オープンプラットホーム通信 第175号(2021.9.17発行分)
オープンプラットホーム通信とは、福岡を拠点に活動していうNPO法人ウェルビーイングが毎月発行しているメールマガジンです。noteではバックナンバーを公開していきます。
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喫茶去 第74回 死ぬということ 願わくば上手に(13) 微笑の練習
淀川のホスピスでの女性たちの会話。ふたりとも80代。
死んだら向こうへ行くのかな。
うん、でも、いいところだと思う。
なぜ。
だって、誰も帰ってこないもの。
これは柏木哲夫さん(淀川キリスト教病院ホスピス)のリモート講演に出てきた話です(9月8日宗教学会第八十回大会、関西大学)。テーマは「笑いと宗教」でしたが、柏木さんは、この会話はべつだん笑いでしめくくられたわけでもなく、ただたんたんと納得したように閉じられたと報告しています。もうひとつ。これは国際学会で同じ柏木さんが耳にした英国での話。
在宅ケアを受けている90代の女性が、自分もそろそろだと云う。天国ですねと、ケアの担当者が励ますように云うと、いいえ、どちらでもいいわ。どちらにも知り合いがたくさんいそうだから。
うーん。微妙におかしいのだけれども。どうすればよいのでしょうか。こういうときに笑っていいのか、どうなのか。笑うとしても「呵々大笑」というわけにもゆきません。といって笑わないというのも何か失礼な気がします。苦笑いはちょっとちがいます。微苦笑という久米正雄の造語をもってきても、片がつかぬ気がします。どうでしょうか。そうですね、「微笑」がいちばんしっくりくるのでは。
笑いを笑ってすまさずに知的な解剖をくわえたベルクソンに『笑い』(1900)がありました。謹厳な紳士がバナナの皮ですべってころべば笑うし、葬儀の追悼でこの人物は高徳の士であり、またまるまると太ってもおられました、などと云えばやはり笑ってしまう。この場違いな出来事やとりあわせ(俳句の「配合」に通ずるか?!)は、ひとつに笑いが一種の社会的制裁のはたらきをもつことを意味しますが、その根っこには、「機械的なこわばり」と「生命」の対比があるとかれは述べます。もともと流動的な「動くもの」である生命が、固化して「こわばり」になる場面があり、そのこわばりをほぐして本来の柔らかさと流動性へと回復する手立てが笑いだと云うのです。この連載で前に、時間の持続性の流れ(動くもの)を空間化して(たとえば手帖に書き込んでこわばらせて)はじめて人間は時間をコントロールできるのだが、同時にその方法によってこんどは固化した空間の次元に縛られてしまう、という厄介な二重性をめぐるベルクソンの論を紹介したことがありました。これを突き破るのは、ホモ・ファベルとしての人間の活動、つまりなにかをスル・作るという言語的な「分節」以前の(未満のと云っておきたい)回復にあるというのがかれの議論でした。
この笑いの分析は、その後の笑いの理解のおおすじを作る水準のものでした。いまでも笑いのもつ回復力や治癒力や社会的破壊力(横断する力)への言及には、ベルクソンの発想が背景にあると云えるでしょう。ところでこれに異を唱えるでもなく議論の地平を広げた人物がおりました。若年時にベルクソンにうちこんだ小林秀雄です。かれは短いエッセイのなかで、機械的なこわばりに注目したこの議論からはこぼれおちる情景がある、と主張しました。「母の微笑」がそれだと云うのです。もしこの着眼をベルクソンの土俵にのせるなら、それはこわばりへの社会的制裁でも、さらにまた生命のありようの回復でもありません。はじめから生命の側に立った、コトバの分節未満の、あくまでもの静かな慈愛の態度としか云いようのないものです。
「拈華微笑(ねんげみしょう)」というお釈迦さまにまつわる話が伝えられています。霊鷲山(りょうじゅせん)の説法で釈迦が黙したまま花をつまんでひねったところ、居合わせた弟子たちには何のことかわからなかったが、ただひとりマハー・カッサパだけが「破顔微笑」したと云うのです。釈迦はこれをみて、コトバ未満の法の伝授がなされたと受けとめて、微妙な法門の伝承はコトバや教えに頼らない不立文字(ふりゅうもんじ)教外別伝(きょうげべつでん)であるとした、というのが禅のはじまりになりました。このすじだては禅の自己主張の強いものなので、むしろそこで釈迦も微笑した、という展開のほうが合点が行くのですが、それらを割り引くと、微笑のもつ(何というのか)奥ゆかしい力にふれた話です。共感と云えばよいでしょうか。いやむしろ共鳴。コトバ未満の微妙な次元の話なのだから、自分を音叉にしてちいさいけれど確かな音を受けとめ発するしくみ。
ここまでたどってみると、前回までの英雄たちの不死の探求はこうした「微笑」から遠く離れた場所の話にも思われます。ギルガメシュだけではなく、不死の老人ウトナシュピティムも。ただ海の底の香草をヘビに盗みとられた最後の段でギルガメシュがみせる一瞬のまのぬけた表情はどうだったでしょうか。「かれは地にうずくまって泣いた」とあります。後代の読者は、ここで、どういう顔をすればよいのでしょうか。あれこれ大変な(ずっとひとを送りつづける、おそろしく孤独である、そしておそらく退屈きわまりない…)不死になどならなくてよかったよねとでもいうような、微笑のレッスン?
