14年間エヴァンゲリオン新劇場版を見るのを我慢していたが完結したのでやっと解禁した人間の新劇場版感想
旧劇場版のトラウマゆえに
私は10代の半ばに「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」を劇場で見た。見た後に物凄く死にたくなった。何でなけなしの小遣いを払って行った映画で鬱にならないといかんのだ。この時のことがトラウマになってしまい、エヴァの映像を見直すことはやめてしまった(とは言え、嫌いになったわけではない)
当時私は地方在住のためテレビ版の視聴が遅れ、全話見れたのはアニメ雑誌のネタバレを見た後だったので最終回のダメージが無かった。無かった分、楽観や油断があったのだろう。旧劇はネタバレ無しで見てしまったために心構えができておらず直撃を受けてしまった。
そんな訳で「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」が2007年に公開されても、もう直撃を受けてたまるものか完結するまで見ないからなとネタバレも最低限は避けつつ我慢していた(最低限なのでQ後の雰囲気は知っていた)でもまさかQから完結まで9年かかるとは想像がつかなかった。だって旧劇場版が97年公開で序が07年という、リメイクまでが10年スパンなのに。
序の公開から14年。序からシンエヴァの公開までは、偶然にもQのシンジ君と同じ年数が経過していた。私は14年待たされてしまったのである。自分が勝手に我慢しただけだが。
21年3月8日から「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」が公開され、これは見ても大丈夫だなとネットの雰囲気から判断した。シンエヴァ公開に合わせてアマゾンプライムビデオで序~Qがプライム見放題対象になっていたので、テレワークなのを良いことに仕事そっちのけでマラソン視聴をした。Qを見終わって、その足で一番近い映画館に向かった。
エヴァンゲリオンのテーマは旧作から変わっていない
シンエヴァの感想だが、結論から書いてしまうと映画を見終わったときに「生きよう」と思えたので、私は肯定派だ。でもこれは、旧劇を見て「死にたい」と強烈に落ち込んだときの欲目が入ってしまっている自覚も強くある。
見終わって一番最初に感じたのは、演出の違いはあれども作品を構成するエッセンスは旧劇と変わっていないのだなという事だった。「交差する現実と虚構」「自己と他者」というテーマは変わらないからこそ、前回とは違うアプローチはどうしたら良いのかということでも庵野監督は長年悩んでいたのかもしれない。
「交差する虚構と現実」もだが、「自己と他者」というテーマは製作者の精神状態が色濃く反映される。結果、旧劇は自己と他者の拒絶を描き、新劇は共存を描くことになったのだと私は解釈し、「おめでとう、ありがとう、さようなら」と爽やかな気持ちでシンエヴァの劇場を出たのだった。
だが、よくシンエヴァを「鬱だった人間が理解のある彼ぴっぴと出会ってめでたしめでたし」と揶揄する方を見かけるが、私は「自己と他者」がテーマの1つであるエヴァンゲリオンという作品がそんな単純なものとは到底思えない。だってエヴァンゲリオンですよ?エヴァンゲリオンを信じろ。
健康的なエヴァンゲリオンとしての新劇場版
序〜Qを見て一番感じたことは「エヴァなのにキャラクターたちの精神が比較的健康だな」ということだった。TV〜旧劇は強いトラウマ持ちのキャラばかりで男女の仲もどれも陰鬱に爛れていた。「エヴァンゲリオンとは不健康かつ不健全な作品である」というのが私の中のエヴァに対するイメージの1つだった。それが一掃されているお陰で、旧作と似たような状況が起きても必要以上の暗さが無い。
特に破の料理・食事のシーンが印象的だった。庵野監督が偏食家のせいかこれまでのエヴァの食事描写はインスタントやレトルト、ラーメンのようなものに限定されていた(旧作~序)その食事や料理が、他者との仲を繋ぐ非常に健康的かつ重要なものになっている。この時点でもう旧作とは健康度が段違いに思えた。食はすべての基本で、生きることの肯定だからだ。シンエヴァの第三村の土臭い牧歌的シーンでも思ったが、同じ人間が同じテーマで作っても精神が健康なときと不健康なときはここまで違うんだなと感慨深かった。
他者と会話ができない旧劇とできる新劇
