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飢餓海峡巡礼、天売、焼尻。2023/6/27

ドミ同室のおじいさんふたりは早朝の、漁船からのケイマフリ撮影ツアーに参加したとのこと、8時すぎ目覚めたときにはもういなかった。
居間で年配ご夫妻と歓談する。わたしとは逆に焼尻、天売の行程と聞き「焼尻どうでしたか」と訊ねる。「市街地はどうということもなかったけど…との由。
北海道本島に近い焼尻のほうが人口も少ない。東京を発つその日に決めた行程だからそんなこともあとからしった。
1025天売発のフェリーを考えていたが、この宿のチェックアウトが9時という。どのみち待つなら940発の高速船さんらいなぁでよかろう。船客案内所の窓口で訊ねると高速船の空席はやはりあった。

重油はやはり漁協
思わぬところに「杉並」の文字をみてびっくりする。ここへ修学旅行にきた子たちもそれから13年、もうアラサーか
船客待合所といえばこれでしょう、置き土産で作られた「文庫」
特に乗船名簿ももとめられず、窓口でさくっと買える

焼尻では小田民宿を予約してあった。Googleマップで港近くであることを確認していたから迎えがどうとかいうこともなかろう。着予定の変更、特に連絡せずそのまま港から宿に向かう。
玄関で「今日予約した大塚です」と名乗る。「昨日予約の電話があったお客さんか」と返されたので、いや東京を発つ20日にお電話しました、と。
失念されていたらしい。が、同宿の客もあることがわかったのでごはんはなんとかなるだろうと見当がついた。
寝床にあぶれる惧れ、というよりもお客なしの日はお客用のごはんの用意がない可能性が高い。特に問題なかったようで安心した。
二階の部屋に通される。暑い。「ちょっと前まではおこた出してたんだけどねぇ」北海道の民宿はこんなものだ。扇風機もないという。荷物を置き、扉を開けたままにし、船客待合所脇のレンタサイクル屋へ。

こちらの島には原チャもあり迷ったが、万一の事故を考え電動アシスト自転車にしておく。よく整備されていてペダルも軽やかだ。レンタル時にもらった地図には港から左へいった小高い丘のうえにある「工兵衛街道記念碑」から左折、内陸部に入り役場支所右折、島中央部のオンコ自然林、緬羊放牧場を抜け、島外周道路へつきあたったところを左折、道なりに港まで戻ってくるルートが描かれている。素朴な手書きの案内にまずは従ってみよう。

工兵衛街道記念碑から支所へ。ここが原生林の入口である。クルマ立入禁止だが、チャリはOKらしい。原チャでなくチャリにしといてよかった。

森を抜けて緬羊放牧場へ。

ジョンディアのトラクターが北海道気分を湧きたたせる。島のまんまんなかだと海がみえないのがなおさら。

展望台を経て島外周路に突き当たった。地図では左折だが、右にいけば漁港やヘリポート、小中学校があるようだ。好天、時間もたっぷりあるのだからそれらをみにいこう。

「飽きてしまってこどもらももういじらない」と天売でいわれていた信号機、ボタン押してみる。歩行者もクルマも影ひとつない。

この発電所で作られる電気は島の中央を横切る電線づたいに天売へも送られる。北海道本島がブラックアウトした地震のときも影響なかった、とゲストハウス天宇礼の主は語った

ふたたびさきほどの工兵衛街道記念碑から支所へのルートをたどり、今度は森へ入らず直進、外周路を道なりに右手へ。

顔が黒いので肉用のサフォーク種だろう。
「牛飼いからすると羊はペット」三愛の農業科卒の上の息子はそんな風にサイズ感を表現していた。そもそもの比較がでかいウシとだからで、東京の街へ曳いてきたならどんなにか存在感あることだろう。

午前中までいた天売島がみえてくるとそれだけでうれしくなる。
北の海に並ぶ二島。これがひとつだけの孤島でないことが、有人島となった理由ではないか。
御蔵では南のゆるやかな傾斜地である南郷ではなく、日照的には不利な北辺の「里」に全島民が住まっている。「向かいに三宅がみえるとさみしくないだろ」。だれかがいっているのを聞いた。

