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そんな日


 言葉には力があるという。
 しかし、言葉それ自体は、記号でしかない。いや、記号でさえ無い。
 その言葉を発した者と、発せられた者とがその言葉の概念を共有していなければ、発せられた言葉は行き場を失い、消滅する。ただの音、若しくは、その言葉が文字であればただの形である。意味などない。


 「君は、何もわかっちゃいないね。」
 私に一瞥もくれずに、和綴の本をぱらりとめくり、男は言った。
 「何がだ?…つまりはそう云う事だろう?」
 私は、街の本屋でたまたま手に取った本に書いてあり、気に入っていたちょっとした知識をこの男の前でうっかりひけらかしてしまったのを後悔しながら、もぞもぞ呟く。
 「…ふん、じゃあ僕が君に、そうだな、…たとえば'  'と言ったとしよう。」
 男は本を閉じ、私の顔をまっすぐ凝視した。
 「…なんだい、その'  'っていうのは?」
 私はその、耳慣れない言葉を反芻してみる。なにやら不思議な響きである。
 そういえば、そんな言葉もあったかななどと記憶を探ってみるが、私の朦朧とした記憶であれば当然はっきりするはずもない。
 「…君はこの言葉を知らない。つまり、僕とはこの言葉の概念を共有していない事になるね。違うかい?」
 男の言葉に、私は曖昧に頷き、男の顔を見上げる。
 削げた頬。尖った顎。意思の強さを思わせる、厳しい眼。…常の如く、視線を解く事が出来なくなる。
 「それは、日本語かい?古語か?どういう意味なんだ」
 私の問いには答えず、男は微かににやりと微笑む。
 「…それで、君は今の言葉を忘れてしまうかい?」
 少し考えて、私は首をゆるゆると振る。私を見つめるその表情には、今度はかすかに嘲りが浮かんでいる。
 「君は、家に帰って広辞苑を引くかもしれない。…まあ載ってはいないがね。そして、夢でこの言葉を聞くかもしれないし、眩暈坂を上る毎にこの言葉が頭に浮かぶかもしれない。」
 男にそう言われると、私はなにやら本当にそうなる気がした。
 「…どうだい?この言葉はただの音かい?行き場を無くして消えてしまったかい?意味がないかい?違うね、君はこの言葉から逃れられないだろう?」
 「!君が変なことを言うからじゃあないか。…そんな意味深な事を言われたら、誰だって忘れられないさ!」
 男は面白くもなさそうに、ふんと息をつく。
 「わかっただろう?…言葉は用い様によっては概念などいくらでも付けられるんだ。そんな下らない俗な教養本を読むくらいだったら、新しい小説を書く方がまだましなのではないかね。君に言葉の何たるかを教えられるとは思わなかったよ。」
 私は、男の言う通りだと思い、赤くなったであろう顔を俯けた。

 「─うはははは!!猿に言葉を与えたら、人間になるのだ!道具だけでは物足りないか!贅沢者め!」
 傍で鼾をかいていた、もう一人の男ががばっと起き上がった。
 「…!!痛、やめてくださいよ!」
 男は私の両腕を掴み、ぶんぶんと振り回し大声をあげる。
 その様な荒々しい行為とは矛盾して、その男の顔は陶磁の人形のように整っている。
 「…全く、猿は馬鹿だ、馬鹿だ。非常に馬鹿だ!!近来稀に見る馬鹿者だ!!」
 「…そう、連発しないでくださいよ。」
 日頃言われ慣れてはいても、その通りだと思ってはみても、私は落ちこみ、腕を振り解いた。
 「こいつに」片眉を上げて、仏頂面の部屋の主を見やりながら男は続ける。
 「口で勝とうなんて、更に加えて、言葉について論議しようなんて、猿は…」
 地球規模の馬鹿さだ、と続ける男に、その主は「いつから、起きていたんです?」と、いつもと変わらぬ凶悪な顔で問う。
 「僕は始めっから、寝てなんていないぞ!!全てわかっているのだ!」
 次は私をぎゅうぎゅうと羽交い締めにして、男は笑う。
 常のことだ。私は抵抗を止め、ため息を吐く。この男に逆らう事の無駄は、嫌というほど痛感している。
 「ふふん。…全てね!!それはダイヤグラムだろう!なんとも簡単じゃあないか!」
 ビシッと指を突きつけられた主人は、心底嫌そうな顔で私を締め付ける男を睨む。ほとんどの人間はその表情の変化に気づかないであろうが。
 「…起きていると知っていれば、口にしませんでしたよ。」
 「うわはははは!!そうだろうな!なんと、お前の口からそんな言葉を聞こうとはな!!」
 私は訳がわからず、身体をやっとの思いで振りほどき、男に問う。

 「榎さんには、意味がわかったんですか!?・・なんです、そのダイア…何とかというのは」
 「くどいぞ、猿!!しつこいのは顔だけにしておけ!僕にわからないことなどないのだ!!」
 「京極堂、僕にも教えてくれないか!」
 「…自分で考えたまえ。」
 古本屋の主人であり、神主であり、憑き物落としでもある私の友人は、私を冷たく見やり、再び本に眼を落とした。


 「…しかし、関はほんとうに馬鹿だなあ。まあ、それでこそ関なのだ!」
 「…」
 「せっかくお前の愛の告白だったっていうのになあ、いや呪いか?」
 「…'イシアルテ'…聞いている方が恥ずかしかったぞ!!」
 「別に、伝わるとは思っていませんよ。」
 「ふうん。口に出せればいいのか?」
 「…そう。言葉には力がありますからね。」


 無論、睡魔に勝てず、その傍らでいつもの如く眠りに入った私には、二人のそんな会話は聞けなかったが。

 ーーー以来 
 私が、京極堂のもとを訪れるため眩暈坂を上るたび、その言葉を思い出したのは言うまでもない。
 夢にまで出てきたかどうかは、私にも定かではないが。

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