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喪失感にとって必要なものとは…。

 イギリスを代表する児童文学作家であるフィリッパ・ピアスが著した「トムは真夜中の庭で」を読んだのは、ずいぶん前の事。

 薄墨のような心地よいせつなさに包まれた読後の感動は今も鮮やか。
そのあと、読んだのが「幽霊を見た10の話」という短編集でした。ピアスは、「幽霊」の事を書くのが好きなのかな…と思ったのは、その2冊がいずれも存在のはっきりしないもののことを扱った内容だったから。


 さて、前置きが長くなりましたが、本日ご紹介する「いつもお兄ちゃんがいた」は、ピアス以降、私が久しく出会うことができなかった極上の幽霊の物語と言えるでしょう。

 主人公のフランシスは、両親を亡くし、10歳の兄と3歳の弟と共におじの家に引き取られます。

 9歳の少女フランシスはポリオの後遺症で足に副木をあてがい、学校ではイジメに遭っています。
そんな彼女の日常に差しこむ一縷の光といえば「お兄ちゃん」であるトムの存在でした。
 ヒステリックなおばの仕打ちからも、級友の執拗なイジメからも、常に妹を守り、慰めてくれたトム。

 トムは、利発で優しく心の広い少年だったのです。

 そのトムが、飼い犬のルーファスを追って道に飛び出し、牛乳配達の台車に轢かれて突然この世を去ってしまうところから物語は始まります。
なんと、かなしい幕開け。

 読者はここで軽い衝撃と絶望を味わい、フランシスと心を共にしながら最後まで読み通す、一種の運命共同体を担うことになるでしょう。

 フランシスを「わたし」という一人称で登場させているのも、40年前の昔話として熟年を迎えたフランシスに回想させているのも、フランシスと読者を常に精神的な至近距離においておくためのアルバーグのねらいがあったからではないか…とわたしは想像します。

 大好きだったトム兄さんが墓地に埋葬された日。
薄日差す墓地の大木にもたれているトムの幽霊を、フランシスと弟のハリーは発見します。
「帰ってきたお兄ちゃん」が、それ以降「幽霊」という陰の身に徹しながら、どんなふうに妹や弟と心を通わせてゆくのか・・・。

「いつもお兄ちゃんがいた」 アラン・アルバーグ/作 こだまともこ/訳  講談社 ※現在新刊品切れだと思われます。古書でしたら格安!


 誰の心にも、忘れられない人がいる。
もう、この世界には存在しない、大切だった人。

 その人との出来事も、その人自身のことも、記憶にとどめておきたい、絶対に忘れたくない…と願うものです。
でも対して、かなしみに耐え切れず無理に忘れようと努めてしまうのも人間です。
 その相反する感情を相殺して、精神の均整を保とうとすればするほど体と心は抵抗しあい、混乱を引き起こす結果となってしまうこともある。

 その危うさを、失われた人の圧倒的な輝きが救ってくれたとしたら。

 存在は失われいくとも燃え落ちる流星の、まばゆい尾のごときトム兄さんの輝きが「トムの幽霊」という形となってフランシスには見え、彼女に影響を与え続けたのかもしれません。
ですから、フランシスは覚えていることも、忘れることもしないまま、心を乱すことなく成長を遂げること出来たのです。

 かなしいことを無理に忘れる必要はない。
時間という樽の中でゆっくりと、想い出が形を変えて熟成するのを待てばいい。
フランシスの前から「いつもいたお兄ちゃん」が、ゆっくりと姿を消していったように。

 そのときこそ、亡き人に触れることができるほど近く、存在を確認できるのかもしれない。


 ポケットにすっぽりと入ってしまう文庫サイズの本です。
挿し絵は一葉もありませんが、読み進めていくうちに頭の中で場面はくっきりとし、やがて動き出していくでしょう。

 文中にある、フランシスの宝物(家族の写真や両親の形見がつまった)を入れた空き缶と同じ深緑色の表紙。
まさに、宝物にしたいような、澄みきったかなしみが光る美しい一冊です。

小さい人から大きい人向け。
どうぞ、味わいつくしてください。


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