道具としての人間

ひとりの人間を「役柄」としてだけ捉える、そういう「将棋の駒」として見るような感じって、「美化」とも構造は似てる感じする どちらも一側面や一部分だけを見てて、そのほかの都合の悪い、見たくないところは蓋をして見ようとしない パート(部分)で見てホール(全体)で見ようとしない感

人間の一部分だけを見ることは、自分の都合よく相手を捉えることでもある この人は「店員」だから「芸能人」だから雑に扱っていい、みたいな どんな人も「ひとりの人間」っていう事実から目を背けることで、「駒」として「便利な道具」として罪悪感を抱くことなく自分は相手を利用できる

逆に自ら進んで「駒」になることとは、相手が遠慮なく自分を利用できるようにする、ということでもある

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