河童かもしんない

「マスター、やってますか」
 午後11時を回った頃のことだ。寿司屋に男が入って来た。やけに声が大きい男だった。この時間帯だ。酔っ払いかもしれない。せっかく一人で飲んでたのに。正直、嫌な客が来たなと思った。深い時間までやっていて、尚且つ、高確率で一人になれる、そういうのが好きでこの店に来ているのに。
「へい。どうぞ。お掛けになって下さいまし」
 顔見知りというわけじゃなさそうだな。大将の顔を見て思った。初見の客か。男はコートを脱ぎ、背もたれに掛ける。後ろにハンガーがあるのに使わないのか。そのまま私の隣に座ると、「かっぱ寿司、ひとつ」と言う。またこの声が大きい。
 しかも、かっぱ寿司。それを言うなら、かっぱ巻きだろう。
「すいません。それはかっぱ巻きの間違いじゃないですか」
 これを何かの縁とは思いたくはないけど、隣に座られて、話しかけないのも気まずい。
「キュウリの入っている奴ですよね」と男は聞き返す。
「そうそう。キュウリの入ってる巻き寿司のことですよ」と私。
「じゃ、そのかっぱ巻きを一つ」
 入ってそうそうの一皿目がかっぱ巻き。
 相当の通か、それともただの酔っ払い。いやしかし、この男から酒の匂いはしない。
「僕はね、社長。キュウリが大好きなんですよ」
 そういえばこの男、やけに派手なネクタイをしている。光沢感のある緑色のネクタイ。普通のセンスじゃ有り得ない。私は「そうなんですか」と頷き、「飲まれて来たんですか」と尋ねる。
「飲むとは一体何を。何を飲むのか教えてくれませんか、社長」
 おかしな返しだ。それにどうして私のことを社長と呼ぶのだろうか。確かに、同席した支払いの良さそうな人間を社長と呼び、ゴマをする、そういう場面に何度か出くわしたことがあるが、その場合は十中八九、男性に向けたものであって、私のような女には珍しい。
「飲むものは、お酒ですよ」
「お酒はいけません。僕はね、お酒は飲めないんです」
 男が答えると、「へい。お待ち」とかっぱ巻きが出てくる。
「珍しい頼み方ですね」
「かっぱ寿司がですか」
「かっぱ巻きですよ」
「あぁ、そうでした。失敬、失敬」
 男は醤油をかっぱ巻きの上にかける。醤油にちょこっとつけるのではなく、醤油をかける。
 おかしい。
「洋画の外人みたいな寿司の食べ方ですね」
「これは『寿司』じゃなくて『巻き』ですよね。あのね社長、僕をね、からかわないで下さいよ」
「それは『寿司』で『巻き』と呼ばれるものの一種です」
「なんだ。そうなんですか」
 シャリは醤油で黒い。それを男は口に運び、「キュウリが好きだ」と言った。あんなに醤油をかけて、キュウリの味などわかるのだろうか。甚だ疑問だ。
 それにその言葉も、やはりどこか妙である。隣に会話をしている者がいるのに、好きだ、などと言うだろうか。良いですね、とか、好きなんですよね、とか、どこか相手に話し掛けているような、そんな言い草が正しいのではなかろうか。
「私もさっきと同じものをもう一皿」
 しかし悩んでも答えがわかるわけでもない。とりあえず私も腹を満たそう。
「社長、お酒は好きですか」と男。
「私は好きです」
 そもそも今、飲んでいる。カウンターに乗っかっているではないか。「よく飲みます」
「そうですか。私はキュウリが好きです」
「あなた、それさっきも言ってましたよ」
「二度言うのはおかしいですか」
「そうですね」
「じゃ三度続けるのはどうですか」
「マナー違反とは言いませんが、同じ者に三度も言うのは、おかしいですね」
「なるほど。とても勉強になります」
 殊勝な心構え、というやつか。だが、私を馬鹿にしている風にも思えないし、冗談を言っている感じでもない。
「あ、これは、東スポですね」
 前にいた客が椅子に忘れていった新聞を見つけたようだ。しかしそれは読売新聞だ。
「東京スポーツじゃないですよ」
「わかってますよ。これは東京スポーツじゃなくて、東スポですよね」
「まず、東スポというのは東京スポーツの略で、そしてそれは東スポではなくて、読売新聞です」
「こういう紙は全部、東スポだと思ってました。相撲の結果を確認しなくては」
「相撲が好きなんですか」
「相撲は大好きです」
 この男、キュウリが好きと言っていた。そして今、相撲が好きと言う。緑色のネクタイを巻き、よく見ずとも、頭頂部が綺麗に丸く禿げているではないか。頭頂部の丸い禿げ。どこかそこが湿っているようにも思えてきて、そうなると今度は口の先がきゅーっと伸び、嘴があっても違和感のない顔つきをしている。背中に甲羅はないが、もしやあのスーツの下には……。
 あの背中、甲羅になっているんじゃ……。
「肩とか凝ってませんか」
