傾斜率(90°-23.4°)

  深夜に実家にいる弟の芳樹から電話があって、「母さんが大変だ。助けて欲しい」と言われた。「顔が曲がって大変なんだ」
 電話の向こうの芳樹は焦っているようだった。大学生だが専門は医学じゃない。こういうときどうすべきかわからないのは理解できるが、俺だって同じく医学については何も知らない。とりあえず「すぐ行く」と言って電話を切ると、上着を羽織ってアパートを出た。何かを出来るあてはないけど、そうする以外はなかった。
 俺は久しぶりの自転車へ跨って、必死に漕げば十分もせずに着く距離にある実家に向かった。車道を飛ばし、坂道を駆け上がる。
 そんなに近くなら家を出ないほうが経済的なのに、とよく言われるが家庭の事情がそれを許さない。つまり端的に言えば、俺は母さんと折り合いが悪かった。

   ■

「悪いね、呼び出しちゃって」
 実家に戻ってくるのは久しぶりだった。俺を出向かえた芳樹の顔はなんだか申し訳なさそうだ。
「いいんだよ」
 たぶんそれが兄の役目だろう。「母さんは?」
「奥にいる」
 ただいま、も言わず俺は家に上がった。まだどこかに素直になれない反骨が残っていた。
 それほど大きくない一軒家の一階。冬の冷たい廊下を進んで襖を開けた八畳ほどの居間に母さんはいた。炬燵に入らず、座布団に正座をしていた。母さん、と呼びかけることは出来なかった。そんな呼びかけ、ここ数年していないからだった。
 彼女は顔面の左半分を突っ張らせるように歪ませて、テレビを観ていた。報道番組だった。ノルウェーにある白夜の街、トムロソで、ずっと昔に死んだ探険家ロアール・アムンセンが、大量に蘇ったという怪奇現象をレポートしている。
――これまで発見されたロアール・アムンセン氏は現在38名にまで及び、全員が「私はロアール・アムンセン。トロムソを出て北極を探検していたところまでは憶えているのだが……」と、史実通り北極での探検で行方不明になったことに沿った証言を続けておりまして、うち検査結果の出ている15名のDNAは間違いなく一致。ロアール・アムンセン氏のDNA自体は保存されていませんが、同じDNAの人間が15人も現れ、しかもそれが増え続ける可能性があるという異常事態が、ここノルウェーのトムロソで続いています――。
「秀平?」
「うん」
 母さんの問い俺は短く答えた。こちから声を掛けられなかった後悔が俺の胸を刺す。鋭く突き、直視を躊躇う、そんな痛みだった。
「ごめんね。なんか母さん、顔の左がずっと動かなくて」と母さんは言った。もちろんそれは口に拳を思いっきり突っ込んだような、不明瞭な喋り方だった。
 麻痺しているのか。だが言葉は理解しているようだし、意思もある感じではある。
「芳樹」
 俺は弟を呼んだ。「お前、明日は何かバイトとか大学とかあるのか?」
「うん、まあ」
「じゃ俺が母さんを病院に連れて行くから。寝てもいいけど一応、携帯の電源だけは入れておけ」
「けど……、俺……」
「いいよ。遠慮するな。お前はゆっくり寝てろ」
 ここからなら救命のある墨東病院までタクシーで二十分くらいだ。母さんは顔がひん曲がっている以外は落ち着いた様子だが、例えば目に見えないどこか、それこそ脳みそとかに異常があるかもしれない。救急車を呼ぶのは気が引けるが、このまま放っておくとなるともっとだ。芳樹の言葉を遮って、俺は母さんに「病院に行こう」と極めて事務的な口調を使って伝えていた。
――それでは9番目に現れたロアール・アムンセン氏にお話を伺ってみたいと思います。
 テレビのレポーターが、蘇った冒険家とやらに通訳を介して質問を投げ掛けるところだったが、俺はテーブルの上のリモコンでそれを消した。
「行こう」
 それから保険証を用意して俺は母さんと家を出た。一応、出るときにはマスクをつけさせた。
「寒いね」
 冬だから当たり前のことだ。国道に出てタクシーを待っていると母さんが呟いた。外套が等間隔で輝いていて、遠くにいけばいくほど乱視の俺にそこまでの距離を曖昧に夜空へと滲みませる。
「喋らなくていいから」
 冷たい言葉だと思うが、母さんの顔は現在進行形でイカれている。負担になるようなことはさせたくなかった。
 新しく立て替えられた横断禁止の標識の横で、白い息を弾ませるように小刻みに身体を上下させた。夜の寒さに立ち向かいながら手を挙げてタクシーを止めることが出来たのが、それからすぐで良かった。通過するトラックの音だけはあまりにも静か過ぎて、気が滅入りそうだった。母さんもきっとそんな気持ちだったかもしれない。
「どちらまで?」
「墨東病院にお願いします」
 後部座席に二人で乗り込んだ。俺たちは親子だ。何をするにも特別な理由なんて必要ないのに、こんなことをするにも違和感があった。それくらいの間、俺は母さんを避けていた。長い反抗期のようなもので、非常にちっぽけなことだとはわかっていても、習慣を変えるのは難しい。母さんも俺も黙ったままだ。母子家庭のせいにしたくないが、普通の家庭だったらと思うことがある。
 車内にはラジオが流れて、少し助かった。雑音でも何もないよりはマシだ。
 トムロソで蘇ったロアール・アムンセンの話だった。ラジオによると彼は昔の冒険家で、北極点と南極点、二つの地点に到達した初めての人物らしい。それがある日、トムロソの町から北極に探検に向かい、そのまま行方不明となり、死んだとばかり思われていた、ということだ。それがどうしてか現代に蘇りまくっている。全く馬鹿げた話だ。
 タクシードライバーは静かな老人で、しばらくは俺たち親子に話掛けてくるようなことはなかった。奇妙なニュースが淡々と読み上げられて、その事実を解説していく。だがどうにもこの不可思議な現象に科学で決着をつけられる人間はいないらしく、解説ではなくそれはただの先の見えない不毛な議論にしかならなかった。
「どうしてなんですかね」
 赤信号が青に切り替わったときだった。ゆっくりとタクシーが動き始めている。もう墨東病院はすぐそこだった。「不思議ですよね」
「なんですかね」と俺。
「これから色んな人が蘇ったりして。例えばそうだな美空ひばりさんとか」
 だがそんなことはなかった。結局、蘇ったのは冒険家のロアール・アムンセンだけで、しかもそれが、もっともっと大量に、だった。

