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「藝人春秋2、3文庫版」書評

 水道橋博士に聞いたことがある。

「書評と読書感想文の違いってなんですか?」

 博士は少しの間があって、こう教えてくれた。

「書評は、その文章自体にも芸術性や文学性があるんだよ。」

 この言葉を念頭に入れて、人生初めての書評を書いてみようと思う。

 藝人春秋はこれまで3作が出版されているが、1作目と今回の2,3作目で大きく異なる点がある。

 1作目は博士が「芸能界に潜入したルポライター」としての立場で書いているが、今作では「芸能界に潜入したスパイ」という設定となっている。いや、「設定」という言葉は適切ではないかもしれない。「芸能界に潜入したスパイが、その存在がバレてしまった後の手記」として書かれているというほうが適切である。

 読んで字の如くではあるが、ルポライターとはルポルタージュを執筆する者のことである。

 では、ルポルタージュとはどのようなものであるか。ルポタージュとは「現地で取材した記録に基づく記録文学」である。綿密な取材に基づく詳細な記録を客観的な視点で叙述したものだ。

 ルポタージュの定義をより明確に理解するには、「ルポライターとジャーナリストの違い」を考えるとよい。ジャーナリストの仕事とは、事実に基づいて「自己の意見を主張する」ことである。ルポライターとは客観的な視点で書く人であり、ジャーナリストは主観性で書く。

 では、「スパイ」とはどのような存在なのか。スパイというのは「誰かに雇われて諜報活動をする者」の総称である。諜報活動とは、秘密裏に情報を収集する活動であるが、広義には敵対する相手が不利になるような情報を流すことも含まれる。

 つまり、客観的に事実を取材する「ルポライター」と、依頼主の為の諜報活動として情報を収集する「スパイ」とは真逆の立場であるのだ。

 ついつい「藝人春秋」というタイトルにつられて一連のシリーズものとして受け取ってしまうが、本質として「藝人春秋」と「藝人春秋2,3」は正反対の立場から書かれたものなのだ。

 「藝人春秋2,3」において最も大切なことは、著者・水道橋博士がどのような存在として書いているか理解して読み進めることなのだ。「芸能人が書いた、芸能交遊録」として読んでしまうと、正直に言って違和感がありすぎるのだ。読み進めていくうちに心の中に重しが生まれて徐々に重量を増す。しかし、スパイの報告書として読むと、見え方が大きく変わってくる。

 ここで大きな疑問が生まれる。なぜ「ルポライター水道橋博士」は「スパイ・水道橋博士」に転職したのだろうか。ルポライターとしてトップクラスの成功を収めているのは周知のことである。いまさら生命を危険に晒してまでスパイになる必要がどこにあるのだろうか。

 まして私は思う。「ジャーナリストになればよいではないか」と。もちろんジャーナリストも命懸けの仕事であるが、危険性においてはスパイの比ではない。スパイとは活動自体が「非合法」であり、存在自体が否定されるような職業だ。なぜ今回スパイになったのか。

 私は一つの仮説を立ててみた。博士はそもそもが「スパイ」であり、世を忍ぶ仮の姿が「芸能界に潜入したルポライター」であったという仮説である。そうすると、様々な出来事が明快に繋がる。情報収集をしていても全く違和感がない。自分自身が芸能人として活動していれば、多くの著名人に簡単に接近することができる。

 カツラKGB「カツラ(K)ガンガン(G)バラす(B)」などは、まさに自分自身をスパイだと名乗ることで、本当にスパイなわけが無いと世間に思わせる、実に巧妙な印象操作だ。

 「水道橋博士は最初からスパイだった」という目線で考えると、水道橋博士が芸能界に入ってから今日に至るまでの一連の活動がすべて腑に落ちる。

 みなさんにも考えていただきたい。芸能界で成功して、芸能界で飯を食っていこうとする者が、なぜこれだけたくさんの不祥事を起こすのだろうか。まして、芸能界で一定の成功を収めたうえで、順風満帆の芸能人生を送っているにも関わらずだ。出身地倉敷市で神童と呼ばれた秀才ならば、不祥事によるダメージの大きさなど当然理解している。また、水道橋博士の周りにいる人々はみな口を揃えて言う。「水道橋博士は良い人」であると。

