平成も終わりますので【ダシをとる】

【ダシをとる】

 日本にすんでいて“ダシ”を知らない人はそんなにいないんじゃないか、と思う。
 とはいえ別に知らなくても生きていける。知らなかったとて恥じることでもないと思う。

 ただ、もしこの文章を読むことではじめて【ダシ】というものを知った人がいたなら、私は迷わずこう助言したい。「すぐにGoogleで“ダシ”で検索して」と。それくらいこの文章は【ダシ】について何の役にもたたない。

 さて、私は【ダシ】というものに特にネガティブな気持ちもポジティブな気持ちも持っていない。料理の際にダシを使うと味に深みが出る?とか旨味が出るとかいうらしいんだけど、私はたぶん旨味とかよくわかってないタイプの人間だ。

 美味しいものは美味しいし、口にあわないものは口にあわない。そういうスタンスで生きてきたから、ダシがどうとかという高次元の思考にまで及ばないのだ。

 「この料理、ダシがきいてて美味しいね!」と言われたときには「うん」と返すが、これは共感を得ての「うん!」ではない。とりあえず話を合わせとこ、の「うん」だ。私のなけなしの社会性を以て発された「うん」である。美味しいのはわかってもダシはわからないのだ。

 料理番組は好きでよく見るけど、なんにも考えずに「わー、おいしそー」「こんな野菜あるんだー!」「この野菜、切ったらこんな感じなんだ~」「買ったことない野菜が出てるー」くらいの気持ちで見てる。野菜の動物園を見ている気持ちなのだ。そういう人間にダシの概念は高度すぎる。

 だから自分が“粉末だし”ではなく“ガチの出汁”、つまり【鰹と昆布の合わせ出汁】なんてものを生成する日が来るとはちっとも思っていなかった。平成が終わると知らなかったらダシを取ろうとも思わなかったろう。

 平成が終わるからダシをとる──というのは脈絡がなく、十分に狂気の沙汰のように思える。が、ダシを取った経験を得た今の私にとっては、料理のたびにダシを取ることの方が狂気の沙汰のように思えてならない。マジで料理研究家以外で毎回きちんとダシとって食事作ってるひといるの?朝御飯作るときとか仕事終わったあととかに?マジで?

 ダシを取った感想と結論を先に簡潔にのべておく。
 めんどくさいし買ったほうが良い。

 どうせ一回ダシをとったら面倒くさくなってしまって、冷蔵庫のなかに鰹節と昆布が眠る未来がやって来るのだから。






 出汁を取ってみて、“ていねいなくらし”──というのはつくづく道楽だなと思った。
 時間のかかる作業、つまりは“手間”を楽しむ心の余裕がないとダメ──やってられない作業なんだと私は理解した。

 私は今回“平成も終わることですし”というマジックワードを用い、無理矢理に自分のテンションを上げることで“手間を楽しむ心の余裕”をなんとかひねり出したが、毎日これやれって言われたらメチャクチャ面倒で嫌だな。朝起きた直後とか仕事終わって帰ってきたときに「ダシをとろう!」なんて余裕が心にある?私はない。ダシをとるくらいだったら昆布をしゃぶって鰹節を貪る方を選ぶ。

 それはさておき。

 ダシをとるにあたって、まず私が調べたのは「何が必要なのか」だ。ダシをとるのは初めてなものだから、出来るだけ万全の体制でのぞみたいと思った。以下にお買い物メモを残す。

~必要なもの~
*ダシをとる材料(鰹節とか昆布とか)
*ザル(ダシを濾すため)
*取ったダシを入れる入れ物

 上ひとつはともかくとして、下二つの時点で何となくお分かりの方もいると思う。私は自炊といえる自炊をしてきていない。シリコンスチーマーなる魔法の入れ物に適当に切った野菜と肉をいれ、レンジでチンすることで一人暮らしを──隣人が真夜中の二時に“誰も寝てはならぬ”を流すレオ○レスを──三年ほど生き抜いてきた。あまりにうるさいのでレオ○レスからはもう引っ越した。

 ──そんな私にはザルは必要なかったし、取ったダシを入れるいれものも必要なかったのである。ザルを置くにはレ○パレスの台所はあまりに狭いし、まな板すら置けない狭さなのだ。ザルの介入する余地は端から無い。

