植民地支配と近代化

・2010年10月7日、ブログに公開した文章の転載

○植民地支配する側の論理


現在先進国と呼ばれている国は、多くの国が過去、他国や他の地域を植民地支配していたが、その理由・原因の第一は経済的な利益・利権確保だっただろう。
そして、他者を支配・征服したいという支配欲・征服欲が植民地支配を促進したと考えられる。
だが、近代的な価値観では、他者を力によって支配・征服することは悪いことだとされている。
そのために道義的に悪いこと(他国や他の地域を植民地支配すること)を正当化するために、自分たちの行為(他国や他の地域を植民地支配すること)は、近代化していない文明の劣った国や地域に、近代文明の恩恵をもたらす正しい行為なのだという理屈を考えだしたといえる。
もちろん、「他者を力によって支配・征服することは悪いことだ」という価値観・倫理観をもっていなければ、わざわざ、自分たちが他国を支配・征服することは近代文明の恩恵をもたらす正しい(良い)行為なのだなどという屁理屈を唱える必要はないわけだから、植民地支配を正当化している人たちは、心の底では植民地支配が道義的に悪いことであると思っているのだろう。

ただ、文明の劣った国や地域を支配・征服して、文明の恩恵をもたらすことは良いことであるという考え方は、ローマ帝国の時代からあったのかもしれない。
ローマ帝国に限らず、古代から文明の発達した国や地域は、文明の恩恵をもたらすということを口実にして、自らの他国や他民族の支配を正当化していたのかもしれない。

この場合、文明の劣った国や地域、近代化していない国や地域を支配・征服することは正当化できるが、文明の進んだ国や地域、既に近代化してしている国や地域を支配・征服することは悪いことであると考えていたのかが疑問となる。(ローマ帝国による周辺地域・周辺民族の支配・征服は正しいことだが、逆にローマの周辺民族がローマ帝国を武力攻撃することは悪いことだという考えをもっている人は意外と多くいるのかもしれない。ローマ帝国を現在のアメリカに、ローマの周辺民族をイスラム教徒テロリストに喩えるような考えもちらほらと目にする。)
なお、ブッシュのイラク攻撃に象徴される、非民主主義国家を民主主義化させるということを目的(口実)にして武力攻撃し、支配・征服することは正しいことだというネオコン的な思想は、「文明化」「近代化」していない国や地域を、文明化・近代化させることを目的に支配・征服することは正しいことだという考えの新バージョンだといえる。

植民地支配を正当化する考えは、目的が近代化させることである場合は正当化できるという考えと、植民地支配した結果、その地域が近代化した場合は、植民地支配は正当化できるという考え方がある。
前者の場合、植民地支配された地域が近代化しなかった場合は、植民地支配は間違っていたということになる(植民地支配した側の人間の中には、支配された側の人間たちのレベルが低いから近代化が成功しなかったのだなどという自分勝手な主張をしている人も結構いそうである)。
後者の場合は、植民地支配する目的が「近代化」以外の点にあったとしても、結果としてその地域が近代化されれば、植民地支配は正当化できると考えているのかもしれない。

近代化していない国や地域を近代化させるためには、他国や他の地域を植民地支配しても構わないという考え方を「近代化至上主義」と名付けたいと思う。
なお、現実の歴史・国際政治の世界では、高度な文明をもった国・いちはやく近代化した国が、文明の劣った国や近代化していない国を支配・征服しようとした場合、文明の劣った国や近代化していない国は、経済力や軍事力・政治力が劣るために、充分に抵抗・対抗できずに植民地とされてしまうのが実際のところだろう。文明自体が劣っていても、近代化していなくても、文明国・近代国家に対抗できるだけの軍事力や経済力・政治力があれば独立は維持できるだろう。

○植民地支配される側の論理


植民地支配する(した)側の国では、自国の行う(行った)他国の植民地支配を肯定するか否定するかといった点が議論されるが、植民地支配される側の場合はもう少し議論が複雑になる。
植民地支配を受容するか拒絶するか、近代化をめざすか否定するかといった点から4つの立場にわかれる。
1・植民地支配を拒絶し、自分たちの手で近代化をめざす立場。
2・植民地支配を受け入れ、宗主国の力を借りて近代化をめざす立場。
3・植民地支配は受け入れるが、近代化は否定する立場。
4・植民地支配を拒絶し、近代化も否定する立場。

