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レイニーデイ


 その日は雨粒が大きかった。巨人が泣いたらこれくらいの大きさの涙かもしれない。それは、道脇の排水溝に、誰にも拭われる事なく吸い込まれてゆく。
 空の彼方には大気圏があって、その番をしているのが巨人なのだ。時折、さみしくなって泣く。本当は自分も皆と地上に立っていたいから、彼は泣く。
 番をする意味すらわからないのに、彼はその為に生み出された。だから、大きな粒の雨が降る日は、彼のさみしい日だ。そうじゃない雨降りの日は、巨人ではない誰かが、泣くのを堪えられない日だ。その誰かは、巨人より体躯が貧弱だからといって、感情までもが小さいわけではない。
 そんな存在が遥か頭上に居たとしても、それほど驚きはしない。天気図は彼ら番人の分布図でもある。気象予報士は、彼らのさみしさをきちんと感じられる繊細さを必須とされるだろう。
 雨、それが天の恵みであると云うならば、そうなのかもしれない。雨乞いだってするだろう。乾季にある人は天に向けて願うのだ。彼らのさみしさを。森だって欲するのだ。彼らがちょうどよいくらいに泣く事を。号泣されたらば、水害になって、あらゆる物を流してしまうから。
 では天とは何か。畏敬しながらも、私は解明したくは無い。理由はあるが、うまく伝えられる自信が全く無い。たぶん、私でなくとも、言い尽くせないモノなんだろう。

 肉眼で大気圏を見た人間は極めて少ない。だから、巨人は居る筈だ。そう主張できるのだった。
 思想の自由で保障されている私は、大昔みたいに宗教裁判にかけられたりはしない。気違いと言われたらば、『ただの冗談だよ』と一言つけ加える。それで事足りる。
 酸性度の高いらしい雨の中を、傘を持ってはいたが、開かずに私は歩いた。
 スニーカーはぐっしょりと重たさを増してゆき、髪の毛は額に、頬にへばり付くが、さほど不快さを覚えない。白いシャツからは肌着が透けていたかもしれない。誰かが、不気味そうにこちらを見ていたかもしれない。けれどその日、私は巨人のさみしさを傘で遮りたくはなかった。
 地に在る人がどう思うかより、会った事も無い孤独な彼を、私の妄想は放っておけなかったのだ。
 その感情を何とよぶのだろう。
 雨に酔ったか、自分こそが淋しかったのか、ただのロマンチシズムか。若しくはそれの全部か、どれかですらも無いのか。
 私は部屋に戻って、馬鹿なことをした自分に爆笑したかったのだ、と誤魔化した。
 自分が巨人だったなら、そんな馬鹿が地上に何人か居るのを見たら、泣くのは阿呆臭いと少しだけでも思うかもしれないとも思った。
 そして熱い湯に浸かり、巨人が地に降りてきたら世界中の風呂の水が足りなくなるなと、ただのリアリストに戻る事ができた。
 雨の日は、こんな風に過ごすべきだろう。小人の私は風呂桶に潜り、また次の雨を待つ。
 彼らがさみしい日、空気は間違いなく違うにおいがする。


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