私以外の誰かになりたい

こんにちは。小野あやです。
今日は、「私以外の誰かになりたい」について。

私は、よく私のことを私として見ないようになってほしい、と思うことがある。
私は高校生の時、演技の魅力に取り憑かれ、それを未だに引きずっている節があるのだと思う。
演技をしている時は何をやっても、何を言っても許される。
見ているみんなが、それが私自身の言葉ではなくて、私の本心ではないことをわかっているから。
役のせいで「仕方なく」それをしているのだと思ってくれるから。
「こんなことしたらこう思われる」、そんな恐怖から逃れて私の心は自由になる。舞台の上で私は感情のままに生きられる。
勝手な自分の規則でがんじがらめになっている私にはすごく魅力的な世界だ。

そんなわけで、私はよく、私以外の誰かになりたいと思う。
では私の理想の姿はなんなのか、少し考えてみた。

例えば私は私ではなくなって、憧れのあの人になったとしよう。
それでも精神は私なのだから、自分がどう思われているか気にしてやっぱりうまく動けなくなってしまうと思う。
憧れの人になったから、自分への自信はついてある程度は行動に自由さが生まれるかもしれないけど、それはきっと慣れたら薄れてしまうだろう。

では演技はなぜ楽しいのか。演技と、自分以外のリアルな誰かになるのとは何が違うのか。 
きっとそれは、「自分が成り代わった誰かの生命活動の責任を負わないこと」だと思う。

演技中に暴れても、叫んでも、それを理由に仕事をクビになって次の日から食べていけない、なんてことはならない。
周囲の人に避けられて、それから一生一言も話さずに生きる、なんてこともない。

では、自分以外の誰かに成り代わって、その成り代わった自分の生命活動の責任を誰かが負っているとしたらどうだろう。
それってどういう状況?

例えば、私の衣食住の面倒は誰かが見てくれるということか。
だとしたら人間関係は?
何をしたって許される、そういうところが良いんだよって褒めてくれる環境、もしくは毎日別の場所に移動して過ごし、その場限りの関係性を続ける生活か。
どちらにしても満足のいく幸福感を得るのは難しい。

人間関係が鬼門だ。
それは、いいこともわるいことも含めて、お互いを知り、関係性を模索し、時間をかけて構築するものだから。

やはり、理想は、日々自分の人生を生き、たまに演技なりゲームなり読書なり歌なりで自分という存在から逸脱し、他の人格に成り代わって息抜きする、ということなのだろう。

日々息苦しくて思い悩んでいる今は、自分の人生をどこまで自由にしていいか、どこをある程度諦められるか、模索していかないといけないな、と思う。

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