   ■

 救急には他にもう一組の患者がいた。赤ちゃんを連れた親子だった。院内のほとんどの照明は落ちていて、残っているのは四つのうち一つだけ開いている受付と、俺たちの座る待合スペースのみだ。そんな暗闇から浮かび上がるような空間で赤ん坊は泣いていた。うるさいが仕方がない。
 俺は母さんに質問をしながら、彼女の代わりとなって問診表への記入を済ませた。それから少し席を立って、待合スペースを出て、芳樹に無事病院についたことをメールしておいた。
 戻ると、泣いている赤ん坊を抱いていた母親が丁度、呼ばれて診察室に向かうところだった。コーヒーを買っていた父親もすぐにそれを追って行く。
 ついに残された俺は母さんに何か気を紛らわすような話一つも出来なかった。診察室から赤ん坊の泣き声がまだ聞こえる。で、結局出てきた言葉が「うるさいね」の一言だった。

   ■

 母さんの診察結果は更年期による鬱病ということだった。ホルモンバランスの変化とストレスが原因で気を病み、顔を曲げてしまったというわけだ。
「私のことがわかりますか?」
 診察室で医師がカマをかけるような質問をして、母さんは「わかりません」と答えていた。そこで誰々さんですよね、と全く関係のない名前を口走っていたら、きっと今頃は精神病棟だったのだろう。横に立ってその様子を見ているときは、さすがに母さんに向かって、どうか間違ったことを言わないでくれよ、と祈っていた。密に連絡を取り合っていたわけではないが、それでもそこで訳のわからないことを口走っていたら、そこにいる母さんが何か得体の知れない怪物のように思えていただろう。だから俺はそうはなって欲しくないと願っていた。
「私は専門の医師ではないので、後日、心療内科の受診されることをお勧めします」
 母さんを診た医師が外科なのは最初に聞いていた。それでも誠心誠意、尽くしてくれいるのが伝わってきて好感が持てた。それから三日分の抗うつ剤を渡されて、その夜は帰路に着いた。
「なんだか、ごめんね」
 その頃には母さんの顔面も治っていた。
 俺は黙ってまたタクシーと停めるために車道に身を乗り出し手を挙げていた。謝る母の言葉に、何故か不機嫌になった。だから俺は無言を貫いた。

