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主役に躍り出ることは誰からも禁じられてはいない

サイレンさんがnoteで「主催に魂を売って、プレイヤーとして諦めたわけではないと証明したかった」と書いていた。

僕はそれで言えば、やはり、正直、諦めていたんだと思う。自分は主催の人間なんだと思っていた、いやそれ自体は多分合っている、お題作りや、企画立案、自分は主催としての適正があって、多分それがプレイヤーとしての適正よりも大きい。だから、正直、自分は脇役なんだと思ってた。

脇役だからこそ、前に出た時、横の並びを見る、お題を見る、場の流れを予想する、その上で見えた勝ち筋を拾うことに徹する。自分の大喜利をするのではなく、お題と横並びのプレイヤーを見て場の流れを予測して、その時ウケそうな回答を置きに行く。成功確率は20%も無かったけど、自分の力で勝負するよりよっぽどいいと思ってた。

でも、多分これは違った。真っ向から勝負することに逃げていた。逃げている限り、票は入らない。自分は面白い人間ではなくて、自分の面白さを信じるのはまだ怖いけど、自分の面白さを信じられない人間が同じ土俵に立てるわけがなかった。

僕は面白いと思われたいから大喜利をしてるんじゃなくて、大喜利をすること自体が楽しいから、もしくは、勝負という行為が楽しいから大喜利をしていて、この1年半、多分自分の面白さを信じたことが本当になかった。

冠到杯に向けて、色んな人から「自信を持て」「楽しく大喜利しろ」「折れるな」「メンタルの問題」「面白いから」「逃げるな」「戦え」と言われた。自分では、自分の大喜利に足りていないのは根の面白さであって、メンタルの問題では無いと思っていたから、このアドバイスは意外に感じていた。

でも自分で大会を主催してみて分かった。僕は、確かに、気持ちの部分が足りてなかった。レイピアで、出場者が皆、自分が決勝に出る時のことを想像して決勝用の単語を送っていて、僕は、自分が決勝に進む姿をいつから想像していなかっただろう、と考えた。その時点で確かに、明らかに、気持ちが足りていない。気迫が乗らない。これじゃあ勝ちようがない。

だから冠到杯、本当に勝つ気で挑んだ。今までの大会で1番楽しかった。結果は着いてこなかったけど、結構褒めて貰えた。「楽しそうだった」「イキイキしていた」「のびのびしていた」と言われた。こんなに楽しいのかと思った。大喜利ってまだまだ楽しくなんじゃんね、凄いね。でも本当に勝つ気で挑んだ結果、反動も大きくきて、周りに迷惑をかけてしまったかもしれない。うげさん、その節は本当にありがとう。

「主役に躍り出ることは誰からも禁じられてはいない」かー。そうだったのかも。僕が一人で勝手に自分を脇枠に縛りつけてただけで、本当は、誰からも、禁じられてなかったのかも。気付いてなかった、ありがとう、羊狩りさん。

今度こそ、主役へ、眩しい主役へ。

今日はJ@Qさんがやる千葉喜利の最終回。
『千葉の跡目』頑張ります。

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