罅割れ

  住んでいる家の壁に罅が入った。去年の大きな地震の後、すぐにその存在には気づいていたが、直してすぐまた余震で罅割れるといけない、と主人が言うので、今年に入って落ち着くまでじっと待っていた。
「そろそろ頼むか」
 梅雨に入った週末だった。雨音がリビングの外からしとしとと聞こえてくる。昼過ぎだと言うのに、この雨のせいでまだ小さな子供をどこに連れて行ってやることも出来ない。リビングで四つん這いになってミニカーを走らせている子供を見て不憫に思う。主人はそんな子供に構うような感じもなく、椅子に座って独立に備えて資格取得の勉強を続けた。そんなものだからわたしの主人は晴れであっても、家族サービスをするような男じゃなかった。

   ■

 本業は左官屋だが震災後はモルタルの罅割れ補修もやっている、青年はそう答えた。晴れを見越して呼んだわけじゃない。たまたま彼を呼んだ日が梅雨には珍しい乾いた晴天の日だった。父親が死に跡を継いで、少しずつ仕事の幅を増やしている最中なんです、左官屋の青年は罅割れた壁の前で屈託のない笑顔でわたしに説明してくれた。普段から肉体労働をしている青年はタンクトップで焼けた太い二の腕を、太陽に照らしていた。厚い胸板と引き締まった腰周り。汗が額、そして首筋に滲んでいて、その黄色い匂いに触れると、わたしの底で潜んでいた若さが蘇りそうだった。子供は保育園に預けている。家には誰も居ない。作業自体は小一時間で終わると青年は言った。年齢は二十七だと言う。わたしが主人と結婚した年だ。
「暑いですね」
 作業の合間、首に巻いている白いタオルで青年は汗を拭った。前日までの雨の湿気はほとんど消えていたが、その反面、雨雲を蒸発させて唐突に現れた太陽の熱視線が堪える。彼の仕事を後ろで眺めていたわたしもそれには同意する。
「何か持ってきますね」
「あ、すいません。何か催促するようになっちゃって――」
 わたしは家に入って夏の本番に向けて作り始めた麦茶を用意した。リビングの出窓を開いて、「どうぞ」と青年に出す。彼は「すいません。頂きます」と丁寧にお辞儀をしてから、腰を下ろして麦茶を飲んだ。上下に揺れる出っ張ったその喉仏をわたしは眺める。思えば学生時代はこういう男が好きだった。どこで間違ったのだろうか。

   ■

「またか――」
 青年に罅割れを直してもらってから三日後、また少し大きな地震があった。主人は自分が建てた一軒家の壁に入った罅を見て呟いた。
「また直して貰いますか?」
 主人はわたしよりも七つ年上だった。梅雨はまだ明けず、外に出たわたしたちは霧のような雨の下にいる。庭に立って傘を差しているのはわたしだった。主人はわたしの差した傘の下で、じっと壁を眺めている。わたしのことなんて省みず、主人は自分の稼ぎで建てた家の罅割ればかり気にしている。閉じられたリビングの出窓の向こうには、子供の姿があった。今日も床でミニカーを走らせている。
「そうだな」と、主人。
 丁度、青年に直してもらったところの下に新しい罅割れは出来ていた。
「わかりました。それじゃ業者さんに連絡しておきますね」
 そのときわたしは青年のあの引き締まった身体を思い出してしまった。不覚を感じなかったのは、夫婦の関係に罅が入っていたからだろう。
「なんだか嬉しそうだな、お前」
 ぽつりぽつりと大降りになり始めた雨の中、主人が呟いた。わたしの顔は見ていない。