 何より、火が適切に通っていれば大体のものは食べられる。出汁がなくとも食べられる。
 独り暮しの食卓において気を付けるべきは食中毒であり、食あたりであった。腐ったものは当然食べない。なんかだめな予感がしたら口にしない。毒があるとか当たる可能性の高いもの──牡蠣とか──は食べない。“いのちをだいじに”。これである。これに限る。

 だから私がもっぱら気を付けていたのは、煮込んだ料理を常温で保存しないだとか、カレーは最悪でも二日で食べきるとか、ジャガイモの芽を取ることだとかだ。スーパーでお手軽に手に入れられる食材で、加熱しても毒性が残るものは多分ジャガイモの芽にあるソラニンくらいじゃなかったろうか。それゆえ面倒でもジャガイモの芽は取っていた。
 
 本題に戻ろう。“ダシをとる”という繊細かつ高次元な行動には、まず「昆布」と「鰹節」が必要だった。ザルと入れ物は100均で適当に買った。
 ──「鰹節」はともかく、「昆布」がスーパーに売っているものだろうか。私はまずそこでつまずいた。スーパーの棚に「昆布」が並んでいるところを想像できなかったのだ。乾物屋みたいな、なんか敷居の高いところにあるんじゃなかろうか。

 塩昆布じゃだめなのかな、と私は考えた。どうせ昆布だし、なんか出汁を取った後に塩分を加えるらしいし、だったら最初から塩昆布を似れば同じ結果が得られるのでは?と思ったのだ。塩昆布なら売っているのも見たことがある。

 しかし、たぶん塩昆布じゃダメなんだよな、と私は考えた。普段から料理をしない人間は基本も知らずにアレンジや代用に走ろうとするきらいがある。

 私は鉄の意思で塩昆布採用案を破棄した。人の話を聞かない料理ベタよりは、人の話を聞く料理ベタの方がまだ救いようがあるのではないか。そう考え直した。

 しかしながら、“ダシをとる昆布”ってーのは、ちゃんと干してあって、固くて、いわゆる“乾物”な昆布なんだよな。湯豆腐食べるときに底に沈んでるやつなんだよな。湯豆腐食べる鍋でしか見たことないんだよな。参ったな。どんなパッケージで売ってるのかも想像がつかねえ。

 今まで自分の人生に全く関係ない物だったがゆえにアウトオブ眼中だった“昆布”。塩昆布でも酢昆布でもない“昆布”。まだ見ぬ昆布。どうでもいいけど“昆布”と“湿布”ってなんか似てない?似てないか。
スーパーにあるかな、と思いながら3月のまだ冷たい風を受け、住宅街を歩いた。

 そして私は昆布と出会いを果たした。劇的でもなんでもない、普通の出会いだ。乾物コーナーにいったらメチャクチャ普通においてあった。なんか普通に……乾燥ワカメみたいなパッケージに入ってた。マジかよ。メチャクチャ普通じゃん。

 それでも乾物コーナーに行くのが初めてだった私にはただの昆布が宝物のように見える。少し大人になった気分だ。
 乾物コーナーには外にも干し椎茸やら煮干しやら鰹節、昆布、高野豆腐、なんか知らんが干した海老もあったと思う。近場にめんつゆがおいてあるのを見つけ、「これ買って薄めればもう終わる話なんだよな」と思いつつ昆布と鰹節をかごに入れた。

 めんつゆよりは軽い昆布と鰹節を大事に抱え、私は家に帰ってきた。さて、ダシをとろう。そう思ってスマホを手にした。別にソシャゲのイベントを走ろうってんじゃあない。ダシの取り方を調べるためだ。今はネットがあるからいちいちレシピ本を開かなくていいし、便利だな~と思う。私にはレシピ本を開くような丁寧な暮らしをした記憶はないが。

 驚くべきことにダシをとるには昆布を数時間水につけておく必要があるらしい。マジか、と思った。普通になべに水張って昆布いれて強火でグツグツすりゃあええんじゃろ?と思っていた自分をぶん殴るような衝撃。
 水につけた昆布が柔らかくなったら、沸騰させない程度に水に熱を加えてダシをとるのだという。グツグツやっちゃダメなのかよ、と思った。煮るってグツグツすることじゃないのかよ。