☆☆筆者のプロフィール☆☆
関 一敏
勤務先:NPO法人ウェルビーイング・ラボ
感じ考え組み立てる 第51回 アイスブレーキングとプチプチ
既にこのメルマガで何回かプチプチの話題を取り上げています。なぜプチプチなのか、戸惑う方は以前のメルマガをご覧ください。
簡単にまとめますと、気泡緩衝材プチプチは触れることで、手に独特な刺激を与えてくれ、そこから様々なことを考えられます。1年ほど前、秋田赤十字看護大学の山田典子先生に、私が福岡で行ったプチプチからの問題提起をまとめた1ページをお送りしました。山田先生が、秋田で福岡と同様の問題提起を行ったところ、秋田の学生たちは福岡の学生たちと同じように、様々なことをプチプチから考えてくれました。プチプチに触れることで、頭の中や心の中にある様々な障壁が壊れ、様々な方向に発想が飛躍したことが分かりました。このことからすると、プチプチが、いわゆるアイスブレーキングに役立つことは明らかです。
しかしアイスブレーキングに役立つということは、何を意味するでしょうか。アイスブレーキングは、何かの目的(研修、学修など)を持って集まった人々が、すぐに打ち解けない場合、その障壁を打ち破るために行われます。だからアイスブレーキングのツールは最初に役立つことが重要です。最初の場面で目的を果たせば、ツールの役割は終わり、その後は、本来の目的での活動が続きます。
実は、私がこれまでに作ってきた二次元イメージ展開方法やWIFYは、多くの場合、アイスブレーキングのツールと位置づけられていました。特にWIFYはヘルスプロモーションの場作りに役立つツールとしての理解が広まったため、健康日本21が発進した当時は、様々な場所でWIFYが用いられました。しかしヘルスプロモーションや交流への社会的な熱気が失せてしまうと、これらの方法は簡単に忘れられていきます。しかしアイスブレーキングとは、そのような単純なものなのでしょうか。頭の中や心の中にある様々な障壁を壊すことができるなら、その後、そこからさらに出発して、当初企画していた活動以上の、様々なことができるはずです。
しかし、アイスブレーキングをどう活かし、その後の知的動をどう展開するかについては、あまり知見がありません。まれな例ですが、アイスブレーキングの向こうに、さらに何が存在するかに気づいてくださった方は、イメージ展開法やWIFYを継続的に使い続けて下さっています。例えば旭律雄先生(WB遠隔地理事)から時折伺う岐阜での様子からは、二次元イメージ展開法が今でも健在だと分かります。細井陽子先生(九州女子大)からはコロナ禍のもとで、WIFYが役立っていることをお聞きしました。コロナ禍の下でまとめた公衆衛生学のテキスト(手で考える公衆衛生学 http://id.nii.ac.jp/1127/00000729/ )では、第7章でWIFYを紹介した後、WIFYを保健活動と環境を学ぶ際の原点と位置付けています。
さてプチプチに戻ります。プチプチでもアイスブレーキングが起きるわけで
すが、そのアイスブレーキングがこれまでと違うのは、身体を巻き込むこと
です。この、身体を巻き込むというプチプチ・アイスブレーキングの特徴は、
今後、どのような場面で活かせるでしょうか。その一つの形が「手で考え始
める測定用具論」、前回のメルマガで方向性だけをお話ししました。今後準
備が整ったら具体をお話しして行きます。
☆☆筆者のプロフィール☆☆
守山正樹
勤務先:日本赤十字九州国際看護大学
ドクター・マコ At Home! (アット・ホーム) 第127回 「近づかない、向き合わない、話さない」ってWBの今までと逆?