旧劇はどこまで行ってもマトモに会話ができる他者が居ない世界というのが個人的にはなかなかに地獄に感じられたのだが、シンエヴァのシンジはそれは見事に他者との会話に成功している。
何がそんなにも違うのかと考えると、人物の描写に性欲を使用するか否かではないかと感じた。旧作のキャラたちはそれぞれのフラストレーションやトラウマを性欲という欲求に変換し消化、あるいは誤魔化そうとする傾向があるが、基本的に性欲は自分本位なものなので到底他者との対話の糸口になどならない。メインキャラの多くにその描写をしてしまうと旧作のように男女ともぐちゃぐちゃになってしまうのだろう。だから新劇でこの視点を極力外したのは正しいと思った。そのかわり「エロくてグロくて不健全でなんかカッコいいエヴァ」は消滅することになったが、それを楽しみたければ旧劇を見ていればいいのだ。
結局、旧劇はどこまでいっても母親と自分(シンジ、あるいは庵野監督本人)しか居ない世界だった。唯一会話ができるのは初号機である母親だけなのだ。それは母親の腹の中から出ておらず、人としてまだ生れ落ちてすらいないのかもしれない。最後に残った他者である惣流も拒絶しようと首を絞めるシンジに、そりゃ惣流は「気持ち悪い」と吐き捨てるよなあ……と。
シンエヴァは過去・現在・未来をすべて肯定する
富野監督の∀ガンダムをご存じだろうか。「すべてのガンダム作品の最後に存在し、過去現在未来すべてのガンダム作品を肯定する」という作品である。(Gレコの出現で最後の作品が変更しそうな話題はややこしいので省略)シンエヴァは庵野監督にとっての∀ガンダムなのかもしれないなと感じた。カヲルの大量の棺に示唆されるように、過去・現在・未来すべての時間軸のエヴァンゲリオンは並行世界として同時にいくつも存在している。シンエヴァはそのすべてのエヴァンゲリオンの世界を「肯定」し、それにお別れを言うという話だ。立つ鳥跡を濁さず。お別れをするなら後始末をつけていかなければならない。
ユイは過去そのもの、ゲンドウは過去に固執し一歩も進めなくなってしまった人間
そもそもトウジとヒカリは結婚し子供が居て、アスカはケンスケと何かいい感じで、加持とミサトに子供が居るような「未来」の示唆がある(そう、『あの』エヴァの世界に『未来』の示唆がある!)シンエヴァ世界なのだ。対して、ゲンドウは死者を想い、過去に固執する人間として描かれている。旧劇と違い、初号機と同化もせず一切喋らないシンエヴァのユイは、過去そのものの象徴なのかもしれない。私はシンエヴァをゲンドウのための映画とも思っているのだが、ゲンドウは旧作エヴァという過去の作品に捕らわれた私たちであり庵野監督であり、ユイは旧作エヴァそのものである。ゲンドウはユイのことを復活させたいだけでなく、できないのならば「きちんと見送ってやりたい」=「きちんとお別れを言いたい」のだ。だからこんなに長年、あんなに傷付けられたエヴァンゲリオンに付き合ってるんだろう?少なくとも私はそうだ。
シンエヴァは、そんな過去に捕らわれたゲンドウをただ否定して暴力で倒すのではなく、彼も、私たちも救うシナリオだった。あまり褒められない過去も手放したくない過去も自分であることは紛れもない事実であり、否定しても固執しても先へ進めない。受け入れて、見送ることが未来へ進める鍵なのだろう。(トウジもそんなようなこと言ってたし)
電車での対話シーンで過去(旧作エヴァ)に捕らわれたゲンドウ(私たち・監督)を救うのは息子であるシンジである。結局、覚醒後のシンジとは何だろうか。私は現在の庵野監督、または未来の私たち自身ではないかと考える。
シンジとゲンドウの関係をエディプスコンプレックス的なものに当てはめるのは旧劇にはあれど新劇には無いと私は思っている。あるならばシンジには旧劇のようにもう少し性欲の描写があっていい。当然、親との確執というテーマ自体は破を見てもあるのだが(ミサトにもそれがあるし)シンエヴァは自分の親と会話をしましょうね~だけの単純で陳腐な表現はしていないと私は思っている。
他者の複合体としての真希波・マリ・イラストリアス
マリというキャラクターは「エヴァらしくない」と破の時から感じていた。新劇を見る前は新ヒロインなんて蛇足に過ぎないとまで思っていた。
マリの「らしく無さ」……裏表のないポジティブ・過剰だが全方位に向けているため必要以上の性的なものは感じないスキンシップ・そして、引き際の良さ。
