押しつけ憲法論について

・ブログに2010年6月2日公開した文章を転載

 戦後の憲法に対しては、「押しつけ憲法」という批判が長いことなされてきた。

だが、「押しつけ」というのは、制定過程よりもむしろ心の状態をあらわしている言葉といえるだろう。

 憲法は、それがどのような制定過程によってつくられたとしても、それを好ましく思わないものにとっては、押しつけられたものとなるだろう。

戦後の憲法が、「日本の国家が軍隊と交戦権をもつことを禁止していないもの」だったとしたら。

9条のみを改正して、その他の条文は現行のままでよいと考えている人は、その憲法を「押しつけ」だといって非難するだろうか。

憲法全体を明治憲法のようなものに戻すべきと考えている人は、その場合でもやはり「押しつけ」だといって非難するだろう。

だが、9条のみを改正すべきと考えている人は「押しつけ憲法」といった非難はしないだろう。

 現行憲法の内容に不満をもつ人たち、現行憲法を改正したいと考えている人たちが、憲法改正を正当化するための口実として「押しつけ憲法論」を主張しているだけだとも考えられる。

(憲法9条に関しては別の解釈も成り立つ。軍隊と交戦権が禁止されたことによって去勢されたと感じている人たちが、9条を改正することによって、占領軍によってボロボロにされた誇りと自尊心が取り戻せると考えているのだろう。)

 ただ、学者や評論家などが押しつけ憲法批判をするのは、表現の自由の範囲内のことだからなんの問題もないが、与党の政治家たちが、自分たちが遵守すべき憲法を「押しつけ憲法」だといって批判しているのは問題があるだろう。

 まず第一に、戦後憲法が「押しつけ憲法」だということは、それが正当性のない憲法だと主張しているのかという点。

もし戦後憲法が正当性のないものであるのなら、憲法に基づいて権力を担っている政府、与党もまた正当性のないものだということになる。

また、憲法を最高法規として構成されている法律も正当性のないものとなる。

 もっとも、与党の政治家たちの多くは、戦後の憲法を「押しつけ憲法」だといって非難はしても、正当性のないものだとは主張していないのかもしれない。

「押しつけられた憲法だが正当性はある。」という主張は、矛盾したものではないが滑稽なものではあるだろう。

正当性のない憲法だというのであれば、それを正当性のあるものにする必要がある。

だが、押しつけられたことが問題であるのなら「憲法選び直し」のような手続きを経て、押しつけられたものでなくすればすむ話である。

 また、革命でもおこして権力を握った上で新憲法を制定しようと考えている人たちが、「押しつけ憲法」批判をするのなら理解できる。

だが、押しつけられたといって批判している憲法をいったん受け入れた上で、その憲法に基づいて権力を手にした政党や政治家が、憲法批判をしながら権力の座にしがみついている姿は見苦しいだけだろう。

自主憲法を制定したいのであれば、野に下り革命運動でも行うべきである。

 そもそも、戦後の憲法を「押しつけ憲法」だといって非難するのであれば、非難の矛先は現行憲法を受け入れた昭和天皇や政党、政治家、官僚などにも向かわなければいけないだろう。

非難されるべき立場にいる保守政党の政治家たちが、当時の天皇や政党、政治家たちの行為(現行憲法を受け入れたこと)を仕方のなかったこととして擁護しておきながら、一方で「押しつけ憲法」批判をしているのだからおかしな話である。

 第二に、国民の多くが、押しつけられた憲法だから改正するなり自主憲法を制定するなりしなければいけないと考えているのならともかく、国民の多くは戦後の憲法をよい憲法である、改正する必要はないと考えていた筈である(1980年前後の新聞の世論調査では、7割から8割の人がそう考えていた。現在ではその割合はだいぶ減っているだろうが)。

 国民の多数が支持している憲法を、「押しつけ憲法」だといって非難しているというのは、自分たちは民意を尊重する意思がないということを表明しているのと同じだろう。

 もし民意を尊重する意思があるのなら、まず「憲法選び直し」などの手続きを経て押しつけられたものではなくする。

そして、その後に、改正したい条文を憲法に定められた手続きに従って改正すべきである。

 「押しつけ憲法論者」たちの最大の欠点は、「憲法を押しつけられたものでなくする」という行為と、「憲法の内容を自分たちの納得できるものにする」という行為を同時に行おうとしているところにある(逆にこのことから、彼らが一番問題にしているのは、憲法の「制定過程」ではなく「内容」であるということがわかる。自分が内容に不満のある憲法を、外国から押しつけられたものではなく、国民が選び直したものにすることだけは避けたかったのだろう)。

 また、「押しつけ憲法論者」の中には、「押しつけられた憲法だから改正しなければならない」と主張している人もいるが、この主張は論理的になりたたないだろう。

押しつけられた憲法に定められた手続きで憲法を改正したのであれば、内容がかわっても、憲法そのものが押しつけられたものであることには、かわりがないだろう。

 憲法を押しつけられたものでなくするには、あらたに自主憲法を制定するか、現行憲法と同じ内容のものをあらたに制定し直すかしかないだろう。

(ただし、どちらの場合も、革命もおこさずにどのような方法と論拠で新憲法を制定するつもりなのかという問題があるが。)

 最後になるが、「押しつけられた憲法だから内容をかえなければいけない」という主張で筋がとおっているのは、憲法全体を明治憲法的なものにかえようという主張だけだろう。

国民主権と象徴天皇制など、占領軍が日本の政治指導者に押しつけた内容はすべてかえなければいけなくなる。

外国が押しつけたものであっても、自分(たち)が受け入れられるものはそのまま残し、受け入れられないものだけをかえようというのであれば、それは単に内容に反対だから改正すべきという主張にすぎず、外国から押しつけられたからかえなければいけないという理屈にはならないだろう。

注)この文章は、元々は2009年の政権交代よりも前に書かれたものです。この文章中の与党とは、55年体制下の与党=自民党という意味で使用しています。

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