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【郭泰源】多くの名選手が今まで見てきた中で最高の投手と口をそろえるオリエンタル・エクスプレスは速球、変化球、精神面の全てで他のピッチャーとは質が違う本物で言葉通りの圧倒的なピッチングをみせた台湾の英雄

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、郭泰源(かくたいげん)を
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=WLfWn_EqpnI

1962年、台湾は台南市の農家に生まれ、
7人兄弟の末っ子だった郭泰源は
憧れの存在、王貞治氏のようになりたいと
小学5年生の時から親元を離れて
全寮制の野球クラブに入部します。

当時はショートを守っていましたが
長栄高校2年時に監督から強肩を見込まれて
ピッチャー転向を勧告されるも
投手だった兄が肩を壊していた事から
難色を示しました。

しかしこの稀有な才能を埋もれさせては
いけないと強い説得にあい投手に転向すると
1982年、台湾陸軍野球部に入隊した郭は
2年後のロス五輪で大躍進を遂げるのです。

アジア予選の韓国戦で9イニングを投げ
チームを勝利に導いた1時間後、
日本との決勝戦にも先発すると
150キロを超える剛速球と真横に鋭く曲がる
スライダーで
2安打完封という超人的な投球をやってのけた事から
プロ20勝は間違いない江川クラスの怪物だと
注目の的になりました。

オリエンタル・エクスプレスと呼ばれた
逸材は本選が始まるとさらに加速、
MLBドラフト1位候補7人を並べたアメリカ打線を
6回まで零封し、8回12奪三振の快投を見せるなど
銅メダルを獲得します。

この規格外の投手にメジャーは
カージナルスにメッツ、
ドジャースにブルージェイズの4球団が狙いを定め
日本からは巨人、中日、ヤクルト、横浜
そして西武と5球団が獲得を検討、
日米争奪戦の様相を呈してきました。

しかし郭は
「台湾人は日本式の野球教育を受けていましたし
高校の時から西武のスカウトさんが
台湾まで見に来てくれていたので、日本に行って西武に
入団しようと決めていました」と語っています。

ただ台湾の英雄、王貞治氏が監督を務める
巨人は諦めきれずに白紙の小切手を2枚、
郭に手渡したそうですが、西武がすぐに
その情報をキャッチ、横取りされてなるものかと
目の前で小切手を破らせ、そのまま入団会見を開きました。

契約金8000万円のほか、4LDKの
マンションを所沢に用意、世話役として
母国の姉も呼び寄せて同居させたほか
通訳および相談役まで常駐させる
VIP待遇で20代前半の逸材は海を渡ってきたのです。

来日早々、初めてのキャンプで経験する
広岡監督のハードトレーニングに
「日本語も分からないうえに練習も広岡さんも
厳しいから毎日プレッシャーとストレスを
感じて本当にキツい日々だったね。
10年分くらいの経験をしたと思っているよ」と
必死に西武野球に食らいついていきました。

オープン戦から挨拶代わりに153キロを投げ込んだ
右腕(うわん)を、筋肉が細くてスリムでありながら
ゴムのような弾力性は、まるで全身がバネで出来ているようだ、
とトレーナーをはじめ関係者はこぞって絶賛、
西武ファンの期待を一身に受けたデビューの
近鉄戦でいきなり完投初勝利を挙げると
そこから3試合、26イニング無失点の快投で
2勝0敗、防御率は0.32の驚異的な成績を残して
4月の月間MVPを獲得しました。

当時の国内最速156キロの直球と七色の変化球を操る
助っ人はさらにギアをあげると、6月4日の日本ハム戦で
試合が終わってから初めて気づいたという
ノーヒットノーランを達成、1年目の開幕から
わずか半年足らずで9勝を挙げ、防御率リーグ1位の
無双状態となります。

2年目は肩を心配した森新監督の方針で抑えに回ると
16セーブを記録しますが本人は
「毎日、投げるか投げないか分からないのは精神的に
キツイから先発に戻りたかった」と
翌1987年は先発ローテーションに復帰すると13勝をあげる
活躍を見せました。

進出した日本シリーズでは台湾のヒーロー王監督率いる巨人を
撃破して日本一に輝くと、翌年は日本ハムの西崎と
延長12回187球を投げ合い、完投するなど開幕から10連勝の離れ業、
最終的に13勝3敗で最高勝率のタイトルを獲得したばかりか
WHIP(ホイップ)は0.91という突出した数字をたたき出し
球界を代表する投手へとのし上がったのです。

3年連続の2ケタ勝利をあげた1989年は引退した東尾に代わる
エースとして期待され年俸6600万円で契約を更新すると
身長180センチ、体重72キロのスマートな右腕(うわん)は
さらなる高みに到達しました。

1991年、7月から9月にかけて9試合連続完投勝利の
圧倒的なピッチングに加え、ライバル近鉄に対して防御率0.78、
7勝1敗と勝負強さまで発揮、
「先発マウンドへ向かう時、森監督に今日は私が投げるから
寝てていいよ、と言ってあげたんだ」と証言するほど
無敵となった郭は自己最多の15勝にMVPも獲得して
優勝の原動力となったです。

