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【カルロス・ポンセ】横浜大洋ホエールズ時代にもっとも愛された助っ人。スーパーマリオブラザーズにそっくりな風貌で大活躍したポンちゃん。その隠された努力とは?

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、カルロス・ポンセを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Hyuxb8PUbQ8&t=120s

プエルトリコで生まれ、野球を始めたポンセは、
南ジョージア大学に進学、ミルウォーキー・ブリュワーズに
入団した1985年、マイナーリーグを経て
メジャーデビュー、21試合に出場しましたが、
翌1986年にはメジャー登録40人枠から外れてしまいます。

そこに目を付けた、横浜大洋ホエールズの牛込スカウトが
チームの4番候補として口説き落とし、日本に来ることになりました。

1986年、来日1年目から4番として活躍、
特に俊足選手を好んだ近藤監督から重宝され、
高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオはもちろん、
それに続く、4番ポンセも18盗塁、
敬虔なクリスチャンで引退後は牧師となった5番ダグ・ローマンも
14盗塁と足が速く、
フリーウェイクインテットと呼ばれていました。

最終的に、打率3割2分2厘、
27本塁打、105打点と素晴らしい活躍を見せ、
期待に応えた翌1987年も、

シーズンの最多安打159安打に打点王とベストナインの
タイトルも手中におさめ、
打率3割2分3厘、35本塁打、98打点をあげ、
ハマの4番として不動の地位を確立いたします。

3年目の1988年はオールスターゲームにも出場、
シーズン通して
33本塁打、102打点の好成績で、本塁打王に輝いただけでなく
2年連続の打点王、ベストナイン獲得と
万年Bクラスだった球団を孤軍奮闘、支えたのでした。

この頃は助っ人黄金期と言われた時代、阪神のバースは
もちろん、ヤクルトのホーナーに巨人のクロマティと
今なお語り継がれる最強助っ人が各球団に所属していて、
三冠王ランディ・バースがいなければ
ポンセがタイトルを総なめしていただろうとさえ
言われたのです。

対戦した投手の中でも、中日の郭源治、広島の川口、
巨人の槙原は本当に素晴らしかったね。打者では、
ランディ・バースの凄まじいパワーと、
中日の落合の巧みな技術は
今も脳裏に焼き付いているよ、と後に語っています。

1989年は動体視力が低下したことにより、打率2割6分4厘ながらも
24本塁打、81打点をあげましたが、4番打者としては物足りないと
考えた球団により翌年、二軍生活を余儀なくされ退団となりました。

引退後は、アメリカフロリダ州ウエストパームビーチに
拠点を移し、バドワイザーのトラック運転手を16年間やりながら、
モントリオール・エクスポズやフロリダ・マーリンズ、そして
古巣ミルウォーキー・ブリュワーズで7年間にわたり
マイナーリーグの監督や打撃コーチを務めました。

2019年には、フェイスブックを通じて偶然知り合った
日本人の友人を通じて、日本向けのYouTubeチャンネルを
開設、野球レッスンをメインコンテンツにポンセを
懐かしむオールドファンを楽しませてくれた翌2020年、

なんとそのYouTubeチャンネルを見た台湾人から
思いもよらないオファーが届きます。

巨人でも活躍した呂明賜(ろめいし)が所属していた
台湾プロ野球の名門チーム、
味全ドラゴンズ(ウェイチュアン・ドラゴンズ)
の打撃コーチ就任要請を受け、台湾に渡ったのでした。

いつの日か日本で、大好きな横浜で監督になりたいと
公言しているポンセは、退団後もずっと横浜ベイスターズを
チェックしており
2017年にテスト入団した同郷のソトと
面識があったことから、ソトが
本塁打王のタイトルを獲得した時には大変喜んだそうです。

人気ゲーム、スーパーマリオブラザーズの「マリオ」に
似ていることから一躍人気者になり、
その陽気なキャラクターも手伝ってファンから愛された
ポンセは、その笑顔の裏では、日本球界に順応しようと、
一生懸命に日本語を覚え、大好き日本に1日でも長く
いられるように努力し続けていました。

口ひげをたくわえた風貌と人懐っこい笑顔から
ファンに愛された、走れて打てるスーパーマリオ、
カルロス・ポンセ。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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