファン(ゲームライター含む)の間で波紋を呼びました。きっかけとなったのは電ファミニコゲーマーさんに掲載されたこちらの記事。

この記事を読んだ多くの人が、SNS上で“クソゲー”であることに納得したり“クソゲー”ではないと非難したりとさまざまな感想を発信しました。そして、この記事を起点にメディアが特定のタイトルを“クソゲー”と呼んだことに対してもさまざまな意見が飛び交う事態に。
「メディアが率先して“クソゲー”と叩くのはどうなのか?」「“クソゲー”なのだから“クソゲー”と呼ぶのは問題ない」「メディアは“クソゲー”という言葉を使うべきではない」「“クソゲー”という言葉が適切であるケースもある」。

簡単に言えば荒れていました。自分は『ファイナルソード』をプレイしていないため、ゲームの出来について語れず。そして上の記事については“クソゲー”が使われたこととは異なる点から「これは、イヤだな」と感じていたので、メディアで使ってよいか否かのどちらかに寄ることはなく(なにがイヤだったのかは、この記事の最後に)。
高見の見物をしていたわけではありませんが、「なぜ荒れているのか?」や「そもそも“クソゲー”ってなんだっけ?」といった是か非かとは少しずれたことを考えていました。

いろいろ考えているうちに生まれた考えは
『ファイナルソード』はまだクソゲーという認識が“繁栄”していなかった

今月のフリーテーマは、自分がこの結論に至るまでに考えたことを文字にしていこうかと思います。念のため書いておきますが、この記事の主題は“クソゲー”と使ったメディアやライターさんをたたく話ではなく、“クソゲー”をメディアで使うことの是非を問う話でもありません。また、『四八(仮)』『ジャンライン』『星をみるひと』を“クソゲー”ないしは“クソゲー”とされるタイトルとして挙げているのでこれらのタイトルのファンに不快な思いをさせてしまう恐れがあります。以上の点に納得がいった方だけ、こちらの記事をご覧ください。

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二重の意味で曖昧なクソゲーという言葉

“クソゲー”という言葉が使われたことが大きな反響を呼んだ理由には、“クソゲー”が二重に曖昧な言葉だからと考えています。

●楽しみを見出せないもの
●クオリティは今一つだが引き付けられるもの
●コンセプトが破綻しているもの
●頭のネジがはずれたようなゲームデザインが魅力のもの

いずれも“クソゲー”と呼ばれることがありますよね。この時点で既に曖昧。
楽しみを見出せないものとして「〇〇は“クソゲー”である」と情報を発信しても、どう受け取られるかは受け手しだいです。逆に“クソゲー”だと聞いて、低クオリティだが光るものがあると思っていたらどこにも良さのないゲームだったということもあるでしょう。“クソゲー”は複数の意味を持つため、前後の文脈なしでは解釈違いが生まれやすい言葉なんです。

そして“クソゲー”の意味をさらに曖昧にしているのが、多様な意味のほとんどが個人の感性によって匙加減が決まるという共通点。楽しみを見出せないゲームは人それぞれで異なりますよね。たとえ同じゲームをプレイして同じようにクオリティが低いと感じても、光るものがあるかないかで意見が分かれることもありますよね。世間では“クソゲー”と呼ばれているけれども俺は好き。そんな話、いくらでもあります。

複数の意味で使われる時点で曖昧。さらにそれぞれの意味が、個人の感性を基準にしたものなのでさらに曖昧。これが“クソゲー”という言葉です。

例外として、“糞”が登場するゲームを“クソゲー”と呼ぶケースがありますが、これは上記の意味が一般的だからこその意図的な誤用で笑いを誘うものでしょう。
また『グルーヴ地獄V』や『バイトヘル2000』は公式にゲームジャンル:クソゲーとうたいましたが、こちらも一部のゲームに使われる蔑称を作り手がジャンルとして掲げて笑いを誘ったもの。
どちらも本来の“クソゲー”ありきの二次的な使われ方なので、この記事では主題としては扱いません。ただ、これらの“クソゲー”の方が“ウンコ”“公式”とはっきりとした理由があるため、本来の“クソゲー”よりも共通認識のもとに話を進めやすいというのは皮肉ですね。

