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続・太田道灌という武将を知る その2

気が付くと5月も終わろうとしています。この伊勢原での道草はゴールデンウィークなので、早くしないと鮮度が、というより記憶が薄れてしまいそうな方が心配です。がんばりましょう。

柏尾通り大山道を歩き、伊勢原市下糟屋にある太田道灌菩提寺である大慈寺・首塚を訪れました。太田道灌公もこのとても静かな環境でゆっくりと眠っていることでしょう。
このような史跡が残されており、太田道灌がこの地に滞在していたことは確かだと思います。このすぐ近くには丸山城址公園があります。最近の発掘調査では、この丸山城址公園には、かつて上杉館があったのではないかと推測されているようです。

前回の「続・太田道灌という武将を知る その1」はこちら↓です。

さてさて、いきなりこれを読んでもちんぷんかんぷんな方も多いでしょうから、少しおさらいしてみましょう。という私も、つい最近まで太田道灌がどのような武将だったのか全然知りませんでした。

太田道灌は室町時代後期に活躍した武将です。当時の関東地方は、享徳の乱がおこり、西に関東管領上杉氏と東に鎌倉公方足利氏が対立し、戦国時代へ突入していく時代でした。太田道灌は関東管領であった扇谷上杉氏に仕えていました。この時に太田道灌が築城したのが江戸城です。その後も各地で戦禍をあげていきます。その活躍がやがて妬ましく思われ、主君である扇谷上杉定正は太田道灌を上杉館へ招き、そこで謀殺されてしまうのでした。

その時のnote「太田道灌という武将を知る」はこちら↓です。

では、丸山城址公園へ向かいましょう。


高部屋神社と丸山城址公園

県道22号線の旧道沿いのにある高部屋神社へ訪れます。
奥に見える建物は東海大学医学部付属病院です。

下糟屋のメインストリート、旧県道22号線
高部屋神社です。大住大明神、糟谷八幡宮と呼ばれていた時代もあったそうです。

この神社は平安時代の「延喜式神明帳」という書物に大住群の惣社として記載されているほどの歴史がある神社です。創建年代は不明ですが、紀元前660年との説もあるそうです。すごい古社ですね。この地には鎌倉時代に糟谷有季の館があったといわれ、室町時代には上杉定正が寄進した大般若経の経典の伝来があります。

境内を見回してみると、大山街道の道標がありました。これは他の場所から道路整備工事の際に移設されたものだそうです。左側のひと際きれいな道標は、その工事の際に田んぼに埋まっていたものが掘り起こされたものだとか。地中にあったため、風雨による被害を免れることができた、おそらく作成当時のままの姿なのではないでしょうか。慶応元年(1865年)と記されています。約160年のタイムスリップですね。大山街道を歩き、たくさんの石造物に出会いました。多くの物は江戸時代に建てられたもので文字が読みにくくなっているものも多かったのですが、これほどはっきりと確認できるのは貴重かもしれません。あまりの美しさにに感激してしまいました。

高部屋神社内に移設された大山道道標。左側の庚申塔を兼ねた道標は田んぼから発掘されたもので、風雨による損傷が極めて少なくとてもきれいな形で残っています。

高部屋神社の拝殿には、浦島太郎の物語と思われる彫り物が見られます。下段に亀を介抱するようなしぐさの浦島太郎。上段には竜宮城と乙姫様が見えます。伊勢原市には海はありません。しかし、縄文時代はこのあたりまで海だったと考えられています。その後、海岸線は南下するいわゆる縄文海進を経て今のような相模湾になっているとのこと。浦島太郎はその頃からの言い伝えなのでしょうか。非常に興味が沸きました。

高部屋神社拝殿の彫り物
下段には浦島太郎、上段には乙姫と竜宮城が。

さて、この立派な神社の裏手にまわります。すると、国道246号線を渡る橋が架けられています。高部屋神社と丸山城址公園を割くように国道246号線が通っているわけですが、ここにこのような橋をわざわざ架けるということは、もしかしたらここには昔から行き来する道があり、地域や住民の要望だったのかもと考えてしまいますね。江戸時代に編纂された新編相模国風土記稿によりますと、「西北の方にて、八幡境内(高部屋神社のこと)より社領の地に係り」とあるようで、深い意味まではわかりませんが、つながりがありそうに感じます。

