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【マック鈴木】16才で渡米しマイナーリーグの練習生から這い上がりピラミッドの頂点まで登りつめた快速右腕 世界中のリーグでプロ野球選手として投げぬいた異色の日本人ピッチャー

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、マック鈴木さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=uprNjVt4Mls&t=65s

兵庫県神戸市で生まれ、
エンジニアの父親がソフトボールチームに
入っていた影響もあり
小学2年生から地元のボーイズリーグで
野球を始めます。

抜群の運動神経で他にも空手や水泳など
多くのスポーツを経験しますが、
進学先は
野球の強豪校である滝川第二高校を
希望、セレクションを受験し特待生として
合格、入学する事になりました。

しかし高校1年の大晦日、他校の不良達に
因縁をつけられ、弱い者いじめを許せない性格から
1対4の大喧嘩に発展、
4人に大けがを負わせてしまい
自主退学せざるを得ない状況となってしまいます。

転校や社会人野球への入部も考えましたが
もう日本で野球は出来ないのではないかという
絶望感から、人生の目標がなくなり、バイクに乗って
遊びまわる日々。
それを見かねた父親は人間的に成長してこいと
アメリカ行きを勧めたのでした。

その言葉に動かされるように、二ヶ月間アルバイトを
して貯めた6万円を握りしめ
英語も全くしゃべれない16才は単身、海を渡ります。

中学2年生時にサンディエゴで行われた
野村沙知代さん主催の野球練習会に参加した際、
通訳として手伝いに来ていた息子、ダン野村氏と面識があり、
またボーイズリーグ時代の監督が知り合い
だった縁から、
渡米後はダン野村氏が経営している
カリフォルニアリーグ、サリナス・スパーズで
球団職員兼任の練習生として働く事になりました。

球場に寝泊まりしながらスタジアムの清掃や
売店での氷詰め、
ユニフォームの洗濯にバッティングピッチャー、
さらに球拾いまで
月給300ドルでチームの雑務を全てこなす毎日。

安く手に入るフルーツと球場で余った
ホットドッグで飢えをしのぎながら
メジャーリーガーという夢を叶えようと
自分で懸命に英語でメールを書き、
各球団に売り込んでいた矢先、チャンスがやってきます。

最終戦の142試合目、ダン野村氏から、
試合に出るか?と声がかかったのです。
1Aとはいえプロのマウンド。
紙切れ一枚の契約書にサインをするように
求められると、

本名の鈴木誠(すずき まこと)ではなく、
アメリカ人には発音しづらい名前から
チームメイトに呼ばれていたニックネーム
「Mac」とサイン、
2番手として急遽マウンドにあがったのでした。

こんなチャンスが来るとは思ってなかったけど、
いつ声をかけられてもいいように準備だけは
していたので自信はあったとの言葉通り、
投じた初球で球場の空気が一変します。

日本で言えば高校2年生、16歳の投げた
ボールは94マイルを計測し、
1イニング1奪三振、三者凡退に抑えたのでした。

メジャーのスカウトから声がかかりはじめた
翌1993年。ダン野村氏の勧めで
1A(ワンエー)アドバンス、
サンバーナディーノ・スピリッツの
トライアウトを受けて移籍。
4勝12セーブの好成績をあげたその年のオフ、

メジャー全26球団からオファーが
ありましたが、地元の神戸と姉妹都市であり
アジア人のコミュニティーも大きいシアトルが
一番良いのではないかという
ダン野村氏のアドバイスを聞き入れ、
シアトル・マリナーズとマイナー契約する事にしました。

球団側に意向を伝えると、では
エージェントを連れてこいと一言。
その頃、通訳だったダン野村氏が急遽
エージェントの資格を取ってマックの
代理人になるなど、2人とも手探り状態での
契約だったそうです。

