師匠のいない人生

 10年近く前、ある著名な、当時40代後半の男性小説家に取材したとき、こんな質問をしたことがあった。
「小説を書くにあたって、目標とされた人や、お手本にした作家などはいらっしゃいましたか?」
 その作家はもともと、コピーライターを仕事としていた。広告の仕事はとてもうまくいっていて、一日2時間ほど働けば、十分なほどの収入が得られていたという。しかしどうも日々に充足感を感じられない。それでふとしたきっかけから、30代半ばで小説を書き始めた。もともと才能があったのだろう。書いた作品を手近な締め切りの文学賞に送ったところ、数作目で大手出版社の新人賞を受賞した。その作品は話題となり、テレビドラマ化もされ、今なお続くベストセラーシリーズとなった。冒頭の質問は、それを踏まえてのものだった。
 作家は、静かな口調で答えた。
「師匠とか、お手本とか、そういうのはなかったですね。むしろ僕は、そういう存在を持たないほうがいいと思う。小説家って、冬山を一人で登る、登山家みたいな仕事だからね。それぞれが自分だけのルートを見つけて、自力で登らないと、すぐに滑落しちゃう。落ちても誰も助けてくれないし、そもそも『登れ』と命じる人もいない。自分の意思で山を登り続けるという覚悟がないと、できない仕事だと思う」
 この答えは、当時の私にとって、意外なものだった。というのは創作に関わらず、どんな分野であっても、何かしらの技芸に上達しようと思うならば、師匠と出会い、その人から学ぶことが必要なのではないかと考えていたからだ。
 作家の言葉は、ずっと胸に残ったまま、それから10年近くが経った。30代半ばだった自分は、いま43歳となった。当時も今も、自分には、師匠がいない。尊敬する人物や、何か悩みごとが起こった時に、「その人だったらどう考え、どう行動するだろう」と参考にする人生の先輩は何人かいる。だが「この人は自分の師匠だ」と心から思える存在は、いないままに時が過ぎた。思うのは、師匠を持つには、ある種の生来的な資質と努力が必要だということだ。「かわいがられる資質」と言ってもいいかもしれない。師匠も弟子を選ぶ。私には、誰かの弟子になれる資質がなかった。
 時折、師匠がいる人のことをうらやましく思うこともある。でもまあきっと、結婚する人生としない人生どっちがいいか、みたいな問題と一緒で、正解はないのだろう。
 最近では、「死ぬまで師匠がいない人生も、それはそれで、いいではないか」とある種の諦念を抱くようになった。自分もまた、自分だけの冬山を登るしかないのだ。

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