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大概の肩書きに意味なんてない。

先日、旅の記録を少しだけ公開しました。
こんなしがない文章でも読んでくれる方が少しだけいましてね。
「本読むより楽しい」だの「続きが気になる」だの温かい言葉を伝えてくれる方が少人数いる訳です。

「いや、嘘つけ!」と思いながらも
やっぱりこういう言葉が嬉しいものです。

僕がInstagramやTwitterではなくnoteに残す一つの理由として、「興味ない人に見てもらう必要はない」
これがかなり大きい意味を担っている訳です。

僕だってInstagramでたまたま流れてきた文章を時間をかけて読むことなんてありませんし、それならば少しでも興味を持ってくれた方に包み隠さず時間や労力を気にせず全てを伝えてたい。

教室で大きな声で騒ぐよりも横の席に座っている気になる人とずっとヒソヒソ話をしていたいのです。

ひとまず、読んでくれてありがとうございます。



前置きが長くなって申し訳ないです。

これから書く文章は旅の記録というより
旅の途中、立ち寄ったコインランドリーで
洗濯を待っている間、ボーっと考えていたことです。

大概の肩書きに意味なんてない。

学業を終え(私は大学中退)社会に出たら
「肩書き」という言葉を一度は意識したことがあるのではないでしょうか。

・◯◯大学卒や新卒で大企業に就職
・キラキラした職名
・高い地位を表す言葉

まぁ、今や「肩書きコンプレックス」なんて言葉も存在するものですから。肩書きという社会的柵に縛られる経験をした方もきっといると思います。

僕も大学を中退すると言った途端
「高卒なんて社会で通用しない」だの「逃げているだけだの」だの「自分で人生を狂わせてどうする」だの
散々っぱら"まとも風な言葉"を投げられました。

勿論、言いたい事は理解できましたが
僕の決定を必死に止めてくる様は理解に苦しみました。
責任も取ってくれない人間が行う"必死に批判してみるクソムーブ"だけは今になっても理解ができません。

いかんいかん脱線したので話を戻します。スンマセン

肩書きについてですね。

僕が何故、大概の肩書きに意味なんてない。
そう思ったかをお話しせねば。

キッカケは大学1年生の頃とある旅人が集うイベントに行った時です。
角立たせたくないので記名的な表現は避けますが
旅の素晴らしさを広めようとしている団体が行っていたイベントですね

イベント自体は良かったのですが司会の方が言った一言とそれに対する会場の反応がずっと違和感なんです。

司「団体の運営スタッフは半分以上が"世界一周"をしているんです!二週目の人もいます!」

客A「えーすごーい!」
客B「拍手!拍手!」
僕「すごい?のか!おお!そうか!」

~約一年後~

何も決めずに大学を辞めたものだから本当に何をして良いか分からず僕もとりあえず"世界一周"しようとしました。

なんか凄いやつになれんじゃね!的なノリで。

結論から言うと1ヵ国目のフィリピン セブ島 バジャウ族での滞在で世界一周するのは辞めました。

いや、ぶっちゃけちゃうと
「世界一周した奴」なんて金があればできんじゃん。

大衆居酒屋のトイレでよく見るやつ

"世界一周"は素晴らしいが
"世界一周した奴"になろうとしている自分に意味はない。

結局"大卒"に拘る大学生、大人達となんら変わらねえじゃねえか。そう思った訳ですな。

「自分の好きに生きる」選択をした上での
"世界一周"や"大卒" 素晴らしい美しいではないか。

「誰かに選択権を委ねる」選択をした上での
尚且つ「出来るだけ自分を立派な人間に見せたい」
"世界一周"や"大卒" クソ食らえ。

言葉が少々汚くなりましたがそう思います。

自我を作ろうための仮面のような肩書きではなく
どうせなら自分を誇れる肩書きに出会えるといいですね。

p.s 私は「写真家」です。

沖縄を歩いて旅した話はまた次回。それでは。

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