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【バンバークレオ】80年代の西武ライオンズ黄金時代にわずか1年でその名を後世にまで語り継がれる無名の助っ人がいた 西武王国を築き上げた絶対的なオーナー堤義明氏が育てる助っ人として連れて来た悲運の大砲

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、バークレオを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Y3R6visQ8pE&t=68s

カリフォルニア州オークランドに生まれた、
タイラー・リー・バンバークレオは、
チャッツワース高校を卒業後、
ミルウォーキー・ブルワーズに入団すると
マイナーリーグの1A(ワンエー)で4シーズン、
熾烈な生き残り競争に
身を投じましたが、なかなか芽が出ませんでした。

1984年、ブルワーズを解雇されるも
将来性を買っていたカリフォルニア・エンゼルスの
マイナーからオファーが届いて入団、
妻はベビーシッター、自身はペンキ塗りのアルバイトで生計を
立てながら、メジャーへの夢を追っていたプロ5年目、
数奇な運命が動き出します。

1986年、カリフォルニア・リーグ1A(ワンエー)の
パームスプリングスに所属し、打率2割6分8厘、22本塁打、
108打点をマーク、さらにリーグ最多の勝利打点19という
勝負強さで、エンゼルス傘下の2A(ツーエー)ミッドランド
昇格を手に入れた時、

まだまだ荒削りだが長打力が魅力的な若者を、たまたま同リーグの
サンノゼ・ビーズに秋山やデーブ大久保ら有望な若手を留学させていた
西武ライオンズの関係者は目をつけたのでした。

1987年、メジャーへの階段を1段づつ登り始めたバンバークレオは
シーズン途中まで48試合で打率3割2分8厘、12本塁打の活躍で
ついに最高峰の1歩手前、3A(スリーエー)昇格も確信した矢先、
走攻守の総合力と安定性にかけると2度目の解雇という
憂き目にあいました。

その状況を聞きつけた西武ライオンズの関係者は
すぐに日本行きのオファーを出し、バンバークレオも
断る理由はない、まだ野球が続けられると一発逆転を
狙って即決断、海を渡ってきたのです。

1987年の日本はバブル景気の真っただ中。
ゴッホの名画「ひまわり」を53億円で
日本企業が落札したり、アサヒスーパードライが
830億円の売上げを記録するなど
浮かれている社会の空気は当然プロ野球界にも派生しました。

落合が日本人最高年俸1億3000万円の時代に
ロッテは同額でMLB首位打者4回のビル・マドロックを獲得、
負けじとヤクルトはメジャー通算237本塁打の
ダグ・デシンセイを1億9000万円で連れてくるなど
好景気に沸く日本プロ野球界は実績のある
メジャーリーガーにとっても稼げる国だったのです。

しかし黄金期に突入した西武ライオンズのオーナー
堤義明はその風潮に一石を投じます。

これからは大金で助っ人を連れてくる時代ではなく
安くて若い外国人を育てる時代になります、
その第1弾がバンバークレオです、と公表した1987年6月。

身長195センチのスタイルに金髪の甘いマスク。
モデルのようなイケメンの24歳は
美しい妻と娘を伴って成田空港に降り立ちました。

その風貌からは想像もできない、年俸700万円の
ハングリーな若者は、家族と埼玉県所沢市のマンションで
生活をしながら、登録名をバークレオに変え、
2軍で必死に野球に取り組みます。

通訳や専属スタッフもいない中、カタカナの読み書きを覚え、
ひとりで電車に乗って球場入り、コーチに進言された打撃フォーム改造も
素直に受け入れるなど、日本に、そして日本野球に
懸命に食らいついた翌1988年、突然チャンスがやってきたのです。

前年までチームに在籍していた助っ人、ジョージ・ブコビッチが退団し
外国人枠がひとつ空いた事で1軍出場の機会が巡ってくると

4月9日の開幕戦、七番指名打者でスタメンに名を連ねた
翌10日、来日初アーチとなる満塁ホームランを叩きこみました。

その後も着実に結果を残し、大リーグに最も近いと言われた秋山幸二、
怪物ルーキー清原和博のあとを打つ左の大砲としてクリーンナップを形成。

4本の満塁弾に14回のアベックアーチを含む38本塁打に90打点、
打率も2割6分8厘と打ちまくり、38本塁打の3番秋山、
31本塁打の4番清原と3人合わせて100本以上、同チームで3人が
30本塁打以上の快挙も達成し、AKB砲として恐れられました。

