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#Blacklivesmatterから思うこと

最近、アメリカをはじめ世界各国に広がっている#blacklivesmatter運動。

今回はその運動をきっかけに私が考えたことについて書いていこうと思う。

あらかじめ言っておくが、これは私が個人的に考えたことであってこの運動のことを詳しく解説したり、この運動に対して持論を述べたりするつもりはない。

「私」という人間をよく知らない人がほとんどのこの場所だから、自分の思いをただ吐き出そうと思って書いている。


私はこの運動からよく考えるようになったのは「無意識的な差別心」についてだ。

私は最近、日本に住むBlackの人々が日本で体験している黒人差別について話している動画をたまたま見た。

彼らの体験として挙げられていたものをいくつか紹介すると「夜歩いていると高確率で職務質問される」「自転車に乗って帰宅していたら、警察が家までついてきてその自転車をどうやって手に入れたのか詳しく聞いてきた」「電車で座っていると隣に誰も座ってこない」といったことだ。職務質問をしてきた警察官になぜ自分に声をかけたのかを尋ねると、無差別に職務質問をしていると答えたという。

私はこの警察官も電車に乗っていた乗客も批判するつもりはない。むしろ当たり前のことだと思う。だって、彼らは私たち日本人と呼ばれる人たちとは特徴が大きく異なるのだから。Blackの人々に限らず、外国から来た人または日本以外の血が入っている人たちも少なからず同じような経験をしているだろう。

私がこのnoteで書きたかったのは、彼らのようなマイノリティーの人たちへ対する私たちの無意識的な差別心についてだ。

実は私自身もこのマイノリティーのグループの一人だと自覚している。

マイノリティーと言われる人たちには多くの種類があると思う。

Blackの人々、ミックスの人々、最近よく注目されるようになったLGBTQの人々。さらに私は、派手な服や奇抜な髪型をしている人々、アニメや漫画・ゲームなどが好きなヲタクと呼ばれる人々、ダンサーやDJ・ホストやキャバクラ嬢のような夜の世界で活躍している人々もこの日本においてはマイノリティーに属すると考える。

私はダンサーで、髪型も服装も派手で、最近では自分は何者なのかということを考えることも少なくない。自分もLGBTQの仲間なのではないかと考えたりする。このことを家族や周りの人にはほとんど打ち明けていない。


私は今大学生で地元を離れて生活している。

別に家族と絶縁しているとかいうわけではない。むしろ関係は良好だ。

しかし、私には地元にいた時からずっと抱えていた違和感があった。

私は幼いころからいわゆる「いい子ちゃん」として生きてきた。性格的にも完璧主義で真面目。勉強もそこそこできる方だった。だから学校の先生にも習い事の先生にも一目置かれていたと思う。

ただ、年を追うごとにそんな生活に息苦しさを覚えていた。

そのせいだろう。私は高校受験でも大学受験でも自分のことを知る人がほとんどいない学校を選んできた。過去の自分を知る人がいなければ、過去の息苦しさに苦しまなくてすむ。

特に大学に入学した時、私は髪型をショートヘアにした。

そのおかげで本当の自分になれたような気がした。

私はもともと他人の目をあまり気にするタイプではなかったので、服装も今まで通り派手で髪色もたくさん変えた。

ただ、そんな生活をする中で自分の性に違和感を覚える時がたまにあった。

LGBTQについては知っていたし、そういった友達もいる。だから彼らに対して差別心は全くなかったし、自分の中の違和感に気づいてからはむしろ親近感があった。

そんな時両親から言われた言葉に私は衝撃を受けた。

「確認だけど、そっちじゃないよね?」

この後に「まあ今はいろんな人がいるからね」と言っていたが、その時の声色・雰囲気的には明らかにマイナスの意味での「そっち」だった。

以前、私は両親の前でLGBTQについて話していたことがある。私がまだ「いい子ちゃん」だった時だ。その時は友達の話をしていた。だが、「もし私がそうだったら・・・」というような話になった時、部屋の空気がピリついたように思った。なんだか当たりが冷たくなったような、そんな感じがした。私は瞬時に「これは話してはいけない話題だ」と判断し、話をすり替えたのを覚えている。ただ、この時に感じたのは彼らがLGBTQを根本から差別し嫌悪しているのではなく、娘がそうだったらということに嫌悪感を抱いているようだったということだ。

その後の彼らの様子を見ても、多分無意識なのだろうと感じた。

この「無意識の差別」を指摘する勇気が私にはまだない。

ましてや自分の両親に指摘することは、悲しいことに到底できない。


日本在住のBlackの人々が体験した差別体験のほとんどが、日本人の「無意識の差別」のせいだろう。

そしてこれを指摘できる人は私を含め、そうそういないと思う。というか多分、指摘したところで「自分は差別などしていない」と思っているのだから聞き入れてもらえないだろう。

幸いなことに、私の周りにはマイノリティーに理解のある人が多い。

特に同世代の友達は多様性に寛容的だ。


私は「無意識的な差別心」を世代のせいにしたくない。しかし、10年前・20年前より多様化した日本で生まれ育っている私たち世代の方が多様性に対する理解が無意識のうちに身についているのかもしれない。

もちろん私自身が無意識的にも差別を一切していないかと問われると、胸を張って「yes」と答えられないし、黒人差別をしている人々が全員無意識的に差別をしているとも言えない。

その権利を利用して彼らを迫害しようと意図的にやっている人もいるはずである。

しかし今私が考えたいのは自分の考え方・言動に無意識でも差別的なものはなかったのか、だ。


私がこんなことを言える分際でないことは十分わかっている。

しかし、私が初めて#blacklivesmatterのことを知り、アメリカだけの問題だと思わないで欲しいという訴えを見たとき自分だったらどうするか、実際に自分は差別をしていなかったのか、とても考えさせられた。

だから、これを読んでくれたあなたにも何か思うところがあれば幸いだ。


最後まで読んでくれてありがとうございました。