映画に比べてゲームは不幸だった

考えてみればゲームは不幸です。ここで、少し映画の話をしましょう。映画にも上記の“クソゲー”と同様に、全体のクオリティは高くないながらも一部の人を引き付けるものがあります。一般的にこういった映画のことをB級映画と呼ぶケースが見られますよね。ただ、このB級映画という言葉。元々の意味は、決してクオリティに関連したものではありません。

もともとB級映画と呼ばれていたのは、1930年代のアメリカで映画を二本立てで上映するためにメインの映画よりも小規模(予算や時間的に)で作られた映画のことです。この1930年代という時期は、それまで一般的だった“サイレント映画”からしだいに映像と音声が動機した映画“トーキー”が台頭してきたころ。二本立てで興業を行うことになった理由には世界恐慌の影響もありと、なかなかに歴史のある言葉です。
そんな本来の意味でのB級映画のなかには、低予算低クオリティながら芯だけはしっかりしているものや、あえて高尚さを捨てたかのような娯楽作品など観客を引き付ける作品がいくつも登場しました。そこから転じて、大作ではないがジャンクフード的に楽しめる映画がB級映画と呼ばれるようになったわけです。

つまり、B級映画という言葉は1930年代の添え物ジャンクフード的なおいしさを持つ映画の二種類の意味で用いられることがあります。ですが、現在では映画を二本立てで上映することはまれなケース。これは、二本立て上映がそもそも世界恐慌の影響で行われた取り組みだったことに加えて、複数のスクリーンを備えた映画館が増えたことで二本立てのメリットが薄れたことが理由です。知っている範囲では最新のものではない映画を二本立てで上映する映画館が一部ありますが、これもどちらかが添え物として作られたわけではありません。

直近10年や20年程度で考えると“添え物”としてのB級映画は作る必要がないため基本的には作られていないと言ってよいでしょう。ですが、“ジャンクフード”なB級映画は視聴する側の共通認識によるものなので、今なお新しく生まれる可能性があり、また過去の映画が今になってB級映画であるとみなされることもあります。
本来の意味から転じて用いられていたはずが、元々の意味にあたる映画が新たに生まれなくなり、転用された意味合いの方が多様されるようになった。その結果、今日ではB級映画という言葉を聞くと多くの人はまずゾンビがジョイナー張りの走りをしながら脳みそを求める映画や

頭が6つあるサメが人を襲う映画のことを想像するようになっています。元の意味は残っていますが、言葉の意味が転用した側に乗っ取られているというような状況ですね。

1930年代の“添え物映画”のファンからすれば十分不幸な話なのですが、“ジャンクフード”の方がメジャーな意味になったために現在では単にB級映画と言った場合多くの人は“添え物映画”ではないと認識するでしょう。言葉の乗っ取りこそ行われましたが、個人的には誤解が生じにくいのは歴史が生んだ幸運だと考えています。

一方で、ゲームの場合は出来が悪いと判断されたものも“ジャンクフード”的なものも同じ“クソゲー”と呼ばれており、マイナーな意味になることもなく現在でも使われ続けている。その結果、冒頭の記事への感想のように荒れる事態が生じているのはゲーム全体にとって不幸な話でしょう。

“クソゲー”を受け入れてしまった罪

そもそも混同しやすい複数の意味がひとつの単語に収められるというのは、それがどんな意味でもコミュニケーションをとるにあたって不都合な話。増してや罵倒の意味を持つ言葉に、肯定的な意味合いを含ませた別の意味を持たせた日には混乱するのは当たり前です。食べ物で例えるなら“甘いと感じた”と“おいしくないと思う”が、同じ“まずい”という言葉で表現されているようなものですよ。