   ■

 それから三日後。母さんが心療内科を受診した日の夜だった。仕事を終え、部屋に戻って来て、スーパーの惣菜を電子レンジで温めているときのことだ。半額で買った惣菜がオレンジ色の光に晒されて回転するのを眺めながら、背後の冷蔵庫に寄りかかりビールを飲むのが俺の日課だった。
 珍しく部屋のインターホンが鳴り、俺はビールを狭いシンクの中に置いて、玄関に向かった。何かネットで買いものでもしたか、と記憶を探りつつ、信用できない自分の思い出を見限るように、靴箱に常備してあるハンコを手に握っていた。あとは代引きでないことを祈るのみだ。
 どうかと思って扉を開くと、芳樹がいた。寒さで頬が赤くやれている。
「どうした?」
 十も歳の離れた弟だ。たぶん俺と母さんを繋いでいる唯一の存在だろう。「珍しいじゃんか」
 ついさっき母さんが心療内科で受けた結果を話しに貰いに実家に寄ったばかりだった。
「ちょっといいかな」
「いいよ」
 悪い予感がした。自分もそうだったが二十、二十一の頃のこんな表情をした男は面倒を抱えている。青春にありがちなどうでもいい哲学に目覚めてしまったのか、それとも彼女を妊娠させちまったか。もし後者だとしたら先を越されたことになるし、前者なら俺も通った道だ。まだ案内くらいなら出来るだろう。
「お邪魔します」
 芳樹は俺と違って礼儀正しい。七つも離れればこうも違った人間が同じ家庭で育つのか、と驚くほどだ。
「飲むか?」
「ビール?」
「苦手か?」
「あんまり」
「まあ飲めよ。不味くてもいいから」
 もう二年も三年もしないうちに、会社に入って働くことになるんだ。付き合いで不味い酒を飲む方法を覚えるのは悪くない。
 俺は冷えた缶を渡した。寒い中、わざわざやって来てくれた悩める青年に出すようなものじゃないだろう。たぶん気の利いた兄だったら、温かいココアかコーヒーなんだろうな。
「どうした?」と二度目の同じ質問。
 俺はテレビをつける。相変わらず、蘇った冒険家のロアール・アムンセンのことで持ちきりだった。ここまで202人のロアール・アムンセンが蘇って、きっと今もトロムソのどこかで蘇っているということだ。
「なんだか楽しそうだな」
 202人も同じ顔の人間が並んで、俺たちと同じくビールを飲んで飯を食っていた。トロムソに住む人もそこにはいて、何か大きな祭りでも起きたように、大きく笑っている。
「うん」
「何があった。母さんのことか?」
 俺たちは二人ともお互いの顔を見ず、超常現象に賑わうトムロソの街を眺めていた。冬は白夜が続く街だ。祭りをするには都合がいい。
「違うんだ」
「じゃ彼女を妊娠でもさせたのか。中絶なんて考えるなよ。しっかり育てろ」
「違うよ。そんなんじゃない」
「そうか。それは良かった」
「大学、辞めてるんだ」
「辞めてる?」
「もう半年前に届けを出して、辞めてる」
 どうやら芳樹は哲学に目覚めてしまったようだ。
「お前もか」
 俺も大学を辞めていた。二年生の夏だった。
 だがそれでも今では一応、従業員が二人の小さな会社をやっている。化粧品やランジェリーを売るオンランショップの運営だ。人生なんかなるものだし、どうなるかもわからない。「自慢出来ることじゃないぞ」
「知ってるよ」
「母さんは?」
 まあ知らないだろう。俺も知らなかったくらいだ。
「知らない」
 やっぱり。
 だけど、これからどうするんだ、なんてことは言いたくなかった。そんなこと言っても何も解決しない。あの頃の自分を思い出す。二十歳の夏。俺が望んでいたのは、人生を好転させる偉そうな男の一言なんかじゃなく、誰でもいいから自分の話をずっと聞いてくれる、そんな人だった。孤独を癒して欲しい? 笑ってしまうが、そんなちっぽけなことだった。
「このビール、全然おいしくない」と芳樹が一口飲んで言う。
「発泡酒じゃないからな」
 俺は言った。「本物なんだよ」
 テレビからは六十だと言うロアール・アムンセンの203人目が発見されたという速報が飛び込んでくる。もう驚きはしないが、それを聞いたトロムソの人々は沸いていた。冬の極地が熱気に包まれている。

