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続・太田道灌という武将を知る その1

 今年のゴールデンウィークはいかがでしたか?
久しぶりに制限がないゴールデンウィークとはいえ、個々に注意して過ごされた方が多かったのではないかと思います。それでもここ数年の中では少し楽な気持ちで過ごすことができました。

 私はこの連休に、神奈川県伊勢原市へ出かけました。母校の東海大学医学部は大山の麓である伊勢原市にあります。伊勢原市には道灌まつりという市をあげてのお祭りがありまして、太田道灌をとっても推してます。そのおかげで太田道灌という名前は知っていましたが、どんな人物かまでは詳しくは知らない謎の戦国武将でしたので、以前に調べてみたりもしました。
その時のnoteはこちらです↓↓。

 伊勢原市には太田道灌の墓所である首塚、胴塚があり、おそらくこの地に関わるような生活をしていたのだろうと推測されるような史跡も発見されています。今回はそのような場所を巡ってみました。 

 これらの史跡は大山街道沿いにあります。江戸時代に庶民の間で流行した大山詣り。大山詣りは日本遺産にも「江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで大山詣り~」として登録されました。じつはこの大山街道にも興味をもちまして、少しずつ時間を見つけて歩いたりしています。大山道の道標や街道の面影が今でものこる大山街道歩き。五街道とはまた少し違った面白さがありますよ(五街道歩きをしたことは無いですが)。

伊勢原市下糟屋を歩く

どこですか?

と、たずねられそうな(笑)

 伊勢原市下糟屋は、伊勢原駅から北東に20分ほど歩いたあたりの地域です。この地域は、東京の赤坂から続く青山道大山街道と、戸塚からの柏尾道大山街道、平塚からは中原豊田道も通りといった複数の街道が集まる場所であり、当時はとても賑わいのある宿場町だったそうです。

複数の大山街道が合流する糟屋宿のメイン通り。黒板塀の立派な家屋が当時の面影を残しています。
何気ない普通の道ですが、ゆっくり歩いてみるとこの道が大山街道であることがわかります。

 東海道や甲州街道といったいわゆる五街道は整備されて広く認識されていますが、大山街道はもともとは街と街をつないで生活道路として利用されていた道です。大山詣りの流行に伴い利用者も増え大山街道と呼ばれて賑わいました。江戸時代には関東のあちこちから大山への巡礼道が発達し、最盛期には30通りほどもあったそうです。ですので、このあたりの今でも残る”ちょっと味のある道”が、実は調べてみると大山街道だったということもよくあります。

 この日は新宿さんぽで案内してくれた友人さんにご一緒していただき、門沢橋駅から柏尾道大山街道を歩いて下糟屋までたどり着きました。道中にもたくさんの見どころがありとても楽しい街道歩きでした。そちらは機会があればまたどこかでnoteしましょう。

下糟屋のメインストリートは県道22号線の旧道です。この道沿いには大きな農家や寺社がならび、ゆっくり歩いてみると当時の面影を感じることができました。

普済寺の不動明王像。

 大山街道を歩く楽しみを一つご紹介。大山寺は関東の三大不動として有名です。ですので、大山道の道標には不動明王が載せられている立派なものが多く見られます。このような道標をたどりながら歩くと、まるで宝探しをしているような気持ちになります。こちらは下糟屋にある普済寺にある石造物です。雨風により破損はしていますが、数百年この道を通る旅人を見守ってきたのだと思います。都内では、三軒茶屋に大山街道道標がいまでも残っています。

 大山街道の話が長くなってしまいましたが、そろそろ太田道灌公霊地へむかいましょう。


大慈寺と首塚へ

 下糟屋の南側には渋田川が流れています。その川をわたる橋の名は道灌橋でした。

渋田川にかかる道灌橋

 おそらく大学生のころに何度もわたったことのある橋ですが、道灌橋という名前までは気がつきませんでした。この橋のそばに太田道灌公菩提寺の大慈寺があり、渋田川沿いには太田道灌公霊地があります。

まずは大慈寺へ。

太田道灌公菩提寺である大慈寺

 太田道灌公菩提寺である大慈寺です。とても静かなお寺です。
この寺は、鎌倉にあったものをこの地に移したという説があります。太田道灌の供養のために移設したとか。

大慈寺にある掲示板。太田道灌に関する記載が多数ある。

 太田道灌公菩提寺とのことだけありまして、数々の太田道灌と関わりのある文化財があるようです。残念ながら実物を見ることはできませんが、こちらの掲示板に丁寧に記載されていました。特に伊勢原市の指定文化財にも指定されている太田道灌画像(掛け軸のような縦長の絵)は一度見てみたいものです。

太田道灌画像は、大慈寺の寺宝として伝わるもので、江戸時代に道灌の子孫である太田摂津守資順(おおたせっつのかみすけのぶ)(1762~1808)が、絹地に鮮やかな彩色で武者姿を描いています。また、画中に老中太田備中守資愛(おおたびっちゅうのかみすけよし)の筆で、道灌の歌集「慕京集」(ぼけいしゅう)に載せられている歌が添えられています。現在は、一般公開していません。
「あずさ弓 おもひなりしも にくみしも たえて我のみ 月を見るかな」

いせはら文化財サイトより

大慈寺へお参りしたあとは、渋田川沿いを歩いて首塚へ向かいます。

渋田川沿いにある太田道灌公霊地。

 渋田川の南側の沿道を歩くと程なくして太田道灌公霊地はありました。
桜の木が並んでいましたので、桜が咲くころは、ここはきれいな散歩道でしょう。

首塚。江戸時代に記された新編相模国風土記稿によると、五輪塔が三基建てられていたそうです。
首塚。この後ろに3つ並んだ石造物が当時から残る五輪塔ということでしょうか。

 ここに太田道灌の首塚がありました。もうすこし立派なものを想像していましたが、本当に静かなお墓です。新宿区にある紅皿の墓も、あまり人目に触れない静かなところにあったなと思い出しました。
 いせはら文化財のサイトによりますと、江戸時代に記された新編相模風土記稿の墓の周囲は水田で三基の五輪塔があり、中央の塔が道灌の墓とされています。かたわらには榎の大木がありました。五輪塔は洞昌院の宝篋印塔と同様に、太田道灌のころのものと考えられています。洞昌院も伊勢原市にあり、太田道灌の墓所は胴塚と呼ばれています。こちらも訪ねてみたいと思います。

おわりに

 久しぶりの道草投稿になりました。太田道灌のnoteをしてから、いつかは訪れようと思っていた首塚を訪ねることができました。改めて太田道灌という人物を知ってから訪れることができて良かったです。このあたりは東海大学病院のすぐ近くですので地理にも明るいのですが、後ほど訪れる胴塚のあたりは今まで歩いたことのない場所です。どのような石碑に出会えるのだろうかと、とても楽しみになりました。その2では、ここに太田道灌が謀殺された上杉館があったのでは?と噂される丸山城址公園を歩きます。


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