やっぱりあなたを刺せない

 翔太は私の婚約者で、半年後に籍を入れる予定だった。

――結婚したら、もう少し広い部屋に移ろう。

 事件が起きたのは、そう話していた小さなアパートでだった。翔太とはこの部屋で同棲をはじめてからもう随分たつ。玄関を入ってすぐ右手に電子レンジを上に乗せた冷蔵庫があって、二口のコンロとシンク。左手にはトイレと浴室。三畳のキッチンの奥には居間兼寝室があって、引き戸が開いていた。
「ただいま」
 だから一瞬、その引き戸の奥で何が起こっているのかよくわからなかった。
 だって玄関からでも裸で寝ている翔太と明子の姿が見えたからだ。
 どうして翔太と明子が。本当にわけがわからなかった。
 明子とは幼馴染で、唯一無二の親友同士で、翔太は私の彼氏で、近い将来結婚する。
 二十九歳。大体一年後には三十になって、それに間に合うようにというわけじゃないけど、半年後に結婚する予定だった男と、自分の親友が愛し合っていた。
 私は小さな頃から跳ねっ返りが強いと言われたし、そういう性格だと自覚していた。例えば映画やドラマ、小説でそういう哀れな女がいて、愛する男が知らない女と寝ている場面に出くわし、言葉を失っていたりすると、どうしてこの人は浮気をした男を引っ叩かないんだろう、と疑問だったけど、今回は身を持って、物語の中にいた哀れな女たちがそうするしかなかったんだと思い知った。
 翔太のことは好きだった。今でも好きだ。変わらない。明子はすぐに服を着ると、何も言わずに部屋から出て行った。小さな玄関だ。明子が出て行くとき、彼女のコートの裾が、手袋をしていない私の手の甲に触れた。
 小さな部屋からは早めに広い場所へ引っ越しておくべきだったのかもしれない。狭い部屋で、何も喋らない翔太を眺めるのは辛かった。
「とりあえず、服着たら」
 布団から上半身だけ起こして、俯く翔太。解体工だから相変わらず身体は引き締まっている。私の枕にはまだ明子の痕が残っていた。足元には昨日、私が洗濯して取り込んだ翔太のボクサーパンツがある。
 翔太が部屋用のスウェットを掴んで、それを被ったとき、彼の顔が消えた。私の好きな男の顔は色褪せたスウェットに隠されて、一瞬だけそこにただの浮気男を出現させた。私は、まるで自分が怒るべきなんだ、と気づき、そうすると本当に腹が立って、持っていたハンドバッグを投げつけた。
「一体、何なのよ」
 Tシャツから顔を出した翔太は視線の置き場を探していた。
「いつからなの?」
「五年くらい前から」
 どうして嘘を吐いてくれないの。それじゃ私と付き合い始めた時期とそう変わらないじゃない。
「ずっと」
「うん。だけど――」
「もうやめて」
 叫んでいた。声を出すと、すぐに目頭が熱くなる。自分だけ何も知らずに、恋人が出来た、旅行にいった、プロポーズされた、籍を七夕に入れることにした、と浮かれていたのだ。惨めな自分が悔しかった。涙が抑えられなかった。
「ごめん」
 謝って欲しくなんてなかった。まだ私は翔太のことが好きだ。だけど裏切りは許せない。悔しい。怒りも悲しみも言う事を聞いてくれない。
 すぐ後ろの台所に向かい、洗い物の脇に差してある包丁を手に取っていた。何をしようなんて考えなんてなく、それは抑えの効かない自分が本能で下した結果だった。
 翔太のことは裏切られた今でも諦め切れない。彼に尽くした私の時間はもう返って来ないし、それが惜しいわけじゃないけど、わかる。ただ私は馬鹿で、まだ彼のことを愛しているのだ。
「許せない。殺してやる」
 鈍く光る包丁は私の伸びた腕の先にあって、床を差している。引き戸の手前に立って、私はまだ布団の中にいる翔太を見ていた。涙が止まらないせいで、喉が詰まる度に鳴った。殺したい。殺してしまえば全てが終わる。好きも嫌いも両立できる。怒りも悲しみもきっと落ち着くし、この愛だって続く。
「多恵子、落ち着こう」