   ■

 母さんの心療内科の通院が始まってから一ヶ月が経った。俺は一週間に一度、実家に顔を出すようになり、芳樹と母さんの様子を見て帰る、そんなような生活を続けていた。通院はいつまで続くかもわからないし、芳樹が人生に情熱を取り戻すのも同じく未定だ。
 芳樹と相談をして、大学を辞めたことは母さんに黙っていることにした。余計な心配をかけて、症状を悪化させてはいけない。
「ロアール・アムンセン、もう見つからないね」と芳樹。
 234人。二週間前に最後の一人が見つかってから、ぱったりと新しい ロアール・アムンセンが蘇ってくることはなくなっていた。
「忙しいんだろ」
 芳樹はあれからちょくちょく俺の部屋に遊びに来るようになっていた。大学を辞めて時間が有り余っているのだろう。もう部屋の鍵も渡してある。ビールの味にはまだ慣れないらしくて、梅酒が好きだと言ってたまに飲んでいた。OLみたいな男になって欲しくないが、何も言うまい。
「バイトは?」
「まだ見つからない」
「俺のところでやるか?」
 丁度、従業員の寿退社が迫っていた。「時給は九百五十円」
 最初は芳樹も家族と働くのが恥ずかしいのか、俺の誘いを断っていたが、一ヶ月もすれば俺の事務所に週に三回顔を出すようになっていた。
「母さんはどうだ?」
「わからない。心の傷だから」
 夜の八時を回っていた。従業員は帰り、狭い事務所には兄の俺と弟の芳樹の二人きりだった。一週間に一度は実家に帰って顔をあわせているのに、沈黙を繋ぐときに頼るのは母さんの話題だった。
「口数とか多くなった? 変なこととか言ってないか?」
「普通だよ。テレビを観て、特にロアール・アムンセン系のやつが最近のお気に入りみたい」
 芳樹は海外のブランドから届いた女性下着の検品をしていた。オーダーシートと納品書を比べて、それから実際のものがその通りに届いているか確認する。アメリカ人って奴等は好い加減で、時折頼んでもいない色やサイズを寄越したりする。
 俺のほうと言えば、外注に頼んでいたイラストを眺めながら、正しいサイズの下着の買い方、なんてページを作っている。まあちゃんとした知識を持って行動すれば、AはBになるし、BはCになる。そういう類の話だ。たぶんそこらへんの女よりも俺のほうがこの手の知識は詳しいだろう。妙な歳の取り方をしたもんだ。
「やめだ。やめだよ、こんなの」
 急に馬鹿々々しくなって、椅子の背もたれに体重を思い切りかけて天井を眺める。鉄の軋む音がした。そろそろ体重も気になってくる頃だった。「知るかよ。ブラジャーのことなんて。男の仕事はブラジャーを売るんじゃなくてブラジャーを取ることだろうが」
「誰よりも詳しいくせに」と芳樹。
「お前ももうショーツと納品書を見比べるのなんてやめちまえ。今日は帰るぞ」
「ブラジャーだよ」
 片手に持っていたそれを俺に見せつける。
「どっちでも同じだろ」
 俺は鞄に水筒を放り込んで、立ち上がった。芳樹は黙って手に持っていたショーツを箱に戻すと、そのままタイムカードを切る。
「今夜はどうする? うち来んの?」
「ああ。行くよ」
 随分たくましい口ぶりになったもんだ。丁度、最後に実家へ寄ってから一週間が経っていた。いつの間にか習慣づいていた母さんの顔を見に行く日だ。
 俺もタイムカードを切った。先に事務所から芳樹が出る。俺は扉の横のスイッチを切り、事務所の明かりを消してから外に出ると鍵を閉めた。すぐに引っ越すつもりで借りた事務所だったが、もう四年目だった。来年は、と思うが、それが四回も続いた結果だ。たぶん来年も再来年もここにいるだろう。
 むき出しの階段を出れば、外は冬の名残を感じる三月の夜だった。もう春はすぐそこだ。
「マフラー、もういいんじゃない?」
 階段を先に降りていた芳樹が言った。
「明日からやめるよ」
 実家まではここから歩いて三十分、タクシーなら十分程度だろう。もちろん俺たちはタクシーを使った。歩いて帰る夜は酒に酔ったときだけで充分だ。
「この坂、覚えてる?」
 タクシーの後部座席。料金はもちろん俺が持ちで、このタクシーを停めたのは芳樹だった。
「え?」と芳樹の問いに俺。
「昔さ、俺が五歳とかそんなとき、この坂の角度、測ったじゃん」
 芳樹の顔を見た。俺の弟は窓の外に並んでいる分譲住宅を眺めていた。
 実家に向かう間にある何の変哲もない坂だった。並んでいる分譲住宅が建つ前、そこは鉄くず置き場だった。「こうやって腕を伸ばして、拳と指を使ってさ」
 芳樹は顔の前で、拳を作った後、そこから親指と小指を伸ばした。アロハと同じ指の使い方だ。「これで大体23度とかそんくらいだって教えてくれたじゃん」
「ああ。そんなこともあったな」と言うものの、全く思い出せなかった。だが拳と指を使った角度の測り方は憶えている。小学校の頃、担任の先生に習った。アロハが二十五度で、芳樹が測ったという五歳児くらいの子供だと二十三とか。指一本で三度、拳一つで十度、親指と人差し指でLを作ればそれが十五度。
「この坂、それで計ったら俺の手にピッタリの二十三度だって」
「そうだったな」
 話を合わせた。少し疲れていたのかもしれないし、単純に優しい兄貴を演じたいだけったのかもしれない。「そんなこともあったな」

