見出し画像

【オレステス・デストラーデ】キューバから亡命しメジャーに上がるまで8年を要した苦労人は来日すると大活躍 黄金期を迎えていた王者 西武ライオンズの中核を成しカリブの怪人と恐れられた最強のスイッチヒッター

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた愛すべき助っ人たち。
今回は、オレステス・デストラーデを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=T0syeoqKCUU&t=39s

1962年、フィデル・カストロ統治時代のキューバで産まれた
デストラーデは、5歳の時、家族とともにメキシコを経由して
ニューヨークに住む叔父を頼りにアメリカに亡命します。

生活は苦しいながらも父はタクシーの運転手、
母はスペイン語の教師として、お金を貯めると
亡命キューバ人のコミュニティがあるマイアミに引っ越しました。

9歳の時、のちにメジャーリーグで2度の本塁打王となる
フレッド・マグリフと出会い、野球を始めると
右で打っていた打撃を元々の左利きである
左打ちに変更しましたが、
今度は左投手の変化球に苦しんだことから
左投手の時だけまた右打ちに戻した事で
スイッチヒッターとしての礎が完成します。

進学したフロリダ短大では58試合で23本塁打の
シーズン記録を更新、この活躍が注目され、
1981年、ニューヨーク・ヤンキースと契約しましたが
右足の靭帯断裂など大ケガに見舞われ、8年間の
マイナー生活を余儀なくされました。

1988年、ピッツバーグ・パイレーツの3Aバッファロー・バイソンズ
に移籍すると4番として活躍、その情報を聞きつけた
中日ドラゴンズや近鉄バッファローズ、さらに
子どもの難病治療のため途中退団した
ランディ・バースの代役を探していた阪神タイガースの
3球団からオファーが届きましたが
「出場機会が少なくストレスを抱えていたけど
それでもメジャーでプレイを続けたかった」と
契約には至りませんでした。

しかし迎えた1989年のシーズンが開幕してもパイレーツで
チャンスが訪れることはなく、失意の中にいた
デストラーデに、絶好のタイミングで声がかかります。

3年連続チャンピオンとして王者に君臨していた
西武ライオンズでしたが5月の時点で首位の近鉄に11.5ゲーム差を
つけられて低迷、その要因の1つでもあった不振の助っ人
バークレオの後釜としてデストラーデに
白羽の矢を立てました。

代理人から「今、日本の西武ライオンズに行けばチャンスはある」
との言葉を受け、27歳と脂が乗っていながら出場機会に飢えていた
ハングリーな若きスイッチヒッターは妻と相談、日本で挑戦する事を
決断して年俸3250万円で海を渡ってきたのです。

6月7日に来日、2軍での調整期間を経て
6月20日の初戦でいきなり本塁打を放つ
衝撃デビューを飾ったのでした。
その後は83試合で32本という驚異的なペースで
本塁打を量産し高い評価を受けた翌1990年、

キャンプ初日から参加して日本人選手たちと同じ
練習メニューをこなし、迎えたシーズンは大爆発、
42本塁打に106打点の二冠に輝くと、最強対最強の対決と
謳われた伝説の日本シリーズが幕を開けました。

2位オリックスに12ゲーム差をつけて独走優勝した西武を
迎え撃つのは、槇原、桑田、斎藤ら二桁勝利投手5名を擁し
2位広島に22ゲーム差をつけて、ぶっちぎりの
セリーグ優勝を果たした藤田監督率いる読売ジャイアンツ。

下馬評では巨人有利の中、デストラーデがいきなり見せます。

第1戦の第1打席
「5万人の大観衆の音がまったく聞こえないほど集中していて
ボールがスローモーションのように見えたよ。
あんな瞬間は二度とないし忘れられない生涯最高のホームランだね」
の言葉通り、

槙原から先制3ランを放つと
2戦目も20勝投手、斎藤から特大アーチ、
3戦目は桑田から初回に先制タイムリーと
巨人の誇る3本柱を粉砕、そのまま4連敗した巨人の選手会長、
岡崎は「野球観が変わってしまった」と放心状態で
うつむいたほど圧倒的な力の差を見せつけたのでした。

デストラーデは打率3割7分5厘をマークし
シリーズMVPも獲得、チームは4連勝で日本一という
快挙を成し遂げます。

年俸1億3000万円で契約を更新した1991年も
39本塁打に92打点と2年連続の二冠を獲得、
翌年も41本塁打で3年連続となる
ホームランキングに輝いたシーズンオフ、
西武に全く不満はありませんでしたが
地元フロリダに今シーズンから出来たメジャー新球団マーリンズの
スカウト、元横浜カルロス・ポンセから誘いがあり
2年4億円でメジャーリーグに復帰を決めました。