 良い人は不祥事を起こさない。良い人はすぐにSNSが炎上しない。

 つまり、すべては本来の意味での「確信犯」として行われており、なんらかの目的を達成するための手段にすぎないのだ。

 ところで、こんな話を聞いたことがある方も多いのではないだろうか。

「秘密を守るためには、秘密を教えない」

 スパイ小説などで、スパイが敵に捕まって拷問されても秘密を洩らさないよう「本来の役割を本人に教えない」という手法をとるというのを読んだことがないだろうか。また、スパイが自己催眠をかけることで「自分自身がスパイであることを忘れる」というシーンなどもわりとある。

 つまり、水道橋博士は自分自身がスパイであることを、最近まで気が付いていなかったのだ。「芸能界に潜入したルポライター」というのは、博士の雇い主が博士にかけた暗示であり、心理操作だ。。水道橋博士は自身がそうと気が付かないまま、様々な諜報活動を行ってきたのである。

 私の予想に過ぎないが、おそらく単行本「藝人春秋2」の執筆時に、博士はまで自分がスパイであることに本当は気が付いていなかったのではないかと思う。

 しかし、自分自身を「芸能界に潜入したスパイ」として執筆をしているうちに、気が付いたのだ。自分自身が本当にスパイであることに。今までのすべてが雇い主による操作であり、まったく自覚が無いまま、自分自身の意思決定として極めて自然に芸能活動という名の「諜報活動」をしてきたことに気が付いてしまった。

 文庫版では、藝人春秋2の解説をダースレイダーさんが、3の解説を町山智浩さんが書いている。解説として異例の1万字という量である。水道橋博士は、藝人春秋2と3が「フリとオチとして対になっている」としばしば発言しているが、解説も「対」になっている。

 ダースレイダーさんの解説は、あくまで「本当にスパイである」という自覚のない状態の水道橋博士の目線で書かれており、町山さんの解説は「自分は本当にスパイだった」と気が付いた後の水道橋博士の目線で書かれている。そういう視点から読み込むと、もう一つ深い藝人春秋の存在意義を知ることとなる。

 ところで、水道橋博士はいつスパイになったのだろうか。本人の自覚がないままスパイを作り上げるなど、本当に可能なのだろうか。

 映画『メン・イン・ブラック』のように、記憶を消す便利な装置など現実にはあり得ない。しかし、都市伝説でこんな話を見聞きしたことがある。

 「ある日新聞に、意味の分からない文字が羅列された広告が掲載される。それは一定以上の知能指数を持った者だけが解読できる暗号であり、その暗号を解くと別の情報にアクセスできる。すると、次の情報もまた暗号であり、それを解いて次に進む。そして最終的にたどり着く先は国家の諜報機関であり、スパイに採用される」

 つまり、スパイというのは適性がなにより重要であり、適性を持った者を徹底的に鍛えて諜報活動に従事させるのだ。

 では、水道橋博士はどのようにして選抜されたのだろうか。そういえば、スパイというのは少年期からその適性を見抜いてスカウトされるという。

 水道橋博士が少年の頃。深夜に電波でそのような適性を見抜くためのテストが送信されていたという噂を聞いたことがある。その電波では、速射砲のように言語が発信され、日本中の若者がそれを耳にしていたらしい。

 しかし、本当のメッセージに気が付く者はごくわずかだったという。もちろん、その速射砲は言語の表面だけを受け取っても十分に刺激的であり少年たちの心を捉えるものであったようだ。

 倉敷に住む小野少年は、無意識のうちに気が付いたのだ。そのメッセージの本質にある暗号の答えに。そして少年は東京に向かう。数年の後に彼は本格的に諜報活動に従事する。

 そう捉えることで、水道橋博士の全ての行動に説明がつくのだ。 ここまで読んでいただいた方には、このような疑問が湧き上がるのではないだろうか。「諜報活動であることを、なぜ文字にして出版するのだろうか。」と。諜報活動であるなら、それをそれと知られないように発信すればよい。水道橋博士には、それができるだけの知名度も信用度も十分にあるではないか。なのに、なぜこれだけ大きなリスクを抱えてまで「諜報活動を諜報活動として」わざわざ発表したのか。

 ここでまた私の仮説を述べる。情報戦における戦法のひとつに「秘匿された情報を広く公開することで情報を無価値にする 」というものがある。敵に情報を盗まれてしまった場合に、その情報を公開して無価値化することで防諜するという戦法である。

 とするのであれば、今回水道橋博士が藝人春秋3で書いた様々な内幕について町山智浩さんが解説で更に踏み込んだ内容を書かれていたことが理解できる。博士は追い詰められていたのだ。絶体絶命の状況から起死回生の一手として藝人春秋2上下巻を書き記し、文庫版で更に深層まで掘り下げて公開するに至ったのである。