   ■

「また来てくれたの。そんなにたくさん来なくてもいいのに」
 顔を曲がらせた夜が嘘のように思えるときがある。薬の影響か、それとも仕事を辞めたからか、母さんは少し太っていた。家では暇なのか、そうは言うものの、俺が来る日に合わせて結構手の込んだ食事を用意していることは芳樹から聞いている。たぶん彼女は俺がいつか通り過ぎていった冬のように、雪解けの季節が巡ってくることを信じているのだろう。
「ああ」
 だが俺と言えば、実家に多く寄るようにはなったものの、どうやって母さんと話していいかわからなかった。やっぱり好きになれない。実家なのにどこか他人の領域のような、むずかゆさを感じる。
「死んじゃったんだって」と煮物のサランラップを取りながら母さんが言った。
 234人のロアール・アムンセンのうち、一人が交通事故で死んだ、という報道だった。誰もが交通規則を守っていたら防げた事故だが、結局は不慮の事故だ。
 テレビでは悲しみに打ちひしがれるトムロソ市民が映された。参列者には残された233人のロアール・アムンセンの姿もあった。誰もまだ、200人以上も残ってるじゃないか、なんてことは言わない。悪い冗談だ。人の命は計算できない。一人は等しく一人で、どれもかけがえなく尊い。たとえ同じ遺伝子の奴らが他に233人いてもそうだ。
「そう」
 その晩も結局、そんな感じの会話にもならないような無味無臭の言葉を幾つか交わしただけだった。母さんは意に介していないのか、俺に何度も話しかけてきた。その度に、俺にロアール・アムンセン情報を披露した。俺は、すごい興味をそそられたよ、なんていう気の利いた反応一つ出来ないで、ただ食べて、飲んでを繰り返した。母さんは給食のおばさんだった。飯は不味くない。
「行方不明になる前の年には、日本にも来ていたんですって。やっぱり冒険家ってすごいのね」
 から元気にも思える。それくらい母さんはよく俺に語りかけてくた。
「あぁ。そう」
 だけどそんな母さんが俺にはどうにも駄目だった。
 芳樹と言えば、大学を辞めたことを伝えていない後ろめたさなどないように振舞った。弟は兄の失敗から学べるから器用になるというが、まさにその通りだろう。
 家族といるのに、俺はどこか遠くの星にあるように孤独で、食卓を囲みながらその晩は結局、死んでしまったロアール・アムンセンのことばかり考えていた。