高部屋神社の裏手から丸山城址公園につながる道。

では、この橋を渡ります。


丸山城址公園を歩く。

橋を渡ると、とても広く開放的な広場があります。
丸山城址公園は、家族で体を動かしたりのんびり過ごしたりするのにちょうど良い公園ですね。広場の写真を撮り忘れてまして、伝わりにくいのが残念です。

橋を渡ると広々とした広場がありました。写真ではわかりにくくてスイマセン。

一番高いところに多目的広場があり、その周囲を取り囲むように段があります。ここはおそらく堀と土塁があったようです。下の段にも何か所か広場があり、こちらには遊具なども設置されています。そして、ここには発掘された丸山城址公園の遺構の解説がありました。

丸山城址の遺構が丁寧に解説されています。
下段から見える大山と第二東名。自然と構造物の調和のとれた構図です。
北側の入口。ここは発掘調査で虎口の跡が残っていたそうです。その地形を利用し、階段が設置されています。
横矢掛りの解説。丸山城址公園と東海大学病院のある丘は城の防御に大きな役割があったようです。

丸山城址公園を歩くと、いくつもの解説版が設置されていますので、それを観ながら当時の様子を思い浮かべるのも楽しいでしょう。すべてを紹介するとかなり長くなってしまいますので、このあたりにとどめさせていただき。

実際に発掘された当時の生活様式を知る遺物としては、青磁、かわらけ、陶器、瓦などで、大きく二つの時代に分けられるようです。一つは鎌倉時代から室町時代前半にかけて、糟谷有季がこの地を収めていた時代と考えられます。もう一つは室町時代後半から戦国時代にかけて。太田道灌が活躍し、道灌の主君である上杉定正に関連する城(館)の可能性が考えられています。


下糟屋の昔を思い浮かべる

丸山城址公園をあるいてみて、この地がかつては高部屋神社、丸山城址公園、東海大学病院のあたりを中心とした中世の城だったことがわかりました。さらに周辺の発掘調査によると、ここまで歩いてきた下糟屋全体が城郭だった可能性があるようです。下に丸山城址公園に掲示されていた地図を載せます。ちょっと小さくて見えにくいですが、高部屋神社、丸山城址公園を中心に、西には東海大学病院のある丘、東は普済寺あたりまでが城だったようです。下糟屋村の中央の道は大山街道で、別名矢倉沢往還とも呼ばれ、東海道の裏街道でした。南に渋田川があり、その川を渡ると太田道灌公菩提寺の大慈寺があります。
昭和50年ごろの航空写真と見比べると、現在の地形と当時の様子がほぼ変わっていないことが良く感じ取れると思います。右上から左下に通っている道が国道246号線であり、丸山城址公園と高部屋神社の間を走っています。左側にある大きな建物は東海大学病院です。私はここで医学を学びました。下糟屋は南側に渋田川が流れる丘であることがよくわかります。この丘の上に城と村があり、その周辺には水田が広がっていました。この景色はいまでも見ることができます。いいですね、この街並みはこれからも大切にされてほしいです。

丸山城址とその周辺の地形図。中央に高部屋神社、丸山城址公園があります。
国土地理院航空写真(昭和50年頃)水田に囲まれた下糟屋の丘がよくわかります。

次回は太田道灌胴塚を目指し、大山街道歩きの様子をnoteします。

下糟屋を歩き、太田道灌が活躍した室町時代後期から戦国時代のころを思い浮かべてみました。いろいろな資料をつなぎ合わせてみると、なんとなくすごくプロっぽいnoteになってる気がしますが、様々な方々の研究のおかげです。このような積み重ねが日本の長い歴史の礎になっていると思うと、日本ってすごい国だなと誇らしくなりました。言い過ぎですかね(笑)
次回は太田道灌胴塚へ向け、大山街道を歩きます。いつものようなユルいnoteになると思いますので、お気軽にご覧いただけますと幸いです。


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