 残念ながら、私の知りうる情報では水道橋博士が追い込まれるに至った真相や現在おかれている本当の立場が詳細には分からない。一定の事実は知るに至ったのだが、残念ながら「真実」にはたどり着けていない。

 「事実と真実は異なる」とはよく言われるが、特に芸能界とプロレス界においてそれは顕著である。当事者が自覚なく記憶を改ざんしてしまうことが常態化しており、また「声が大きな人」が発言すると、事実と異なってもそれが事実として流布し、研究者たちもそれを事実として史実に刻んでしまう。

 しかし水道橋博士は違う。毎日事細かに文字で記録を残している。参考文献や資料も現物で数多く保存している。水道橋博士が綴る文章には、常に明確なエビデンスが存在しているのだ。

 これだけ明らかな事実を積み重ねても、水道橋博士の諜報活動の目的にたどり着けないというのは、事実は公開しても水道橋博士自身がその目的をかたくなに秘匿しているからに他ならない。

 当たり前である。スパイなのだからその目的は死んでも話すわけが無い。仮に話したとしても、その言葉が真実であるかどうかを確かめる術はないのだ。あくまで水道橋博士が「目的は〇〇である」と語った事実が残るだけなのだ。

 なぜ水道橋博士が徹底して「ルポライター」として発信し続けるのか。密命を帯びたスパイであると告白したにもかかわらず、真の目的は明かさない。

 まだスパイとしての任務が完了していないのだからそれは当然である。目的を明かすスパイなど存在しない。明かした瞬間からその人はスパイでなくなる。

 水道橋博士はしばしば「無意味なことをする」人である。本人は「意味がないっていうのが面白いんだよ」と言うものの、果たしてそれは本当なのだろうか。一見して意味がない事に実は意味があって、それに気が付くかどうかで誰かに何かを試しているのではないだろうか。かつて水道橋博士自身がそうされたように。

 このように疑問は尽きないが、芸能界という連綿と続く大河ロマンの一遍として、本書は実に多くの事実を明らかにしている。かといって、これを読めば全容が分かるものではない。しかし、真実にたどり着くために欠かせないたくさんのピース(欠片)を内包していることは紛れもない事実なのである。

 アメリカFBIの創設者でもあるジョン・エドガー・フーヴァーの話を思い出した。フーヴァーは政治家達の情報を非合法に収集した「フーヴァー・ファイル」の存在により、影響力を蓄えていった。アメリカ大統領をはじめ、政府要人のスキャンダルを収録していたので、誰も彼に手を出せなかったという。

 ついスパイというと国際的な機関を思い浮かべてしまう。CIAやMI6など映画やドラマでよく見かけける諜報機関は、国際的な活動をしている。しかし、FBIは国内で同胞に対して諜報活動をすることで国家を動かしていった。しかし、それは私利私欲に基づくものであったのだろうか。もちろんフーヴァーは毀誉褒貶の人物であり、後年その手腕に疑義が多い。しかし、彼の果たした役割というのも実に大きい。彼の存在が無ければ起きた悲劇も決して小さなものではないと言える。

 私が様々な書籍を読み、芸能界における活動を知る限り、水道橋博士がフーヴァー長官の役割を果たしているとは思えない。しかし、FBIのような組織の一員である疑いは限りなく濃い。

 芸能界という国内において諜報活動をしている水道橋博士の上司はだれなのだろうか。もちろん、思い当たる人はいる。だが目的と確証がどうしても得られない。

 しかし、本書を読むことで、確実に真実に近づいている手応えは大いに感じている。

 ちなみに、私は現在水道橋博士の運転手「ハカセードライバー」に就いている。私が自認する立場は「お笑い界に潜入したジャーナリスト」であり、ハカセードライバーは取材活動の一環である。

 内側から著者に接近できる立場として、更に調査研究を進めていきたいと思っている。しかし、この状況が「見えざる手」によって無自覚のうちに操られているだけなのではないかという恐怖も感じている。

 それでも、真実を渇望してしまう。知った先に何があるわけではない。根源的な欲求なのか、心理操作の結果なのか確かめる術などないのだが、自分を止める方法が思いつかないという事実だけがある。

皆さまの支えがあってのわたくしでございます。ぜひとも積極果敢なサポートをよろしくお願いします。