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眠れないとき・一


 みぞおちに、どかりと大きな鉄球をぶつけられた感覚がする。いつもそうだ。僕が勝手に追い詰められ、答える言葉も見つけられなくて、頭の中がちかちかしてきて、最後には重たいものを撃ち込まれ、心が死ぬ。
 言いたい事は山ほどあった気がするし、よぎった気配もある。けれど、実際は全く無かったのかもしれない。相手の言葉が違う言語に思われて、うまく脳の中枢回路に組み込む事が出来なかっただけなのかもしれない。
 僕は時々、ことばというものが何なのか判らなくなる。
 他人はそれぞれの辞書を持ち歩いていて、それを引いては、会話を成り立たせているつもりになるんだろうと、コミュニケート自体を諦めたくなる。
 だからこそ、物書きになったのかもしれない。
 言語学みたいな専門的な話はどうでもよくて、シニィフィアン云々やらで納得させようとするものでもなくて、言葉とはそもそも他なのだから理解出来なくて当然なのだ、とかいう虚しい事もどうでもよくて、つまり、他者が理解し難いものとして在る自分にとってしてみれば、話す事が得意じゃあ無いのは自明の理なのだ、と纏めてしまいそうになって切なくなる。
 他者と簡単に言ったけれども、僕の内に居る他者ほど不気味なものも、そうは居ない。いきなり拳を振り上げる人が世間にはいるだろう。理不尽な悪意をぶつける人もいるだろう。それらは全きの他人だから、別物の怖さではあるけれども、自分の中の怖さというのは、なんというか厄介だ。内側で勝手にこねあげた化け物のようなものだ。

 「色々と面倒だな。」
 珍しく黙って聞いていると思えば、そんな答えが返って来た。簡潔すぎやしないか、と黒子はがっくりと肩を落としたくなったが、そうはせずに頷いた。
 遮らずに聞いて貰えただけでもありがたいじゃないか、と突如に卑屈になったからだ。そして、これが僕の内のいやらしい他者でもあるのだ、と黒子は更に落ち込む。そもそも、こんな話をするハメになったのも、君の発した言葉の所為だろう、とも。
 「さてと、俺は黒子と長いつきあいな訳だけれども、」
 赤司征十郎はひと口ウイスキーを啜り、黒子を見る。相変わらず整った造作の顔をしていると黒子は思う。視線に戸惑いを覚え、手元に目を落とす。
 中学時代から、バスケを通して十年以上の腐れ縁である赤司に、いきなりメールで呼び出されたのは、駅近くの路地にあるバーだった。ずっとこの街に住んでいるというのに、存在すら知らない店だった。趣味の悪い抽象画が幾つか壁にへばりついていて、居心地の悪さを助長させている風な店だった。客の回転をよくする意図で選んだのであれば、それは見事に成功していると、黒子は思った。マスターが無口な事だけは申し分無かったが、こんなバーに二度と足は運ばないだろう。事実、客は黒子達のみだった。
 「お前のそんな部分も、俺はたぶん嫌いじゃないし、今更俺を拒絶する理由にはならないな。申し訳ないけど。」
 黒子は赤司を疎ましげに見る。ジントニックの入ったグラスからやっと顔を上げたのだが、余りに嫌味な表情だったろうと慌てて口角を上げる。会うのは久々だった為、礼節とやらを少しだけ重んじてしまったのだった。
 「ええと、赤司君。」
 「うん。」
 名を呼ばれ、赤司は微笑む。俺には何でも言えばいい、そんな風情にも見え、萎えた。けれど、言葉を続けた。
 「昔、僕がつきあった人も、そんな風に言いました。そんなとこも好きよって。でも、それは長くは続かなかった。君の言った通り、面倒になるんです。」
 「へえ。でも、俺がその女と一緒とは限らないよね。」グラスを舐め、云う。
 「そうですね。けど、僕にはそういうベクトルでしか想像が働かないし、そして、そういう事で煩わされるのがとても苦痛なんです。同性なのは大きな問題ではなくて、それは、同じ事ですよね?」
 ふうんと赤司は表情を消し、頬杖したまま、しばらく動かない。熟考している様にも、何も考えていない様にも見えた。
 早くここから立ち去りたい。赤司の事は友人として嫌いでは勿論ないけれど、透明人間ではない事を喜ぶのも変な気もするけれど、とにかく、独りになりたい。
 友人だと、バスケ仲間だと思っていた同級生に、実は自分はゲイらしい。そして、そういう意味合いで、つきあって欲しいと告白された場合、どう断ればいいかなど黒子が知る筈も無い。
 偏見を全面に表して断るのも嘘臭い気がしたし、赤司にそれは通じないだろうと思った。波風が立たない訳が無いのだ、赤司が絡んだ事柄は常に。
 故に、黒子は自分の抱えた問題をなんとか言葉にし、きちんと誠意を尽くして断った筈だった。けれど、それも失敗した様だった。どう間違えたかも判らなかった。
 「今夜、試しに、黒子の部屋に泊まってもいいかな?」
 赤司が発したのはそんな言葉だった。脈絡など、どこにあるだろう。
 「明日も僕は仕事があります。売れない作家だからといって、ライターの締め切りもあるし、いきなり休んだり出来ません。」
 「誰も朝まで飲み明かそうなんて言ってないよ。仕事はきちんとやればいい。俺は勝手に寛いでるけど。珍しく休みなんだ」
 「迷惑です。だって、」
 「あ、何かされるんじゃないかって、怖いのかい。自意識過剰だ。馬鹿みたいだな」
 くつくつ笑う赤司が腹立たしくなり、黒子はいきなり席を立った。
 自分が上位にあるかの様な態度を取るところが赤司であり、そうだ、そここそが原因で一時は離別したし、距離を置いたのだった、と黒子は思い出した。
 「しばらく連絡しないで下さい。」
 その黒子の拒絶にも動じた様子を見せず、赤司は肩を竦めた。そして、どうぞ退出して下さいという仕草で手をするっと差し出した。
 赤司の告白じみた言葉も、単にからかいではなかったかと、黒子は一瞥すら残さず店を出る。
 店に流れる羊みたいな知らぬ言語の歌からも、赤司からも、纏わり付く色んな言葉からもただただ早く離れたかった。