理想を言えば“クソゲー”という言葉は広まるべきではありませんでした。広まったとしても曖昧になり始めた時点で捨て去るべきでした。ですが、ほとんどのゲーマーは“クソゲー”という言葉を今も使っています。使わないことを矜持にしている人も、ここまで読み進めてしまっている時点で“クソゲー”という言葉に思うところがあるのでしょう。“クソゲー”という言葉が本当に嫌いなら無関心であるべきです。ただ、現実問題としてひとりやふたりが自分の辞書から“クソゲー”という言葉を捨て去ったとしても、もう取り返しのつかないところまで“クソゲー”という言葉は広まっています。これはゲーマー全体が負った原罪のようなもの。

“クソゲー”を使う人
“クソゲー”が使われたことに同調する人
“クソゲー”が使われたことに怒りをぶつける人
“クソゲー”なんてゲームはないという人
“クソゲー”が生んだ荒れ模様をもとにnoteになにか書いてる人

全員同じ穴のムジナです。我々ができることは、これから生まれる未来のゲーマーたちに「お前たちが! 育てた! “クソゲー”のせいで! 俺たちは! こんなにも! わかりあえない!」と指をさされたときに平謝りするぐらいでしょう。

時間と情報が“クソゲー”という認識を繁栄させる

と、曖昧で不幸な“クソゲー”ですが、個々のタイトルに限って言えば前提なく共通の土台で話しやすくなることがあります。例えば下の動画。

動画タイトルに「神ゲーやる」とありながら、サムネイル画像には「クソゲーやる」と書いてあります。これを誤植だと思った人には、役に立たない知識をプレゼント。この『四八(仮)』というタイトルは“クソゲー”として扱われることが非常に多いタイトルです。

はい、茶番が入りました。

まあ、多くの人はこの神ゲーと“クソゲー”が意図的なものだと察しますよね。そして、そう察する理由は『四八(仮)』は“クソゲー”、もしくはしばしば“クソゲー”と呼ばれるゲームだという認識があり、その認識が自分だけのものではないと知っているから。これは上の配信に携わった方々もおそらく同じ。そうでなければ2007年にリリースされたゲームを2019年に、しかも神ゲーと“クソゲー”という言葉を置いて配信するわけがありません。『ジャンライン』しかり、『星をみるひと』しかり、こういった共通認識が持たれているゲームはいくつもあります。

とくに『星をみるひと』の場合はNintendo Switch版で“クソゲー”と呼ばれる理由のひとつ「異様なまでの移動速度の遅さ」を解消する移動速度を2倍にする機能を搭載。これだけならただの改善とも言えますが、同じく“クソゲー”と呼ばれる理由である“かりう”の名前を参加型企画の参加賞にあてています。

この各賞、『ドラゴンクエスト』で例えるなら優秀作品に与える賞が“スクエニ賞”、“天空人賞”、“勇者賞”と並ぶなか、参加賞の名前が“やけつくいき賞”になっているようなもの。メーカーサイドが“わかって”いなければあり得ないチョイスです。
『四八(仮)』と『星をみるひと』、どちらのケースも“クソゲー”呼ばわりされたことや、その理由が土台にあってこそ成立する話。このように“クソゲー”と呼ばれるゲームは、“クソゲー”と呼ばれたからこそのゲームになることがあります。いろいろと考えた結果、こういった“クソゲー”と呼ばれたからこそのゲームになるまでには“侵略”“占領””繁栄”の3ステップがあるという結論に達しました。

冒頭【二重の意味で曖昧なクソゲーという言葉】で書いたとおり、“クソゲー”は感性や認識によるもの。そのため当然ですが、どんなゲームも最初は“クソゲー”でも“クソゲーではないゲーム”でもないまっさらな状態です。そこに誰かが「〇〇は“クソゲー”」という感想を発信することが、プレイヤーとそれ以外の人を含めた“侵略”の始まり。