しかし契約といってもまだ月500ドルのマイナー選手。
ワンベッドルームの部屋を3人でシェアして
近くの公園で練習を続けた18歳のシーズン、

190センチを越える長身から放たれる156キロの
速球でクローザーに抜擢され、14セーブをあげると
メジャーリーグのスカウト達が色めき立ちます

マイアミ・マーリンズから、500万円の
オファーが届きましたがその2週間後、
シアトルマリナーズから契約金1億円の
話が舞い込んできたのでした。

1994年、シアトル・マリナーズと再契約し、
マイナー組織、2A(ツーエー)
ジャクソンビル・サンズで奮闘しながら
メジャーに上がるチャンスをうかがいます。

同時期、シカゴ・ホワイトソックスと
マイナー契約中であったバスケットボールの神様
マイケル・ジョーダンとも対戦。
試合中に乱闘するという貴重な経験もした
翌年、ついに、3A(スリーエー)タコマ・レイニアーズを
飛び越えて
シアトル・マリナーズと年俸900万円で
メジャー契約を勝ち取ったのでした。

1年目のキャンプ初日、日本からは100人近い
報道陣が詰めかけ、マックが
水を飲むだけでシャッター音が鳴り響くほど。

他の選手への影響を気にして集中出来ない
マックを見かねたランディ・ジョンソンら
チームメイトが、報道陣の盾となり
助けてくれたそうですが、過熱する報道に様々な
期待を一身に背負った20才の若者は、
不安を感じたまま、ブルペンに入る事になりました。

まだ調整段階のため、軽く投げようと思いましたが
隣でランディー・ジョンソンなど他の投手が
ガンガン投げている姿を見て焦りを感じ、初球から全力投球した事で
肩が悲鳴を上げてしまいます。

しかしまだ新参者、それを打ち明ける事も
出来ずに投げ続けた結果、5月には全く投げらない状態となり
オフに手術を余儀なくされました。

肩も復調した1996年7月7日、
テキサスレンジャーズ戦の6回裏。
ついにメジャー初登板の機会が巡ってきます。

先頭バッターから三振を取ったのを皮切りに
この回を無失点に抑えると次の回も続投。
1回3分の2を投げたこのメジャーデビューは
日本プロ野球界を経由しない
初の日本人メジャーリーガー誕生の瞬間でした。

記念ボールをランディ・ジョンソンから手渡されると
ずっとここで投げていたいという思いを強く持ち、
もっとレベルアップする必要を感じたマックは
オフにプエルトリコのウインターリーグに参加します。

1998年、3Aやウインターリーグで
しっかり成績を残し、自信をつけた状態で
メジャーに上がったボストン・レッドソックス戦。
落ち着いて投げられました、の言葉通り、
7回途中まで好投してメジャー初勝利を果たし、
記念ボールを母親にプレゼントしたのでした。

翌1999年は開幕からメジャー入り、
ニューヨーク・メッツを経由して
カンザスシティ・ロイヤルズへ移籍した翌2000年。

球速を抑え、打たせてアウトを取るピッチングスタイルに
変更。球数を少なくイニングを稼ぐ投球で先発の一角となり
完封勝利を含む、8勝を挙げたのでした。

その後、コロラド・ロッキーズや
ミルウォーキー・ブルワーズ、古巣カンザスシティ・ロイヤルズへの
移籍を経て、日本プロ野球チーム入団の
意向を表明、帰国する事となります。

NPBの規約により、まずはドラフト会議で指名される必要があったため
オリックス・ブルーウェーブが2位指名。
メジャーを経験した28歳の
オールドルーキーが日本球界で初めて
指名される珍しい形となりました。

2003年、4勝1セーブを挙げるなど、2005年まで在籍したのち、
再びアメリカに戻ることを決意、12月にオークランド・アスレチックスと
マイナー契約を結んで再び、海を渡ります。

2006年はメキシカンリーグ、2007年は台湾リーグ、
2008年はベネズエラ、2009年はドミニカ、
2010年は再びメキシカンリーグと世界各地を主戦場とし、
その合間にはアメリカのマイナーリーグやカナダの独立リーグにも
合流するなど、活躍の場を求めて世界を飛び回る日々を送りながら
迎えた2011年、日本の独立リーグ神戸サンズの
選手兼監督に就任、20年近い海外生活を終え、
メジャーで通算16勝をあげた右腕は帰国の途に着いたのでした。

引退後は本場アメリカ仕込みのトレーニングを
本格的にレッスンしてくれる淡路島のスポーツジムで
トレーナーとして従事しながら
テレビの野球解説やスポーツ専門学校の講師を
務めるなど、唯一無二の貴重な経験を生かして
スポーツ界発展のために尽力しました。