 グツグツするとなんか粘りとか雑味とか臭みとか出るんだって。マジかよ。粘るってなんだよそれ。水が粘るってことだよね?昆布怖い。

 ダシの取り方をみながら、私は鍋に水をはり、昆布をそこにつけておくことにした。


 一時間とかそれくらいおいておけばいいらしいので、買っておいたチューハイを飲み、お昼寝を決行。起きたときには日が暮れかけていた。マジかよ。

 日が暮れ始めた安アパート。窓から入ってくるのは赤橙の光。部屋の中を赤く染め上げていた夕日の美しさに私はしばし見とれた。

 鍋のなかには二~三時間ほど放っておかれた昆布。水を吸って少し大きくなったような気もする。菜箸で摘まんでみるなどしたが、昆布自体がそういうものなのか、それともまだ水を含みきっていないのか。思っていたほど昆布は柔らかくなっていなかった。

 どうすっかな、と寝起きの頭で考える。柔らかくなってから出汁を取った方がいいんじゃないだろうか。しかし、“一時間程度つけておく”をもう既にオーバーしているのだ。
 昆布を水につけておいてこんなことをいうのもあれだが、もうダシをとるのが面倒くさくなっていた。何でこんなことしたんだっけ?と思った。平成が終わるからか。

 とはいえ、昆布を水につけてしまった。賽は投げられたのだ。
 ダシをとるしかあるめえと私はガスコンロに火を入れた。

 そこからはまあ地味である。弱火と中火の中間くらいの火にして──ちなみに「弱火」とは“鍋底に火が当たらない程度の火加減”、「中火」とは“鍋底に火の先が当たる程度の火加減”、「強火」とは“鍋底全体に火が当たるような火加減”のことらしい──「弱火と中火の中間くらい」がどれ程微妙な火加減か分かっていただけるだろうか。狙ってやったんじゃあない。そんな技術は私にはない。適当にダイヤルを回し、火を弱めたらそうなっただけだ。

 料理ベタあるある筆頭の【何でも強火、とりあえず強火】をしなかったのは「グツグツやると粘りが出る」のが怖かっただけ。私はネバネバしたものが苦手だ。ぶっちゃけ昆布も好きじゃない。粘るから。松前漬けとか粘るから超苦手。とはいえ、粘りを克服していつか美味しく食べたいものである。

 沸騰しないようにと昆布を見守る。ダシが出てきたら水の色が変わったりするのかしらん、と思っていたが、残念なことに私の扱う片手鍋は鍋の内側が黒いのだった。些細な色の変化などわかりもしねえ。ゆきひら鍋が銀色の理由がわかったような気がする。

 沸騰しない程度に湯加減を見守り、私は昆布を見つめ続けた。日も暮れきった部屋、2019年の3月末。部屋の中は3月というのにまだ寒く、春が来そうにもない。ガスコンロで燃える青い炎が微かな音をたてていて、鍋のなかには時折あぶくが浮かぶ。

 ぼけーっとしながら鍋を見ていれば、鍋肌には無数の泡がつき始めていた。“沸騰手前で昆布を取り出す”という【ダシの取り方】が頭をよぎる。何となくもうちょっと煮た方がよいのでは、と思いつつも私は昆布を引き上げた。菜箸から昆布が滑り落ちる。お湯が跳ねた。熱い。

 鰹節を突っ込む前に“昆布でとれたダシの具合を確認しろ”とあったので、少しすくって飲んでみた。昆布の薫りがふんわりしたが、ぶっちゃけお湯だ。味の一つもつきゃあしねえ。これはなんだ?昆布風味のお湯か?

 とはいえども、もはやこれ以上昆布をお湯につける気はなかった。なんかもう、ダシとか出ないんじゃね?的な気持ちになっていた。だったらさっさと鰹節からもダシをとるべきだろう。過去に縛られずに前だけ生きていこう。私はそう考えて昆布のことは忘れることにした。

 幾枚か鍋に突っ込んでいた昆布をとりあえずザルの上においておき、私は次なるダシの材料──鰹節を手に取る。
 この【鰹節】だが、ダシをとる前にひとつあることをした。大したことではない。後々の処理のしやすさを鑑みて、お茶パックに詰め込んでおいたのだ。これならダシを取り終わったあともお茶パックをつまみ上げるだけでいい。

「お茶って葉っぱのダシみたいなもんじゃん?だからダシにも応用利くと思ったんだよね」──などと賢そうな話をしてみたいところだが、普通にお茶パックの後ろに「ダシをとる際にも!」みたいなことが書いてあったので採用した。普通にお茶をいれるときにもお茶パックは便利なのでおすすめです。