補足:ここでいう侵略の対象になっているのは、ゲームに対する”認識”。侵略しているのは“クソゲー”という感想を発信した人ではなく、感想自体です。個人の感想や共通認識の話をしているのでふわっふわしています。

ゲームが発売され、“クソゲー”という感想の量と質が増えていくと侵略は進んでいき、どこかの段階で「〇〇は“クソゲー”もしくは“クソゲー”と呼ばれるゲームである」という共通の認識が生まれます。これが“侵略”の末“占領”した状態。もちろん、ゲームによっては“占領”される前に「〇〇はストーリーがよいので“クソゲー”ではない」「あの秀逸なシステムを“クソゲー”というのはどうか」といった感想が“抵抗”として立ちはだかることもあります。侵略と抵抗のどちらが勝利するかは、それぞれの感想の量と質しだい。どちらかの感想が極端に人をひきつければ共通認識もそれに準じたものになり、拮抗していればいわゆる賛否両論になるのだと考えています。

補足:“クソゲー”側を侵略、“クソゲーではない”側を抵抗、と書くといかにも”クソゲー”が悪に見えますが、これは上記の極端にひきつけた場合の結果によるもの。“クソゲー”側が強ければそのゲームには“クソゲー”という偏った認識に染めますが、“クソゲーでない”側が強かった場合は“クソゲー”という認識を排除することはあってもそのゲームへの認識を偏らせるものにはなりません。“クソゲー”一色に染める側と、“クソゲー”という色だけは避けようとする側。両者の有り様を踏まえて侵略、抵抗と呼んでいます。

話を“クソゲー”による占領に戻しましょう。さまざまな感想が飛び交った末、あるゲームに多くの人が“クソゲー”という共通の認識を持つ。この段階になると“クソゲー”は感想ではなく前提として見られることが増えます。そんな状況で“クソゲー”と罵倒しようとしても、前提と認識されているためにまともに受け取られにくいという面があると思います。占領済みのゲームに対して“クソゲー”と言うのは、「『スーパーマリオブラザーズ』は良質なアクションゲーム」とだけ言うのと同じくらい浅く見られるのです。

一方で“クソゲー”が前提になったからこそ、“クソゲー”らしさの深掘りが行われたり「“クソゲー”ではあるけれど」という意見が出たりすることもありますよね。配信プレイの題材に『四八(仮)』を選ばれ、『星をみるひと』がNintendo Switchで配信されたのはこういった“クソゲー”と見なされたあとの新たな動きだと思います。
健全な扱われ方とは言えませんが、ゲームに対する認識を歪めうる“クソゲー”という言葉があり、多くの人に“クソゲー”と呼ばれたからこそ時間がたってからも話題に登る。これを“クソゲー”という認識による“繁栄”と考えています。

侵略が遅れている『ファイナルソード』への“クソゲー”認識

では、『ファイナルソード』への“クソゲー”という認識は繁栄の段階に達していたのか? 自分は冒頭の記事がアップされた直後はおろか、2020年7月末の今なお繁栄していない。占領さえも終わっていない段階だと考えています。まず誰かが『ファイナルソード』の“クソゲー”っぷりを発信する、侵略の初期。これについては『四八(仮)』や『星をみるひと』と比べて、非常にスムーズなものだったでしょう。これは(話題になった)『ファイナルソード』はNintendo Switchのタイトルで、Nintendo SwitchにはPCを使わずに動画やスクリーンショットをTwitterにアップロードできる機能があるから。この点だけで比較対象として挙げた2タイトルよりも、情報をわかりやすく広範囲にそして素早く発信できたはずです。

ちなみに『星をみるひと』がリリースされた1987年はさておき、『四八(仮)』がリリースされた2007年には一応Twitterは存在していました。ただ、日本語版Twitterが登場したのは2008年。そして手元にあった雑誌で目に入った順にゲーム関係の公式アカウントの開設時期を調べたところ

