君の名は・天気の子を踏まえた「すずめの戸締り」感想
◆はじめに
既に見た人向け感想
すずめの戸締りの配慮無し完全にネタバレの感想。
君の名はと天気の子のネタバレもするので見てない人は注意して下さい。
君の名:隕石災害・過去と未来の人間の入れ替わりにより交差する時間軸
天気の子:水害・災害と人柱
すずめの戸締り:震災・交差する時間軸・災害と人柱(≒要石)・過去≒記憶への手向け
上記の印象を持ったので、すずめの戸締りは前作2作の要素を含んで「過去≒記憶への手向け」が追加された集大成なのかと感じた。
前二作は子供である主人公たちの「災害への奮闘」に対して、大人が一般常識の視点で邪魔をする存在になる(超常的な現象の視点共有は子供たちの中でのみ終始しており、その視点では自分らの保護者とは和解もできない)という流れだったが今回のすずめの戸締りはその辺の和解もフォローされていてよかった。(これは今回はダイジンという目に見える超常現象があったお陰ともいえる)
大人の視点では子供たちだけで訳の分からない無茶をして説明もしてくれないというのは恐ろしいことで、それに対しての保護者と子供の問答と和解があったのはとても良かった。
この三作は主人公たちの力で災害を回避するストーリー構成だが、
天気の子だけは人柱として死ぬことを選ばず災害を受け入れて生きることを選択する話になっている。
私は保護者の目線で見てしまうので天気の子は特に子供たちの無茶さが見てて辛く、子供だけで生活する描写も「お話の嘘」がうまくつけていないと感じるために余り好きでは無いのだが、知識も無い子供が成り行きで人柱になる必要は無いし回避されるべきだと感じるので、あのオチ自体は良いと思う。
◆天気の子を踏まえてダイジンの話をする。
すずめの戸締りでの人柱的な存在は要石=神であるダイジン・サダイジンでは無いかと感じた。
サダイジンは既に人間的な感情は持っていないようにも見えるのだが、ダイジンは「すずめ好き」「お前は邪魔」と言う通り人間の幼児のような感情を持っている。
ダイジンは最初にすずめが声をかけた「うちの子になる?」の言葉から始まり、最後は「すずめのうちの子になれなかった」と告げて要石に戻るのだが、「結局誰かが要石として人柱にならなければならない」「すずめとすずめの愛する草太のために元の人柱に戻ることを選んだ」という展開は救いが無いと言えば無い。
だが誰かの犠牲が必要で土地が静まっているのならば誰かがそれをやらないといけない訳で、最終的にはダイジンは「自分の役目」を悟り今までとは異なり「納得して」要石に戻ったのだと思いたい。
私は人の行動が救われているか否かは本人が納得しているかしていないかにかかっていると思っていて、本人が納得しているのなら外野がどう言おうと関係ないと思う。
ここからは特に私の妄想なのだが、椅子化した草太にダイジンが「要石の力を移した」と言う通り、人間にも要石ができるわけで、ダイジンは今は神とは言われているが大昔には人柱とされた人間だったのかもしれないと感じた。草太の爺さんが「これから草太は長い年月をかけて要石となっていく」と説明していた通り、ダイジンはまだ人の心を残した状態の要石であり、大きさ的にもサダイジンより要石になった年代が若そう。
◆今回好きだったところ
1)時間の無い常世の世界で過去に傷付いた自分を抱きしめ慰めたのは死者である母では無く現在の自分だった
常世は死者の世界で時間がないとも作中に言われてるんだけども、死者の世界って割には死者は全然出て来ない。(記憶としての街は出てきたけど)
これは常世ってのは「現世ではない」ことを死者の世界ってわかりやすくするために言ってるだけで、重要なのは「時間が存在しない」ことであると感じた。
すずめが過去の傷付いた自分に会い自分で自分を癒す話は、劇中でそれが行われる背景は「時間が存在しない常世」ではありつつも、リアル世界でも「人間の心の中」には「過去の傷付いた自分」は常に現在にも内包されている「時間が存在しない」状態なのではと感じた。
君の名は、は過去と現在の人間の入れ替わりという形での時間の交差によって災害を回避する完全にSFなんだけども、すずめのこの常世の時間軸の視点は現実の世界でも存在する「人間の心の中」の話でもあって、SFの視点ではないのかもとも思った。
本来は「時間の無い常世=あの世」と作中でも言ってるんだから、死者である母と会って死者の母に励まされて云々…とかの展開でもおかしくないんだが、そこをあえて死者は徹底的に出さずに「現在の自分が過去の自分を癒す」としているところがSFファンタジーの世界なのに地に足がついてて凄く良いと思う。
死者は生きている人間には意志を持って干渉ができないから死者であって、死者に慰められる的な展開は個人的には最近あまり好きじゃない。思い出に慰められることはあってもそれは死者そのものではなく記憶に慰められているわけなので、過去の自分を慰めるのは死者ではなく今の自分であるべきと思うため。もっと言えば他者でも無かったのが良かった。草太がすずめを癒すみたいなのも、私が見たいものとは違うんだよな~と思っているので。
この世界観だからこそすずめの「私だってもっと生きたい」草太の「死が常に隣にあると分かっています。それでも私たちは願ってしまう。いま一年、いま一日、いまもう一時だけでも、私たちは永らえたい」だと思うので、死者が生者に干渉できる同じ存在であっては説得力が無くなってしまうんですよね。
2)過去の記憶への鎮魂
最終着点はすずめの実家という震災で被災した街なわけだけども、そこへ行くまでの扉を閉める舞台は廃墟。
扉を閉めるためにはその場所に残る過去の記憶を思い出すことも必要で、その行為自体は場を鎮める鎮魂なんだと思う。
芹澤の車が中古のスポーツカーだったり服がレトロだったり流す曲が懐メロなのも「過去」の象徴がちりばめられてるのかなと。
一番大きな象徴は震災だけども、すべての過去の記憶に対しての要石・手向け的な存在をこの映画自体が担ってるのかなと思った。
岩戸鈴芽の名前は監督曰くアメノウズメかららしいんだけども、アメノウズメは岩戸を開ける女神なので扉を開けちゃった女の子の名前として面白い。でも扉から出てくるのは太陽神アマテラスオオミカミではなくてミミズ(地震を起こす災厄)だから私の中ではパンドラをイメージしてしまう。
パンドラは災厄の最後に希望が残っている。
そういえば最後の常世に行くシーンで扉が閉まった後に同じ場所に月が描かれてて、月から常世に行くってのも神話の目線で面白いなって思った。
日本神話の月の神はツクヨミ(月読)、月・黄泉≒常世なのか。(でもそこまでは考えてないかも)
宗像草太の名前は宗像大社の三女神からだと思う。
三作とも神道の視点入れてるけどSFで日本の災害を描くには外せないのかな。
迷信に「雨の日は大きな地震が起きない」というのがあるのだけど(科学的根拠は一切無く、否定されています)ミミズが消えた後に雨が降るのはこの迷信を踏まえてるのかも。
天気の子はスポンサーの商標が目立ち過ぎて画面的にくどいと感じたけど今回はそのへん画面の調和が前作より良かったと思う。
商標って目立つためにデザインされてるから画面にそのままで取り入れてしまうと目立ち過ぎて「ストーリーに集中できない」って感じだったんで。
個人的には三作で一番好きだと感じたし、集大成だと思った。
とても良かったです。
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