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実家の猫は、いつもピーコ




 見る度に憔悴していく。
 身体からは死の匂いがしている。目や鼻には汚れた体液が纏わりつき、拭おうとしてやってもそれを嫌がる。水しか摂取しないでここまで生きている。痩せ細り、抱いた身体は骨ばっていて、哀しくなるくらい軽い。その可愛らしい声を聴く事はきっと二度と無いのだろう。
 柔らかいタオルで包んで膝の上で抱く。腹さえ触れなければ苦しくは無いようだ。眼は徐々に虚ろとなり、半ば閉じてはしまっているが、安堵しているのが判る。狭い視界でもこちらをじっと見ている様子なのが切なかった。何を訴えているのか分からないのがもどかしかった。
 少し元気を取り戻すと、膝の上で身じろぐ。降ろして、床に置いた小皿の前にそっと置く。
 殆ど微動だにしない。目の前の小皿に顔を浸しそうだと心配するのだが、確かに舐めている。僅かな量だ。止まり、時間を置いてまた舐める。緩慢というには長く静かな動きで、以前と時間の在り方が変わった様にも錯覚する。
 その行動は生きる為だろうか。喉が渇いたから反射で舐めているのだろうか。
 間違いなく感情はある。死の淵で何を想っているのだろう。自分が死にゆく間際なのをどう受け止めているのだろう。
 猫に人間の様な幻想は無いだろう。
 だが、猫の視点でモノを見る事も叶わなければ、猫が持つ何かだとて解らない。
 もしかしたら人とは違う何かを想いながら、あえて家で死のうと決めたのかもしれない。いつも外で遊ぶ猫が、家で死ぬのは実は意外ではあった。外を選ぶだろうと思っていた。
 わからないというのはこんなにも辛い。本当は安楽死させるべきだったのかもしれない。寿命だと決めつけただけで、そうじゃなかったのかもしれない。
 じっと動かず、何故か風呂場に籠っている。以前はそんな所に行かなかったのに、ふらふらと覚束無い足取りでいつの間にか風呂場に行ってしまう。
 幾許か暖かいのだろうかとも思ったが、きっと違う。
 家には居ても、やはり静かに、独りで逝きたいんだろう。場所を決めたんだろう。
 顔を覗かせて名前を呼ぶと、まだこちらを見る。ちょっと前なら尻尾を振った。もうその力も無いが、少しだけ顔を上げる。
 どうしてやればいいのかわからないが、額と喉をこわごわと撫でる。
 少しだけ気持ちよさそうで、薄情な私は、煩い犬が相手だったらここまで悲しみはしないだろうと唸った。
 犬も何かを感じ取るのだろう、猫の傍に寄らなくなった。匂いに敏感な生き物だから、先に気づいたのは犬だったのかもしれない。
 生きると云う事はいつか死ぬ事だ。
 わかってはいても愛する対象が辛そうで、そして居なくなる事に慣れる事はない。
 でも日常の時間はちゃんと流れていて、常に猫の事を考えているわけでは無い。常に辛いだろう猫には申し訳ないが、違う事を考え、違う事をしている自分が居る。家を留守にし、誰かと笑う自分が居る。
 今日か明日か。数日後には、猫は庭に埋まるだろう。
 庭にいた時間が誰よりも長かった猫には最も適した墓場ではないだろうか。
 そんなものはこちらの自己満足でしか無いだろうが、残された方としてはそれくらい思ったっていいんじゃないかとも思う。
 こんな気持ちにさせられるんだから、書く事で紛らわせたいと思ってもいいんじゃないかとも思う。
 猫と書くと、違和感を抱く。名前はピーコ。雄の可愛い猫だ。
 私はピーコが大好きだ。
 共感を得ようとは思わない。ペットとの別れなんてどこにでもある話で、「そっかー」としか言えない様な個人的なものだ。聴かされても鬱陶しい類の事柄で、自分の内で処理すべきなのだろう。
 ただ、こんな文章を書いてしまう事を大目に見て欲しいと。
 そんな体裁さえ、本当はどうでもいい事なのかもしれない。

 社会人になったばかりの兄が、出張先の稚内で拾って来た。今にも死にそうだった痩せぎすの灰色の縞模様の子猫だった。私は今よりずっと尻の青いガキだった。一緒に大人(とは何かさえも未だに解らないが)になったと勝手に思っている。やはり残されるのは辛い。猫と人間は違う。何がだろうと今更だが考える。
 共有できるものが少ない。種、言語、生きる社会、挙げるのは野暮だ。
 じゃあ同じ人間ならばどれほどの人と、何を、共有出来ていると云うのだろう。
 そんな風に虚しく思うのはつまらない。そんな完結の仕方は好きじゃあ無い。
 世界にこんなに人が居ても、何かしら共有できない人の方が多い気がする。そもそも、共有という概念すら曖昧ではないだろうか。
 それでもすきな人たちが自分にも間違いなく存在する。大事な人たちが居る。そう思える事はそれだけで素晴らしいと素直に思うし、その事実だけで、ピーコをちゃんと見送ろうと、私は逃げ出さずに居られるんだろう。


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