●プレイステーション公式…………………………2009年10月
●日本ファルコム………………………………………..2010年1月
●コーエーテクモ………………………………………..2010年4月
●バンダイナムコエンターテインメント……2010年4月
●FROMSOFTWARE……………………………………...2010年5月
●KONAMI コナミ公式…………………………………2010年6月
●セガ公式アカウント………………………………….2010年8月
●任天堂株式会社………………………………………....2011年5月
●Xbox Japan…………………………………………………2011年8月
●HAMSTER Corporation…………………………….…2012年5月

といった具合だったので、ゲームの話題を発信する場としてTwitterが市民権を獲得したのは早くても2009年以降と考えて問題ないでしょう。

ただ、『ファイナルソード』はNintendo Switch版のBGMに『ゼルダの伝説』シリーズの“ゼルダの子守歌”が使われていたという問題が発覚してリリースから数日で配信停止。ダウンロード専売のタイトルだということもあり、新しいユーザーがほぼ生まれない状況になってしまいました。つまり、侵略は始まりそこに抵抗も生まれたけれども、どちらにも増援が見込めない。そしてどちらにも増援がないために、占領はできず抵抗して追い返しきることもできない。
これが『ファイナルソード』に対する“クソゲー”という認識の現状だと考えています。「バズってるから再配信されたら『ファイナルソード』買ってみるか」と思っているアナタ。アナタの感想が“クソゲー”という認識の侵略を勢いづかせる、もしくは食い止めるはずだったのです。

配信停止になった『ファイナルソード』ですが、2020年7月20日のアップデートによりBGMが差し替えられたとのこと。そう遠くない時期に再配信されるのかもしれません。


メディアで“クソゲー”と呼ぶには早かった

そして冒頭の電ファミニコゲーマーさんの記事の話にようやく帰ってくるわけですが、“クソゲー”という言葉は複数の意味で用いられていてどの意味も感性に基づいているので、“クソゲー”とうたった時点である程度賛否が分かれることは必然でした。これは容易に想像ができる話なのでライターさんも編集さんも織り込み済みで、それでも“クソゲー”と記事タイトルに入れたのでしょう。

そして、Twitterを使った情報拡散の早さや動画アップロードのしやすさから、記事が公開されたタイミングでは『ファイナルソード』を対象にした“クソゲー”という言葉は感想ではなく前提。つまり“繁栄”に至っている可能性は十分にありました。“繁栄”に至っていれば“クソゲー”と記事タイトルでうたっただけでは罵倒と見なされにくく、記事中で着目されている“ジャンクフード的”な部分がより目立ったことでしょう。

ですが、配信停止の影響で実際には“侵略”も“抵抗”も戦力不足で『ファイナルソード』への共通認識が定まっていない段階で記事がアップされました。

そこで“クソゲー”ですとうたわれたので、本来”抵抗”に加担するはずだった人たちはおもしろくないためにレビューを攻撃の対象にしました。そして“侵略”に加担するはずだった人たちは、肩透かしを食らってしまったためにレビューに同意する形で“抵抗”に加担するはずだった人たちを攻撃の対象にしました。
ただ、レビューという情報を攻撃するよりも、人間やメディアを攻撃するほうが手順がわかりやすい。そのため、ライターさんやメディアを中心に荒れていった。これが7月頭に『ファイナルソード』と“クソゲー”に関して荒れた一連の流れに対する自分の考えです。

以下は上に盛り込もうとして収拾がつかなくなった話と、冒頭の記事に対する個人的な感想。

おまけ1:“クソゲー”呼ばわりと“いじめ”は似ている?

いろいろ書いたり読んだりしているうちに“クソゲー”という言葉の有り様が、“いじめ”と“いじり”の認識の差に似ていると感じたんですよ。
やっている側やそれを見ている一部は“いじり”だと思っているけれども、やられている側を含めた別サイドから見るとそれは“いじめ”。
単に“クソゲー”と呼んだときに“ジャンクフード”と見られるか、“出来が悪いもの”と見られるかという話となんとなく似ていませんか?
この話を上に混ぜ込もうと思ったのですが、話の着地点がうまいこと定まらないのでおまけに。

おまけ2:クソってなんだろう?