 赤司は帰宅するなりベッドに突っ伏した。
 発してしまった言葉は取り返しがつかないし、自分が黒子に対してとった態度もまた、無かった事には出来ないのだとも。
 黒子テツヤは彼にとって、出会った頃から友人と云う言葉で括った事の無い存在だった。それだけ特殊だったとも云えるし、括りが自分の中でうまく出来なかったとも云える。かつて、赤司は自分を同性愛者などと想像した事すら無かった。彼女とよぶ相手と何人かとつきあった事もあれば、彼女らとのセックスに嫌悪感を抱くほど、その行為自体に特別な意味などを見出した事も皆無だった。それが普通であるのだと思っていた。
 けれど、黒子に会うたび、赤司はツキリと胸に何かが刺さるような感覚を受けた。幾度も幾度も繰り返した否定の中から浮かび上がってくるのは、それが紛れもなく恋と呼ばれる感情であるという事だった。馬鹿げていると何度拒んでも消えない思い。その答えと対峙する過程に於いて、いつも何かに飢えていた自分に赤司は漸く気づいた。おそらく、熱みたいなものだった。もちろん、感情の正体が判ったからといって、赤司の飢えは収まる筈も無く、その熱は冷める気配すら無かった。恋がとてつもなく苦しいものだと、初めて赤司は知った。
 黒子は何も判ってはいないだろう。バーで、どれほど悩んで告白したかなど。震えそうになる指先を、グラスを握る事で隠していた事など、何も判ってはいないだろう。
 赤司は唇を噛んだ。そして、そんな黒子だからこそ自分が惹かれてならないのだと云う事を、自分は嫌と云うほど判っているのだとも。殻に閉じこもっては、自己完結ばかりしている黒子のじれったさ。誰かを理解しよう、そして理解されようという意志さえ端から持ち合わせてはいない様に見える空虚な目。その目に焦がれたのかもしれなかった。けれども、理由など、言葉にしてしまえるものでも無かった。
 その目を自分に向けてくれたならどんなに嬉しいだろうと、わざと偉そうな言動を昔からしてしまっていた。それは、黒子に他の誰とも違うのだと、そう認知される事を欲したからに他ならなかった。そうでもしなければ黒子は他人に殆ど関心など寄せない。うわべだけの友人ならば、嫌われた方が重みがあった。少なくとも、赤司にとっては。
 断られるのは覚悟していた。けれど、その理由はどうだ。許し難い、と赤司は思った。あそこまであからさまに他人との関わり合いを拒まれたら、(しかも己の中の他人とやらまでもだ、)踏み込むことなど誰が出来ると云うのだろう。壁を壊せると云うのだろう。傷つくのが怖いだけの傲慢な臆病者め、と張り倒したくなった。
 ゲイなどというカテゴライズでは、説明ならない感情。恋をしたのが黒子という同性だったというだけの話だ。他の男などに性的な興味は微塵も無い。
 執着は憎しみと背中合わせなのだ、と赤司は今更に実感する。壁が破れないならば、自分を受け入れないならば、黒子をもろとも滅茶苦茶に破壊してやりたいと暗い欲望が湧いた。そして、それはびりびりとした恍惚感を赤司に齎した。それを行使するのが、他ならぬ自分なのだから、次の瞬間には思い切り甘やかして愛したい。既に壊れていたとしてもだ。そして壊してしまった事に絶望するのだ。器だけになった空っぽの黒子など、黒子では無い。そうして自分の過ちで以って、赤司は世界の凡てに色を失くすのだ。
 そんな妄想をして涙を流している自分が在る。赤司は地の底まで落ち込む。こうした幻想に憑かれた馬鹿を見下しているのが自分だった筈であるのに、と。いつからか自分は黒子に憑かれてしまい、少しずつ狂気まがいなものを育てていってしまったのだと唸った。
 黒子の所為では決して無い。そして、もしかしたら、自身の所為ですらないかもしれないと、赤司は行き場を失くした感情を空中に投げ飛ばした。すると部屋の電気が勝手に消えた。そんな現象には何の興味も湧かず、それくらいの事が起こったとしても不思議は無いと頭から布団を被った。
 行き場の無くした沸騰する様なおもいは、手でスイッチを押すよりもより確実に、光みたいなものを人から奪うのかもしれなかった。若しくは、内側で更に強い光を発しているのかもしれなかった。

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