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【フリオ・フランコ】メジャーで首位打者にも輝いた鉄人は違う環境で野球がしたいと来日 超一流のメジャーリーガーが見せる振る舞いと野球への真摯な姿勢に千葉ロッテの選手が再契約を嘆願したほど愛された助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。
今回は、フリオ・フランコを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=l5UzGJR8MjE&t=87s

1958年、ドミニカ共和国で生まれたフランコは
高校を卒業した1978年、
フィラデルフィア・フィリーズに入団すると
3年間のマイナー生活を経てメジャーに昇格、
通算4256安打の記録を持つ
ピート・ローズとチームメイトとなります。

1983年のクリーブランド・インディアンス移籍を
きっかけに遊撃手として
レギュラーの座を掴むと、迎えた1988年、
各ポジションで最も打撃に
優れていた選手が選ばれる
シルバースラッガー賞を受賞しました。

翌1989年にボビー・バレンタイン監督率いる
テキサス・レンジャーズに移籍してからも
3番打者として
2年連続のシルバースラッガー賞のほか
4年連続3割超えやオールスターMVPを獲得、
さらには1991年は打率3割4分1厘で
首位打者にも輝いたのです。

その全盛期に日米野球で来日した
フランコは西武の秋山や清原のプレーを
目の当たりにし
「日本にもメジャーですぐプレーできる
選手がいるじゃないか。このチームで
いつか俺もやってみたい」と
ひそかに西武入りも希望したそうです。

1995年、MLBの選手会とオーナーの間で
ストライキが勃発、試合ができない状況が
続いていた事から、多くのメジャーリーガーが
出場機会を求めて海外に居場所を
求めはじめると、その年、
千葉ロッテマリーンズの
監督に就任したバレンタインの誘いを受けました。

違う環境で野球をしながら
視野を広げたいと思っていた
メジャーの首位打者は、
この誘いを承諾、球団史上最高額の
年俸3億円で契約し海を渡ってきたのでした。

前年までシカゴ・ホワイトソックスで
打率3割1分9厘、20本塁打、98打点の成績を
残していた現役バリバリのメジャー・リーガーが
見せる野球への真摯な姿勢に
多くのマリーンズナインが感銘を受け、
日常生活や
練習態度まで参考にしていきます。

自分にとって球場は会社、
一般的なサラリーマンの生活スタイルに入り込む事は
日本の習慣や言葉に慣れる最大の近道だと
球団が用意したハイヤーを断り、
何百着も持っているオシャレなスーツを
身にまとうと毎日電車で通勤したのです。

そして誰よりも早く球場入りするや
ウエート・トレーニングや
ケガ防止のための入念なストレッチを欠かさず
年齢を感じさせない身長185cm、体重95kgの
アスリートは不老の肉体を維持していました。

食事に対する意識も非常に高く、
日本人選手が夜に飲み歩き、
締めにラーメンを食べ、翌日の
試合前はロッカールームで喫煙している
姿に苦言を呈すほど。

自身は起きてすぐレモン水を飲み、
少ない量の食事を6回程度に分けて摂る
ボディビルダー同様の方法を取り入れたほか
煮た鶏肉以外の肉類やアルコール、
炭酸も一切、口にせず、
当然タバコも吸いませんでした。

シーズンが始まると4番(よばん)として
オリックスのイチローと
首位打者争いをするなど、打率3割超え、
10本塁打、58打点と
さすがの成績を残します。

「一流選手が何気なくするアドバイスは
非常に効果的だった」
と高沢(たかざわ)コーチが感謝するほど
フランコの加入はチームに良い影響を与え、
自身もベストナインと
ゴールデングラブ賞を受賞したほか
10年ぶりにロッテがAクラス入りする
原動力にもなりました。

翌年は恩師バレンタインと広岡GMの意見が食い違い、
監督解任が決まると自らも帰国を決断、
「いつかロッテに帰ってくる」との言葉を
残して、アメリカに戻ったのです。

帰国してすぐ、
クリーブランド・インディアンスと契約しメジャーに復帰、
打率3割2分2厘、14本塁打、76打点と
変わらぬ好成績を残すと
ミルウォーキー・ブルワーズに移籍した年のシーズンオフ、