   ■

 騒動が起きたのはその翌日だった。突如として世界中のGPSがずれて、使い物にならなくなったのだ。最新機器に支えられていた交通機関は麻痺して、空路にある飛行機も航路にある船も全てが時折行方不明になり、その後すぐに復活したと思えば、的外れな場所に一瞬で移動を繰り返したりしているとGPSが伝える。そんなことが至る場所で勃発した。
「これは非常事態ですね」
 ラジオ番組にゲストとして呼ばれた科学者が告げた。
「地球の地軸はそもそも公転の法線に対して、23.4°傾いているんですね。だから今回はそれが-0.1°、つまり傾きが0°へ近づいたわけです。これは非常に大きなことで、かつてもう1°だけ傾いていた時代のサバンナには豊かな緑があったほどです」
 つまり彼が言うには、GPSが狂ったのは地球の地軸が-0.1度傾いてしまったのが原因ということらしい。
 だが力説する科学者をよそに、世間の関心は桜前線がどうなるのか、ということに向けられていて、俺への影響と言えば、まずアメリカから空輸されてくるはずの商品が届かなくなった、ことだけのように思える。芳樹は出勤しない日だったし、そんなわけでやることもないので他の従業員は家に帰した後のことだった。俺は一人の事務所で、机に足を乗せ伸ばしながら、ラジオに耳を傾けて目を瞑っていた。
「このまま傾きが続くようだと世界の日照時間は均等になり、白夜と極夜は消えて、季節がなくなってしまいます」
 寒い冬も暑い夏もなくなるなら、そんなに悪い話じゃないんじゃないか。そんな呑気なことを考えていたら腹が減ってきた。
 -0.1°。傾きの直った世界を歩くとするか。

   ■

 芳樹と俺は父親が違う。芳樹は知らないが俺は知っている。だけど俺もそうだし、芳樹もまた自分の本当の父親のことなんて碌に知らない。いや芳樹の親父に関していうと、俺は少し知っている。俺が芳樹と自分と父親が違うことを知っているのは、あの男とは少しの間だが一緒に暮らしたからだ。
 母さんを孕ませて、それから義務のように一つの屋根の下で、俺とつまらない生活を送った。だが芳樹が産まれる前に逃げるように消えて、それっきりだ。俺が十歳の頃の一年間の出来事だ。物心もとっくについているし、そこそこ忘れられない体験になった。
 それまでだって俺を女手一人で育ててきた母さんは、逃げた男を追うようなことはしなかった。そもそも身重だ。大きいとはいえまだ十歳の俺もいるのに、そんなことできっこない。芳樹の親父が消えたあの日、母さんは覚悟を決めたんだと思う。
「珍しいじゃない。こんな昼間に。もう一週間経った」
 傾きが直った世界だから、いつもの足取りのはずが、案外こんな感じで予定外の目的地に着く。
「いや、別に」
「歩いてきたの?」と母さん。
「まあ」
「結構あるでしょ」
「そこそこ。芳樹は?」
「どっか行っちゃった」
「そう」
 靴を脱いで実家に上がる。実は足がパンパンだった。23°の坂が結構こたえる。
「ねえ、あんた知ってる? また一人死んだよ」
「誰?」
「ロアール・アムンセンさん」
「そっか」
「なんか悲しいね」
 居間に入ると、天井に向けた読みかけの本がテーブルに置かれていた。「食べてきたの?」
「いや、何も」
「そう。じゃあ用意するから」
「あぁ。うん」と俺は腰を下ろした。かつては給食のおばさんだ。三十年近くそうだった。だから料理は上手い。
 テレビをつけると確かに昨日に続いてもう一人、ロアール・アムンセンが亡くなったというニュースがあった。
 その晩、地球の地軸がまた-0.1°傾いた。