極限状態だからとか状況がそうだからとか最もな理由はあるが、エヴァの世界のキャラクターは、お前ら武士(もののふ)かという勢いで後の者に託し特攻する。皆それが自分の使命なのだと命の限り最後まで戦おうとする。私はそのキャラの姿勢に全力で作品を作ったあげくに壊れがちな庵野監督の影を見てしまうのだが、マリは違う。危なくなれば限界で動けなくなる前に前線から離脱する判断ができる人間なのである。これはエヴァ世界では稀有だと思う。
マリはエヴァに乗ることを心から楽しんでいるキャラクターだ。何故エヴァに乗るのかを悩むシンジ、命令だから乗るレイ、使命だから乗るアスカ、シンジを救いたいから乗るカヲル。どのキャラクターとも違う。マリはシンジに言う。「エヴァに乗るかどうかなんて、そんなことで悩む奴もいるんだ。なら早く逃げちゃえばいいのに」
エヴァに乗ること=エヴァを作ること。それを苦しむシンジは庵野監督だろう。では屈託なく楽しむのは誰か。
前に、「庵野さんと僕らの向こう見ずな挑戦~日本アニメ(ーター)見本市」というドキュメンタリー番組があった。エヴァの制作会社であるカラーの若いアニメーターたちは笑いながら「やっぱりエヴァを作りたいですエヴァ」とカメラに向かって言う。その番組内で出てくる鶴巻氏の独特で明るい喋り方は、なんとなくマリの喋り方を髣髴とさせた。
ラストのおかげか、マリはリアル世界の誰がモデルなのかという話が出がちである。私は、マリは特定の誰か一人ではなく、自分(庵野監督)ではない様々な人物の要素を混ぜた「他者」の象徴だと感じた。「たくさんの他者と対話をしたい」というシンジの希望からのマリエンドなのだから、それは特定の一人であるならば結局は二人きりという狭い閉じた世界に落ち着いてしまうわけで、旧劇のアスカ首絞めエンドとあまり変わらないのである。だからこそシンエヴァのラスト、シンジ(現在の庵野監督であり未来の我々でもある)は「自分以外の複数の他者を内包している」マリと共に実写世界の駅の外に走ってゆくのだ。
もう一回書くが、ラストのシンジは未来の我々でもある。我々の未来もあらゆる可能性が無限に存在し、今現在の自分にはマリが居なくても必要以上に嘆く必要は無い。私はそういう話と受け取った。
相田ケンスケの話をしよう
ここで、相田ケンスケの話をしよう。
トウジとヒカリは旧作からだったしわかるけどケンスケお前~お前は「こっち側」の人間じゃなかったんか、サバゲー知識で無双して(何その社会から浮いてる根暗オタクの夢みたいな設定?!)式波とくっついて、ケンスケ=お前らオタク良かったネ!なのか?畜生って気持ちが一瞬でも湧かなかったかと言えば、嘘になるのだ。
でもふと冷静になって思えば、ケンスケは元々ややマリ(他者)側の人間だったのではあるまいかと思い直した。トウジが妹の怪我の件で転校生のシンジを殴れば、友の仕打ちを謝りながらも説明のフォローに入るような男だったじゃないか、旧作から。まあ、エヴァを肉眼で見たい撮影したいという自分の身勝手な欲望にその友を巻き込んで、危険な目にあわせたりもするのも奴なのだが。
そもそもケンスケもマリと同じ、「ただ好きだという理由で」エヴァに乗りたい側の人間だった。(旧作ではミサトに頼み込みに行くレベルで)揺るぎない「好き」を持っている人間はポジティブで強い。つまりケンスケはただのオタクでは無い。「他者との対話ができ、メンタルが健全なオタク」なのだ。シンジがマリエンドだったようにアスカがケンスケエンドでも、シンエヴァは一切の矛盾は無かったのだ。と言うか、旧劇でも否定されていたのはオタクという属性そのものではなく「他者との対話ができない者(病んだ庵野監督であり我々でもある)」だったのだなあ、などとしみじみしてしまった。
私は特に贔屓のカップリングが無い人間だ。それでもケンスケ貴様~に一瞬なってしまったのは、誰かアスカを救ってくれという気持ちと、オタクであるケンスケへの「お前(自分)にアスカは任せられん」という歪な同族嫌悪だ。だけど大丈夫、ケンスケはオタクだが旧作からちゃんと「他者と対話ができる少年」だったのだから。
ラストのシーンのアスカの側にケンスケが居なかったのは「あの駅の世界」でのアスカはケンスケとくっつかなかったのだろうなと解釈した。アスカが彼をケンケンと呼ぶ第三村の世界も、数ある並行世界の一つでしか無いのだろう。