東山動物園の企画官・上野吉一さん(前京大霊長類研究所准教授)の話では、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための「新しい生活様式」で、望ましいとされる行動のあれこれは、ホモ・サピエンスにとって不自然なことが多い、らしい。
「距離感」は心とつながっているからだそうです。
「科学・医学と経済のせめぎ合いの中で、主役のはずの人間一人一人の行動や心理という視点がないのではないかと感じました」
→「科学・医学的な理屈はわかります。けれど、ホモ・サピエンスとしての私たちは、そんなには意識的に生きていません。無意識のうちの、近づきたい相手とは距離を詰め、離れたい相手は視野に入らないようにして、居心地をよくしている。リモートワークを経験し、満員電車の距離感がいかに心の負担だったか、気づいた人も多いのではないでしょうか」
「ひるがえってコロナ禍に眼を向けると、そもそも森の中で眠っていたウイルスを、環境破壊によって市中に引きずり出したのは人間でした。人間中心主義が自然との距離感を崩してしまったのです。もう一度、ホモ・サピエンスとしての身の丈を見直すよう迫られていると私は考えています」
確かに『いろいろな方たちと、膝を突き合わせて、たまには酒を酌み交わし、議論をしあってきた』WBとは真逆のコミュニケーションを勧められる「緊急事態宣言」や「蔓延防止法」などは、切なく感じます。
「人間は社会的に食べていますからね。サルたちは、授乳の他は親子でも食べ物の積極的な分配はしません。チンパンジーやゴリラは、食べているものをねだられたとき、『仕方ないな』という様子で取っていかれるままにしたり、場所を譲ったりします。消極的な分配です」
「言い換えると、料理をふるまったり、一緒に食べたりという行為は、それ自体がきわめて人間的だということです。文化人類学者の石毛直道先生が、料理と共食は人類に共通で、それによって食文化は発展してきたと定義づけた通りです」
ここで朝日の記者が質問します。「コロナ禍の中で、世界中のリーダーが発信していますが、ホモ・サピエンスのリーダーに求められる資質とは?」
に対して→
「イギリスの霊長類学者ジェーングドール博士の有名な観察例で、大きな音を立てる缶を手に入れた体の小さなチンパンジーが、恐怖によって群れの統治に成功したというものがあります。しかし、缶が錆びついてダメになると、化けの皮がはがれて一気に権力の座から引きずり降ろされました」
「チンパンジーは体が大きくて力が強いだけでも信頼されません。リーダーの座を争ってオス同士の喧嘩が始まった時に、群れのメスたちがこぞって加勢したオスが最後は勝ち残ります。そこで支持されるのは、普段から弱い者の面倒見がいいサルなのです」
そっかあ!これから、川上も妻やスタッフ、WBの女性たちに優しくしよーっと。
何?
もう遅いって?ウムム…。
☆☆筆者のプロフィール☆☆
川上 誠
勤務先:川上歯科医院
編集後記
今月もメルマガをお読みいただきありがとうございました。
秋になり、実家で栗が採れ始めました。去年は、台風のせいで栗が熟れる前に落下してしまいました。熟れる前に落ちると、イガも割れてないのではさみでこじあけないといけないし、味もいまいちです。
栗は、自然落下(木の上で十分に熟して、自然に落ちてくる)のがいちばん美味しいです。9月に入ってから、毎日何個かずつ落ちてくる栗を拾うのは大変ですが、無理矢理落としたりせずに採る栗がいちばん美味しく感じます。今日は台風が来るようなので、栗が振り落とされないといいなと思っています。
いわい こずえ
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ご意見、ご要望などお待ちしています。
編集:NPO法人ウェルビーイングいわい こずえ jimukyoku@well-being.or.jp
NPO法人ウェルビーイングホームページ http://www.well-being.or.jp/
<NPO法人ウェルビーイングのface book>
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