   ■

 蘇るスピードほどではないが、それから復活したロアール・アムンセンは徐々に数を減らしていった。一人死ぬ度に、地球は地軸の傾きを0.1°直して行った。一ヶ月後にはGPSはそれすらも織り込み済みのシステムに移行したとかで、世界は緩やかに消えて行く季節以外は正常運転を続けた。
 だがロアール・アムンセンを止める手立てはどこにもなく、ただ俺たちはニュースでそれを見ては受け入れていくしかなかった。
 母さんはその間に二度、入院をした。うつ病じゃない。子宮頸がんということだった。病気は一人、一つとは限らない。残念ながら重なることだってある。高齢だったら尚更だろう。
「嫌んなっちゃうね。全く」
 ベッドの上の母さんは呆れているような言い草で、不自由な自分の身体を嘆いた。随分と痩せていた。三度目の入院だった。髪も薄くなって、随分と痩せてしまった。たぶんもう長くはないだろう。「まあ、しょうがないけどさ」
 十二月だが陽気は七月で止まったままだった。蘇った234人のロアール・アムンセンは残り一人となって、もう地軸の傾きも、あと0.1°しか残されていない。傾きが-0.1°されるごとに、春、夏、冬は死に、永遠に続く初夏の世界が新しい師走の街となった。
 結局、こうなるまでどうしてロアール・アムンセンが蘇ったのかも、そしてどうして再び死ぬと地軸の傾きが-0.1°になるのか誰も解明できないまま、俺たちの住む街は夏の始まりに閉じ込められた。
「昨日なんて夢の中で死神が手招きしてた」
 こんな時、息子二人は情けないもんで、そんな冗談に笑うことできず、黙って俯くことくらいしかできない。芳樹にいたっては泣いている。だが俺も似たようなもんだ。
 それくらい母さんの姿は悲惨なもんだった。十二月の青い空に吸い込まれてしまいそうなほど、小さく皺だらけだった。
 ラジオから、最後の一人となったロアール・アムンセンが心臓発作で死んだ、というニュースが流れてきた。これで地球の地軸から傾きが消え、微かに残っていた四つ季節が本当に消えることになる。
 氷は解けず、熱砂は冷めることを知らない、そんな世界の出来上がりだ。クソ、何も嬉しくない。
「死んじゃったね」
 そう言う声だってもう俺の知っている母さんのものではない。サイドテーブルに乗せたラジオのアンテナは窓の外に向かって伸びている。トロムソの街の人々が悲しむ姿が目に浮かんだ。皮肉にも病室には夏の風がゆっくりと吹き込む。母が彼の死に自分の運命を重ねているのがわかった。たくさん蘇ってたくさん死んだ、誰に理由も説明されず、そうなってしまい黙って受け入れていくそんな男、ロアール・アムンセンに。
「いいのよ、無理して毎日見舞いになんて来なくても。無理はよくないわよ。こうなちゃったのに理由なんてないんだから。自分のことくらいわかってるから」
 いつ最後になるかわからないのはわかっていた。だけど、素直に「ありがとう」も言えず、いつも病室を出て行った。結局、その晩、母さんは死んだ。

   ■

 通夜も葬式も質素なものだった。それこそ俺と芳樹の二人しかいないような、寂しいもんだった。俺たち二人を育てるのに忙しくて、自分のものなんて少しも持っていなかった母さんの遺品は少なく、予定していたよりも早く全てが片付いた。
「買って来いよ」
 昼過ぎに終わった仕事。ふいに空いた午後は酒を飲んで過ごすことに決めた俺は芳樹に財布を渡した。「発泡酒じゃなくて本物のビールだ」
 言われた通り、俺の弟はビールを大量に買い込んで来た。夏が永遠の世界では、この手のものは年中売れるだろう。
 俺たちは何に乾杯をするわけでもなく静かに飲み始めた。
「やっぱりまだ苦い」と芳樹。
「しょうがない」
 俺は言う。「実を言うと俺も苦い」
「なんだよ」
「悪かったな」
「実は父さんに会ったんだ」と芳樹。
「お前のか?」
「ああ」
「そうか。いつ?」
「一年前くらいかな」
「なるほど。もう全部知ってるのか?」
「ほぼ」
「そうか」
 なるほど青春にありがちな哲学のきっかけはそれだったのか。
 普段はビールで酔うことなんて滅多にないのに、昼間っから飲み始めたその日、量も進んだからか俺は大いに酔った。窓を開け、居間に初夏の風を囲い込みながら、何缶も何缶もビールを空けた。
 そうやって夕暮れどきになると、居間に差し込む光がオレンジに染まる。
「そろそろ帰るよ」
 俺は立ち上がった。だが来月には今、借りている部屋を引き払って実家に戻ってくる予定だった。そんな俺とは入れ替わりに芳樹は旅に出るという。まだ若者にありがちな哲学は続いているらしい。
 俺は空き缶の山をそんな弟に託して、実家を出た。タクシーを使ってもいいが、酔っ払うと歩いてみたくなるもんだ。
 23°の坂を俺は下っていく。もしこの坂が公転の法線に対して、23.4°の角度を作っているなら、ここにいる限り、俺は死んだ十二月の冬を味わえる。
 だけどそんなのは酔っ払いの戯言で、死んだ母さんがもうどこにもいないように、死んだ冬だって二度と感じることはできない。
 なぜならもう何もかも、俺の前を通り過ぎてい

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