(蛇足)正直な話
以上までが真面目な新劇の感想である。ここからはどうでもいい蛇足を書く。
シンエヴァの上映時間の長さは、なかなかに辛かった。第三村のシーンの必要性は十分にわかるが、画面の単調さに中だるみを感じた。量産機いっぱいぶっ刺してドーン!とか色んな場所でエヴァファイト、レディー・ゴー!とか、もうGガンダムやスーパーロボットになってるしその時点でかなりの時間を経過しているのでこっちは尿意との戦いになってくるから早く次のシーン行って話を進めてくれと脂汗をかいてしまった。おかげで安易にまた見に行こうという気にならず、劇場での再視聴にはちょっとした「覚悟」が必要なのだ。上映前にトイレに行けばいい?当然行っている、それでも1時間半もすれば尿意をもよおすのが中年だから仕方がない。
それでもやっぱりシンエヴァは面白かったし救われたと私は思ったのだが、テレビ~旧劇をあの当時に見て「エヴァの呪縛」に捕らわれた人間が見たから面白かったのであって、今からエヴァを見る方々が楽しめるかと聞かれると少し悩んでしまう。私の解釈は先にも書いた通り、シンエヴァは「過去に捕らわれた者」の救済がメインの話だと思っているので、捕らわれてない人から見たらどう解釈されるのかがまったく想像がつかないのだ。
まあ、私のその解釈も新劇を構成する1つのレイヤーに過ぎず、エヴァという作品は見た人の数だけ形を変え、見た人の数だけ解釈があると思う。「あれは救済などではなく再度地獄へ叩き込む作品」だと見える人が居れば、そういう並行世界が発生するのだろう。それすらも良しと肯定するのがシンエヴァの「交差する現実と虚構」ではあるまいか。
(蛇足)渚カヲルについて長年誤解していたかもしれない
渚カヲルというキャラクターはシンジの正しい理解者という勘違いを長年していたのだが、Q~シンエヴァを見た印象は「コイツも人の話を聞かねえし自己完結型だな」だった。相手の意見を聞かずに思い込みで突っ走るという、エヴァのいつものキャラのタイプ。シンエヴァの電車のシーンでシンジに「カヲルくんも父さんと同じ」ってそりゃ言われるよなと思った。何が言いたいかというと私にとってカヲルは「シンジにとって理想の都合の良い他者」のイメージだったのだが、Q~シンを見てこのキャラクターも他の旧キャラたちと同じ、庵野監督しか居ない世界のキャラクターなのだなという印象になった。
「償えない罪は無い」ってカヲルくん他人事みたいに言ってるけどキミがぶつぶつ一人の世界入りすぎてきちんと止めなかった責任が8割くらいあると思うし毎回詰めが甘くてシンジにトラウマ植え付けてくスタイルでもこれって僕の愛なの?(by.ドクロちゃん)
身も蓋もないことを言うのだがエヴァが人類に取って代わる種族という設定自体がデビルマンっぽいしカヲルのシンジに対するある意味身勝手さは不動明に対する飛鳥了っぽさがある。オマージュなんだろうか。飛鳥了なら並行世界のすべての不動明に関わろうとするのも納得しか無い。(飛鳥了だとしたら、どっかの世界では女体化してシンジを産むまでやってのけてたりして)
(蛇足)他雑記
ミサトさんの特攻は母親ムーブってより武士に見えて母性より父性を感じてしまう。負の遺産残して討ち死にした先代(葛城教授)の尻拭いも兼ねてカチコミする現当主みたい。
ミサトとリツコやシンジ・トウジ・ケンスケやレイ・アスカやマリ・アスカとか、同性の結びつきの描写が多いのなんか良かった(語彙ゼロ)特にリツコに後を託すミサトは胸熱過ぎた。
途中までシンジはサクラルートかと思ってた。
冬月先生は一体何なんだ、シンエヴァの無双シーンのせいで一番好きなキャラクターは冬月ですと公言することになったのだが、生身であそこまで無双するのは彼は東方不敗か何かなのだろうか。てっきりゲンドウのように人間を辞めたのかと思ったがパシャった(LCL化した)ので逆に人類最強みが増してしまった。存在がチートでズルい。
あとがき
こんな長文を書くのは10年ぶりくらいで勝手が掴めないながらも楽しかった。こういった長文感想を書いてネットの海に放流したいという気持ちになるパワーがシンエヴァにはあった。
本当にありがとう。そしてさようなら、すべてのエヴァンゲリオン。
お疲れ様でした、またどこかで。
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