“クソ野郎”など、なにかを罵倒する際に“クソ〇〇”という表現があります。“クソゲー”はこの〇〇の部分にゲームを当てはめつつ、略した言葉であるというのは説明のいらない話でしょう。
ただ、“クソゲー”に限らない“クソ〇〇”という表現にも罵倒以外の意味が含まれることがあります。例えば、「うちの“クソガキ”がご迷惑をおかけして」という表現、どこかで見聞きしたことがありますよね。この“クソガキ”には罵倒の意味もありますが、謙遜的なものも含まれているでしょう。
また、行方不明になっていた自分の子どもが見つかった際に父親が「このクソガキが」と言いつつも喜んでいるシチュエーション。どこで見たとは言えないまでも「ベタだよね」「ありがちだよね」という反応が得られるものだと思います。あの“クソガキ”はいったいどんな意味が込められているのでしょう? 
いろいろな感情がないまぜになっての“クソガキ”ということはわかりますが、具体的にその感情を列挙しようとすると難しい。“愛すべきダメな子”的な意味を込めての“クソガキ”だと脚本家やシナリオライターが語ったとしても不自然ではないでしょう。そして、“愛すべきダメな子”の意味が“クソガキ”に含まれているなら“クソ〇〇”に“愛すべきダメな〇〇”という意味がある可能性がありますよね。
そうするといろいろな“クソ〇〇”について第一義と転じた意味を調べたほうがよいでしょう。また“クソゲー”に限らない“クソ”について調べるなら“くそみそ”“ミソもクソもない”といった慣用表現にも触れたいし、そこから『くそみそテクニック』のような転じた使われ方にも触れたい。英語圏で同じように罵倒の表現として“Shit 〇〇”が使われていることについても考えて、そこから転じて“Shit 〇〇”に単なる罵倒以外の意味が含まれているケースについて調べるべきで……手に負えなくなったので、おまけになりました。

おまけのおまけ:“クソゲー”よりも“あるまじき”がイヤだった

ここからは冒頭で触れた記事の個人的な感想。一言でいえば

こういうことです。
“クソゲー”という単語が主な槍玉に挙がっていた冒頭の記事ですが、個人的には“令和の時代にあるまじき”という部分が引っかかりました。
ここまで書いてきたとおり“クソゲー”という言葉は、使う人によっても受け取る人によっても意味合いが変わり電ファミニコゲーマーさんの記事では“ジャンクフード”“愛すべきダメな子”的な意味合いで使われていた。一方で、受け取る側が『ファイナルソード』に対する共通認識ができあがっていなかったので荒れてしまったというのが自分の見解です。ですから、

“『ファイナルソード』は令和を切り開く「正統派のクソゲー」だった”

といったタイトルであれば、なにも気に留めなかったでしょう。ですが、実際には“あるまじき”が入っていました。
あるまじきとは“不都合である”“あってはならない”という意味を持つ言葉(“とんでもない”という意味もありますが“令和の時代に”から繋がらない点から考慮しません)。
”令和の時代にあってはならない”と記事タイトルでうたわれたために、記事のなかで「ダメだけど笑える要素があるんだよ」とどれだけ語られても、空虚なものにしか見えませんでした。“令和にあるまじきクソゲー”ではなく“令和にあるまじきゲーム”だったとしても同じ。“あるまじき”が付いた時点で、真っ向から否定しにかかっているようにしか見えなかったでしょう。
ただ、この“あるまじき”に言及した人があまり見られなかったんですよね。本当は“あるまじき”に引っかかったにもかかわらず、自分が記事タイトルのどこに引っかかったかわからないうちにキャッチーな“クソゲー”という言葉に流されてしまった。そんな人がいるのでは? と考えています。

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