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夏の往復書簡 2020 : 一之瀬ちひろ ⇆ ひがしちか 7通目

ちかさん、おはよう。

こっちは、全然涼しくならない。川遊びいいなあ。
今週はめずらしく撮影の仕事があって、返信が滞ってしまいました。
さて、今日はちかさんからの質問にこたえなきゃ。文章でうまく説明できる自信は全くないのですが、自分の考えを文章におきかえるエクササイズと思って、書いてみます。

二つ目の質問から最初にこたえます。
写真は、何を写して/映していると思う?何を撮っていると思う?
この問いの一筋縄ではいかないところって、「カメラの前にあるモノを写すに決まっている」という次元の解答がつねにすでにあって、その次元の解答を否定するでもなく自分の解答の自由度を広げていくのはなかなか根気がいる作業だ、というところにある、と思うのだけど、というか、まあだからこそ、そこが写真のおもしろさ、なんだと思う。
写真が何を写すのかということについて、私は多分その時々でかなり違うことを考えているんだと思います。

たとえば昨日の撮影ではいわゆるスタジオ内での物撮りのようなことをやっていて、これは私が個人で行う作品制作とは表面上(テーマ上?)全く関係ないようにみえるけど、行為としてはどちらも同じように写真を撮るので、撮影をしながら巡らせている考えはやっぱり根元でつながっている部分があるように思う。目の前にあるモノを撮るときには、そのモノがもつ印象、モノがある空間の印象、とか、そういう、ことを、日没までにこのような段取りであと数カット撮影する、日が陰ってきたから露光時間をもう少し長く、のような実務的、技術的なことのために手を動かしているその下の方で、考えている。同時に全く別の階層のことを一つの体で考えていると、その全く別の階層のこと(露光時間を測ることとその空間が持つ印象を捉えようとすること)は、やっぱりどこかでつながっている、と体でわかる、というか。
ええと、何が言いたいのか自分でもおぼつかないですが、つまり、多分、言いたいことは、写真についていろいろなことをいろいろな側面から同時に考えていて、でもその考えが体の中で整理整頓されているわけではないので、論理的に考えたらどうしてつながってしまうのかわからないところがつながり合って、説明がつかないながらももどこかで深く納得し、それで写真を撮っている、ような感じです。

私の好きな多木浩二は「まずたしからしさの世界をすてろ」と言いましたが。写真は、確かに目の前にある物理的なモノたち/人たちを撮っているようにみえるのだけど、そうじゃないとは全然言えないのだけど、それ以外のことを、たしからしさの世界の外側にあるものを、本当は撮っているし見ている、のだと、誰もが疑うことなく知っている、と思うのです。

話は変わりますが、「全然思ったように撮れない」という気持ちがあることは、写真にいつまでもおもしろさを感じ続けてしまう理由の一つです。たとえば、早朝にテテ(我が家のジャックラッセルです)の散歩に行く途中、いつも通るなんということもない見慣れた近所の道を通りがかったら、今朝はやけに草花が青々と茂って混沌として力強い雰囲気を醸し出しているように感じたので、写真を撮る、としますよね。どこまで写真に写るのだろう。どこまでが自分の気持ちで、どこまでが物理的な風景が持っている資質なんだろう、ということが、よくわかっていないというか、そんなことは普段いちいち意識しないで、内側と外側にあるものをごっちゃにしたままに過ごしているのだけど、写真を撮ってみると「あれ?」とかすかに必ず引っかかるし(フィルムの場合、仕上がりを見るまでに大抵数日はかかるので、撮ったときの感覚と仕上がった写真の対応関係を照合しようにも限界があって、それがまた写真のおもしろさを広げてると思うのだけど、その話はまた今度)、もっと強く「全然思ったように撮れない」と思ったりもする。それで、そうか、このマージナルなところを写真は行ったり来たりしているのではないかな、と思ったり、するのです。
技術の鍛錬で「思った通りに撮れる!」を達成することはある程度までできると思うのだけど、それにしても「思ったように」とか「思った通り」とかいうときに、私はそもそも自分の撮る写真を何に寄せていこうとしていたのか、という疑問は曖昧なまま残る。それで「何を撮りたかったんだっけ?」となる。だから技術の鍛錬も有効だけど、それだけではない。ある出来事や風景とそれを写した写真の間にあるイコールでは結べない独特の関係の中に、写真を撮る自分の身体をどうやって関係づけるかを考えること、が写真を駆動させ続けるのじゃないかと思う。
ということを、まとまりもなく、今朝は、思っています。

娘たちに朝食を用意する時間になってしまった。ひとつ目の質問に短めにこたえます。

今回まとめた写真集は、ちゃんと数えていないけど撮影自体は結構長い年月の中で行ったものから数年後にそれを編集しつつ新たに要素を加えるという作り方をしていて、だからここに最初から「写真は〇〇を写す」という一貫した考えに裏付けられた撮る行為があったわけではなく、その時々で考えていたり考えていなかったりしたことを束ねた、本です。グラデーションがあるな、と思う。写真の好きなところの一つは、「とりあえず撮る」という行為が肯定されているところかもしれない。意味とか根拠とかわからないながらも、言葉にならないながらも、言葉になる前の何かがあったので撮っておく、という初動を許してくれるところ。初動を保ったまま膨らませていく、も許してくれるところ。
タイトルを決めたのは本当に制作の最後の方です。それまでは「日常と憲法、第二弾(仮)」という感じで、名前はついていなかったのだけど、「国家」という言葉は最初からずっと考えの中心の方にありました。ちかさんの書いたように、「国家」はあまりに膨大な意味を含有している。いろいろな意味が、自分や、作品を見る人や、作品が置かれた空間のなかでハレーションを起こす、ということを多分、考えたのだと、思います。
写真は対立する、意味のつながらない、二つ以上のことを同時に表現できるから、それによるハレーションが起きることも考えていました。

このつづきは、また、ゆっくり!


2020年8月29日  一之瀬ちひろ

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~展示情報~

Coci la elle exhibition “ひらく”
2020年9月5日(土) – 9月22日(火祝)
コシラエルの展示会を開催します。
一点ものやオリジナルプリントの傘、日傘、ハンカチなどコシラエルのアイテムをずらりと展示販売いたします。
http://onreading.jp/exhibition/hiraku/

一之瀬ちひろ 『きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について』展
2020年9月5日(土) – 9月22日(火祝)
一之瀬ちひろによる私家版写真集『きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について』の刊行を記念して、小展示を開催します。
http://onreading.jp/exhibition/chihiro/

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