地元マイアミ出身者としてファンから
「オー」の愛称で歓迎され、こけら落としの
開幕戦で4番(よばん)を任されるとチームトップの20本塁打、
87打点の成績を残しましたが
翌1994年は思うように調子が上がらないばかりか
娘の病気という心労も重なり、一時は引退の道を選びます。

しかし同年10月、日本シリーズ制覇を逃した西武ライオンズが
再契約の意向を表明すると
年俸2億円で復帰を決意、春季キャンプから来日して
迎えたシーズンでは
高校時代に投手をしていた経験から5月9日の
オリックス戦に8回裏2アウトから投手として登板を
果たしましたが
打撃の方は野球から半年間離れていたブランクも影響してか
なかなか調子が上がらず、
シーズン途中の6月9日、退団となり帰国の途(と)につきました。

アメリカに戻ってからは
地元タンパベイ・デビルレイズでディレクターを務めたり、
テレビ局の解説者、野球教室などを開催しながら
身長があと10センチ高かったらバスケットボールの選手に
なりたかったというほど大好きなバスケを自宅に作った
コートで楽しんでいるようです。

左右両打席から本塁打を量産し、スイッチヒッター初の本塁打王に
なるなど黄金期の西武ライオンズを支え、
特に1990年の秋山、清原とのAKD砲は全員30本塁打以上、
二桁盗塁を達成した打てて走れる史上最強のクリーンアップとして
王、長嶋のON砲や山本、衣笠のYK砲をしのぐと
他球団から恐れられました。

3回出場した日本シリーズでは全て第1試合の
第1打席でホームランを放っている驚異の集中力から
ミスター・コンセントレーションと呼ばれ、
大舞台になればなるほど力を発揮する勝負強さや
3年連続で二桁盗塁を記録する走塁技術も併せ持つなど
相手投手にとっては気の抜けないカリビアンは
日本で対戦した投手について、

「野茂英雄は最高の投手、打率1割台でカッコ悪く三振して帰ると
監督から、おい、野茂にはノーチャンスだな、休養日にして
やろうか、と笑われたね。野茂がメジャーに行った後、友人の
カルロス・バイエガがアドバイスを求めて来たくらいさ。
私も苦しめられたから、あなたも同じ苦しみを味わいなさいって
言ってあげたよ。それからロッテの村田兆治はマウンドから
オーラを感じられたね」と評し、

「打者だとブーマーは外国人で最高の選手じゃないかな。
秋山さんはメジャーでも主力として活躍できただろうし
石毛さんは野球観に優れていて、最高のリーダーだったね」
と語っています。

兄と同じ弁護士を目指していた事もあるという
メガネをかけて物静かな姿から牧師のようだと
評されていた知的な助っ人は、試合前のベンチで小説を読みふけり
落ち着いてコーヒーを飲みながら集中力を高めていました。

ひとたび試合が始まると豪快な本塁打を放ち
「Boom!」(ブン)と雄叫びを上げながら軽くステップ、
弓を射るようなデストラーデポーズを披露する背番号「39」は
オーレの愛称でファンやチームメイトから愛されました。

日本語を習得し、趣味がコンピュータいじりや読書という
聡明な助っ人は、時事ネタのほか、サブカルチャーまで
対応できるほどコミュニケーション能力も高く
辻らとカラオケに行っては、十八番(おはこ)である
森昌子の越冬つばめを歌い、志村けんのモノマネをしては
いつも仲間を笑わせていた陽気なムードメーカーで

「チャンスがあれば日本で監督として働きたいよ。
僕は数多くの国の文化を経験しているから選手へのアプローチの
仕方もいろいろ分かるし、見る目はあると思っているからね、
それにカレー、ラーメン、ステーキ全部アメリカより美味しい
日本が恋しいんだ、東急ハンズにも行きたいね」
と、マスターズリーグやWBC東京ラウンドの仕事で
来日しては、日本での夢を公言しています。

スイッチヒッターとして日本初の本塁打王を皮切りに
3年連続のホームランキングに2度の打点王に輝き
これぞ王者のクリーンナップという打撃を見せてくれた
カリブの怪人、オレステス・デストラーデ。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!