翌年も3試合連続完封を含む14勝4敗に防御率は
2年連続2点台という圧巻の安定感で
ゴールデングラブ賞を受賞、年俸は
1億3000万円まで上昇しました。

迎えた1993年は右手の手術により、8勝に留まりますが
オフに台湾人女優との結婚を機に再度奮起し
翌年は開幕から9連勝を含む13勝、さらに森監督が去った
翌々年もロッテの伊良部投手と防御率のタイトル争いを繰り広げるなど
完全復活を遂げましたが右手首の故障が大きな原因となり
助っ人初のFA権を取得するも1997年限りで退団を決意します。

10月5日のラストゲーム、
プロ13年で数えること219度目の先発マウンドに上がると
ダイエーに移籍した親友の秋山幸二をすべて直球勝負で打ち取り、
2リーグ制における外国人投手最多117勝をあげた
オリエンタル・エクスプレスはついに
停車したのでした。

引退後は、台湾に帰国してチャイニーズタイペイ代表監督や
福岡ソフトバンクホークスの一軍投手コーチに就任したほか
西武時代のチームメイト渡辺久信を台湾に呼び寄せ、
技術顧問をお願いするなど日本と台湾の架け橋的な
存在となっています。

広澤克実に「藤川にも劣らない」と言わしめ
正田耕三が「今までに見た事のない綺麗な回転で
低めにズドンとくる」と形容する最速158キロのストレートに加え
白井一幸いわく「ベース一個分曲がる」と評した
キレキレの消える高速スライダーは三冠王、落合をも
苦しめ
「超一級の上にもう一つ「超」がつく本物のスライダー」
と脱帽させました。

郭自身はシュートを一番の武器と考えていたそうですが
女房役の伊東勤は
「ストレートはとにかく速くて衝撃を受けました。
そしてどの球種もミットを動かさなくていいくらいの
制球力で、リードしていて
これほど楽しい投手はいなかったですね。
絶対に高めに浮かないし自滅する事もない、
常に80パーセントくらいの力で投げてきて
入団当時の完成度は松坂大輔よりも
はるかに上だったと思います」と語っています。

また大石大二郎が「12球団一の守備」と評し
福本豊も「とんでもないショートになっていただろうね、
ピッチャーにしておくのが勿体なかったくらいさ」と言う
天下一品のフィールディングに加え
心理学でも学んでいるのかと言われた
野球脳で打者の裏をかいてくる投球は
ヤマを張りにくい投手と言われました。

1984年、南海ホークスに入団し
門田博光や山本和範(やまもとかずのり)らとクリーンナップを形成した
クリス・ナイマンは
「あの速球にコントロール、多彩な変化球も
自在に操る郭なら大リーグで軽く10勝はできるよ」と
同じ助っ人からも太鼓判を押されるほどでしたが
郭自身は「外人枠はイヤだよ。だって私は体格だって、
キャリアだって、大リーグから来たアメリカ人と
全然違うんだから。
プロ野球の経験も無いのに何で私が助っ人外人なのかなって
いつも思ってるよ」と複雑な心情を吐露し
日本にやってくる大リーガー達と
外国人2枠を巡って毎年熾烈な競争を繰り広げ
生き残ってきたのです。

休日は大好きな中森明菜のポスターが貼られた部屋で
ブランデーをストレートであおり、日本で覚えたパチンコに
出向いてストレスを発散すると、刺身は食べられないけど大好きな
寿司屋で夕飯を食べていたという庶民派エースは
日本人以上に義理堅く、堪能な日本語で会話をしながら
仲間と食事に行っても相手にお金は絶対に払わせず
スマートに全員分の支払いを済ませても
決して威張る事のない優れた人格者でした。

1989年以外、負け数は全て1ケタという「負けない投手」は
速球派と目されていましたが、実はそれ以上に抜群の
制球力を併せ持ち
オリエンタル・エクスプレスのほか、
コントロール・アーティストという名もつけられるほど
完全無欠の投手として長年にわたり
西武ライオンズの黄金時代を支え続けたのです。

その快速球への興味から西武ライオンズ球場の
スコアボードに初めて球速表示の設備が整えられ
来日から11年連続100イニング以上に登板した最強の
スリークォーターは
イニング間に汗をかいたアンダーシャツを着替える
労力も使いたくないと着替える事は無かったという
脱力系の雰囲気とは裏腹に対戦した多くの名選手達が
「今の時代でもナンバーワンになれる投手」
「他のピッチャーとはボールの質が違う本物」
「今まで対戦した中で最高」と、
最大級の賛辞を贈られる右腕は、自身の姉の言葉
「台湾人は貧しいから誰でもお金がほしい。
でも最初に井戸を掘ってくれた人の事を
最後まで忘れないのも台湾人なんだ」をそのまま体現し
西武ライオンズ一筋13年、所沢で走り続けた台湾超特急。郭泰源

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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