 私は言った。へい、お待ち、と私の頼んだ寿司が出てくる。
「肩が凝るってなんですか」
 そこから説明しなくてはいけないのか。
「肩が硬くなって何だか重く感じることです」
「ないですね。僕はね、毎日、河原で子供と相撲を取ってるときも、そんなのは感じないですね、社長」
 河原で子供と相撲。疑惑は深まった。
「そうですか」
 しかし残念だ。肩を揉んで、ついでに背中の感触を確かめようと思ったのに。だが、何とかして背中に甲羅があるのかないのかを確かめたい。
「相撲はどうですか」
「日本じゃない国から来た力士が勝ちました。たくさん勝ちました」
 言葉遣いも、やはりどこか妙。
「残念だと思いますか」
「いいえ。相撲は相撲ですから」
「何かこの中、熱くないですか」
 私は上着を脱いだ。
「熱いですかね」
 男は頭頂部の禿げに触れる。「確かに外よりかは熱いですけど」
 禿げに触れて室温を確かめたのは、やはりそこの湿気がなくなると力が出せなくなるからだろうか。
「なら、上着を脱いだらいかがですか」
「いいえ。遠慮します」
 どうしてなんだ。なんで上着を脱いでくれないんだ。甲羅があるかないか知りたいじゃないか。
「どうしてキュウリが好きなんですか」
「産まれたときから好きです。もう一皿、頼もうかな」
 男は「マスター、もう一皿、かっぱ巻き下さい」と言う。私も先ほど頼んだ寿司を口に押し込み、「私も下さい」という。
「かっぱ巻きですか」と大将。
 河童。だめだ。今、それを言うのは相手を刺激しかねない。だが目配せしても、鈍感な大将は何も気づいていないようだ。
「いいえ。私はこれと同じものを」と空になった自分の皿を指差した。
「畏まりました」
 大将がまずかっぱ巻きの準備を始める。
「コーラも、飲もうかな」と男。
「え、甲羅。甲羅ですか。今、甲羅って言いましたか」
 嘘。まさか。このタイミングで自白。
「ええ。コーラ、コカコーラです。社長も、好きですか。僕はね、最近、あの黒い飲み物を知って、すっかり虜です」
 そうか。コカコーラか。飲み物のコカコーラか。確かに男は飲み物を頼んでいなかったもんな。落ち着くんだ。動揺を悟られてはいけない。
「私はお酒がありますから。炭酸は喉とか痛くないんですか」
「ええ。屁の河童です」
「河童。あっ」
 思わず口を塞いでしまった。だめだ。動揺を悟られてはいけない。
「どうかしましたか」
「いえ。ちょっと突然色々思い出したんです」
「そうですか。じゃマスター、僕にコーラを下さい」
 コーラじゃなくて、甲羅を出して欲しい。
「へい、お待ち」
 すぐにコーラは出てきた。瓶だった。炭酸をコップに注いでいる。泡が三分の一くらいだろうか。
「しゅわしゅわするのを見るのが好きなんですよ」と男。
「どうしてですか」
「わかりません」
「そうですか」
「そうですよ」
 甲羅の有無にばかり気が向かって全く無意味な会話をしてしまった。何か、それを確かめる方法はないだろうか。
「へい、お待ち」
 いつも機械みたいに同じ声。大将がかっぱ巻きを出す。すると男はまた醤油を上からかけて、口に放り込む。「キュウリが好きだ」また同じ台詞。
 背もたれに掛けてあるコートが視界に入る。そうか。この手があったか。
「大将、そろそろ時間ですかね」と私は言った。
「そろそろですね」
 閉店間近。これを利用しよう。帰り際に、私が男にコートを掛けてやって、その時に背中の感触を確かめればいいではないか。名案だ。
「もうおしまいなんですか」
 男が言った。
「まぁキチッと決まってはいないんですが」と大将。
「そうですか。残念ですね」
 男はかっぱ巻きをもう一つ食べ、「キュウリが好きだ」と繰り返した。
 帰り際、絶対に、私がこの男にコートを着させてやるんだ。
 甲羅があるかないか、必ず確かめてやるんだ。
「へい、お待ち」
 機械のように同じ声で大将。
 私の頼んだ寿司が出てきた。私の好物だ。
「あのね、社長、一つ聞いていいですか」
 何か改まった雰囲気で男が私を見る。もしや、この男、私が怪しんでいることに気づいたのか。
「なんですか」と私。目と目を合わせているつもりが、頭頂部の禿げに目がいく。やはり湿っているではないか。乾いていない禿げなど自然じゃありえない。これはやっぱり……。
「聞いていいでんすか、社長」
「いいですよ」
 私もこの男に聞きたいことがある。
「どうしてさっきから、稲荷寿司ばかり食べてるんですか。社長は、もしかして……」
 なぜだ。尻尾を出した覚えはないのだが……。

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