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『ツノ≠ファルス』




日常に疲弊し、内と外では何かが腐ってゆく。
身体も精神もじわじわと、そしてじくじくと腐蝕してゆく。
錯覚とかでは無くて、実感として私はそれを感じている。

今年三百歳になるカブトムシが、私の部屋には住み着いている。
彼は立派なツノを持ち、甲冑みたいな背中のつやは少しも衰えてはいない。いつもピンと前を見据えていて、堂々と部屋の中を歩く。
「どれだけ長生きをする気なの。」
カブトムシを膝の上に乗せて問うた。
「さあね。僕が決める事では無いのだろうさ。」
「ずっと輝かしい侭でいる事を自分ではどう思うの。」
「輝かしく見えるのかい、僕が。」
「ヒトが三百歳まで生きたとして、あなたのように立派な風にはきっと存在してはいないと思うわ。」
「どうなってしまうんだい。ヒトは。」
「たぶん、干からびるのよ。汚らしい液体になった後に。そして、骨だけが残る。」
ツノを僅かに揺らし、カブトムシは呟いた。
「僕には、それは羨ましい事に思えるのだけれどね。」
その言葉に驚いた私の膝から、カブトムシは飛んだ。部屋の中をぐるりと。
「僕だって、骨とやらになれたなら、こうして飛ぶ必要も無いのさ。」
「そんな素敵な羽があるのに?」
「そう。だって僕はどれだけ長生きをしようと、どれだけ君に輝いて見えていようと、ただの昆虫なのだから。」
彼の言葉を、私は三度反芻した。
「カブトムシはただの昆虫じゃあないと思うわ。少なくともあなたは。」
「僕がただの昆虫だろうが、特別な昆虫だろうが、--」
カブトムシは私を見る。
「君と交わる事は叶わないのだからね。」
面食らった私を、いつもの無表情で見つめた侭(何故なら彼にヒトで云うところの表情みたいなものは無い、)更に言葉を連ねる。
「僕はオスだからね。どうしたって自分の種を残したいらしい。でも、交尾したいメスのカブトムシには一度として出会った事が無い。どれほど、様々な処を飛び回っただろう。でも、居ない。」
「妥協できなかったのね。」
「そうだね。そして、君が同じ生き物だったらどんなに素晴らしいだろうと、僕は哀しみを知った。三百歳にして、漸く。」
「私はヒトだから、あなたの子を産んだりは出来ないのね。」
「そう。それが地球の生態系のルールなのだろうさ。今のところ例外を見た事は、僕には無い。」
「切ないわね。」
「うん。それに、僕には名前が無いからね。必要も無いけれど。」
「私が名付けるのは嫌?とびきり、あなたに相応しい名前を考えるわよ。」
「ありがとう。でも要らないんだ。僕はカブトムシだから。」

私がこの部屋に住み始めたのは一年前の夏だった。窓がひとつだけの、がらんとした古ぼけたワンルーム。
誰も知る人の居ない土地ですべてをやり直そうと、身ひとつでゼロから始めた部屋だった。
けれど部屋には既にカブトムシが住み着いていて、『君の邪魔にはならない筈だから』と、留まる事を望んだ。私はそれを了承した。
相手はカブトムシだ。場所を取るわけでも、生活に干渉してくるわけでも無い。
話しかければ、小さな声で応えてくれる。

「ねえ見て。手が爛れてきたの。」
私はカブトムシに右手を差し出す。
「どうしたんだい。痛々しいね。」
「毎日冷たい水の中で、たくさんの魚を切り刻んでいるのよ。それが私の仕事なの。」
「人間は大変だな。それは、罰みたいなものなのかい?」
カブトムシは醜い私の掌に、そっとツノで触れる。
「私は魚じゃあないからわからない。」
「そうだね。僕にもわからない。」
「私はこうやって徐々に、見えないところまでも朽ちてゆくの。」
「君が朽ち果ててしまったら、僕はどうしたらいいだろうか。」
「残った私の骨に、そのツノをぶつけてみたらいいと思うわ。」
「そうしたら?」
「さあ。少なくとも、あなたが立派なカブトムシじゃあなくなるのは確かね。」
「悪くないね。」
「それでも、あなたが好きよ。」
「うん。ありがとう。」

喋り過ぎたね、とカブトムシが云い、私はラジオをつけた。
彼と私はワルツを聴きながら、ぼんやり窓の外を眺めていた。
桜が散り始めていて、春は短いのだという事を思い出した。
出会った夏が来る前、私はこの部屋を出ていこう。
カブトムシとさようならをしよう。
朽ちるにはまだ早い気がした。好きな彼は三百年も生きている。
自分だとて、前を見据えて悪い筈が無い。
哀しみも、そして喜びも、私は未だわかっては居ないのだ。


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