   ■

 青年は木下という苗字だということは知っていた。そしてすぐその下の名前も知ることになった。この梅雨同様、わたしと彼は湿った関係になった。交わす睦言はわたしの底で燻っていた過去の若さを蘇らせる媚薬だった。
「由紀夫」
 彼の名前を呼ぶごとにわたしのとうに濁ってしまった血が入れ替わっていくようだった。
「理沙」
 もう親くらいしかその名でわたしのことを呼んでくれなくなっていた。埃を被ったわたしの人格と強く紐付けられた本当の名で、由紀夫がわたしを呼ぶたび、熱砂で乾いた心に潤いが戻った。由紀夫という名前は三島由紀夫が好きだった彼の父親が名づけたらしい。だからか彼は肉体労働をしているにも関わらず、多くの本を読んでいた。そのギャップがまたわたしは好きで、贅肉のない肉体に触れるたびに、彼に内包されたわたしの知らない大陸を見るような錯覚に陥った。壁の罅割れを直すのが上手かったように、由紀夫はわたしの罅を丁寧に扱って、この身体を喜ばせた。それにそれ以上に、わたしという心を満たしてくれた。初めて会ったときの青年の姿はもうなく、ベッドの上にいる男は、黒髪で切れ長の目、間接が肥大している太い指に、噎せ返るような汗の匂いを漂わせた美しい男だった。
「主人には言えないわ」
 わたしは言った。
「僕もだよ」
 由紀夫も言った。わたしたちは一糸纏わぬ姿で笑った。
 由紀夫の家。ここに来るのももう何回目になるだろうか。祖父が建てた家だと彼は説明した。「だから換気が悪くてね」
 昔は家族三代が居て賑やかだったが、今はもう彼が一人で暮らしているという。使っていない部屋がほとんどで、わたしたちが二人で黒い愛の交換をするこの小さな部屋も、そのうちの一つだと言った。六畳ほどで収納も窓もない漆喰の壁に三方を囲まれた部屋だった。わたしはベッドに横たわりながら、彼の背中の向こうの壁に指を近づける。水滴が一筋、流れ落ちていた。それを掬ってやりたかった。激しい戯れの後だ。窓もない、灯りも弱い、狭い部屋にいるのに、わたしの心は彼の前ではどんどんと開放的になっていた。主人と子供を裏切るという背徳心と、閉鎖されたこの鬱蒼と湿潤した部屋がその秘密を守ってくれるような蜃気楼を見て、初めての声でわたしは鳴いた。
 申し訳程度に置かれたサイドテーブルの上には、飲みかけの麦茶が入った二つのグラスがあった。グラスの中の氷はもう角が丸くなってしまって、その色も味も薄まっている。
 まだ耳の裏では興奮の余韻の鼓動が響いていた。刻々と脈打つように、不思議だがそれは指の先で触れ、水滴を掬った壁にも伝わっているようだった。微弱だが壁からも息遣いが聞こえてくる。六月の雨を降らす紫の重力の糸に従うように落ちてきた水滴の痕を追う様、視線を辿らせると、漆喰の壁には小さな罅割れがあった。壁の涙はそこから流れ出てきているようだった。また一筋、湿度の高さを証明するように流れてくる。
「どうした?」と、彼。
「なんでもないわ」
 わたしは言った。そろそろ子供を保育園に迎えに行かなくてはいけない。
「もうちょっと居てよ」
 いつもはそんなことないのに彼は言った。
「駄目よ。行かなくちゃ。もう来れなくなっちゃう」
 わたしは身体を起こしてから、無造作に落ちている自分の衣服を拾った。立ち上がり、ショーツを履く。反対側の漆喰の壁を見るとそこも罅割れていた。だが水滴は落ちて来ない。
「大丈夫。それなら心配要らない」
「なに言ってるの、もう」と、わたしは受け流す。
「理沙はもうずっとここに居られるから」
 彼は追う様に立ち上がりわたしを抱き締める。だけどわたしは本当に子供を迎えに行かなくちゃいけない。「心配要らないんだ、ずっと一緒だから」
 蝶の口器でも耳に差し込まれたような甘く、くすぐったい声だった。その甘美な響きはささやかな羽ばたきで、振りまかれた鱗粉の催眠作用はわたしの意識をすっかり溶かしてしまった。

   ■

 床に痩せ細った女性がいた。一目で死体と分かるほどに痩せていたが、目は見開いている。裸であばらは浮き、腰は出っ張り、髪は乾き乱れていた。もう唇と頬の境界はなくなり鼻は潰れてしまっている。女の死体の周りには崩れた壁の残骸とわたしの衣服があった。ベッドに腰掛けて、それを眺めているのは由紀夫だった。サイドテーブルには氷がすっかり溶けきった麦茶の入ったグラスがある。今思えばそこに睡眠薬が入っていたのだろう。
 彼の背後にはわたしが触れたあの罅割れた壁があった。そこからはまた一筋の水滴が垂れてくる。薄明かりの中だとそれは良く輝いていた。一体どれだけの時間が経ったのか、もうわたしにはわからない。この部屋には窓も時計もなければ、わたしには腕時計を見ることも許されていないからだった。六畳ほどの狭い部屋だが、手を伸ばして反対側の壁から流れるその水滴を指先で掬ってやることすら、もう叶わなず、今ではそれがただの湿気から出る水ではなく、生身の涙だとわたしにはハッキリとわかる。
 なぜならわたしもまた、僅かな罅割れを頼りに、涙で滲む向こうの世界を眺めているのだから。

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