森監督率いるチームも日本シリーズ3連覇を成し遂げ
「バークがいなかったら今年の優勝はなかった」と言わせるほどの
活躍を見せたのです。

しかし、その栄光は1989年に終わりを迎えます。

前年に打ち込まれた各球団はバークレオを徹底的に調査し
マイナー時代から変化球が苦手なことを突き止めると
シーズン開幕と同時に執拗な変化球攻めを敢行しました。

昨年の活躍がウソのように凡退をくり返し、
バッティングフォームを崩すほどの不振に陥った格安助っ人の復活を
常勝軍団、西武ライオンズは待ってはくれません。

開幕して2か月あまりで新たな助っ人を物色し始めると
パワーのみならず器用さも兼ね備えたスイッチヒッター、
のちにカリブの怪人と称されたオレステス・デストラーデを獲得、
即チームに合流させます。

再び第三の外国人の立場へと追いやられた
バークレオは2度と1軍へ復帰することなくシーズンを終えるのでした。

4年目の1990年、再び1軍へ這い上がろうと、2軍で
鈴木健、デーブ大久保、垣内哲也らとレギュラー争いを展開、
イースタンリーグの本塁打王にも輝きましたが、
どれだけ2軍で本塁打を打ち続けても、
外国人の一軍登録2人までという当時のルールの中では
エースに君臨する台湾の郭泰源(かく たいげん)と
デストラーデの活躍の前に、その枠が空くことはなく
1軍に昇格する可能性はありませんでした。

夏に郭泰源の故障でわずかに一軍で出場機会を得た
イースタンリーグの本塁打王は3番打者として
9本塁打を放ちましたが、すぐにまた第3の外国人として
2軍に戻ったのです。

1991年、その潜在能力を高く評価していた広島カープへ
金銭トレードで移籍し、開幕戦で五番ファーストとして
久々の一軍出場を勝ち取りましたが、故障にも泣かされ、
わずか1年で退団、即戦力の助っ人が求められた時代に
彗星のごとく現れた
育成外国人の元祖は、人知れず日本球界を去って行ったのです。

帰国してすぐにエンゼルスと再契約を果たした翌1993年7月28日、
7番ファーストで念願のメジャーデビューを飾ると
8月3日にMLB初安打、8月16日には巨人からメジャーに復帰した
ビル・ガリクソンから
メジャー初本塁打も記録するなど、ついに最高峰の舞台に立った
翌年、新設されたばかりのコロラド・ロッキーズに移籍して
2年間、選手生活を送りましたが、その後はエンゼルス傘下の
1Aを最後に、現役引退となりました。

MLBでは日本帰りの選手が習得してきた
分析力や経験を取り入れようとする動きが出始め
阪神でプレーしたスコット・クールボーや
中日のブルック・ジャコビーなどNPB経験者を
打撃コーチにする球団が増加していますが、
バークレオも同様にアスレチックス、アストロズ、
インディアンスの打撃コーチなどを歴任。その実績が
買われてイチローが所属する
シアトル・マリナーズのベンチコーチにも
就任しました。

黄金期の西武ライオンズでワンチャンスをものにした
ハングリーな若き育成助っ人は
外国人枠が緩和された現在の環境だったらと思わせるほどの
インパクトを残していきました。


バブル景気に沸く80年代の日本で、ジャパニーズドリームを
掴もうと薄給で来日した無名の助っ人の立ち位置を表す逸話が
残っています。

38本塁打、90打点をあげた1988年、
育てる外国人時代の到来、球界革命の成功例、などとマスコミに
絶賛され、本人の談話やインタビューを取ろうと
各メディアから球団に申し込みが殺到しましたが、
球団側は「そこまでの選手じゃない、まだまだ。
もう少し環境に慣れてきて、軌道に乗ったなと思ったら
取材にちゃんと応じさせますから」と
本人の意思とは無関係に取材をシャットアウトしていたため、
バークレオの談話や声は、ほとんど残っていないそうです。

第3の外国人というルールに翻弄された悲運の大砲
タイラー・リー・バンバークレオ。

しかしアメリカで野球を続ける道も閉ざされかけていた
若者が、日本という国の常勝軍団の中で成長を遂げて
帰国、夢だった最高峰のリーグでプレイしただけでなく、
メジャーリーグの指導者になったまでの事を考えると
二軍で耐え続けた日々はその後に待っていた
幸運への扉だったのかもしれません。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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