オンコの荘へ入る。

ふたたび森へ入ると直射日光がさえぎられ涼やかだ。

ここにも厳島神社がある。

   天売は「野鳥の島」だからかネコの姿がなかった。特にネコ対策がされているという話でもなかったが。
焼尻はそこかしこにネコがいて、思い思いに過ごしている。

充分堪能したので、船客案内所脇に自転車を返す。
郷土館の閉館まで1時間ばかりあるので、そちらも覗いてみる。

課税標準、って明治時代から変わらん用語なのか、と
明治23年、つまり1900年に海底ケーブルで北海道本島と通信がつながっていたことに驚き
御蔵の海底光ケーブルは令和のいまもチューブがこすれて切れてしまうのに…
タイガー計算機
硬券はなにに使ったものだろう
岩幌の郷土館にあった日本最古のリードオルガンに比べれば保存状態も良好とはいいがたいが、島に「輸入」してきたこと自体に感動である
上の教科書もさることながら、受験旬報など入試が終わってしまえば受験生本人にとっては不要である。一族のなかに進学するものが何人もいたから保存しておいて活用したのではないか…と思われる

最盛期は約2,700人の人口を誇ったとか。道理で現人口150人にしては、集落の場所が分散している。小中学校が街はずれにあるようにみえるのも、中をとったということだったかと合点。

見どころは尽きないが16時50分、受付のおばちゃんがソワソワしているので退散する。一応開館は17時までなのだけれど、お客がいなければ16時半過ぎにでも閉めてしまうのだろう。勤務時間が22時までなのに、利用も22時までという会館で働いていた経験からして、閉館ギリギリまで粘っているお客に対するアレな気持はある。お夕飯の支度、遅くなっちゃってすみません。と心のなかで謝る。

郷土館の元の持ち主である、小納さんというお宅はもう島を離れてしまっており、現在隣にある郵便局はよその人がやっているらしい。
局前のポストは、おそらく船の時間に合わせて日に4回取集。東京でも都下だと街中は日に2回、しかも午前の取集はなかったりするのがふつうの令和に、これはすごい。

天売焼尻航路は片回りをしない。北海道本島に近い焼尻に都度都度寄港する。毎度、羽幌→焼尻→天売→焼尻→羽幌のルートだ。4往復あるいいまのシーズンなら計8回、港に高速船ないしフェリーが入港するということになる。想像よりもこれはにぎやかだ。入ってくるたびに思わずガン見してしまう。

同宿はまだほかにもいるようなのだが、夕食の席についたのは旅行者らしい男女ひと組。女性のほうはなにかリハビリを兼ねてのようで、床座がつらそうだ。男性のほうがそれを庇うようになにくれとなく世話をしている。
年の近い母子なのか、姉さん女房なのか、ちょっと判断がつかない。どちらに間違えても失礼なような気がする。詮索にならぬよう会話をする。
男性はわたしと変わらぬ年恰好のようにみえる。御蔵の話などしても心得た返事がかえってき、羽幌フェリーターミナルをあとにしてから年配の旅行者としか会わなかった身としては新鮮に感ぜられる。
いまは時間があるのでね、連れて旅行を…との語り口に、相応の会社なり役所なりに勤めていたが不本意な事態に出くわし早期退職、のようなストーリーをぼんやりと想像してしまう。

昨日今日とお天気に恵まれてサイクリング計8時間、の結果は肌にきた。完全にサンバーン状態の両腕。ほてりに加えてそよとも抜けぬ風に、みずからの体温で熱くなった布団のうえをゴロゴロと苦しむ。濡れタオルをあてて団扇であおぐ以外の対処法がないときた。
実は天売焼尻とも2軒あるうちの一方の売店にクスリの扱い、あったのである。アネロンもしっかり売られていた。あそこで日焼け止めを買っておけばよかったといまごろ悔いても手遅れである。

〈続〉


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