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『ノイズ』



 ザッ、ザザッ。ザザザッ。
 頭の奥で音が鳴る。断続的なノイズ。
 とうとう蝕まれてしまったのだろうかと、敬子は道路にへたりと座り込む。
 通勤時が過ぎた時刻の住宅街だった。新聞の折込みに入ってくるような、精巧な模型めいた、個性を許さない家が立ち並んでいた。
 道には塵ひとつ無い。誰かの吐瀉物も、煙草の吸殻やらも落ちていない。穢れた物、無駄な物は全て排斥された様な不躾な清潔さがあった。その概念さえ喪失していた。
 そんな道路で、彼女はじっと座り込む。
 スカートが捲くれ、太ももがむき出しになる事にかまける余裕も無い。
 ノイズの止む気配が無いからだった。
 それは幾日も前から続いていて、浅い眠りと覚醒との繰り返しの合間にも容赦は無かった。
 やっと治まったか、と睡魔に委ねようとした途端、ザザザッとノイズが襲ってくる。
 眠った気がしなかった。
 「どうかしましたか?大丈夫ですか?」
 通りすがったらしい誰かの声が遠くから聞こえた。だが、ノイズの所為で敬子はうまく聴き取れない。
 その声の主はすぐ傍に居た。中腰になって彼女の顔を覗き込んでいた。
 目を瞑り、目頭を両指で押さえていた為、その距離には気付かない。
 ノイズも、誰かのその声も、煩くて、ざらざらとしていた。尻を着く地面だけが、ひやりと滑らかだった。
 「そろそろだと思うの」
 敬子はやにわに口を開く。
 「え?救急車を呼んだんですか?僕の肩に寄り掛かっていて構いませんよ」
 親切な通行人は横で膝をつく。
 「違う。耳から、きっと出てくるの。そろそろなのよ」
 独り言の様に、低くささやかに、敬子は言う。
 「出てくる?」
 通行人は訝しい表情で、耳を覗き込んだ。
 
 彼の名を元木聡といった。
 家庭の棚に鎮座させるべき、常備薬の営業を生業としていた。
 ふらりとこの住宅街に足を踏み入れた。全くのきまぐれだった。何の思惑も無かった。
 一つくらい売れたらいい、売れないならばそれもいい。寧ろ売れたりしたら、その後がひどく面倒だ。購入したその家を定期的に訪ねなければならなくなる。それだとて仕事の内には違いない。たとえ薬箱の中身が減っていないどころか、開けられた形跡が無くとも、その儀礼は契約期間まで続く。しかもその契約は、惰性によって延々と続く事が殆どだった。常備薬に拘る人間など、滅多にお目にかかれるものではなかった。
 さらに云えば、営業に向く思考パターンとやらがあるならば、彼は微塵も有していなかった。
 けれど、愛想だけは良かった。柔らかな微笑がシンメトリックさを際立てる顔立ちだった。人を安堵させる声をしていた。敵意を抱かせない空気を纏っていた。
 元木はこの住宅街をてくてくと歩き、違いの判らぬ玄関を順々に訪ね、呼び鈴を鳴らした。
 だが、どの家もその音に応えはしなかった。単に不在なのか、居留守なのか、端から形式として営業訪問する彼にとっては、楽でよかった。常の事だが、喋るのが億劫だった。
 それにしても。と、元木は思う。
 平日の午前ともなれば共稼ぎで家は無人なのかもしれない。だが、ただの一軒からも人が顔を現さないなど、音すらしないなど、初めての事だった。違和感を覚える静けさだった。
 ここはおかしい。人の生活臭さやら、気配というものがそもそも無い。あるのは家という器みたいなものだけだ。
 彼は去る事を決め、踵を返した。
 すると、そこには女がいた。道端に蹲っている女がいた。彼が名を知る由も無いが、敬子だった。
 二人はそうして出会った。
  

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