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【ベニー・ディステファーノ】ブルックリン出身の若者はマイナーのナショナルリーグ代表チーム4番打者に抜擢された実力を買われて来日するも打つよりも殴る蹴るの暴力行為のほうだけで注目を集めた最恐助っ人

おはようございます。
日本にやってきた
お騒がせ助っ人たちの真相に
迫る番外編、今回は
ベニー・ディステファーノを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Kbb8VA1iVmE&t=58s

1962年、アメリカはニューヨークブルックリンで
生まれたディステファーノは
アルビンコミュニティ大学を卒業した
1982年、MLB二次ドラフト2巡目で
ピッツバーグ・パイレーツから指名され入団すると
すぐに頭角を現し
1984年5月、アトランタ・ブレーブス戦で
メジャーデビューに初安打も記録しました。

その後はメジャーとマイナーを行き来する
エレベーター生活でしたが
1988年、3Aオールスターゲームに
選出され、ナショナルリーグ代表の
4番打者に抜擢されたシーズン終盤、
登録選手枠が拡大される
セプテンバー・コールアップでメジャーに
再昇格します。

なんとか一軍定着を目指して首脳陣に
アピールするチャンスを狙っていたところ、 
偶然、空港の待合室で話をしていた
レイ・ミラー投手コーチの
「なぜ左投げの捕手がいないんだ?」との
言葉を聞き、ヒラめきました

普段は外野や一塁を守っていましたが
メジャーに残るために翌日
ジム・リーランド監督に
「来年までには第3捕手も出来るようにします」
と直訴したのです。

その作戦が功を奏して翌1989年、一軍枠に
入り込むとナ・リーグ3位の
代打成績2割7分1厘を記録するなど
左の代打の切り札として96試合に出場したばかりか
3試合で実際にマスクもかぶり、
メジャーリーグ史に残る最後の
左投げ捕手となりました。

右打者が打席に立っていると二塁や
三塁への送球が難しくなる左投げの捕手は
誕生しづらく、ディステファーノ自身も
「この記録が更新される事は
当分無いだろうね」と述べています。

1990年シーズン前、強打の外野手を探していた
星野監督率いる中日ドラゴンズは
ディステファーノに白羽の矢を立てて
交渉を開始、年俸6000万円の2年契約で
話がまとまり、パワフルな打撃が魅力の
身長183センチ、体重90キロの助っ人は
海を渡ってきたのでした。

マイナーリーグ時代から
ベニー・エキサイティングと呼ばれた
気性の荒さと暴れっぷりは有名で
ブラッシュボールやラフプレイに過激に
反応する姿に
球団関係者は一抹の不安を感じましたが、
荒いのは性格だけでは無かったのです。

会心の打球が全部ライト側にファールと
なる極端なアッパースイングに
内角球や変化球で簡単に崩される
ドアスイングまで兼ね備えた欠点を
たちまち露呈すると
オープン戦から深刻な打撃不振に陥りました。

凡打したあと、バットをグラウンドに
投げつけてからベンチに戻り、今度は
ヘルメットに八つ当たりする暴れっぷりに
チームメイトも関わらないよう
目をそらす中、
球史に残る前代未聞の事態が起こります。

1990年3月15日、ナゴヤ球場で行われた
西武とのオープン戦8回裏、中日の攻撃で
打席に立つのはディステファーノ、
鹿取投手の投じた内角高めのストレートが右肩付近に直撃すると
マウンドですぐに帽子をとって謝罪したにも関わらず
血の気の多い暴れん坊はバットを投げつけて大激怒、
すぐに割って入った大宮捕手の顔面に
左フック5連発を食らわせて大乱闘に発展しました。

オープン戦で暴力行為による
退場処分は長いプロ野球史の中でも
後にも先にも無かったばかりか、
当の本人は退場後もベンチ裏で壁や
備品を殴るわ蹴るわで怒りが収まらず
制裁金10万円と厳重注意を受ける始末、

制止に入った大宮捕手は、前年まで中日で
プレーしていたため、試合後に元チームメイトと
飲みに行く予定でしたが、そちらも中止と
踏んだり蹴ったりだったようです。

なんとか開幕戦までたどり着くと初打席でいきなり
ホームランをかっ飛ばし、もしや本番には強い男かと
一瞬、期待させましたが、その後は力のないポップフライを
量産し、打率は2割そこそこ、期待の長打も出なくなると
八つ当たりが日を追って増して来た5月24日の巨人戦、
テレビ番組「プロ野球珍プレー好プレー」でも
たびたび流される有名なシーンが起こりました。

3回裏、槙原投手がもう一人の助っ人バンスローに投じた初球が
顔面付近を通過した事から、この日2度目のきわどいボールに
両軍ナインは一触即発、星野監督が「危険球だ」と抗議している最中
「あそこを狙うのは当たり前や、いつまでグズグズやってんだ」
と巨人ベンチから発せられた一言でドラゴンズ指揮官の闘志に火がつきます。

「誰だ、出てこい!もう一度言ってみろ」と巨人ベンチに詰め寄ると
道をふさいだ水野投手に張り手一発、それを合図に
再び両チーム入り乱れての大乱闘に発展しますが、
プレーと全く関係ない背番号30が水を得た魚のように
どさくさに紛れて巨人の選手達を辺り構わず殴りまくり
止めに入った江藤コーチの顔面を殴打、唇の上に1センチの
裂傷を負わせて、当事者でもないのに退場処分となりました。

武闘派集団、中日ドラゴンズの戦闘要員のような助っ人は
本業の方はサッパリで、
56試合に出場して打率2割1分5厘、5本塁打、14打点と結果を残せず
7月2日、星野監督から直々に二軍落ちを通告されると
球団に退団を申し入れ、シーズン途中の8月に解雇となりますが
退団直前の試合で審判の判定に納得がいかず
ベンチに戻ってから日課の大暴れ、
いろいろ壊したあげく球団から修理代を請求されていましたが
未納のまま、帰国の途についたのです。

その後はボルチモア・オリオールズの3Aでプレイしたのち
1992年にヒューストン・アストロズでMLB復帰も果たしましたが
一軍に定着する事はなく、
シアトル・マリナーズやテキサス・レンジャーズのマイナーリーグでの
プレーを最後に現役を引退しました。

引退後はデトロイト・タイガース、ニューヨーク・メッツの
ルーキーリーグで打撃コーチを務めたほか、
ヒューストンで子供向けの野球教室を開催し
左投げの捕手希望の少年を指導しているそうです。

グラウンドがボクシングのリングと見間違うほど
今の球界では考えられない戦闘モード全開で
血に飢えたトップクラスの暴れん坊は、記録は残さずとも
日米の野球史にしっかりとその名を刻んだ
中日ドラゴンズ最狂の助っ人、ベニー・ディステファーノ

いかがでしたでしょうか?

今後も良くも悪くも大きなインパクトを
残していったお騒がせ助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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