 取り除いた昆布がザルの上で乾いていくなか、私は恐る恐るお茶パックにつまった鰹節を鍋へ投入していた。初めて鍋に鰹節を入れるのだ。緊張もする。
 こちらは沸騰するまで加熱していいらしい。驚くことに、鰹節はお湯に突っ込んだときのリアクションがよく出ていた。うんともすんとも言わなかった昆布に比べて香りは立つし、ほんのりだが液体に色はつくし、「おっ!これはダシが出ているのでは!」と思わせるリアクションなのだ。


 沸騰するまで火にかけて、私はひたすらアクを取った。
 アクとは食材をゆでていたりすると出てくる、細かい泡が寄り集まったようななんだかもけもけとしたもののことである。コーヒーの表面に細かい泡が浮かぶことがあるかと思うが、あれの集合体だと思ってもらえればいいかなと思う。ぶっちゃけ、どれがアクで何れが沸騰による泡なのか見当がつかなかったので──私は白っぽい泡のかたまりをアクと定義して排除することにした。

 料理をしない人間に灰汁の正確な判定は高度すぎる。だったら泡すべてを灰汁として定義するのが合理的ってものではないだろうか。

 お玉は辛うじてもっていたものの、わざわざ出すのも面倒くさく、私はひたすらスプーンでアクをすくっては流しに捨てていた。

 想像以上に虚無の作業だ。誰かに食べさせるわけでもなく、また何かに使おうという確固たる目標もなく、ただ“平成が終わるから”とるダシ。気でも狂ったか?という有り様だ。料理に使うならまだしも、“平成が終わるから”取っているだけのダシ。

 そんな目的不明の虚無ダシをとったらどうすればいいのだろうか。アクを取りながら私はダシの処遇について考えていた。飲むか?飲むんだったら麦茶入れた方がよかったな?

 灰汁を捨て、とりきれるだけのダシを取り、私はコンロの火を落とす。鰹節のよい薫りがする。夕暮れの住宅街を歩いているときに、たまに鼻をくすぐる香りだった。

 ダシを取りきったものの、さしたる達成感もない。思っていたより“出汁取れたなあ”という無味乾燥とした感想が残るだけだ。乾燥と感想をかけたわけではない。

 鰹節の香りには感動しなくもなかったが、昆布。昆布だよ。さしあたっての不安要素は昆布だよ。あんな「スーパーで買えるのかなあ……」と不安に思ったわりにはダシがとれたとは思えないんだよ。あれだけ不安に思いながら、出来上がったのは昆布風味のお湯なのだ。これをダシって言って良いのか?というレベルの昆布風味のお湯なのだ。マジで酢昆布とか塩昆布とかいれた方がよかったかもしれない。

 取ったダシを見つめながら「本当にこれってダシって言えるのか?」「ダシだと思えばこれがダシだよ」と自問自答しつつ、私はひとつまみ程度の塩をそこに加えた。それから醤油も少々。これでダシが引き立つらしい。スイカに塩をかけるようなもんだろうか。


 醤油を少しいれたことで、ダシの色合いは仄かに濃くなっていた。先程までのダシが15倍希釈の麦茶だとしたら、10倍希釈の麦茶程度には色が濃い。麦茶を希釈したことはないのでこの表現が正しいかは知らない。

 ひとさじすくって飲んでみる。
 昆布だけだったときよりは確実に味がついていた。醤油や塩の塩気ではなく、仄かな酸味と……多分“コク”といわれるのであろう、ただのお湯にはない“深み”を感じられた。どう表現するか悩むものだが、そこには確かに“奥行き”がある。舌の上にのせたときにすっと消えていくのではなく、段階的に溶けていく不思議な味があるというか……。とにかく“お湯”の味ではなかったのでオーケーだろう。醤油と塩をいれたのだから、お湯のままであるはずはないんだけれど。

 ダシを無事に取り終えて、次なる問題は「何に使う?」だ。私はダシをとることそのものを目的にしてしまっていたから、使い道を考えていなかった。

 夕日も落ちた部屋、薫る鰹節、とりたてのダシ──。

 素晴らしい時間を過ごしたな、と今になって思う。“出汁を取るのに休日を費やす”なんてのんびりした時間を、大人になってから取れるとは思わなかった。

 ダシの方は結局茶碗蒸しへと変貌することとなった。だし汁と溶き卵を混ぜてレンジでチン。まさか安アパートでお上品な茶碗蒸しを口にすることになるとは思わなかったが、平成を終えるための思い出としては上々だろう。レンジの中で茶碗蒸しが爆発四散したのも、平成を終えるにはきっと必要不可欠だったに違いない。
 




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