1の「植民地支配を拒絶し、自分たちの手で近代化をめざす立場」は、明治維新期の開明派の志士たち、明治国家初期の政治指導者たちが典型的なタイプだろう。
2の「植民地支配を受け入れ、宗主国の力を借りて近代化をめざす立場」は、台湾や朝鮮の親日派の人たち、日本の植民地支配の結果、近代化がもたらされたとして、これ(日本の植民地支配)を肯定的に評価している人たちが典型といえる。自国の独立よりも近代化の方が大事だと考える「近代化至上主義者」といえる。
3は、自国の近代化を否定する伝統主義的な政治権力者や指導者たちが、植民地支配する国と結託して、植民地支配の下で自分の権力を保持する場合の立場だろう。
この場合は、自国の独立よりも、自分の地位を保全・維持することを優先しているといえる(所詮、傀儡政権としての地位にすぎないが)。
徳川幕府の指導者たちが、欧米諸国を味方につけて倒幕派と戦い勝利した場合は、この立場になっていたかもしれない。
4の「植民地支配を拒絶し、近代化も否定する立場」は、幕末の反近代的な攘夷派がその典型だろう。植民地支配を拒絶し、日本の独立を守ろうとした点では開明派の維新志士と共通点があるが、近代化をめぐって根本的な価値観の対立があったといえる。

もちろん、植民地支配を受け入れるか拒絶するかは、現実的に独立の可能性があるかないかによってかわってくる。
完全に外国の従属下におかれ、独立の可能性がなくなった場合は、消極的な形で植民地支配を受け入れるか、反体制活動を行うか、ゲリラ化・テロリスト化するかしかなくなるだろう。

また植民地支配をする側は、相手国の国内の分裂状態を利用して植民地支配を実施しようとするから、2か3の考え方の勢力を味方につけようとするだろう。
2の立場の勢力を味方につけて植民地支配を行う場合は近代化政策を進めるだろうし、3の立場の勢力を味方につけた場合は、1の立場の反体制勢力を弾圧することになるだろう。

「植民地支配」を「アメリカとの協力関係」に、「近代化」を「民主主義化」に読み替えてアメリカの対外政策をみた場合、イラクに対しては「民主主義化」を口実にして武力攻撃を正当化するが、サウジアラビアなどの国では3の立場(「アメリカと協力関係を築き、民主主義化を否定する立場」)の政治指導者と協力関係をもつという二枚舌外交を展開しているといえる。

○「占領」と「戦後の民主主義」


「植民地支配」を「占領」に、「近代化」を「民主主義化」に読み替えた場合、「植民地支配される側の論理」で提示した4つのモデルが、そっくりそのまま戦後の日本にあてはまる。
1・占領を拒絶し、自分たちの手で民主主義化をめざす立場。
2・占領を受け入れ、アメリカの力を借りて民主主義化をめざす立場。
3・占領は受け入れるが、民主主義化は否定する立場。
4・占領を拒絶し、民主主義化も否定する立場。

「戦後民主主義者」と言われた人たちは、大部分が2の立場といえるだろう。官僚や政治家たちで、日本の民主主義化をめざした人たちもこの立場といえる。
戦後すぐの時期の保守的・右派的な政治指導者の多くは、3の立場だったかもしれない。
「反米右翼」とレッテル付けされた人たちは、典型的な4の立場だろう。
1の立場の人たちはあまり思い浮かばないが、「新左翼」と言われた人たちはこの立場に近いのかもしれない。
ただ、マルクス主義者の唱える民主主義は、欧米のリベラル・デモクラシィに基づいた民主主義とはかなり異なるので、1の立場といいきるのは無理があるかもしれない。

ただし、戦後の日本がアメリカの従属状態から脱却できる可能性は、日本が太平洋戦争に勝利する可能性よりも低かっただろうから、「占領を拒絶する」と言っても言葉の上の問題にすぎない。
本気で「アメリカの従属状態から脱却したい」と考えた人は、三島由紀夫のように命を投げ出してアピールをするか、右翼・左翼の活動家のように市民社会・市民生活から遊離し、公安からマークされる存在になってしまうのがオチだろう。
日本の民主主義に関しても、日本人だけの力で民主主義化を達成することができず、占領軍の力によって多くの民主主義的な政策が実現してしまったために、戦後の日本は民主主義的な制度があるだけで、実態は民主主義とは程遠い、形式的な民主主義国家・形骸化した民主主義国家にすぎないように私には思える。

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