見出し画像

しわフワンのいう村澤井の不確定性

随分前にMちゃんから教えてもらった曲を聞き直している。
トイピアノのアンサンブルによる曲だが、とても好きだと思う。トイピアノ同士の音による、音のための独立した会話とそれを軽く捻りつぶすクラスターが小刻みに脳を刺激する。秩序の中に偏在する無秩序、お互いについてまだ何も知らなかったとき、Mちゃんがそれについてサッカーの試合におけるスタジアム を引用してその魅力を伝えてくれたことがあった。それで私は父のみが興味を示していたサッカー観戦に同行したいと思ったのだが、
それはそうと複数台のトイピアノが机にちょこんと置かれている姿はとても可愛らしく、妖怪とかの土着的なそれを思い起こさせる。そういえば、最近私が聞いている曲もテクスチュアが優先された、なんというか、感覚としてかみごたえのありそうな音楽というか、ある中国人作曲家の書いた箏のアンサンブルのための作品も、そんなかんじだったはずである。

最近ずっと第三世界として語られがちな、インドなんかは特にそうだと思うけど、宗教的な背景から、それ以上にその土地に生まれなかった私たちは、その土地で生まれ発展を遂げた音楽とどう向き合うべきなのか、を考え続けている。国民楽派的な文脈から語られるロマン主義はいくらか自分自身に馴染むと思うけど、そうなってくるといわゆるロマン派との向き合い方がわからなくなってきて、それを否定することはなくても、その手法で音楽を作ろうとは思えなくなっているしでも自分の文章はめちゃくちゃロマン主義的だと思うし、それは私がロマンティックに荒れているときにこういう文章を書き殴るからだろうが大抵そういうものに浸れるときは心にあらかた余裕があって、そうでない時は文字を書き起こす気にもならないだろう(何が言いたいんですか…)。しかし、堂々巡りの内容を悶々としながら書いているうちに、その過程で流される音楽に拒絶されているように感じて、音楽を止めると今度は文章を拒絶する気がして、怖いのでそのままでいる、てことありませんか。
そういうときはなるべく情報量の少ない音楽で"耳を塞ぐ"と、私はいくらか楽になるのであなたが音楽に拒絶されていると感じたときはそれをおすすめしたい。例えば超ロマン主義的なポップスとか、消費されるための音楽が私の場合非常に良い。音楽を拒絶しているが故に1番普段聞かない音楽を緩衝材にする。など

ところで、私の文章は難解で複雑な比喩が乱列する文章で、結論に至るまで遠回りなのだとMちゃんに言われた。そうか??と思ったけどMちゃんが言うならそうなのかなーと思った。私は感情が先行して行動しがちなので、寄り添うのは得意なのだが論理的な会話との切り替えがうまくいかないときがあり、大抵そういうときは人並みに蓄積された不満の吐き出しから始まってしまうのだが(全く良くない❗️)、寄り添いすぎるというか、干渉しすぎることで自他共にそういったよくないものを連鎖させたくない。しかしそれについての回答は一向に出ず、結局双方の自制心しかないんかなー、とトボトボ抱えた結論を抱きしめてた。

論理的な文章をちゃんと書けるようになりたい。そろそろ練習をはじめますありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?