また体一つで世界8か国、全て通訳無しの状態で
飛び回った経験から、

グローブ1つ持って飛行機に乗り込み、投げて契約する
語学力さえあれば、世界中どこへだって行くチャンスが
あります。逆に能力があっても話せないから一歩
踏み出せないこともあるんです。
自分も新聞のスポーツ面に載っているピッチャーのコメントを記憶。
自分が同じような結果だったときに受ける取材でそのコメントを
そのままマネすることを積み重ねて、英語を覚えていきました。
子供たちに夢を持つ大切さを伝え、戦える日本人を育てたいんです、と
英語で野球を教えるスクールも開校しました。

プライベートではマックが女性お笑いコンビ、クワバタオハラの
小原正子さんが経営する都内の飲食店のお客さんだった事が
きっかけで結婚、3人の子供たちと温かい家族の映像を
YouTubeで配信し、
つるの剛士さんや杉浦太陽さんも受賞した
育児を楽しみながら頑張った男性に贈られる
「イクメン オブ ザ イヤー」を受賞しています。

アメリカや中南米など、あちこちの国を渡り歩きました。
靴が両方そろっていない子や、裸足の子もたくさんいました。
僕が食べたツナ缶をゴミ箱から拾って、食べている人も見ました。
本当に見て、経験したからわかる事です。

見てもいない、経験もしていないのに、
勝手に自分の想像で人を差別したり、偏見を持ったりする人には
ならないでほしい。と語っています。

野茂がメジャーに挑戦する3年前にアメリカに渡り、
ジャングルと呼ばれるルーキーリーグからスタート。
2A、3Aと1つ上に行くたびにあまりのレベルの違いから
当初は絶望したそうです。

バスで27時間かけてたどり着く2Aの暗い球場で行われる
ハイレベルな戦いの先の先にあるメジャーリーグ。
ピラミッドの底辺から競争を勝ち上がって掴んだその場所も
新しい選手が次々に上がってくるため、結果を出さないと
あっさり捨てられる世界。居続けることは本当に大変で、
私もロイヤルズは2回クビになってますし、他にも
ブリュワーズ、カブス、アスレチックスなど。

日本の戦力外通告って言葉は大袈裟な気がします。
アメリカでは朝ロッカーに行ったら、ネームプレートが変わっていて
荷物が整理されている。すぐに監督室に呼ばれて、お前のことは
大好きだけど、このチームに居場所はない、と言われて
次の日には違うチームなんて日常なんです。

アメリカは自分自身でのし上がっていくシステムなので
日本のように1番バッターの役割を教え込まれる事はありません。
自分の強いところを伸ばす事が重要視されていて、

引っ張りが得意なバッターを相手に 守備がシフトをひいた場合、
日本なら逆方向に流し打つという選択肢を考えますが
メジャーリーガーは得意の引っ張りで徹底的に勝負してきます。

監督もコーチも技術に関して余計なアドバイスは一切せず
その点をリスペクトしていますし、そのスタイルを貫く事で
マイナーからのし上がり、メジャーでのポジションを得るのです。

メジャー時代に対戦した横浜のラミレス監督は
ユーティリティーとして7番を打っていましたし、
アレックス・カブレラ選手は走攻守そろった細い選手
という印象で、ともに4番タイプでありませんでした。

16歳のあの時、アメリカに行かなかったら、ろくでもない人間に
なっていたと思います。
本当に野球のおかげで今があります。

月給3万円から始まり、 年俸5000万円、契約金1億円。
さらにメジャーリーグ在籍年数にもよりますが
55歳から年金700万円が支払われ続けます。
何かにつまずいたとき、いつも野球が助けてくれました。
なんだっていい。いつでも世界で勝負できる自分の武器を見つけてほしい、と。

一見、破天荒な人生のようですが、野球を通じて学んだという
準備を大切にし、目標に向けた緻密な計画をたて、
見知らぬ土地で度重なる怪我や文化の違いなど
荒波を乗り越えながら夢に向かって歩み続けた流浪の野球人生。

道を踏み外しそうな時、うまくいかない時、
熱中できるものがあれば、それが自分を助けてくれますから。と語る
度胸と情熱で世界を渡り歩いた漂流者、マック鈴木。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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