ロッテ選手会から「また一緒にやりたい」という
強い要望を受けて40歳で有言実行、
年俸2億6000万円で頼れる助っ人は帰ってきました。

小宮山選手会長は
「自分もフランコに意識を変えられた一人。
若い選手も色んなものを感じて欲しい」と
その高いキャプテンシーを期待され
主将に就任すると
技術理論だけでなく理念や精神的な助言も行い、
「努力、努力、努力だ。練習だけが君を
パーフェクトにすることができる」と
自身のスピリットをチームに浸透させていきます。

個人成績も打率2割9分、18本塁打、77打点に
ベストナイン獲得と結果を残しましたが
チームが最下位となった影響から
1年限りの復帰となってしまいました。

帰国後はデビルレイズやブレーブス、ニューヨーク・メッツ
で再びメジャーに復帰したほか、
メキシコや韓国、さらに北米独立リーグや
母国ドミニカ・ウィンターリーグでもプレーを続け、
2005年6月には、46歳と308日という
当時のメジャーリーグ史上最年長満塁本塁打を
かっ飛ばします。

2年後の2007年5月にはランディ・ジョンソンから
メジャー最年長本塁打を記録したほか、
代打ホームランや1試合2盗塁など数々の
史上最年長記録を更新していきました。

現役引退後はメキシカンリーグの監督や
独立リーグでコーチをしていましたが
55歳で突如、現役復帰を宣言、
4番DHで7試合のみの出場でしたが
その強靭な肉体は衰えていませんでした。

そして2015年、日本のファンにとって嬉しいニュースが
飛び込んできます。

当時、フロリダ州で野球アカデミーやスポーツジムを
経営していましたが、それは息子に任せて、自身はBCリーグ、
石川ミリオンスターズで選手兼任監督として17年ぶりに
来日する事を発表しました。

その理由についてフランコは
「日本が大好きだからというのが理由さ。
ハードトレーニングにも弱音を吐かない忍耐強さで
目標を達成するために淡々と練習を繰り返す
日本の野球から多くを学んだからね、
もっと深く勉強して、いつかはNPBの監督に
なるという目標への第一歩を踏み出したかったんだよ。
それに毎日、釣りやゴルフをして過ごすのはウンザリだね。
日に日に野球への愛着がうずき、俺の居場所は野球場だと改めて
思ったんだ」と語りました。

実際に治安の良さや日本食をとても気に入り、
元旦から家族で来日しては夫人とともに着物で
初詣に出かけるほどの親日家は、
予算の都合で前期だけのオファーでしたが、給料は
どうでもいいから後期も監督をやらせてくれと志願、

自腹で宿泊費を払ってホテルに滞在しながら
監督として采配をふるうと、選手としても打率3割1分2厘を
記録、その後は韓国に渡り、ロッテのコーチを担当するなど
野球への情熱は冷めることはありません。

神のお告げがあり、独自に編み出したという
内股の構えからグリップを高く掲げ、先端を投手に向ける
独特のフォーム、

スコーピオン打法と呼ばれたそのスタイルで
メジャーで首位打者を獲得したアベレージヒッターは
MLBで通算2586安打、平均打率2割9分8厘を記録、
さらに毎年30盗塁以上をクリアする俊足も持ち合わせていました。

バット1本持って世界を旅するバットマンは
「ベースボールは私の生き方そのものなんだ。
9回裏、サヨナラのチャンスって興奮するだろ?
その緊張感やギリギリの状態が自分を突き動かすんだ。

金は十分稼いだし、プールサイドでカクテル片手に
寝そべってる日々を夢のような暮らしだと言う人も
いるけど俺には退屈な毎日だったね。

野球を愛しているから、できるだけ長くプレーしたいし
いつまでも関わっていたいんだ。
目標に向かって自己管理できれば年齢なんて単なる数字さ」

と語っています。

元々はかなりの遊び人だったようですが
3度目の結婚を機に180度、人生観を変え、ストイックな
体調管理で49歳まで現役を続けた鉄人クリスチャン、

フリオ・フランコ。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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