 血相変える翔太。布団から飛び出すが、私に近づくことも出来ず、腰が引けているし、まだ下半身は何も履いていない。
「下着」
「わかった」
 翔太は茶色いボクサーパンツを拾って、それを履いた。「悪かったと思ってる。本当だ」
 うちにベランダはない。ここは二階で、外はまだ寒い冬だった。
「信じていたのに」
 これまでずっと真面目に生きてきた。中学、高校で問題を起こしたこともなかったし、専門学校に行って、国家試験に合格して保母さんになった二十歳の頃からずっと働いてきた。貯金だって翔太よりもずっと多い。翔太が乗ってるヴェルファイアだって私が金を出して買ってあげて、月々の保険料も払ってあげてる。翔太が欲しいというものは何だって買ったし、結婚だって彼が私を欲しいと言ってくれたからだ。実家に住んでいたけど、翔太が同棲したいっていうから、彼の職場が近いこの部屋を借りた。翔太と付き合った五年で貯金は増えるどころか減ってばかりだったけど、それだって彼のことが本当に好きだから、苦しくなかった。それなのに私はずっと裏で、愛していた翔太と幼馴染の明子に笑われていたのだ。私の翔太。よくも私を裏切ってくれた。
 許せない。殺したい。
「あなたは私を裏切った。ずっと私はあなたの為に尽くしてきたのに」
「謝るよ。本当にごめん。この通り。な、ごめんよ。多恵子。もう一回やり直そう。その手に持ってるものは一旦、置こう。まだ俺も死にたくないし、多恵子も刑務所になんて入らないほうがいいだろ? な?」
「ずっと笑ってたんでしょ」
「違う。違う。そんなことない」
 そんな言葉が欲しいんじゃなかった。思い返せば、私が一番の親友に会って欲しいの、と翔太に言って、明子を紹介したあの日から、全て狂っていたのだ。
「どうして私のことを捨てるの?」
 刃を向けていた。
「捨てないよ。捨ててなんてない」
「だけど明子と寝てたじゃない」
「あれは、あれは。ごめんよ。その、向こうが色々と仕事で悩んでいて、その話を聞くうちに。俺は、俺は、多恵子がいるからと言ったんだ」
 歯切れが悪い。私と目線を合わせようとせずに言い訳をするなんて、翔太はどうしてこんなに判り易いんだろう。
 好きだ。大好きだ。けどそんなんじゃ怒りも悲しみも収まらない。
 殺したい。私の全てだったのに裏切るなんて。許せない。絶対に許せない。
「殺す。もう信じられない。殺してやる」
「やめてくて。止してくれ。落ち着いて話そう」
「どうしてそんなこと言えるの? 明子は私の親友よ」
 怒っているのに涙が止まらない。悔しいから震えを止めようと思っても声が揺れる。「私の親友と寝るのが楽しいの?」
 明子とは親友だった。小学校の頃からの友人で、気づくと知り合ってからもう二十年以上経っていた。
 何かあったとき一番に相談するのは親でもお姉ちゃんでもなく明子で、彼女にしたってそれは同じことだった。自分の身に稲妻のような何かが降ってきたとき、一番に相談してくれる相手はいつも私だった。
「たった一人の親友なの」と叫んでいた。「あなただって知ってるじゃない。それなのに明子と隠れてセックスして楽しいの?」
「違う。楽しくない」
「じゃあなんでなのよ」
「多恵子、明子は遊びだ。本気じゃない。俺が本当に愛しているのは多恵子だけだ」
「本当?」
「本当だ。愛してるよ、多恵子」
 欲しかったのはその言葉だ。
 翔太の言葉は嘘じゃない。私にはわかる。五年間、ずっと一緒だったのだ。自信がある。
「よかった」 
 私は呟いた。「私も翔太のこと愛してる」
「わかってくれた? やっぱりお前は俺を刺せないんだから。じゃその手の包丁、置こうか? な?」と翔太は続ける。
「うん。私は翔太を刺せない」
 そんなの最初からわかってる。
「じゃほら、包丁、置こうよ、多恵子。な?」
 断って、そのまま部屋を出た。
 その晩、私は明子を殺した。

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